彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 誰を呼んでいるのか一瞬分からなくなった。誰の名なのか。誰を呼んでいる?
「お答えください」
 そういえば自分の名だったと思い出す。名が変わったのは師だけではなかった。
「お答えください、極彩様」 
 答えずにいると官吏の席からぼそぼそと話し声が聞こえ始める。冷たい目をしている群青と見つめ合う。何も映さない暗い目。洗朱通りで見た花緑青に似た目。灰白はその瞳をじっと見ていた。師は師だ。名のように偽れるのか。偽れるか?腰紐が引っ張られる。唇を噛む。
「群青」
 天藍が近付くと、武装兵の囲いが緩む。群青の隣に立って耳打ちする。
「噂は本当なのかと色めきだっているよ」
「ですが、」
「目は紫だったよ。間違いない」
「そうではなく、」
「仕方ないだろう。見たのは君と兄上だけだ」
 群青は眉を顰め左腕を下ろす。周りの武装兵たちが横たわった白髪の刺客へ剣を突き立てる。何本も何本もその身体に剣が刺さった。灰白は目を見開いた。群青も天藍もその様をじっと見ていた。天藍は興味深そうな目を向けていたが群青はあからさまな嫌悪を向けている。剣先が真っ赤に染まり床へ広がる池は湖へと化し波打つ身体がさらに広げていく。群青が耐えられないとばかりに目を閉じ、左腕を上げる。剣の雨が止み、身体から引き抜かれる。涙で視界が滲んだ。無抵抗な四肢が赤く汚れ灰白の前に投げられている。
「群青…」
「ご理解賜りますようお願い申し上げます」
 天藍の咎めに群青は目を閉じたまま、まだ続くめいを拒んでいる。
「ごめんね。白髪に紫目の人間の血は無垢な水晶って噂があってね」
 天藍は灰白の前に屈み、そう説明して笑った。迷信だったみたいだ。天藍は何事もなかったように言った。朽葉の声で。
「天藍様、お下がりください」
 群青は天藍を庇うように刺客たちと灰白の前に出る。隣の兵から剣を借り、灰白に突き付ける。肩に刃が乗る。
「極彩様、質問にお答え―」
 赤黒く染まった白い髪が目の前で大きく揺れる。風に扇がれるように翻って、何かが灰白の顔面に飛んだ。鋭い痛みが額に走る。藤の花の飾りが頬を叩き、床へ回っていった。群青の剣が灰白から刺客へ向けられる。
ったもん、はなすわ」
 左右に大きく揺れながら群青の剣に自ら身を沈めていく。くしゃみのように血飛沫を吐いて群青の顔を大きく汚した。それから幾度か咳き込み床へと崩れていった。
「やってらんねーよ。俺は戻る」
 珊瑚の声が大広間に響く。
「極彩」
 縹が兵を押し退け近付き、灰白は呆然としたまま腰紐を引っ張る小さな手を見下ろした。赤い水晶を刀身から溢している。渦巻きの描かれた仮面に手を伸ばそうとして縹にその手を止められた。幸せに暮らしている人間がここにいるはずがないのだから。止められた手に布を当てられ、額へ持って行かれる。痛み。だが鈍い。視界が霞む。縹の真っ白い正装が武装兵と群青、赤く染まった師を隠す。
「群青くん…」
 縹は群青を睨み上げた。右腕を吊し上げた白布に血飛沫が滲んでいる。
「縹殿…」
「風月王の御前おんまえだよ」
 縹は群青を睨み上げたまま言い放つ。群青も数秒縹を見つめていた。
「分かりました。一旦この場は縹殿にお任せするということでお願いしたします」
 灰白は自身の衣類に縋る小さな手を握る。瞬けなかった。瞬けば滴ってしまう。掌に残る柄越しの感触。咽びそうになり声が出ない。名を呼ぶことも出来ない。息も出来ていなかった。吸い込んだつもりで息が抜けていく。
「しっかりなさい」
 囁かれ、頷くと縹は去ったが動けそうになかった。淡々と片付けられていく中で座り込んだままだった。小さな身体が灰白から剥がされ、拘束されていく。ばら撒かれた赤い水晶が拾い集められていく。
「ねぇ、大丈夫だった?」
 天藍が灰白の傍に寄る。灰白は血が止まらないままの顔で天藍を一瞥する。涙を零してはいけない。今は耐えねばならない。何のために師はこの傷を付けたのか。大きな扉の奥へ運ばれていく紅の小さな身体。これが幸せに暮らすということだったのか。
 天藍に肩を抱かれ、灰白は拒絶するようにすり抜けた。離れ家に戻らなければと思った。天藍に呼び掛けられたことも気にせず灰白は大広間から出た。何人かから声を掛けられても構うことなく離れ家を目指す。見知った廊下が知らない場所に思えた。毎日見た風景が冷たい。それもそのはずだとすぐに分かった。ここは仇の国なのだから。そして墓なのだから。廊下を転々と滴る血が汚す。
 離れ家へ戻る途中で竹林が見えた。朽葉が眠る場所。ぼろ、と涙が零れた。血が滴る。1人になりたい。竹林が呼ぶ。足が向く。木々のざわめきに奥へ奥へと誘われる。柔らかい土に足元が覚束なくなり、竹に支えられながら奥を目指す。進んでもそこにはただの石しかない。何も埋まってはいない。埋まっていたとしても、生きたものではない。無駄だ無駄だと分かっていながら灰白は進む。足を動かすしかもう能がなかった。長く地を這う蔦に爪先を取られ転ぶ。枯葉が身体を受け止める。血に汚れた舞衣装に泥が付く。払って起き上がる。だが起き上がってから、どうしようとしていたのかを忘れ、近くの竹へ凭れかかってそのままずるずると座り込む。何故ここにいる。何をしようとしていた。何をしていればよかった。灰白は蹲る。舞衣装に血が染みていく。ここでこうしていればいつか四季国に戻れるのだろうか。ここでずっと隠れていれば。何もせず。何も考えず。風月王への仇討ちなどやめて。紅は幸せに暮らしてなどいなかった。縹は絶好の機会に討てとは言わなかった。厚意を受けた朽葉はすでに死んでいる。果たして今に意味があるのだろうか。竹林の湿った匂いに包まれると涙は頬を落ちて、それから渇いて止まる。腰布を抜き取る。だが竹林を見上げて、掴んだ腰布を落とした。今ならいいと思ったが、実際そうもいかないらしい。きっと気が変わる。今でなければ気が変わる。そして布を掛ける枝がない竹林を見上げて気が変わった。重い腰を上げ、奥を目指す。そこに答えがないことを知っていながら。小枝を踏み、枯葉を踏み、竹を握り、冷静になった頭の片隅で、誰かが心配していると言っている。だが誰が心配しているのか具体的な名は出てこなかった。
「朽葉様…」
 石が見え始める。森の中で見た姿が鮮明に思い浮かぶ。あの短剣を受け取らなければ。復讐など誓わなければ。師は。

―生きていられた?本当に…?

 自身の目に見えないどこかで死んでいたかも知れない。生きていたのかも気にしないまま。意識から消え、時折思い出の中に美しく映って、また意識から消え。
 だが紅を刺さずにはいられたはずだ。拳を握る。ぬるついた唇を噛む。鉄の匂い。独特の甘い味。力無く辿りつく朽葉の安手な墓石へ縋る。添えられた髪飾り。花緑青が付けていた。彼女も。石の前に膝を着き、倒れ込む。誰の所為にしたらいい。誰の所為でもない。土を掴む。唸る。血の混じった涎が漏れ、また唸る。声に出ない叫びに喉が焼かれ、絞られる。眼球の奥を捻られるような痛み。土を血が汚す。雨が降ったようだった。悪い夢から目覚めたら見慣れた顔で起こしてほしい。
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