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「群青殿?」
名を呼ぶのを躊躇った。腹立たしく思ったことがどこか重苦しい。迷いが生じ、相手には聞こえないほどの声しか出なかった。
「お話がございますので、こちらはわたくしがお持ちいたします」
積まれていたローブの脇から群青の姿が現れる。ローブを受け取ろうとして、群青の指が重なった。咄嗟に腕を引っ込められ、ローブが傾いて落ちていく。
「し、失礼しました」
慌てて群青はローブを拾い集める。上から見た群青の顔は僅かに赤い。珊瑚に殴られた痕はほぼ治っている。
「熱、あるの?」
屈んでいる群青と目線を合わせるために灰白も屈む。額に手を伸ばしたがさっと顔を逸らされ、空しく宙を掌が彷徨った。
「ございません…」
群青の目が泳ぐ。
「先に執務室へ行っていただけますか」
焦りを感じる。突き離すような冷たい跡を残す。灰白は消えそうな声で了承する。灰白は群青に冷たい態度を取っていた。そして珊瑚に手を上げた厄介な存在だ。群青に苛立ち、紫暗の処遇が不安で八つ当たりじみたこともした。まだ腕に残るローブ数着を群青の傍に置く。胸を煩わしく掻く妙な感覚を残したまま執務室へ向かった。
「失礼します、極彩です」
執務室の扉を叩くと、入室を許可する縹の声がした。中へ入ると見知らない女性が目に入った。青とも緑ともいえない色味の衣服に目を奪われた。帯に付いた大きな白い花の飾りが特徴的だ。顔に大きな紋様が描かれ素顔は分かりづらいが、目が大きく、鼻筋の通った美少女だということは分かる。お互いに軽く一礼した。
「巷で最近名を上げている芸妓だそうだよ」
紙をめくる音がする。大きな本を開いている縹が灰白の死角にいた。
「芸妓さん…?」
縹からまた異様な美少女を見る。顔面に渦巻きを半分にしたような意匠の朱を入れている。朱色の中の大きな目が嬉しそうに綻ぶ。
「わたしは極彩です」
「花緑青と申します!極彩様、よろしくお願いいたします」
赤みの強い髪に挿さる簪の飾りが揺れる。花緑青という少女に手を取られ、柔らかく手を挟まれる。ふわりと甘酸っぱい花の香りがした。
「はな…叔父上、群青殿、体調どうですか。熱があるみたいだったんですが…」
「そうだったかい?過労の色は相変わらず濃いけれど、そういった体調不良は見受けられなかった」
「そうでしたか。ならわたしの勘違いです」
執務室の扉が開き、群青が戻ってきた。目が合ってしまうとどちらからともなく瞬時に目を逸らす。
「お待たせいたしました。お話というのは彼女のことで」
「花緑青殿を新たな極彩様の世話係としてお任せしようかと考えております。山吹様の世話係と兼ねることになりますが」
灰白は群青を睨む。まるで紫暗を蔑ろにしているかのように聞こえてしまう。花緑青に対する悪意はないが、群青の選択が気に入らない。わたしには必要ありません、と口先まで出掛かったところで、本を閉じる音がした。
「いいんじゃないかい、極彩。君と彼女と紫暗嬢で力を合わせるといい」
本棚に分厚い本を戻し、また新たに分厚い本を取って、雑に頁を開く。興味は無さそうだった。紙面から目を離さず助け舟を出す。群青も縹へ感情を失った目を向けていた。
「そうですね。叔父上の言う通り、3人で山吹様をお支えします」
「…だそうだ、群青くん。人見知りなもので、やっとあの世話係の娘と打ち解けたようだから、私からも頼むよ。すまないね」
紙の音が大きく聞こえた。そして縹が本を参考に書類を処理している。群青はいいえ、と形式的な返事をした。
「よろしくお願いしますわ、極彩様」
花緑青は群青や縹のやり取りに不安な表情をしていたが灰白の手を再び握って愛らしく微笑む。
「花緑青殿、芸妓としてお越しくださったのに…ご容赦くださいませ」
「いいえ!素敵な出会いもありましたし、得難い機会ですわ」
熟した桜桃によく似た瞳が輝いている。
「では、わたしは山吹様をお待たせしているので戻ります」
「お忙しい中、お時間を割いていただいてありがとうございます」
灰白は群青を視界に留めることを許さず、花緑青にも構わずに冷ややかな態度で退室した。縹にまた迷惑をかけてしまうだよう。不出来な姪だと。縹に擁護され、それに甘えてしまっている。情は捨てろ。絆されるなという意味だけではないのだろう。群青に対する苛立ちも、押し殺さなければならなかったはずだ。
「ごくさい」
山吹が扉の前で待っていた。迎えに来たらしい。蟠りをすっと忘れる。
「お待たせしてしまいましたね」
山吹は気にするなといった風ににこにこと笑っている。
「ごくさい、みどり…?」
「はい。とても綺麗で素敵な人だと思います」
花緑青に会えたのかと訊かれ、灰白はそのまま抱いた印象を伝える。だが自分の世話係は紫暗だけだ。灰白は山吹に肩を抱かれながら山吹の部屋へ戻る。
花緑青がやって来て数日経った。まだ灰白もこの生活に慣れたかどうか、城のことが分かってきたかどうかという時だったが、下回りたち気遣いや花緑青の器用さによって穏やかな日々が続いていた。
山吹の竹笛の練習を聴きながらまだ大量に残っているローブへ刺繍を施していく。洗濯を待つローブが山が積み上がっていく。群青から与えられていた指示は全て終えていた。戻るついでにと灰白がローブの山を預かった。怒声が聞こえる。執務室と珊瑚の自室に分岐する廊下だ。この城内で怒鳴るのはおそらく珊瑚だ。気にはなったが珊瑚相手に出来ることはない。ランドリーで刺繍を終えたローブを係の者に渡し、離れ家に引き返そうとした時、群青とすれ違う。急いでいるらしく、群青の香りを乗せた風が遅れて灰白にそよいだ。群青は怒鳴り声のする方へ歩いていく。逃げるように走ってきた者に何かあったのかと訊ねる。どうやら珊瑚が花緑青と揉めているらしかった。あの少女が紫暗のように殴られたり蹴ったりされてしまうのだろうか。灰白は群青を追う。段々と不穏な会話が大きくなる。壁に隠れて様子を窺う。
「群青!お前、ふざけるなよ。どういうつもりだ」
「ごめんなさい…」
防壁と化した積み上げられた重厚な木のテーブルや椅子の前で珊瑚が怒鳴る。花緑青が怯えた目を2人の間に入る群青へ向けた。
「花緑青殿、どうなされました」
「…あの…えっと…」
「テキトーに妓女でも寄越して、誤魔化そうってか?ふん。宮妓は今募集してねぇんだよ。ここは主人もいない抜け殻だ。分かったらとっとと帰んな」
珊瑚は心底煩わしそうだ。
「そういったつもりはございません…彼女は芸妓ではありますが、こちらには下回りとして来ていただいております。今日は珊瑚様の世話係として…」
「要らねぇんだって。前も言っただろ。雑用だけ回せ。お前の息がかかったやつなんて信用出来ねーんだよ」
群青は頭を下げたまま珊瑚の怒りを聞いている。
「舞でもさせて、そのうちに俺を殺そうってか」
珊瑚は群青の髪を鷲掴み、顔を上げさせる。灰白は出て行きそうになったが踏み止まった。
「脱げよ、美人さん」
乱暴に群青の髪を放し、花緑青に吐き捨てる。花緑青は、え?と戸惑っていた。何を言われたのか理解出来ないと。目を丸くしている。可愛いらしく艶と光沢のある唇が驚きで小さく開いている。
「暗器でも隠してる?それとも毒薬?」
珊瑚は冷ややかに笑い、花緑青に1歩近付く。
「そんな…!私はただ…」
「群青。潔白のためだ。お前からも頼めよ」
群青は動く気配を見せない。
「なるほど、やっぱりそう出来ない理由があるんだな?」
名を呼ぶのを躊躇った。腹立たしく思ったことがどこか重苦しい。迷いが生じ、相手には聞こえないほどの声しか出なかった。
「お話がございますので、こちらはわたくしがお持ちいたします」
積まれていたローブの脇から群青の姿が現れる。ローブを受け取ろうとして、群青の指が重なった。咄嗟に腕を引っ込められ、ローブが傾いて落ちていく。
「し、失礼しました」
慌てて群青はローブを拾い集める。上から見た群青の顔は僅かに赤い。珊瑚に殴られた痕はほぼ治っている。
「熱、あるの?」
屈んでいる群青と目線を合わせるために灰白も屈む。額に手を伸ばしたがさっと顔を逸らされ、空しく宙を掌が彷徨った。
「ございません…」
群青の目が泳ぐ。
「先に執務室へ行っていただけますか」
焦りを感じる。突き離すような冷たい跡を残す。灰白は消えそうな声で了承する。灰白は群青に冷たい態度を取っていた。そして珊瑚に手を上げた厄介な存在だ。群青に苛立ち、紫暗の処遇が不安で八つ当たりじみたこともした。まだ腕に残るローブ数着を群青の傍に置く。胸を煩わしく掻く妙な感覚を残したまま執務室へ向かった。
「失礼します、極彩です」
執務室の扉を叩くと、入室を許可する縹の声がした。中へ入ると見知らない女性が目に入った。青とも緑ともいえない色味の衣服に目を奪われた。帯に付いた大きな白い花の飾りが特徴的だ。顔に大きな紋様が描かれ素顔は分かりづらいが、目が大きく、鼻筋の通った美少女だということは分かる。お互いに軽く一礼した。
「巷で最近名を上げている芸妓だそうだよ」
紙をめくる音がする。大きな本を開いている縹が灰白の死角にいた。
「芸妓さん…?」
縹からまた異様な美少女を見る。顔面に渦巻きを半分にしたような意匠の朱を入れている。朱色の中の大きな目が嬉しそうに綻ぶ。
「わたしは極彩です」
「花緑青と申します!極彩様、よろしくお願いいたします」
赤みの強い髪に挿さる簪の飾りが揺れる。花緑青という少女に手を取られ、柔らかく手を挟まれる。ふわりと甘酸っぱい花の香りがした。
「はな…叔父上、群青殿、体調どうですか。熱があるみたいだったんですが…」
「そうだったかい?過労の色は相変わらず濃いけれど、そういった体調不良は見受けられなかった」
「そうでしたか。ならわたしの勘違いです」
執務室の扉が開き、群青が戻ってきた。目が合ってしまうとどちらからともなく瞬時に目を逸らす。
「お待たせいたしました。お話というのは彼女のことで」
「花緑青殿を新たな極彩様の世話係としてお任せしようかと考えております。山吹様の世話係と兼ねることになりますが」
灰白は群青を睨む。まるで紫暗を蔑ろにしているかのように聞こえてしまう。花緑青に対する悪意はないが、群青の選択が気に入らない。わたしには必要ありません、と口先まで出掛かったところで、本を閉じる音がした。
「いいんじゃないかい、極彩。君と彼女と紫暗嬢で力を合わせるといい」
本棚に分厚い本を戻し、また新たに分厚い本を取って、雑に頁を開く。興味は無さそうだった。紙面から目を離さず助け舟を出す。群青も縹へ感情を失った目を向けていた。
「そうですね。叔父上の言う通り、3人で山吹様をお支えします」
「…だそうだ、群青くん。人見知りなもので、やっとあの世話係の娘と打ち解けたようだから、私からも頼むよ。すまないね」
紙の音が大きく聞こえた。そして縹が本を参考に書類を処理している。群青はいいえ、と形式的な返事をした。
「よろしくお願いしますわ、極彩様」
花緑青は群青や縹のやり取りに不安な表情をしていたが灰白の手を再び握って愛らしく微笑む。
「花緑青殿、芸妓としてお越しくださったのに…ご容赦くださいませ」
「いいえ!素敵な出会いもありましたし、得難い機会ですわ」
熟した桜桃によく似た瞳が輝いている。
「では、わたしは山吹様をお待たせしているので戻ります」
「お忙しい中、お時間を割いていただいてありがとうございます」
灰白は群青を視界に留めることを許さず、花緑青にも構わずに冷ややかな態度で退室した。縹にまた迷惑をかけてしまうだよう。不出来な姪だと。縹に擁護され、それに甘えてしまっている。情は捨てろ。絆されるなという意味だけではないのだろう。群青に対する苛立ちも、押し殺さなければならなかったはずだ。
「ごくさい」
山吹が扉の前で待っていた。迎えに来たらしい。蟠りをすっと忘れる。
「お待たせしてしまいましたね」
山吹は気にするなといった風ににこにこと笑っている。
「ごくさい、みどり…?」
「はい。とても綺麗で素敵な人だと思います」
花緑青に会えたのかと訊かれ、灰白はそのまま抱いた印象を伝える。だが自分の世話係は紫暗だけだ。灰白は山吹に肩を抱かれながら山吹の部屋へ戻る。
花緑青がやって来て数日経った。まだ灰白もこの生活に慣れたかどうか、城のことが分かってきたかどうかという時だったが、下回りたち気遣いや花緑青の器用さによって穏やかな日々が続いていた。
山吹の竹笛の練習を聴きながらまだ大量に残っているローブへ刺繍を施していく。洗濯を待つローブが山が積み上がっていく。群青から与えられていた指示は全て終えていた。戻るついでにと灰白がローブの山を預かった。怒声が聞こえる。執務室と珊瑚の自室に分岐する廊下だ。この城内で怒鳴るのはおそらく珊瑚だ。気にはなったが珊瑚相手に出来ることはない。ランドリーで刺繍を終えたローブを係の者に渡し、離れ家に引き返そうとした時、群青とすれ違う。急いでいるらしく、群青の香りを乗せた風が遅れて灰白にそよいだ。群青は怒鳴り声のする方へ歩いていく。逃げるように走ってきた者に何かあったのかと訊ねる。どうやら珊瑚が花緑青と揉めているらしかった。あの少女が紫暗のように殴られたり蹴ったりされてしまうのだろうか。灰白は群青を追う。段々と不穏な会話が大きくなる。壁に隠れて様子を窺う。
「群青!お前、ふざけるなよ。どういうつもりだ」
「ごめんなさい…」
防壁と化した積み上げられた重厚な木のテーブルや椅子の前で珊瑚が怒鳴る。花緑青が怯えた目を2人の間に入る群青へ向けた。
「花緑青殿、どうなされました」
「…あの…えっと…」
「テキトーに妓女でも寄越して、誤魔化そうってか?ふん。宮妓は今募集してねぇんだよ。ここは主人もいない抜け殻だ。分かったらとっとと帰んな」
珊瑚は心底煩わしそうだ。
「そういったつもりはございません…彼女は芸妓ではありますが、こちらには下回りとして来ていただいております。今日は珊瑚様の世話係として…」
「要らねぇんだって。前も言っただろ。雑用だけ回せ。お前の息がかかったやつなんて信用出来ねーんだよ」
群青は頭を下げたまま珊瑚の怒りを聞いている。
「舞でもさせて、そのうちに俺を殺そうってか」
珊瑚は群青の髪を鷲掴み、顔を上げさせる。灰白は出て行きそうになったが踏み止まった。
「脱げよ、美人さん」
乱暴に群青の髪を放し、花緑青に吐き捨てる。花緑青は、え?と戸惑っていた。何を言われたのか理解出来ないと。目を丸くしている。可愛いらしく艶と光沢のある唇が驚きで小さく開いている。
「暗器でも隠してる?それとも毒薬?」
珊瑚は冷ややかに笑い、花緑青に1歩近付く。
「そんな…!私はただ…」
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