彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

文字の大きさ
上 下
123 / 338

123

しおりを挟む
 肩の鈍い痛みに意識が引き上げられ、そのまま目が覚めた。薬を忘れてしまったことが悔やまれた。咽ぶ声が小さく聞こえる。居間と廊下を隔てる扉の方からだ。物音を立てないように起き上がり、把手(はしゅ)に触れかける。
―姉さん
 震えた小さな呟きに硬直した。布団に戻るしかなかった。肩の傷は疼き、肘は絆創膏の微かな重みがある。翡翠の匂いに包まれながら目を瞑る。嗚咽はまだ続いていた。隠し事はしないでほしいと言ったくせ、その本人は思わせぶりなことばかりを言い、大切なことを言いはしない。肩を摩りながら眠ろうと努める。人の気配に気付いていしまうとなかなか上手くいかなかった。夜目よめが利いた中で貰ったばかりの古い鈴を鈍く鳴らしてみた。誤って、高く鳴ってしまう。拙いな、と思った。結局何度か寝返りをうってから、いつの間にか眠っていた。

 目が覚めると昼の少し前だった。居間の卓袱台に握り飯と紙片、そして乾いた着替えと僅かに水に浸してしまった形跡のある婚姻届が置いてあった。紙片は書置きで、城で儀式祭礼があるため出掛けるという旨が手本帳のように綺麗な字で綴られていた。それから『外出は控えろ』とそのまま同じ丁寧さで記されているのが滑稽だった。布団を畳み、簡単に掃除をしてから握り飯を食い、食器も片付け、身支度を済ませて外へと出た。空は晴れやかで、秋の香りがした。紅葉が広がっているのが見え、追放されていることもその他の煩雑な状態であることも忘れ、気分が良かった。淡香寺の境内の端にある、街を展望できる長椅子に腰を下ろした。野良猫が早歩きでやってきて膝に乗る。性格の悪そうな面構えをしていたが高い声を漏らしながら喉を鳴らし、撫でる箇所を指定してくるのだった。街では何か催事があるらしく、賑わいを見せていた。秋の祭祀かも知れない。外出は控えるつもりで少し外で猫と遊び、日を浴び、風に当たったら戻るつもりでいた。膝にいた猫は飽きたらしく極彩のもとを去っていく。紅葉と青空を望みながら日の温かさに目を眇める。また足元に別の野良猫がやってきた。軽く座面に飛び乗り、膝に乗った。触れずとも勝手に喉を鳴らしていた。太った猫で耳が切れていた。話声に振り返ると参拝者がいたことに気付く。帰り際に共に来ていた者へ熱心に懺悔めいたことを口にしていたのが聞こえた。それから境内にある甘味の屋台が開き始める。水の造形物は撤去されていた。街を見下ろす風景に直ると、木の柵近くに純朴な若い官吏の面影をみた。遠い地で無事でやっているだろうか。心身ともに休めているだろうか。溜息を吐く。すでに紅葉が広がっている様は圧巻だった。打ち上げ花火はおそらく2人で観られたというのに。ただの社交辞令だ。本気にしてはいない。知り合いとの懐かしくなった思い出だ。下方から子供の泣き声が聞こえ、回顧は途切れる。近付いてきている。参拝者らしかった。不本意ながら敵地にいるような後ろめたさが突然降りかかった。実感はない。せん教徒ですらなかったが紫雷しでん教よりも親しみを感じていたのは監視役の影響だろう。
 首がぽろんってなったぁ。
 階段から現れた女児が喚き散らす。祖母と思しき媼が血相を変えて周囲を見渡した。やだぁ、やだぁ。父親と思しき男性の脚に縋りつき、抱き上げられてから参拝所に向かって行った。物騒な響きが極彩の中に留まっている。極彩は彼等3人連れを凝視してしまい、参拝を終えても尚、目で追っていた。風月王に感謝を忘れなければ大丈夫だよ。父親と思しき男性は女児の背丈に合せて膝を折る。二公子も次世代を担う素晴らしきお方だからね。そう言って泣き止みかけている子供の頭を撫でる。媼が視線に気付いたらしく男性の服を引いた。慌てた様子で、しかし颯爽と淡香寺を立ち去っていく。ふらふらと足が動いた。猫が落ち、帰っていく。急な階段を下り、赤とんぼの群れを潜り、曼珠沙華の咲く花壇の脇を抜けた。金木犀の甘い香りに誘われながら弁柄地区を抜ける。場所はすぐに分かってしまった。人波に反して行けばよかったのだ。
 到着した場所は木蘭もくらん寺の近くにある広場で、背の高い柵によって人々がごった返していた。近くにいた深刻そうな顔をしている中年に問う。ここで何があったのか。心臓が早鐘を打つ。公開処刑だよ。苦虫を噛み潰した表情で答え、極彩から離れていった。両手を広げて回転すれば、誰かしらにはぶつかるという密度で、手当たり次第に誰が処刑されたのかを訊ねた。知りたくはない。だが知らねばならない。答えをもらうより先に背中を引っ張られる。
「ここ…あまり、騒ぐの…よくない…みんな、混乱してる…」
 呑気な喋り方が背後から聞こえた。極彩は確認しようとするが阻むように引き摺る力が強められ、後退することに精一杯だった。以前一度だけ訪れたことのある木蘭寺の美しい竹を観賞している余裕もなく通っていく。竹製の四阿に放られ、そのまま竹椅子に腰掛けた。人影が迫る。口元と鼻先を布で覆い、眠そうな目元には紅色の化粧が施された明るい茶髪の若者だ。能天気な髪色に苛々させられる。
「狐さん…?」
「声…聞こえたから…ぼくの、…妻の」
 彼はけふけふと乾いた咳をした。
「あれだけの邂逅かいこうでよく覚えられましたね」
 嫌味っぽく言うと、今にも寝てしまいそうな目を細め、おそらく笑っているらしかった。
「…ぼくのお嫁さんの声…落ち着くから…すぐ、覚える…」
「何してたんです、あんなところで」
「…ぼくは…何してたっけ…?ぼくのお嫁さんは…何、してた…?」
 怪しい咳をしながら婿候補は答えになっていない答え方をしてさらには訊き返す。極彩は髪を掻いた。肩の傷が痛む。
「ちょっと訳があって。それより、風邪ひいてるんですか」
「大丈夫だよ…移さない。ぼくのお嫁さんは…ひいてない?」
 酔っ払いの絡み酒のようにも思えるのんびりした話し方に苛立ちを抑える。
「わたしはひいてません。熱はありませんか。息苦しさは?」
 狐はぽけっとした顔をしている。侮られている感じすらした。
「ない…」
「ではもういいですね。婚姻届が書け次第、また伺いますから。昨日居た場所なら、大体いますか」
 意識の無さそうな視線に絡まれたままだった。うん、と寝落ちたように首を縦に振る。
「本当に…ぼくみたいなので…いいんですか…」
 その質問は極彩をさらに不機嫌にさせた。
「それは遠回しに拒否しているというわけではありませんよね」
 婿候補は話を聞いているのか否か分からない、放心したような表情から意識が戻る。
「してないよ…ねぇ、じゃあさ…夫婦の営み、しよ」
 空はまだ明るかった。聞き間違いかと想い、似た発音や同音異語を探す。しかし思い当たるものは「夫婦の営み」以外、他になかった。
「すみません。もう一度おっしゃっていただけますか」
 狐は首を傾げた。小さく顔面に動きを見せ、また「夫婦の営み」と口にした。まだ正式な夫婦ではない。しかしここで関係を先に築き上げてしまったほうが、書面を提出する前になって気が変わったと言われる可能性を考えた際に賢明に思われた。しかしすぐに返事が出来ないでいた。
「行こう…?ぼくの自慢の…綺麗なお嫁さん…」
 咳をしながら狐は言った。冷たく乾燥した手が極彩の手を掴む。薬を飲んでいない傷口が痛んだ。
「大好き…」
しおりを挟む
登場人物・描像図画(外部サイト)

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【完結】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです

白崎りか
恋愛
もうすぐ赤ちゃんが生まれる。 ドレスの上から、ふくらんだお腹をなでる。 「はやく出ておいで。私の赤ちゃん」 ある日、アリシアは見てしまう。 夫が、ベッドの上で、メイドと口づけをしているのを! 「どうして、メイドのお腹にも、赤ちゃんがいるの?!」 「赤ちゃんが生まれたら、私は殺されるの?」 夫とメイドは、アリシアの殺害を計画していた。 自分たちの子供を跡継ぎにして、辺境伯家を乗っ取ろうとしているのだ。 ドラゴンの力で、前世の記憶を取り戻したアリシアは、自由を手に入れるために裁判で戦う。 ※1話と2話は短編版と内容は同じですが、設定を少し変えています。

魔法使いと彼女を慕う3匹の黒竜~魔法は最強だけど溺愛してくる竜には勝てる気がしません~

村雨 妖
恋愛
 森で1人のんびり自由気ままな生活をしながら、たまに王都の冒険者のギルドで依頼を受け、魔物討伐をして過ごしていた”最強の魔法使い”の女の子、リーシャ。  ある依頼の際に彼女は3匹の小さな黒竜と出会い、一緒に生活するようになった。黒竜の名前は、ノア、ルシア、エリアル。毎日可愛がっていたのに、ある日突然黒竜たちは姿を消してしまった。代わりに3人の人間の男が家に現れ、彼らは自分たちがその黒竜だと言い張り、リーシャに自分たちの”番”にするとか言ってきて。  半信半疑で彼らを受け入れたリーシャだが、一緒に過ごすうちにそれが本当の事だと思い始めた。彼らはリーシャの気持ちなど関係なく自分たちの好きにふるまってくる。リーシャは彼らの好意に鈍感ではあるけど、ちょっとした言動にドキッとしたり、モヤモヤしてみたりて……お互いに振り回し、振り回されの毎日に。のんびり自由気ままな生活をしていたはずなのに、急に慌ただしい生活になってしまって⁉ 3人との出会いを境にいろんな竜とも出会うことになり、関わりたくない竜と人間のいざこざにも巻き込まれていくことに!※”小説家になろう”でも公開しています。※表紙絵自作の作品です。

転生したら、6人の最強旦那様に溺愛されてます!?~6人の愛が重すぎて困ってます!~

恋愛
ある日、女子高生だった白川凛(しらかわりん) は学校の帰り道、バイトに遅刻しそうになったのでスピードを上げすぎ、そのまま階段から落ちて死亡した。 しかし、目が覚めるとそこは異世界だった!? (もしかして、私、転生してる!!?) そして、なんと凛が転生した世界は女性が少なく、一妻多夫制だった!!! そんな世界に転生した凛と、将来の旦那様は一体誰!?

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

【完結】消された第二王女は隣国の王妃に熱望される

風子
恋愛
ブルボマーナ国の第二王女アリアンは絶世の美女だった。 しかし側妃の娘だと嫌われて、正妃とその娘の第一王女から虐げられていた。 そんな時、隣国から王太子がやって来た。 王太子ヴィルドルフは、アリアンの美しさに一目惚れをしてしまう。 すぐに婚約を結び、結婚の準備を進める為に帰国したヴィルドルフに、突然の婚約解消の連絡が入る。 アリアンが王宮を追放され、修道院に送られたと知らされた。 そして、新しい婚約者に第一王女のローズが決まったと聞かされるのである。 アリアンを諦めきれないヴィルドルフは、お忍びでアリアンを探しにブルボマーナに乗り込んだ。 そしてある夜、2人は運命の再会を果たすのである。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

処理中です...