彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 裏切りを報告しに婿の元へ向かった。割増料金を払い、色街を抜ける。ならず者どもに辱められてもどうでもいいような自暴自棄な考えが浮かびもした。牛車の中で拳を握り締めた。世を嘲りながら一気に毒液を呷る貴人あてびとの姿がはっきりと脳裏に焼き付いていた。緩慢に揺れる車内で背を丸める。腹の底が熱かった。婿のいる地には思っていたよりずっと早く到着した。琵琶の音は聞こえない。婿の姿もなかった。手首の鈴が鳴り、冬に近付いている風が吹く。琵琶を弾く婿の姿をそこに想像してもいないものはいなかった。話したい内容を悟り、先回りして拒絶されているような過剰な被害妄想に襲われた。それを理由に別れを突き付けられることは世間をみれば多々あることだった。極彩自身聞いたことがある。ただでさえあの婿は別れたがっている素振りを見せていたではないか。甘い言葉を吐けど、どこか胡散臭かった。だがいずれあの者とそうなることを漠然と考えていたことに気付く。婿だからだ。夫婦ともなればそういった構想を持ってしまう。顔面の筋肉が引き攣った。両手で覆う。特別、子を欲していたわけではなかった。婿とすぐに子を成す予定もなかった。だが相手は欲しがっていた。まだ気が向かずとも時間が経てばもしかすると求めることもあったかもしれない。この身を捨てる真似をしておきながら。まだ未来の訪れを信じていた。何も惜しくはないと覚悟を持ったつもりで。久々に聞いた自身の嗚咽を抑えることはできなくなっていた。土を踏み締める音が届く。自分の物ではない鈴が鳴った。振り返ると困惑気味の垂れ目が視界に入った。
「桃花褐さん…」
「これが天のお恵みってやつかい」
 どうしていいか分からんといった具合で傷んでいる癖毛を掻いた。ぱさぱさと乾いた音をした。
「奇遇だね」
 目元を拭う。すでに遅かったが努めて平素の態度で接すると、遠慮がちに往復していた目が極彩へ定まる。
「訳ありかい」
 誤魔化すことも見て見ぬふりをすることも桃花褐は許さなかった。
「別に…」
「ここじゃなんだ。場所移すか。俺いるし、牛車から帰らせっかい?」
「あなたに話すことなんて何も…」
 雄黄に最期に言ったことが脳裏を掠めた。顔を背けると追われた。
「俺があんでさ。天のお恵みがここに導いちまったんだからな。ここで解決しないと、今日何回あんさんと会うことになるんだかな」
 困ったね、と呟いて肩を竦め宙を見上げておどけた。
「散歩でも行こうや。気分転換にはなる。溜め込んじまう性分だろ、あんさん」
「…随分踏み込んでくるんだね」
「お節介が趣味だからな」
 分厚い掌を差し出される。応える気はなかった。
「あんさんは強いかも知れねェけど、そういうのは呆気なくぽっきりいっちまうもんなんでさ」
「誰にも言えないこと、言いたくないこと、あなたにはないの」
 両手を後ろに組み、極彩の前をうろうろしている桃花褐は平然として「ある」と答えた。
「教えないけどな。ンでも考えたって仕方ねぇ…でも考えちまうから忘れるようにする。こうやって。たとえばあんさんに絡んで?」
「誰もがそういう風に出来るわけじゃ…ない」
「そうだ、その通り」
 眼前に迫り、人差し指を突き立てられる。そしてまた徘徊しはじめた。
「じゃあ、放って置いてよ」
「…身投げなんて考えてねェだろうな」
 ぼそりと言う声は低かった。まるで考えてもいなかったが喋るのが面倒になって黙ると肩を掴まれた。
「嬢ちゃん?」
 真正面に回られる。視界が陰った。体温が伝わった。嫌悪感に話を逸らす。
「牛車待たせてるの、悪いから行こう」
 彼ひとり残していくのは気が咎め、うろつく桃花褐の脇を通り牛車へと向かう。車中は静かだったが極彩自ら話を切り出した。
「あそこにはよく来るの」
「うん?まぁな。会館までの通りっぱただろ。なんで?」
「もしわたしの婿を見たら…城へ来るようにと…ごめんなさい。お願いしても構わない?」
 桃花褐は柔和に笑った。剛胆が印象的な風采が春風を思わせる瑞々しさと、爽やかな繊細さへ変わる。
「勿論。やっと頼ってくれたな」
 嬉しさを隠さない。頼みごとをして聞き入れたのはどちらだったのか、己の立場があやふやになる。
「不思議な人」
「俺からしたって嬢ちゃんは不思議な人さね」
「どうして?」
「そりゃ、極悪人かと思えばこんな感じで、しかもそこそこの御令嬢。宗教家と関わりがあるかと思えば改宗を望んで何人もの命を背負おうとしてたんだからな」
 桃花褐は極彩を数秒黙って観察し、首を傾げながらそう話した。
「色々あったから」
「何かあったらいつでも話に来たらいいや?心の用心棒ってやつ。格安にしておきまさ」
「前向きに考えておく」
 牛車は不言通り南方の停留所に着いた。
「この前桃花褐さんが見つけてくれた時…故郷に帰ろうとしてたんだ」
「故郷?」
「そう。ここじゃないから」
 口を滑らせたと思った。桃花褐は意外そうにしていた。
「俺も。たまに帰りたくならぁね」
 南の空を指して桃花褐は笑った。帰りたい。今でも。今すぐ帰り、しかし帰った後のことが何ひとつして思い浮かばなかった。それが不実なことのような気がして悲しさが増す。故郷に拒絶されているような穿うがった妄想に囚われる。
「あっ、嬢ちゃん。ここじゃまじぃ」
 大きな体躯が膝を着き、目元を頑丈げな指が掠めていった。治まった涙が零れる。
「ごめんなさい」
 声がひずんでいく。桃花褐から離れ、背を向けた。通行人にぶつかり舌打ちされる。
「こっち。気ィ付けろな」
 大きな掌に支えられ、大通りの端へと押される。通行人の少ない外れた通りへ入り、背中を摩られながら歩いた。
「手籠めにされた」
 抑えておけなかった。ふと現れた感情が、清らかで健やかな男へ断罪を求めた。その一言を聞いた男はびっくりして極彩を止めた。漬物屋や駄菓子屋が並ぶ小道を曲がり、さらに人通りは減る。廃屋らしきかなり古い民家の軒下に座らせた。衝動の残滓ざんしが溢れ出る。
「手籠めにされて、薬、飲まされた」
 傍らに立ち、無言で極彩の告白を聞いていた。
石女うまずめだって。そうなる薬だった。水銀みたいな」
 鼻を啜った。喉が跳ね、上手く喋れなくなった。己を刺す罵倒は腹へ迎えた小刀よりも効いた。
「夫にそれを、言いに来たんだ」
 後先考えず、自身の解放を求めて打ち明けたはいいが桃花褐を見られなかった。手籠めにされた件に至っては、機会が十分にあったにもかかわらず縹にも桜にも話せなかったことだった。その性別ゆえに。激しい拒否を容易に想像できる。嫌悪に満ちた眼差しがそこにあるかも知れない。道具を使い終えたが如く去っていった天藍の後姿は記憶に新しかった。
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