彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 目が覚める。長屋の薄い布団とは違う、しっかりした生地に柔らかい手触り。紅はいつでも座って眠っていた。今は横になって眠れているだろうか。そう考えて、紅とは違う道を選んだのだとはっきり感じた。起き上がると布団の上に白い手が投げ出されている。紫暗が眠っていた。下がらなかったらしい。もしかすると下がれる状態にさせなかったのかも知れない。灰白は静かに布団を紫暗に掛け、外通路へ出た。雨は上がっている。淡い紫の空。静かだ。早朝らしい。喉が渇き、城へ向かう。
「極彩様?」
 人気ひとけがなく静まっている空間に落ち着いた声が響く。
「群青殿、だったっけ」
「ええ、ご挨拶遅れまして。群青と申します」
「随分と早いんだね」
 隈の浮かぶ目元が弱々しく引き攣る。昨日は腫れ上がっていた頬は青くなっていた。
「極彩様は寝られませんでしたか?」
「ううん、喉渇いちゃって」
「水ですね、かしこまりました。今お持ちしますので」
 疲れた顔に愛想笑いを浮かべる。
「わたしも行く」
 群青は分かりました、と言って元来た道を戻る。
「誰か探していたのなら、お手数おかけしました」
「探してたわけじゃないよ」
「さようでございましたか。早朝勤務の者は暫く配置しておりませんでしから」
 群青の肌荒れが少し広がっている。痣は腫れが引いてはいるが変色していて、愛想笑いを浮かべるたびに隈ごと引き攣る。
「痣、大丈夫?」
「ご心配おかけしまして、恐縮です。情けない話ですが転んだだけですので」
 群青は痣に触れた。
 灰白は群青に連れられ、大食堂の隣の厨房へ入る。調理器具や食器類が布を掛けられ並べられていた。群青は厨房奥の水道から水を汲む。先端部に白い器具を取り付けられている。働いていた茶屋にもあったそれは浄水器というらしい。風月国は四季国と比べて水に関する設備が整っている。
「どうぞ」
「ありがとう」
 冷たい水が喉を通っていく。群青は活気のない目をしていた。話しかければ生気を取り戻す。
「ちゃんと寝れてるの?」
 群青は意外なことを訊かれたとばかりだった。灰白が気にすることではないが、病的なほどの隈と顔色の悪さについ口をついて出た。
「はい。不甲斐ないところをお見せしてしまいました」
「別に責めてるわけじゃなくて…いつか倒れちゃうよ?」
 そのいつか、がそう遠くないような気がする。群青はまたいつもの愛想笑いを浮かべた。
「人手が足りないのです。極彩様に申し上げるのもしのびないのですが」
「あなたが倒れたら、仕事が回らないんじゃない?」
「ですから、倒れるわけにはいかないのです」
 愛想笑いを崩すことなく、失礼します、と群青は一礼して去っていく。余計なことを言ってしまっただろうかとわずかな後悔。灰白は離れ家へ戻る。

「極彩様」
 紫暗がきちんと直された布団の前で正座してい灰白を見上げる。どこ行っていたのかという問いを口にはしないが漂わせている。
「まだ寝ていてもいいのに」
「極彩様、またお休みになりますか、それとも朝餉あさげを召し上がりますか」
 人手不足で早朝に人は配置していないと群青は言っていた。まさか群青が朝餉も作るのだろうか。
「朝ごはん、あるの?」
「はい。今から作ることになりますが、少々お時間を頂戴します」
「じゃあわたしも手伝うよ」
「いや、さすがに極彩様に手伝っていただくわけには…」
「人手不足なんでしょう?」
「そうですね」
「じゃあ関係ないね」
 紫暗は面倒なことになったとという雰囲気を隠さず、厨房へ向かった灰白を追う。途中で大量の書類を抱えた群青と再び会った。群青は灰白を前にして、慌てて欠伸を噛み殺す。
「厨房借りるね」
 群青は紫暗に無言のまま説明を求める。人手不足で灰白に厨房を使わせることに負い目を感じているようだった。
「群青殿はもう朝ごはん食べた?」
 群青に問うと、仕事がありましたので、と首を振った。
「それなら群青殿のも作るから」
「いや…、わたくしは…」
「食べるのも寝るのも仕事のうち!そんなに言うなら片手で食べられるおにぎりにするね」
 紫暗は苦笑している。群青は戸惑いながら灰白に負け、ではお言葉に甘えて…と言って仕事へ戻る。
「もう少し下っ端を頼ってくれるといいんですけどね」
「紫暗は群青殿が心配なんだね」
「心配というよりかは…、でもあれだけぼろぼろの姿をしていたら気にはしますよ」
 紫暗の溜息が小さく聞こえた。
 厨房に着くと紫暗が米の軽量を始める。
「とりあえず、おにぎりと卵焼きかな」
「極彩様、ちなみにお料理のほうは…」
 料理は出来るのか、と問いたいらしかったが躊躇いが生まれたらしい。茶屋で厨房を借り、2人分の夕飯を作り長屋に持ち帰っていたり、四季国でも炊事係に混ざって作ったことがある。四季城を出るつもりでいたから。四季王の婚約の邪魔になる前に。
「少しだけ。だから紫暗、助けてくれる?」
「自分もそこまで得意ではないですけど、ある程度の期待には応えます」
 丸みを帯びた釜を内蔵する機械がいくつも並ぶ。研がれた米がそのうちのひとつに入れられる。四季国にはない物。だがここでは当然としてある物。灰白はじゃがいもを洗う。
「味噌汁作るんですか?中身は…じゃがいも!」
 紫暗が手元を覗き込み、幼い表情をした。円い目が輝く。わずかに高くなった声。
「群青殿には味噌握りにしようかな。多分仕事しながらだもんね」
「…悪く思わないでくださいね。でも極彩様がああ言ってくださって良かったです。誰もあんなこと、群青殿には言えませんから」
 紫暗は乾燥わかめやにんじんを揃え、皮剥き器を取り出す。腕を上げようとして、紫暗はにんじんを落とした。
「すみません」
 落としたにんじんを洗った手が左肘を摩る。じゃがいもの芽を抉り取り、皮を剥きながら灰白はその手付きを見ていた。
「怪我?」
「…ええ、はい。転んでしまって。いい歳して情けないですけど」
 左肘から離れていく手。縹の口角の傷。群青の腫れた頬。偶然だろうか。喧嘩だと思ったが、3人で喧嘩とは考えられない。誰かが仲裁に入ったのか。だが3人の性格や立場上それもあまり納得はいかない。
「お…伯父上も群青殿もみんな怪我してるね。昨日雨だったし滑りやすいのかな」
 にんじんの皮が流し場へ落ちていく。一定感覚で皮剥き器の軋む音がしていたが、止まっていた。
「…そうですね。縹様は分かりませんが、群青殿も今は大分弱っていますし」
 紫暗の手がまた動く。誤魔化すような笑い方が灰白は引っ掛かった。


「群青殿は多分執務室だと思います」
 1日の大半はその部屋に籠っているらしい。朝食を摂り終えると紫暗に案内され執務室に向かう。味噌握り、胡麻握り、塩握りの3つと卵焼きと漬物を添えた。東の果ての執務室はほぼ孤立していた。扉の両端に椅子が置かれ、本来ならここに番がいたことを思わせる。扉を叩くと、どうぞ、と声がした。
「入ります」
 窓際に高く積み上げらた書類の山の陰から群青は姿を現わす。
「極彩様でしたか、気付かず申し訳ありません」
 群青は机の上の開いたままの難しそうな本と書類を片付け、そこに盆を置く。
「いただきます。ありがとうございました」
 五指に嵌められた指抜きを外し、おしぼりで手を拭く様子を見て灰白は満足し、執務室を後にする。
「これであとは寝てくれるといいんですけれども」
 城内は少しずつ人気ひとけを取り戻してきていた。厨房の前を通る時に紫暗が「今日の炊事係に報告してきます」と言って離れたため灰白は待っていた。
「枕が変わって寝られなかったのかな」
 背中が突然温かくなり、声が降る。色素の薄いさらさらの毛先が視界に入った。縹だ。
「は、な…お、叔父上…」
 呼び直すと愉快な笑い声。だが揶揄を孕んでいる。
「なんですか」
「何か用がないと、姪に話しかけてはいけないのかな?」
 灰白は黙って振り返った。なんてね、と戯けたが、真顔へ切り替わる。優しい顔付きが鋭くなる。
「きちんと伝言はいったかな」
 昨晩の紫暗の話だろう。灰白は頷く。
「悪く思うならそれも結構。ただ…あそこが最も争いからは遠い。体力は要るけれどね。何せやることは遊び相手だ」
「遊び相手って…仇は、どこに…」
 灰白の唇に人差し指が立てられる。柔らかく押し付けられても冷たいのがよく分かった。
「焦ってはいけない。長期戦だ」
 仇の城で暮らし、仇の息子と遊べと縹は言う。情を捨てろと言うくせ、長期戦になると言う。
「はな、…叔父上はこれからどうするんですか」
「仕事だよ。どこかの家畜扱いの勤労少年が死なないようにね」
 似合わない桃色とも赤色ともいえないローブを翻し、縹は去っていく。縹には群青が少年に見えるらしい。
「お待たせしました」
 紫暗が戻ってきた。やることは変わらない。
「山吹様はもう起きていらっしゃる?」
「まだ寝ている時間です。もうすぐ朝食のお時間ですので、極彩様はその後山吹様のお部屋へ」
「うん、分かった」
「あの、極彩様」
 紫暗が曇った表情で呼び止めた。灰白は何?と話を聞くが、紫暗は目が合うと俯いてしまう。
「どうかしたの?何か他にやることあった?」
「いえ!なんでもないです、戻りましょう」
 離れ家へ戻り、紫暗は布団を片付けた。その姿がどこか緊張しているように灰白は感じられた。


 時間になると離れ家から山吹の自室へ向かう。食器類の割れる音が耳を劈く。そして怒鳴り声。厨房で誰か暴れているらしい。罵詈雑言が並べられ、そしてまた食器類の割れる音や金属の落ちる音が響く。侵入者かと思った。だが灰白も、正規の段階を踏みはしたが、目的は侵入者よりも。
「ここで待っててください」
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