彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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雪の中に眠っていたから、灰白かいはく。四季という王が与えたものだった。

 川べりまで追い込まれ、濁流に突き落とされる。君の名だ、と押し付けられた紙が舞わないよう胸に抱く。視界に広がった曇った空に矢が走っていく。


「お嬢様」
 色を取り戻した視界には上半身裸の少年がいる。灰白が幼い頃から少年だった。外観は10代前半だが推定でも30代には入っているはずだ。焚火の音に落ち着きながら記憶を辿る。
「あなたは」
 少年の吊り気味の大きな瞳が無感情に灰白に向けられている。城で見たことは何度もある。常に四季王の後ろに控えていた。関わりもなく名も知らず言葉を交わしたことはなかったが日頃から目にしている者だ。
くれないでございます」
 少年は膝をついて頭を地に着くほど深々と下げた。安堵して灰白は上体を起こす。素肌に当たっていた布が滑り落ちる。紅の顔が背けられた。纏っていたのは下着だけだった。焚火の近くに衣服が並べられている。掛けられていた布は見覚えがない。
「四季王は…」
 夢かも知れないというのはただの希望だった。紅は首を振る。やはり夢ではないのだ。何者かの襲撃を受け、四季王と共に逃げた。だが、四季王は灰白を濁流に突き落としたのだった。四季王は灰白の恩人だった。名を与え、住む場所を与え、学友として共に育ってきた。
「これからどうしたら…」
 灰白は身を縮める。紅は薪を焼べる。
「四季国には戻らないほうが賢明かと。おそらくまだ奴等はうろついていると思われますので」
 紅は刀を抱いて焚火から離れる。凹んだ崖の近くで、行き止まりになっているため警戒すべき場所が少なくて済む。紅は行き止まりと反対の木々が生い茂った方角を向いている。
「あなたはどうやってここへ?」
「…お嬢様を追うように仰せつかりましたので、あなた様が飛び降りた後、私も」
 紅は背を向けたまま話す。まだ衣類が乾かないのか晒された肌。紅の小さな背は傷だらけだ。どれも塞がってはいるが皮膚は戻りきらずに薄い膜や溝になったままになっている。灰白よりも年上ではあろうが見た目は少年であるため、痛々しさが増す。
風月国ふうげつのくに…」
 行ったことはないが話に聞いたことがある。
「今はゆっくりとお休みください」
 紅が座り直す。金属の高い音がした。
「あなたは」
「私のことはいいのです。お休みください」
 紅の表情のない目がわずかに心配そうに曇った。関わりは薄かった相手だが知った顔が近くにあり、灰白は安心して目を瞑る。
 四季国は生まれ故郷ではない。分かっていたが灰白はこの国が好きだった。生まれ故郷を知らないのだ。四季国には居場所があった。全て四季王が与えたもの。だがあっさり奪われてしまった。
 瞼の裏の明るさに目が覚める。焚火の音がまず聞こえた。近くに衣服が畳まれていたため着替えた。
「お目覚めですか」
 紅の声に振り向く。焚火の周りに刺さった魚を貫く枝。
「お口に合うか分かりませんが、どうぞ」
 紅はそのうちの1本を抜いて灰白に渡した。側面を交差するよう割かれ、脂が弾けていた。臓物が抜き取られていたため、食べやすい。
「ありがとう。あなたは寝なくて大丈夫なの」
 紅は小さく「はい」と言った。やはり目には表情がない。
「だめ。身体が保たないから。食べたら、寝て。横になるだけでもいいから」
 紅の目が泳ぐ。表情はない。だが意外にも彼は表情がある。
「何かあったら起こすから」
 なかなかうなずかない紅に迫ると躊躇いがちに「はい」と答えた。
 焚火を消して、紅は横になる。刀を抱いたまま座って眠ることを灰白は良しとしなかった。紅が瞼を閉じたがまたぱちりと開いて灰白の存在を確認する。1人でどこかに行ってしまわないか不安らしい。刀を抱いた手に灰白は手を重ねた。紅が大きな目を向ける。これなら離れたとしても分かるはずだ。
 小鳥の声がする。川のせせらぎが微かに聞こえ、長閑な森の雰囲気は昨日のことがまるで嘘のようだった。脇で眠る幼い顔。背を丸めている。穏やかな寝息。長い間寝ていなかったのだろう。首筋から大きく耳の少し前まで上がっていくような長い傷を眺める。凹んで、元には戻らないようだ。刀は小柄な体躯に合わせて灰白が見たことあるものよりもわずかに短い。四季王が贈った物らしかった。四季王のことを思い出し、別れ際に渡された紙の存在を思い出す。衣服の中に入って、布ごと乾かされている。裏面に油を塗られた紙だ。脆くなった紙を慎重に開く。墨が滲んでいる。大きく"極彩"の2文字が読み取れた。
「…極彩…」
「四季様がお嬢様に贈るつもりだったと聞いております」
 紅は紙を開いた時の音で目が覚めたらしかった。
「これは…」
「四季様は、"灰白"という名を贈ったことを申し訳ないと。だから新しい名を贈りたかったと」
 紅は起き上がって身嗜みを整える。
「…わたしには…似合いそうにない…」
 紅は無言だった。
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