彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 ここで背負うか、命を。低く絞り出される声。憎悪に満ちた目。翡翠の瞳がぎらぎらと極彩を捕らえた。その双眸を見つめながら。朽葉は賜死した。自身はどうだった。極彩は手首を潰されるほど握られながら別のことを考えていた。棄てられたのか、はぐれたのか。
「簡単に言いますな」
 口角を吊り上げて笑う。化けの皮が剥がれている。被り直せ。蚊を叩くように、その頬を掌でぺちりと叩く。
「…大変失礼しました」
 翡翠の手から放される。冷たい手だった。痣になるだろう。性を蔑ろにする言葉だったが、自身は命を蔑ろにした。
「少しでも、あの連れが可愛いのなら、くれぐれも無理はなさらぬように」
 そういえばこの者がここへ連れて来たのだった。宗教家のはずだ。宗教家の活動に、一騎打ちの妨害が含まれるのか。
「宗教家、ですよね」
「ワタクシの人生全てを河教せんきょうに費やしているわけではありませんし、河教も人生全てを捧げさせるものではありません」
 雷鳴が小さくなった。翡翠が半目で極彩を見ている。
「一騎打ちですよ。当たったら死にます」
「心配しているんですかねぇ。だからです。あなたを死なないようにする。それがワタクシに与えられた任です」
 監視されていたということだ。
「睨まないでくれますか」
「桜はどうしています」
「先に帰しました」
 極彩は立ち上がる。桜がいないのであればここに用はない。
「お世話になりました」
 布団を片付けようとして、早く帰るように促される。雨はやみ、眩しいほどに晴れていた。
 竹光も持ってきてしまった。痛いと思った。何も痛覚はない。竹だ。脇差に見せかけただけで、皮膚を裂く鋭さはない。長春小通りに少し雰囲気の似た町を歩く。洗濯屋や八百屋、精肉店が住宅を兼ねて並んでいる。層になった高い住居が空へ伸びる。桜が本当に首を刎ねられてしまったら。それでもおそらくこの土地の空は変わらない。形式は話だけ聞いている。身を清めたりして、実際に腹に刃を突き立てる必要はない。多くは。脇差に見立てたものを腹に当てたら、首を落とされる。四季国ではそう聞いているが風月国の段取りは知らない。だが朽葉は立場上、腹を実際に切ったと思われる。腹の奥底が熱くなる。桜が首を刎ねられていたら。空想に耽る。いつも通り城に戻って、離れ家で紫暗と2人で過ごす。縹に深く謝って、珊瑚たちに訊かれたら弁解して。自分が死んだら。桜は立場を失くす。偽りと嘘で塗りたくった立場と虚無で築いた繋がりによって悲しむ者が出る。そこにある悲しみは、嘘か。だが在る。きっと在る。紫暗に永久に留守を預け、縹を独りにしてしまう。掴みかけた師の意図を手放してしまう。群青を罵倒しておきながら自分は。
「お迎えに上がりました」
 顔を上げてみて、俯いていたことを知る。粗末な衣類に身を包んだ群青がいる。極彩は止まった。
「…なんで」
 髪の艶が少し戻り、顔色も前に見た時よりも良くなっている
「縹殿から便りをいただきまして」
 官吏とは思えない、市井の若者よりも簡素な格好をしている。極彩は俯いてしまった。群青はその顔を覗き込もうと身体を傾ける。
「叔父上からは、何と」
東雲しののめ南区で極彩様が迷子になっていらっしゃると」
 ここは東雲しののめ南区というらしい。
「探し回ったの」
 群青は固い笑みを浮かべて否定する。駆けずり回ったのだと思った。
「ありがとう」 
 群青は白い掌を差し出した。年齢の割りに乾燥している。その手に手を重ねる。牛車乗り場まで案内されるまで群青があれこれと話をしていた。ここ暫くは自分の目で人々の暮らしを見られているだとか、楽器の練習をしているだとか、敷地内でヘビが出たとか。城で働いていた時よりよく喋ると思った。牛車が来て、乗り込むとのうち無言になった。対面ではなく隣に座った。それが自然の流れのように感じられた。対面に座ると言う考えも浮かばなかった。極彩から話すことはなかった。視線がかち合うこともない。牛の鳴き声と足音、車輪の軋みの間に息遣いが聞こえる。まだ治らない右腕から薫る清涼感が懐かしい。左手は繋いだまま。
「何があったのかは詳しく聞いておりません…ただ、由々しき出来事に巻き込まれたと聞いております。極彩様が無事でいらして、よかった」
 瞼の裏が締め付けられる。目の奥が沁みる。
「…もしかして、どこか痛みますか」
 極彩の胸中を知ってか知らずか群青は訊ねてまた顔色を確認しようする。
「痛まない。どこも」
 繋いだままの手から伝っていそうだった。
 東雲南地区は弁柄地区の北側に近いらしく、暫く乗ると知っている風景が車窓から見えた。城まではあともう少しだ。重なったままの群青の手が弱く力んだ。
「あの…身分不相応なことを申し上げます」
 牛車が揺れると隣の引き締まった細い身体が触れ合う。
「何」
 群青の下になった掌が少し汗ばんで極彩は弱くその手を握った。群青が切り出したのは、数日後の祭りへ、一緒に行かないかという誘いだった。その日は紫暗との先約がある。
「ごめんなさい」
 群青の柔和な口元が一瞬固まり、それから愛想笑い。
「さようでございましたか。出過ぎたことを申し上げました」
 何も返せず、極彩はただ群青の手を強く強く握った。城門近くの停車場に牛車は停まる。降りようとした極彩の手を汗ばんだままの手が惜しみ、そして放した。
「城まで見送ることが出来ませんが、せめてお背中を見送らせてください」
 群青も牛車から降りて極彩が城門を潜るまで見送っていた。互いが見えなくなる直前で振り返る。御者と話していた群青が極彩を見た。数歩進んで、また戻って振り返る。群青を確認してから離れ家に戻った。
「おかえりなさいませ」
 紫暗が出迎え、極彩は無言のまま抱き締める。紫暗は穏和しく極彩の背へ腕を回す。細いが肉感のある少女の身体。よく食べているのにあまり太らない。背も髪も少し伸びた。
「ただいま」
 抱擁を解き、離れ家に入る。嗅ぎ慣れた匂いがした。帰ってきたときの束の間の匂い。木材と、おそらくその木を保護する油っぽい苦味のある香りと、洗剤の入り混じって沁み込んだ匂い。まずいなと思った。だが思いに反して危機感が全くなかった。
「桜…?」
 桜がいつも裁縫の練習や読書、不器用に洗濯物を畳む床の間。奥まっているため玄関からでは進まないと床の間も見えなかった。
「桜殿はおりません」
 何故。極彩は一歩進んで見えた床の間の端に裁縫の練習をする桜の影をかたどる。
「出て行くと、頭を下げておりました」
「…そう」
 外は暗い。新しい家族のもとに帰ったのか。
「極彩様…?」
「こういう流れになるんだな、どう転んでも」
 円い瞳をぱちぱちと屡瞬しばたたいて、何の話しだか分からないといったふうだった。
「ありがとう、紫暗。すまなかったな。今まで短い間だったが気を遣わせてしまった」
 小さな肩を叩くと紫暗は首を振った。
「叔父上のもとに行くから、下がっていい」
「はい。お疲れ様でございました」
 紫暗は揖礼して離れ家を出て行く。極彩は床の間を振り返る。桜の幻影は消える。
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