彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 旧病棟がもう見えるところまで来て、桜を一瞥したがふわりと皮膚の上を滑っていく妙な空気感に傍にいた桜を加減もせず突き飛ばす。子犬に似た小さな悲鳴に構わず、傘を閉じ、肌と産毛と耳で微かな波と音を探る。地を蹴り桜の前に割り込むと迫ってきた影が持つ小刀を日傘で阻んだ。打ち払い、後ろへ跳んだ影の着地点へ時間差通りに日傘を突き入れる。影は日傘を寸前で躱し勢いをつけたままさらに後ろへ跳んだ。見たことがある顔だ、と瞬時に理解しただけでまた再開される攻撃に頭は切り替わる。素速く間合いを詰める影の攻撃を日傘で受けるばかりだった。1合、2合と間隔が慣れ、6合目で蹴りを入れる。微かに当たった感触はあるが防具を着けていれば大した意味はない程度。影の動きが変わって、やっと桜の存在を思い出す。跳ぶ瞬間は同じだった。日傘を構え、先に着いてしまう影を後ろから打つつもりだったが直前で振り返った影、見知った顔が極彩の方へ飛びかかり、腰を抱き寄せると後頭部に手を回される。知った匂い。気の緩み。気付いた時にはゆっくりと後頭部と腰に当てられた手によって地面に寝かせられる。額の傷に触れないが違いところで人差し指が当てられた。
「ばぁん」
 翳った顔は愛嬌がある。人懐こい笑顔と犬歯。猫を思わせる吊り目。
「さすがっす」
「危ないじゃない」
 彼は手を払いながら小脇に抱えた小刀をしまう。刀を向けてきた時の構えた体勢が似ていた。同じだったと思った。型がが。同じ流派か、それとも似ているだけか。後者だろう。後者だ。
「オレのこと覚えてるすか?」
「…銀灰くんだっけ」
 尻餅をついたままの桜に手を差し伸べ、桜は頭を下げてから土を払い、極彩の手に応えた。
「良かった、覚えてくれてたんすね。それで…何の用すか?」
 へにゃりと笑い、極彩に砕けた対応をした後に立ち上がった桜に凍てついた表情を投げる。
「縹さんから預かった手紙を渡しに。彼はわたしの従者みたいなものだから、そう警戒しないで」
「あ~、縹サン」
 渡された手紙を銀灰に受け取らせた。杏か柘榴のほうがいいのではないかと思いながら。銀灰は封を開いて文面に目を通す。極彩の隣で桜は所在無さげにそわそわしていた。
「縹サン、自腹切ったんだ」
 銀灰が文を難しげに黙読しながら呟くと、桜は魂消たまげて小さく縮こまる。極彩は桜の薄く白い腹にあった大きな傷を思い出す。
「んで、桜がアンタか」
「…そ、そうです」
 便箋から顔を上げ、銀灰は桜に確認する。
「場合によっては杉染台に預けなさいと、縹さんから伝えられてるんだけど…」
 聞いてないです!と口にはしないが桜は銀灰と極彩を交互に見る。極彩としては本人の希望通りにしたかったが、自身の立場すらどう転ぶか分からない。その時に桜は危険なのだ。
「分かった。ここは託児所じゃないけど、縹サンの頼みじゃ…」
「あ、あの縹様とはどういったご関係の方なんですか」
 銀灰は自分で答えず極彩へ目配せする。
「縹さんの息子だって」
 銀灰は、え、と口と目を丸くする。
「では、極彩様のいとこ、ということで…?」
「そういうことになるけど」
 どうする気なの。桜には投げやりに肯定し、銀灰を確認すれば笑みを引き攣らせ訂正する。
「それは冗談っすよ!この前は悪かったって。厳密に言うと、縹サンに養子に来ないかって誘われてるんす」
 照れ臭そうに話される。縹からは聞いていない。聞き逃していたとも思えなかった。
「縹様が…」
「これはホントっすよ?オレの親もういないから、縹サンが面倒看てくれるって」
「…そう」
 養子ならば関係なくなるが、銀灰は10代後半といった年の頃で、縹は以前25近いと話していた。兄弟ほどの差しかない。
「あんま湿っぽい話じゃなくて。まぁ、そこ返事は保留だから、まだいとこじゃないんだな~」
 縹が本心から銀灰を養子にと乞うているなら叶えてほしい。だが銀灰には銀灰の生き方がある。
「立ち話もなんだ。来るっすよね」
 日傘を抱き、躊躇している様子の桜の背に手を添え、先を歩く銀灰を追う。埃にまみれた工具店の前で桜は足を止めた。銀灰はすでに2階に消えている。
「無理そうなら、待っていて」
「い、いいえ、行きます」
 敷居を跨ぐのに数秒の間を置いた。思い詰めた横顔は大人びて見えた。2階に上がり、漂う人間の生々しい匂い。気がかりだった。特に重傷だった者はまだ生きていた。窓の真下に横たわり日差しを避けている。奥の部屋から先に行った銀灰が出てきて桜と極彩を手招きした。悲痛な面持ちの桜の背をまた押す。すでに城の者ではないが、城の者がやったことだ。風月国の方針だ。そしてその時桜はまだ城の者で、そこを抜けたのも不本意だった。
「いらっしゃい」
 柘榴が迎える。隣の桜を一瞥してから極災を捉えた。
「ありがとう。縹くんからの手紙と小切手、確かに受け取ったわ」
「暑い中、すまなかったな」
「いいえ、お役に立てなら、それで」
 無力だ。不甲斐なさを見せつけられるだけの地。桜の件だけを問い、足早に去りたい。
「将軍家の息子で、医業を経て官職。それで今は使用人…人生何があるか分からないものね」
 桜へ柘榴の手が伸び、小さな頭を掴む。温かく優しげに思っていた太い指が、この時ばかりは芋虫のように思えた。真正面から見下ろされている桜は怯えて後退る。珊瑚は飼い猫と揶揄したが、極彩は兎を彷彿させた。凶暴な野兎ではなくて、飼われて人に慣らされ、さらには人懐こい。柘榴が桜を取って食いそうなのは体格差ではなく纏う迫力のせいか。
「柘榴」
「桜」
 杏と声が重なった。杏が柘榴の腕を掴み、極彩は柘榴の前に身を割り込ませていた。
「何よ、経歴の確認をしているだけでしょ」
 頬を膨らませ、威圧感を消した柘榴は柔らかく桜の髪を撫で、ついでにやはり茱萸ぐみのような指で極彩の頭をもう片方の手で撫で回す。
「まぁとりあえず若いし、まだ助手とかだろうけど、医業にいた奴いるのは助かるっすわ」
 狭い部屋を大きく占領するテーブルに肘をつき、硬筆を回しながら銀灰は口を挟む。
「医者だったの」
「医者というほどのものでは…」
 桜は足元を見つめていた。触れられたくないことだったのかも知れない。柘榴の目が光り、杏も遠慮がちに桜を見ていた。銀灰は硬筆を回しながら何か計算をしていた。
「脅迫のつもりで言うわ。協力して」
「僕は…医者とか分からないです、何も…」
 再び柘榴の凄みを受け、桜の手は震えていた。拒否は許さないと威圧されながら、それでも桜は首を小さく振った。
「無力な者は無力を嘆き、才ある者は才に呑まれ、能ある者は能に擦り減らされる」
 才も能もなかった。だから師は自分を褒めてはくれなかった。極彩は師の白い毛が揺れる光景を思い描いていた。特に印象に残っている。秀でた才に呑まれそうだと思ったことはない。ありそうもない能に擦り減らされそうになったことはない。だから分からないことだ。お前からも背を押せ。言われてもいない声を拾いかけてはいるが。
「柘榴さん。桜の意思を尊重してはくれませんか」
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