75 / 82
オルタナティブな季節 青年受け/モブ姦/売春/男体盛り/etc...
オルタナティブな季節 10
しおりを挟む
「どういうこと」
レーニティアは油の切れたブリキのように軋みながらディレックへ顔を向けた。
「引き離されるって、なんで。養子縁組の話でもされたの、州局の人に」
突き放すような声音で、それは傍目から見ると弟に脅しをかける意地の悪い兄という図になっていた。
「うん…でもそれは、善意からでっ、あの人は、ぼくたちが離れ離れになったら可哀想だからって…!」
「だからなんで、離れ離れとか引き離されるとか、そういう言葉が出てくるんだよ?何か変わるのかよ、生活が。それともお前はこの話、知ってたのか、結婚するって?」
キュアッドリーは口元を覆い指を噛みかける。
「やめてくれ。ディレック、こっちを見ろ。キュディは何も悪くない、責めるな」
レーニティアの奥でデュミルは大きな青い目を義父を自称し始めかねない客人に向けていた。
「俺が、お前を…ディルをカーバス祠官学校に入れたかったんだ」
「はぁ?」
ディレックは思わずテーブルを叩いて椅子から立ち上がってしまった。夜遅くまで帰って来なかったり朝に帰って来る姿がまざまざと浮かんだ。どれだけ苦しく惨めなことをさせられていたのかも視ている。
「そのためには届出が要る…でも俺たちにはそれがなかった。だから、養子に行くしかない。俺たちは世間から見たら、居ない存在なんだ。カーバス祠官学校のパンフレットは…州知事の厚意だった。ここに住めるよう手配されていたのも、全部…」
「言いたいことはいっぱいあるけどさ!一番は!オレ、カーバス祠官学校に行きたいなんていつ言ったよ!」
レーニティアの表情は悲痛に歪む。この人を問い詰めたい訳ではなかった。素直に受け止めきれず、現実的ではないことを言うこの大人が絶望してしまう前に理解してもらう必要がある。
「お前にこんなふうに生きて欲しくない。俺が出来ることなら何だってする…こんなふうに稼ぐのは大変なんだ。長くだって続かない…学さえあればどうにかなる。カーバス祠官学校に行ってくれ…頼む」
ディレックはレーニティアを見ていられるずデュミルに視線を移した。青い目は真っ直ぐに長兄を射抜く。その大きな瞳に見間違いと言えるほどの赤みが一瞬過ぎった気がした。
「学費も揃えた。制服も借りられる。推薦書だってある。生活費だって捻出する…」
そうです、僕もレーニティアさんと結婚する以上、君は我が子も同然です。制服を買ってもいいんです。生活費だって出せます。
エイジスと名乗った少年の目には善意が込められ、口調にも芯が通っていた。しかし歳のそう変わらない者から「我が子」と言われてもディレックには何も響くところがなかった。第一にこの者を養父とは認められない。況してやレーニティアと結婚するなど。
「金の為に結婚したってのか!」
「…っ、」
翠色の目が見開いた。それが答えだった。キュアッドリーはまだ泣き続け、デュミルは状況が分かっていないのかピザで手を汚していた。
お金の為であろうと、レーニティアさんの君に対する愛情は本物です。お金の為であろうと、なかなか出来ることではありません。僕と結婚することできっと折らねばならなかった気持ちや叶えられない夢があったはずです。僕はレーニティアさんを尊敬しています。この人は尊敬に値する方です。そんな人の覚悟をお金の為の結婚だと詰るのは侮辱です。それが僕の夫であるなら尚更。
「金ちらつかせてよく言うよ」
ディレックは俯いた。もう誰の顔も見られなかった。長兄として振る舞っても結局は子供だ。レーニティアひとりに身体を売らせ、そうでなければ生きてゆけない。
「この生活が変わらないなら、4人で暮らせるならオレだってカラダ売る…楽じゃないのも分かってる。つらくて苦しいのも分かってる…でも4人で生きていけるなら…」
「駄目だ。お前がカラダを売るくらいなら4人で暮らすつもりはない。キュディは州局のあの人と生きていってくれ。お前がカラダを売るくらいなら!俺はお前とデュンの里親を探す」
レーニティアは強気になって声を荒げた。ディレックは怯んでしまう。
「それで俺は…1人で生きていく。選んでくれ。この人を養父と認めてカーバス祠官学校に入って5人で暮らすか、4人でバラバラに生きていくか…」
デュミルとキュアッドリーの目がディレックに集まった。長男に彼等の将来までが委ねられている。レーニティアは冷静ではない。それは顔を見て、声を聞いて、傍に居て分かった。このまま答えを出していいものか、売り言葉に買い言葉で片付けるには弟たちのこれからがかかっている。ディレックは固唾を呑んだ。ここで自分ひとりの価値観で決めていいものなのか。特にデュミルはまだ幼い。キュアッドリーはすでに当てがあるようだったが、デュミルに至っては幼いまま自分の意思も通らないまま別れることになる。それでも経済的にはおそらく現状よりも良いものになるはずだ。5人で暮らし、鬱屈の中に身を置くよりは。答えが出た。ディレックは弟たちを1人ずつ眺めた。固く結んでしまった紐が緩んで解けていくような感じがあった。
「分かった」
レーニティアの横顔を見ていた。綺麗な曲線を目でなぞる。
「いやばい。はなれたくなかと。いいこにしますけん。はなれたくなか」
デュミルは咆哮の如く叫んだ。テーブルにピザの具が落ちる。キュアッドリーは目元を腫らし、まだ濡れて大きく白く光る目を向けてくる。
「…デュンは、まだ小さいだろ。今なら引き取り手だって多くあるさ。人懐こいし上手くやっていける。キュディも州局でそのまま働く口があるなら棒に振るワケにも行かないもんな。オレは、まぁ、元々そういうことになるかもってのは思ってたし、行く当てなくても何とか生きていくよ。レニーもそろそろ自分のために生きるべきだったんだよな。オレ、勘違いしてた」
固結びが解け、引っ掛かりのない1本の紐になった。しかし虚しい。思い通りにはならない。理想を描けていた頃も、何かが不満だった。
「いやばい!なんでそぎゃんいじわるゆうん?」
ディレックはデュミルと睨み合う。末弟を思ったつもりだった。だが彼はこれを拒んでいる。
「ま、待ってよ!ぼくが"先生"のところに養子に行くから!そうしたらディルとデュンは離れなくていいかも知れないんだって。2人兄弟なら、ね!ぼくは"先生"のところで幸せに暮らすからさ!レニーもその人と幸せになって…それで…」
キュアッドリーの声は枯れ、抑揚を失っていく。
「いやばい!いやばい!いいこにしますたい、だけん、はなれるのいや~」
末弟は暴れた。部外者に等しい養父志望の少年が彼が落ちないよう支えた。聞き分けのいい弟の懇願は今まで受けた痛みの何よりも痛かった。押し潰されそうな空気にディレックは逃げ出した。カーバス祠官学校に入って5人で暮らせば丸く収まる話だった。自分はカーバス祠官学校に入って、保護者は好きでもない男と金のために添い遂げる。それでも保護者も弟たちも食っていける。どの答えが一番無難かは少しひとりになれば驚くほど簡単に判断がつく。レーニティアが自分とそう歳も変わらない少年と結婚し、その生活を傍で見ていなければならない。弟たちは食っていける。居るかも分からない引き取り手に期待などしなくていい。
ディレックは髪を掻いた。防風林の奥で海が煌めいている。カラスが空で鳴き、近くで羽ばたく音がした。まだ我を捨て切れない自身に嫌気が差した。何にこだわっているのかは明白で。潮風に誘われ、大聖堂にまで来ていた。3人でここに捨てられていたという記憶だけはある。ブルーシートで覆われた跡地の横の墓地に駐車場で喋っていた州局勤めの女と、伸び放題の蔓が絡んだ細枝の奥に広く海が見えた。防風林から覗く海原とは違う感じがした。
話は終わったのか。もう迎えに行かなきゃか。
女の顔に何かしらの感情が灯る。口の端が持ち上がり険のある印象を与えた。
「多分まだ。ここで何してんの」
何ってことはしてねぇよ。そういうお前は途中で抜け出してきたのか。
石の前で州局勤めの女は突っ立っていた。ディレックがその姿を認めた時には足元を見ているような気がしたが今は本当にただ石の前に立っているという表現に違いはなかった。
「結婚するんだってよ、レーニティア」
潮風が吹いて木々がざわめいた。女の銀髪も揺れた。石の前に落ちていた枯葉が滑っていく。
そうか。めでたい話だな。
その言い方はまるで内容に沿っていなかった。女の左手の同じ指にも輪が飾ってあった。苦々しい気分になる。
ちゃんと祝ってやれたのか。
黙ってしまったディレックに女は訊ねた。黒い髪は風とは違う律動で横に揺れた。
「もしものことがあったらさ、キュディのこと、よろしくな」
お前はよろしくされる場所があるのか。
素直に首を振った。女は歩き出して土からアスファルトへ上がったのがヒールの音で分かった。
ガキが気ィ使って背伸びしやがって。どこもダメなら今度こそあたしが拾ってやる。まずは話付けて来るこったな。
女は孤児院の駐車場に戻っていってしまった。ディレックはまだ潮風に吹かれていた。レーニティアよりも小さな背中がさらに小さくなっていく。一瞬だけ頭痛がした。崩落した大聖堂が脳裏に広がった。目の前にあるかのように。ブルーシートもなく、砂埃や粉塵が舞い、折り重なっている瓦礫も不安定でまだ震えてさえいた。その大きな瓦礫と瓦礫の中から腕が伸びていた。シャツの皺の上に礫や塵が溜まっている。ディレックは大聖堂を振り返った。カラスがてんてんと跳ねている。鋭い爪がアスファルトに擦れた音を立てている。紅い目が合った途端飛び立つ。黒い羽根を落としていった。レーニティアが待っている。離れたくはない。それはディレックの中ではっきりしていた。だがそこに家族でない者が入るのは苦しい。そうなるのなら、レーニティアが弟たち以外に仕事とは違う笑みや優しさを向けるのは我慢ならなかった。気が狂いそうになる。孤児院へ運ぶ足が重い。靴に小石を詰め込んだようだった。
「ディレック」
今は会いたくない青年の声が聞こえた。陰が駆け寄ってくる。
「いきなり飛び出していくな。急な話で悪かったと思っている。勝手に話を進めて…」
「レニーは本当のところどうしたいんだ。傷付かないから教えろよ。オレがカーバス祠官学校に入れば満足なのか。嘘でも、あの人のことが結婚したいほど好きなのか」
この優しい保護者が引き取ってしまった3人を拒めるはずもないことは痛いくらいにディレックは理解していた。嘘に隠してもいい。本音が聞きたかった。返答次第でディレックは我意を曲げられるかも知れない。柔らかく。壊したくも濁らせたくもない翠色が目の前にある今なら。
「デュンの意見もキュディの意見も関係ない。レニー、あんたの答えが聞きたいんだ」
ディレックは腕を引かれた。温かな腕に包まれる。洗剤の香りとレーニティアの匂いがする。
「離れたくないに決まってるだろう。でもな、好いたからには俺の我儘に付き合わせて、お前の未来を壊したくない。後悔して欲しくない。どうしてもな、俺の身体はひとつなのに気持ちが2つになることがあるんだ。分かってくれ」
5人で暮らす。それがいい。ディレックは肩に頭を預けた。
「分かった」
その腕に身を委ねようとした時紅い目を見開いた。訳の分からない感情がぶつかり合う。決意が塗り変わる。
「上手くやれなくて、すまん…」
「でも4人で暮らして。きっとオレはあんたと養父の間をぶち壊すから。それは嫌だ。でもきっとぶち壊す。キュディのこともデュンのことも忘れて、あんたのこと奪い取ろうとして」
仕事で抱かれている時にでさえ、言わされていたにも関わらず、それが肉体の一部の話であっても、もしこの保護者の口にする「好き」「欲しい」が事実になってしまったらと思うと憤激に駆られていた。仕事上のことで、言わねばならない状況だった。それは分かっている。何より誰の為の行いだったのかはっきりしていた。色濃い後ろめたさと罪悪感が明確にするのを恐れていた。
「ディレック…」
「あとはあんたが望むならカーバス祠官学校に行くし、そうじゃないなら、さようならだ」
レーニティアの腕をすり抜けて肩を叩く。孤児院に駆け出す。突然走ったためか左胸が突然鋭く痛んだ。まだ孤児院の囲いにも至らないところで膝をつく。すぐに治まるものと思われたが呼吸まで出来なくなる。女の声が聞こえた。だが構っていられる余裕はなかった。骨が突き出るような、刺されるような痛みに汗が滲む。レーニティアに我儘を言った罰だと思った。自分勝手な言い分に弟たちを振り回し、困らせた罰だと思った。抱え上げられ、運ばれる。布が破れるような微かな軋みがあった。左胸は激しく痛み、熱を持っちながらも冷たさを帯びていた。濡れている。アスファルトに赤い染みが出来ていた。支えられ、空が見える。眩しさに目を眇めた。女の激した声が耳鳴りの奥で聞こえた。眼前の薄い唇も動いているが彼の言葉を何も聞き取れなかった。
栗色の髪を波打たせた男が大聖堂を見上げる。村の外れにあったらしく、老若男女問わず様々な者たちが出入りした。果物や野菜、魚、屠殺した家畜、酒、パンを手に入っていく日もあった。やがて大聖堂は真っ赤に染まった。近くの村が真っ赤に燃え、黒煙が上がる。また人の出入りがあった。持ち込まれるものは家畜や穀物よりも魚が多くなった。地割れが起き、人の気配はなくなった。数えるほどの雨が降り、雪が降る。そのうち空が真っ赤に染まり、隕石が降り注ぎ、高波が大聖堂を襲う。大聖堂の周りにあった一部の囲いを欠いて、まだそこに建っていた。再び人が出入りする。怪我人や老人、婦女子が多かった。武具を持ち鎧に身を固めた者たちによって担架がいくつも運び込まれ、棺桶となってどこかへ運び出される。勝鬨。そして年月が経ち罵声や歓声、悲鳴、怒声など交々が大聖堂の傍に響いた。また長い年月が経っていく。長いこと、長いこと経った。空に鳥を真似た金属が飛び、大聖堂の前には雨にも泥濘まない道が舗装され、馬車よりも安定した箱が滑走する。人は装いを変え大聖堂に入りし、そして帰っていく。小さな子供が周りで遊ぶ。男女が輝かしい衣類を身に纏い、人々に囲まれ花弁を浴びる。やがて性別を問わず輝かしい衣類を身に纏った2人が契る。1人の少年が現れ、大聖堂は崩れ落ちる。瓦礫の中から光りを空高く目掛けて放っち、真っ暗な鳥に埋め尽くされる。ブルーシートを張っていく人々が瓦礫の中から3人の子供を運び出し、銀髪の青年と茶髪の男が担架に乗せられていった。
目が覚める。腕に管が繋がっている。機械の連続的な音が聞こえた。隣にはレーニティアが寝ていた。彼も腕に管を繋げ口に小型で太さのある管を咥えさせられ、紙製のテープで固定してあった。この光景を知っている。夢に出てきたものを目を覚ました後でも目にするような。すとんと、この肉体に巡る血液から薬品を抽出しているのだと理解した。上半身の肌を晒している彼に声をかけようとしたが視界の端にもう1人入った。艶を失った長い茶髪と白い服、そして杖。その者は椅子に座って半裸のレーニティアを喰い入るように見ていた。オレのレニーを見るな、という言葉が出かかった。濁った青い目はディレックの眼差しに気付き、徐に紅い目へ視線を移した。罅割れた唇が動く。知らない名を呟いて、男は目を伏せた。頭の中にその人名が響く。レーニティアよりも険しい顔をした、しかし瓜二つの青年がその名を遠い記憶の中で口にする。また別の青年が、そしてまた違う青年がそれぞれに誰かの名を呼び、叫び、泣いている。
「オレって、何なの」
ディレックは顔を覆って項垂れた。顧みれば、自身の中の記憶はひどく曖昧だった。デュミルの嬰児だった頃の姿が思い出せない。キュアッドリーが生まれた頃の親の顔すらも。考えることもしなかった。十余年の歳月が途端に虚しいものに変わる。実際、十余年も過ごしていたのかもう分からなかった。
「この人は、誰なの。レーニティアだよな…?オレは…オレたち、は…?」
茶髪の男はゆるゆると首を振った。
貴方は、夢だ。
吐かれた言葉の意味が染み渡っていく。疑問も反論の意思も湧かなかった。ただ、「そうだったのか」という念だけが深く木霊する。
大聖堂がみている、存在だ。
紅い瞳が見張られる。痛んだ左胸のことを思い出す。血が滲んでいたはずだ。しかし傷痕などなかった。平坦な胸と皮膚があるだけだった。乾いた笑いが出た。それしかもうやりようがなかった。
「じゃ、消えんのかよ。誰かが目覚めたら…」
ディレックは茶髪の男を見ていられなかった。それでも期待に似たものは拭い切れず、視界の端に首肯が見えた。ディレックは膝を抱く。管が捩れた。顔を覆う。これこそ夢だと思った。
「消えんのか、オレ」
喉が渇く。この感覚も。何か飲みたい。この欲求も。消えるのか、まだ実感のないこの焦燥も。レーニティアを見つめた。彼の体温も肉感も優しさも幻だという。
貴方は、神の生贄になった少年と大聖堂に祀った者たちの記憶が崩落と共に解放された夢だ
「…なんだよ、それ」
空を仰ぎ祈る祠官。怒りに満ちた地神の声と眠り。若くして王位に就いた者の落日に鳴った鐘。愛しい人の死と契約、地を砕き隕石と呑んでいく高波。謀反に散った兄、自ら手に掛けた弟と赤い空。2つ並ぶウェディングドレスとオレンジの唇。十余年生きてきたと思い込んでいた。その短い人生の中には見覚えのない光景ら服装、習慣、出来事。まるで自宅のように知り尽くし、落書きや埃のある場所まで把握している大聖堂内部にやって来て自刃する少年を潰した。その中にこの茶髪の男もいる。気付くと外に放り出されていた。即席で作られた記憶という感じがした。まだ信じられないでいる。
私と逃げよう。
「何言ってんだよ。逃げるって何から…この現実からか?夢のくせに…」
今度こそ、貴方を守りたいのだ。
男は杖をつきディレックの乗る寝台に近付いた。ディレックは後退った。
「レニーはどうなるんだよ。レニーも消えんのかよ。レニーは、まだ自分のために生きてないんだ。レニーはやっと、幸せになろうとしてる。まだ幸せにもなれてない。レニーは…」
呼吸器と管に繋がれた身体に触れる。茶髪の男は無情にもまた首を振った。後頭部を鈍器で殴られるような衝撃があった。しかし痛みはない。レーニティアによく似た青年の首に針が刺され、鮮やかな液体が注がれていく様が脳内を過ぎった。そして白百合に埋め尽くされた棺の中で眠っている。彼の目が覚めたら消えるのだ。直感がそう告げた。目の前に怪物のような手が差し出され、ディレックは拒んだ。
目覚め次第、この人も逃がす。
「誰から、逃げるんだよ。どこに逃げたって…」
濁った目が伏せられた。潤いのない白く逆剥けた唇が動く。末の弟だ、とこの男は口にした。デュミルのことだった。何故あの年端もいかない幼児から逃げろなどと言うのか皆目見当もつかない。
「デュミルはオレの弟だ。逃げろってなんだよ…逃げろってどういうことだよ?」
可愛がっていた弟を愚弄された気分になる。夢と言われ、それがどこか腑に落ちてもデュミルやキュアッドリーを弟として想っていることは夢ではないはずだ。ここに在る。自身を夢だと認めたら最後、何者かが目覚め、消える。弟たちは存在せず自身も存在しない。視界が滲んだ。
貴方の末の弟は、地神の遣いだ。地神は貴方の存在を認めない。あの子は貴方を討ちにくる。
耳はこの男の声も言葉も拒絶する。騒音のようだ。裏付けていく記憶は頭の中で渦巻いた。普段から本を読まないくせ、詳細な出来事が入り込んでくる。
「嘘だ!あんたが夢なんじゃないのか?あんたがオレの悪夢なんじゃないのか!」
そうかも知れない。
奇妙な男は簡単に肯定した。そして詫びた。
貴方たちは、私の息子同然だ。だから手を尽くしたい。
ディレックは蹲って首を振った。下手な期待よりも諦めて楽になりたい。消える日が来る。それが恐ろしくて堪らなかった。今すぐ消して欲しいとさえ思ってしまう。皮と骨だけの手に腕を掴まれる。
貴方に生きて欲しい。
「そんなこと言って、消えんだろ?オレ…キュディはどうなるんだ!デュンは…?」
気味の悪い男は何も答えなかった。自身の体重も支え切れず杖をついていた腕はディレックを容易に抱き上げる。連れ去られてしまう。呼吸器を取り付けられ血を抜かれている半裸の青年との距離が開いていく。
「レニー!」
もう会えないような気がした。このまま互いに消えてしまうかも知れない。夢だと言われ、それを半分承知してしまっているというのに潔くすべてを諦められない。あの少年に彼を任せられない。末の弟を信じていたい。まだ消えたくない。
◇
キュアッドリーはデュミルと共にライン=プンクト礼拝堂に連れて来られていた。ディレックが急病で倒れたと聞いて気が気でなかったが養父になろうとする少年は神に心願るように言うばかりで、中身のあることは何も言わなかった。その熱心に心願する少年の両隣に座らされている2人の兄弟を銀髪の女が信徒席の最後列に行儀悪く座り、頬杖をついて眺めていた。まだ養父になることに兄弟全員の承認がないため、部外者ながらも彼女はキュアッドリーの付き添いとして同行した。覚えるのも面倒な長く複雑で他言語のような唱名が響く。末の子供は途中で飽きたらしく立ち上がって堂内を駆けた。外に出ないよう銀髪の女も立つ。開け放された扉の奥には黒いカラスがアスファルトを埋め尽くしていた。彼女は小さな腕を捻り上げるように握った。
カラスは汚ぇぞ。
青い大きな瞳がレンズ越しの緑色を捉える。女は舌打ちして目を逸らす。
「かみさまはおらんちか、あんひとはなににいのっとっと?」
どうしてそう思った。それはお前の思想か。
空よりも濃く海より淡い眸子が眇められる。デュミルは女の手を振り払ってカラスの群れに突き進んだ。キュアッドリーが来る前に面倒を看ていた少年が大聖堂の崩落に巻き込まれ命を落とした。だが死因は自刃によるものだった。禁術によって地神は死んだ。殺人歴のある孤児の少年の死後は惨めなものだった。墓を作ることも許されず、女はその手で傷を洗い、身体を拭き、服を着せて土に埋めた。生前彼が毎日掃除していた墓地に。
「しっとるくせに」
青い瞳に炎が燃え滾った。銀髪の女は溜息を吐いた。州知事の目にもそういう現象がよく起きたものだった。栗色の髪に青い瞳、大聖堂を築いた初代大祠官は自身に呪いをかけ、同じ霊感を持った者に使命を継がせてしまった。ここまでは堕ち毀れた祠官に代わり、大聖堂の管理人をやるために読み込んだ典籍に記されていた。地神を失った国を州知事だけでは支え切れず、彼は自分の親族である娘を機材に繋いだ。銀髪の女の左手が日に光った。
今何を聞いた。
「しゅうちじ、ディレックばつれてにげよったけん、さがせちいうてる」
どうするんだ。
銀髪の女はまだ堂内で心願り、唱名する少年とその隣にいるキュアッドリーを一瞥した。地神の声を死に損ないの州知事が聞き、州知事の声を祠官が教えとして人民に説き、導く。そしてこの子供は州知事と同じ素質を持ちながら人になれなかった。銀髪の女はカラスの中に立つデュミルを観察していた。神は死に、今は州知事とその血族の娘によって国は持っている。目の前の子供は兄弟を装って何か目論んでいる。あの兄弟は女にとって不可解な存在だったが、それでも罪と後悔と試練を具現化しているようだった。州知事は大聖堂を崩落させた、前科持ちの孤児を返し、死に至らせ、配偶者を連れ去った。キュアッドリーに見抜かれた時、ひとつ腹奥に詰め込んだ石を取り除かれたような気がした。話が分かる相手ではないとは分かっている。そしてこの子供の本心でもない。
何もするな。あの兄弟には、何も…
「にせもぬどうしのあいだにかみさまうまれるん、こまるちゆっとるたい」
女は眉根を寄せた。何の話をしているのか分からなかったがデュミルは紅焔を瞳に携え空を見上げた。
「だけん、そぎゃんこつならんようにうたんとならんたい」
放っておけ。あいつ等に手を出すな。一体あいつ等に何の咎がある?
デュミルは首を振った。女は焦る。
「つぎのかみさま、ひとのつくったものたいね。うみにしずんどん。ばってんまだめざめちょらん。にせもぬどうしのかみさまとほんもぬのかみさま、どっちがさきにうまるるんかちところたい」
海に人工神という大型の兵器が沈んだのは記憶に新しい。女もまたその州局の勤め人として関わったことがある。この風変わりな子供の言葉は、まるであの兄弟かその保護者から新たな神が産まれるとでも言うかのようだった。
あのガキたちの弟として訊くが、お前自身はどうしたいんだ。
淡々と話す幼児に女は諦めたような弱った声で訊ねた。
「かみさまにはにせもんでぃもおれんとっちゃ2ばんめぬかぞくたい。ころせるわけなかと。ばってん、」
彼は続きを言わずにへらへらと笑った。女は背後から近付く足音を聞いた。手を繋がれ緑の目は硬直した。
「何してるの?デュン、危ないから中に入らなきゃ」
デュミルは彼女に見せていた表情を消し、兄に駆け寄る。キュアッドリーは女の手を放し、弟を入り口の傍にある水道に促した。カラスは飛び立っていく。どこにでもいる幼い兄弟の姿が木陰に入り、手を洗い、弟が派手に水を飛ばしたことを叱っている。髪は栗色ではなかった。利発さはなく、もう少し抜けていた。年の頃もまったく違う。だがそこに生前の面影を重ねてしまう。地神は死んだはずだった。あの子とともに。
レーニティアは油の切れたブリキのように軋みながらディレックへ顔を向けた。
「引き離されるって、なんで。養子縁組の話でもされたの、州局の人に」
突き放すような声音で、それは傍目から見ると弟に脅しをかける意地の悪い兄という図になっていた。
「うん…でもそれは、善意からでっ、あの人は、ぼくたちが離れ離れになったら可哀想だからって…!」
「だからなんで、離れ離れとか引き離されるとか、そういう言葉が出てくるんだよ?何か変わるのかよ、生活が。それともお前はこの話、知ってたのか、結婚するって?」
キュアッドリーは口元を覆い指を噛みかける。
「やめてくれ。ディレック、こっちを見ろ。キュディは何も悪くない、責めるな」
レーニティアの奥でデュミルは大きな青い目を義父を自称し始めかねない客人に向けていた。
「俺が、お前を…ディルをカーバス祠官学校に入れたかったんだ」
「はぁ?」
ディレックは思わずテーブルを叩いて椅子から立ち上がってしまった。夜遅くまで帰って来なかったり朝に帰って来る姿がまざまざと浮かんだ。どれだけ苦しく惨めなことをさせられていたのかも視ている。
「そのためには届出が要る…でも俺たちにはそれがなかった。だから、養子に行くしかない。俺たちは世間から見たら、居ない存在なんだ。カーバス祠官学校のパンフレットは…州知事の厚意だった。ここに住めるよう手配されていたのも、全部…」
「言いたいことはいっぱいあるけどさ!一番は!オレ、カーバス祠官学校に行きたいなんていつ言ったよ!」
レーニティアの表情は悲痛に歪む。この人を問い詰めたい訳ではなかった。素直に受け止めきれず、現実的ではないことを言うこの大人が絶望してしまう前に理解してもらう必要がある。
「お前にこんなふうに生きて欲しくない。俺が出来ることなら何だってする…こんなふうに稼ぐのは大変なんだ。長くだって続かない…学さえあればどうにかなる。カーバス祠官学校に行ってくれ…頼む」
ディレックはレーニティアを見ていられるずデュミルに視線を移した。青い目は真っ直ぐに長兄を射抜く。その大きな瞳に見間違いと言えるほどの赤みが一瞬過ぎった気がした。
「学費も揃えた。制服も借りられる。推薦書だってある。生活費だって捻出する…」
そうです、僕もレーニティアさんと結婚する以上、君は我が子も同然です。制服を買ってもいいんです。生活費だって出せます。
エイジスと名乗った少年の目には善意が込められ、口調にも芯が通っていた。しかし歳のそう変わらない者から「我が子」と言われてもディレックには何も響くところがなかった。第一にこの者を養父とは認められない。況してやレーニティアと結婚するなど。
「金の為に結婚したってのか!」
「…っ、」
翠色の目が見開いた。それが答えだった。キュアッドリーはまだ泣き続け、デュミルは状況が分かっていないのかピザで手を汚していた。
お金の為であろうと、レーニティアさんの君に対する愛情は本物です。お金の為であろうと、なかなか出来ることではありません。僕と結婚することできっと折らねばならなかった気持ちや叶えられない夢があったはずです。僕はレーニティアさんを尊敬しています。この人は尊敬に値する方です。そんな人の覚悟をお金の為の結婚だと詰るのは侮辱です。それが僕の夫であるなら尚更。
「金ちらつかせてよく言うよ」
ディレックは俯いた。もう誰の顔も見られなかった。長兄として振る舞っても結局は子供だ。レーニティアひとりに身体を売らせ、そうでなければ生きてゆけない。
「この生活が変わらないなら、4人で暮らせるならオレだってカラダ売る…楽じゃないのも分かってる。つらくて苦しいのも分かってる…でも4人で生きていけるなら…」
「駄目だ。お前がカラダを売るくらいなら4人で暮らすつもりはない。キュディは州局のあの人と生きていってくれ。お前がカラダを売るくらいなら!俺はお前とデュンの里親を探す」
レーニティアは強気になって声を荒げた。ディレックは怯んでしまう。
「それで俺は…1人で生きていく。選んでくれ。この人を養父と認めてカーバス祠官学校に入って5人で暮らすか、4人でバラバラに生きていくか…」
デュミルとキュアッドリーの目がディレックに集まった。長男に彼等の将来までが委ねられている。レーニティアは冷静ではない。それは顔を見て、声を聞いて、傍に居て分かった。このまま答えを出していいものか、売り言葉に買い言葉で片付けるには弟たちのこれからがかかっている。ディレックは固唾を呑んだ。ここで自分ひとりの価値観で決めていいものなのか。特にデュミルはまだ幼い。キュアッドリーはすでに当てがあるようだったが、デュミルに至っては幼いまま自分の意思も通らないまま別れることになる。それでも経済的にはおそらく現状よりも良いものになるはずだ。5人で暮らし、鬱屈の中に身を置くよりは。答えが出た。ディレックは弟たちを1人ずつ眺めた。固く結んでしまった紐が緩んで解けていくような感じがあった。
「分かった」
レーニティアの横顔を見ていた。綺麗な曲線を目でなぞる。
「いやばい。はなれたくなかと。いいこにしますけん。はなれたくなか」
デュミルは咆哮の如く叫んだ。テーブルにピザの具が落ちる。キュアッドリーは目元を腫らし、まだ濡れて大きく白く光る目を向けてくる。
「…デュンは、まだ小さいだろ。今なら引き取り手だって多くあるさ。人懐こいし上手くやっていける。キュディも州局でそのまま働く口があるなら棒に振るワケにも行かないもんな。オレは、まぁ、元々そういうことになるかもってのは思ってたし、行く当てなくても何とか生きていくよ。レニーもそろそろ自分のために生きるべきだったんだよな。オレ、勘違いしてた」
固結びが解け、引っ掛かりのない1本の紐になった。しかし虚しい。思い通りにはならない。理想を描けていた頃も、何かが不満だった。
「いやばい!なんでそぎゃんいじわるゆうん?」
ディレックはデュミルと睨み合う。末弟を思ったつもりだった。だが彼はこれを拒んでいる。
「ま、待ってよ!ぼくが"先生"のところに養子に行くから!そうしたらディルとデュンは離れなくていいかも知れないんだって。2人兄弟なら、ね!ぼくは"先生"のところで幸せに暮らすからさ!レニーもその人と幸せになって…それで…」
キュアッドリーの声は枯れ、抑揚を失っていく。
「いやばい!いやばい!いいこにしますたい、だけん、はなれるのいや~」
末弟は暴れた。部外者に等しい養父志望の少年が彼が落ちないよう支えた。聞き分けのいい弟の懇願は今まで受けた痛みの何よりも痛かった。押し潰されそうな空気にディレックは逃げ出した。カーバス祠官学校に入って5人で暮らせば丸く収まる話だった。自分はカーバス祠官学校に入って、保護者は好きでもない男と金のために添い遂げる。それでも保護者も弟たちも食っていける。どの答えが一番無難かは少しひとりになれば驚くほど簡単に判断がつく。レーニティアが自分とそう歳も変わらない少年と結婚し、その生活を傍で見ていなければならない。弟たちは食っていける。居るかも分からない引き取り手に期待などしなくていい。
ディレックは髪を掻いた。防風林の奥で海が煌めいている。カラスが空で鳴き、近くで羽ばたく音がした。まだ我を捨て切れない自身に嫌気が差した。何にこだわっているのかは明白で。潮風に誘われ、大聖堂にまで来ていた。3人でここに捨てられていたという記憶だけはある。ブルーシートで覆われた跡地の横の墓地に駐車場で喋っていた州局勤めの女と、伸び放題の蔓が絡んだ細枝の奥に広く海が見えた。防風林から覗く海原とは違う感じがした。
話は終わったのか。もう迎えに行かなきゃか。
女の顔に何かしらの感情が灯る。口の端が持ち上がり険のある印象を与えた。
「多分まだ。ここで何してんの」
何ってことはしてねぇよ。そういうお前は途中で抜け出してきたのか。
石の前で州局勤めの女は突っ立っていた。ディレックがその姿を認めた時には足元を見ているような気がしたが今は本当にただ石の前に立っているという表現に違いはなかった。
「結婚するんだってよ、レーニティア」
潮風が吹いて木々がざわめいた。女の銀髪も揺れた。石の前に落ちていた枯葉が滑っていく。
そうか。めでたい話だな。
その言い方はまるで内容に沿っていなかった。女の左手の同じ指にも輪が飾ってあった。苦々しい気分になる。
ちゃんと祝ってやれたのか。
黙ってしまったディレックに女は訊ねた。黒い髪は風とは違う律動で横に揺れた。
「もしものことがあったらさ、キュディのこと、よろしくな」
お前はよろしくされる場所があるのか。
素直に首を振った。女は歩き出して土からアスファルトへ上がったのがヒールの音で分かった。
ガキが気ィ使って背伸びしやがって。どこもダメなら今度こそあたしが拾ってやる。まずは話付けて来るこったな。
女は孤児院の駐車場に戻っていってしまった。ディレックはまだ潮風に吹かれていた。レーニティアよりも小さな背中がさらに小さくなっていく。一瞬だけ頭痛がした。崩落した大聖堂が脳裏に広がった。目の前にあるかのように。ブルーシートもなく、砂埃や粉塵が舞い、折り重なっている瓦礫も不安定でまだ震えてさえいた。その大きな瓦礫と瓦礫の中から腕が伸びていた。シャツの皺の上に礫や塵が溜まっている。ディレックは大聖堂を振り返った。カラスがてんてんと跳ねている。鋭い爪がアスファルトに擦れた音を立てている。紅い目が合った途端飛び立つ。黒い羽根を落としていった。レーニティアが待っている。離れたくはない。それはディレックの中ではっきりしていた。だがそこに家族でない者が入るのは苦しい。そうなるのなら、レーニティアが弟たち以外に仕事とは違う笑みや優しさを向けるのは我慢ならなかった。気が狂いそうになる。孤児院へ運ぶ足が重い。靴に小石を詰め込んだようだった。
「ディレック」
今は会いたくない青年の声が聞こえた。陰が駆け寄ってくる。
「いきなり飛び出していくな。急な話で悪かったと思っている。勝手に話を進めて…」
「レニーは本当のところどうしたいんだ。傷付かないから教えろよ。オレがカーバス祠官学校に入れば満足なのか。嘘でも、あの人のことが結婚したいほど好きなのか」
この優しい保護者が引き取ってしまった3人を拒めるはずもないことは痛いくらいにディレックは理解していた。嘘に隠してもいい。本音が聞きたかった。返答次第でディレックは我意を曲げられるかも知れない。柔らかく。壊したくも濁らせたくもない翠色が目の前にある今なら。
「デュンの意見もキュディの意見も関係ない。レニー、あんたの答えが聞きたいんだ」
ディレックは腕を引かれた。温かな腕に包まれる。洗剤の香りとレーニティアの匂いがする。
「離れたくないに決まってるだろう。でもな、好いたからには俺の我儘に付き合わせて、お前の未来を壊したくない。後悔して欲しくない。どうしてもな、俺の身体はひとつなのに気持ちが2つになることがあるんだ。分かってくれ」
5人で暮らす。それがいい。ディレックは肩に頭を預けた。
「分かった」
その腕に身を委ねようとした時紅い目を見開いた。訳の分からない感情がぶつかり合う。決意が塗り変わる。
「上手くやれなくて、すまん…」
「でも4人で暮らして。きっとオレはあんたと養父の間をぶち壊すから。それは嫌だ。でもきっとぶち壊す。キュディのこともデュンのことも忘れて、あんたのこと奪い取ろうとして」
仕事で抱かれている時にでさえ、言わされていたにも関わらず、それが肉体の一部の話であっても、もしこの保護者の口にする「好き」「欲しい」が事実になってしまったらと思うと憤激に駆られていた。仕事上のことで、言わねばならない状況だった。それは分かっている。何より誰の為の行いだったのかはっきりしていた。色濃い後ろめたさと罪悪感が明確にするのを恐れていた。
「ディレック…」
「あとはあんたが望むならカーバス祠官学校に行くし、そうじゃないなら、さようならだ」
レーニティアの腕をすり抜けて肩を叩く。孤児院に駆け出す。突然走ったためか左胸が突然鋭く痛んだ。まだ孤児院の囲いにも至らないところで膝をつく。すぐに治まるものと思われたが呼吸まで出来なくなる。女の声が聞こえた。だが構っていられる余裕はなかった。骨が突き出るような、刺されるような痛みに汗が滲む。レーニティアに我儘を言った罰だと思った。自分勝手な言い分に弟たちを振り回し、困らせた罰だと思った。抱え上げられ、運ばれる。布が破れるような微かな軋みがあった。左胸は激しく痛み、熱を持っちながらも冷たさを帯びていた。濡れている。アスファルトに赤い染みが出来ていた。支えられ、空が見える。眩しさに目を眇めた。女の激した声が耳鳴りの奥で聞こえた。眼前の薄い唇も動いているが彼の言葉を何も聞き取れなかった。
栗色の髪を波打たせた男が大聖堂を見上げる。村の外れにあったらしく、老若男女問わず様々な者たちが出入りした。果物や野菜、魚、屠殺した家畜、酒、パンを手に入っていく日もあった。やがて大聖堂は真っ赤に染まった。近くの村が真っ赤に燃え、黒煙が上がる。また人の出入りがあった。持ち込まれるものは家畜や穀物よりも魚が多くなった。地割れが起き、人の気配はなくなった。数えるほどの雨が降り、雪が降る。そのうち空が真っ赤に染まり、隕石が降り注ぎ、高波が大聖堂を襲う。大聖堂の周りにあった一部の囲いを欠いて、まだそこに建っていた。再び人が出入りする。怪我人や老人、婦女子が多かった。武具を持ち鎧に身を固めた者たちによって担架がいくつも運び込まれ、棺桶となってどこかへ運び出される。勝鬨。そして年月が経ち罵声や歓声、悲鳴、怒声など交々が大聖堂の傍に響いた。また長い年月が経っていく。長いこと、長いこと経った。空に鳥を真似た金属が飛び、大聖堂の前には雨にも泥濘まない道が舗装され、馬車よりも安定した箱が滑走する。人は装いを変え大聖堂に入りし、そして帰っていく。小さな子供が周りで遊ぶ。男女が輝かしい衣類を身に纏い、人々に囲まれ花弁を浴びる。やがて性別を問わず輝かしい衣類を身に纏った2人が契る。1人の少年が現れ、大聖堂は崩れ落ちる。瓦礫の中から光りを空高く目掛けて放っち、真っ暗な鳥に埋め尽くされる。ブルーシートを張っていく人々が瓦礫の中から3人の子供を運び出し、銀髪の青年と茶髪の男が担架に乗せられていった。
目が覚める。腕に管が繋がっている。機械の連続的な音が聞こえた。隣にはレーニティアが寝ていた。彼も腕に管を繋げ口に小型で太さのある管を咥えさせられ、紙製のテープで固定してあった。この光景を知っている。夢に出てきたものを目を覚ました後でも目にするような。すとんと、この肉体に巡る血液から薬品を抽出しているのだと理解した。上半身の肌を晒している彼に声をかけようとしたが視界の端にもう1人入った。艶を失った長い茶髪と白い服、そして杖。その者は椅子に座って半裸のレーニティアを喰い入るように見ていた。オレのレニーを見るな、という言葉が出かかった。濁った青い目はディレックの眼差しに気付き、徐に紅い目へ視線を移した。罅割れた唇が動く。知らない名を呟いて、男は目を伏せた。頭の中にその人名が響く。レーニティアよりも険しい顔をした、しかし瓜二つの青年がその名を遠い記憶の中で口にする。また別の青年が、そしてまた違う青年がそれぞれに誰かの名を呼び、叫び、泣いている。
「オレって、何なの」
ディレックは顔を覆って項垂れた。顧みれば、自身の中の記憶はひどく曖昧だった。デュミルの嬰児だった頃の姿が思い出せない。キュアッドリーが生まれた頃の親の顔すらも。考えることもしなかった。十余年の歳月が途端に虚しいものに変わる。実際、十余年も過ごしていたのかもう分からなかった。
「この人は、誰なの。レーニティアだよな…?オレは…オレたち、は…?」
茶髪の男はゆるゆると首を振った。
貴方は、夢だ。
吐かれた言葉の意味が染み渡っていく。疑問も反論の意思も湧かなかった。ただ、「そうだったのか」という念だけが深く木霊する。
大聖堂がみている、存在だ。
紅い瞳が見張られる。痛んだ左胸のことを思い出す。血が滲んでいたはずだ。しかし傷痕などなかった。平坦な胸と皮膚があるだけだった。乾いた笑いが出た。それしかもうやりようがなかった。
「じゃ、消えんのかよ。誰かが目覚めたら…」
ディレックは茶髪の男を見ていられなかった。それでも期待に似たものは拭い切れず、視界の端に首肯が見えた。ディレックは膝を抱く。管が捩れた。顔を覆う。これこそ夢だと思った。
「消えんのか、オレ」
喉が渇く。この感覚も。何か飲みたい。この欲求も。消えるのか、まだ実感のないこの焦燥も。レーニティアを見つめた。彼の体温も肉感も優しさも幻だという。
貴方は、神の生贄になった少年と大聖堂に祀った者たちの記憶が崩落と共に解放された夢だ
「…なんだよ、それ」
空を仰ぎ祈る祠官。怒りに満ちた地神の声と眠り。若くして王位に就いた者の落日に鳴った鐘。愛しい人の死と契約、地を砕き隕石と呑んでいく高波。謀反に散った兄、自ら手に掛けた弟と赤い空。2つ並ぶウェディングドレスとオレンジの唇。十余年生きてきたと思い込んでいた。その短い人生の中には見覚えのない光景ら服装、習慣、出来事。まるで自宅のように知り尽くし、落書きや埃のある場所まで把握している大聖堂内部にやって来て自刃する少年を潰した。その中にこの茶髪の男もいる。気付くと外に放り出されていた。即席で作られた記憶という感じがした。まだ信じられないでいる。
私と逃げよう。
「何言ってんだよ。逃げるって何から…この現実からか?夢のくせに…」
今度こそ、貴方を守りたいのだ。
男は杖をつきディレックの乗る寝台に近付いた。ディレックは後退った。
「レニーはどうなるんだよ。レニーも消えんのかよ。レニーは、まだ自分のために生きてないんだ。レニーはやっと、幸せになろうとしてる。まだ幸せにもなれてない。レニーは…」
呼吸器と管に繋がれた身体に触れる。茶髪の男は無情にもまた首を振った。後頭部を鈍器で殴られるような衝撃があった。しかし痛みはない。レーニティアによく似た青年の首に針が刺され、鮮やかな液体が注がれていく様が脳内を過ぎった。そして白百合に埋め尽くされた棺の中で眠っている。彼の目が覚めたら消えるのだ。直感がそう告げた。目の前に怪物のような手が差し出され、ディレックは拒んだ。
目覚め次第、この人も逃がす。
「誰から、逃げるんだよ。どこに逃げたって…」
濁った目が伏せられた。潤いのない白く逆剥けた唇が動く。末の弟だ、とこの男は口にした。デュミルのことだった。何故あの年端もいかない幼児から逃げろなどと言うのか皆目見当もつかない。
「デュミルはオレの弟だ。逃げろってなんだよ…逃げろってどういうことだよ?」
可愛がっていた弟を愚弄された気分になる。夢と言われ、それがどこか腑に落ちてもデュミルやキュアッドリーを弟として想っていることは夢ではないはずだ。ここに在る。自身を夢だと認めたら最後、何者かが目覚め、消える。弟たちは存在せず自身も存在しない。視界が滲んだ。
貴方の末の弟は、地神の遣いだ。地神は貴方の存在を認めない。あの子は貴方を討ちにくる。
耳はこの男の声も言葉も拒絶する。騒音のようだ。裏付けていく記憶は頭の中で渦巻いた。普段から本を読まないくせ、詳細な出来事が入り込んでくる。
「嘘だ!あんたが夢なんじゃないのか?あんたがオレの悪夢なんじゃないのか!」
そうかも知れない。
奇妙な男は簡単に肯定した。そして詫びた。
貴方たちは、私の息子同然だ。だから手を尽くしたい。
ディレックは蹲って首を振った。下手な期待よりも諦めて楽になりたい。消える日が来る。それが恐ろしくて堪らなかった。今すぐ消して欲しいとさえ思ってしまう。皮と骨だけの手に腕を掴まれる。
貴方に生きて欲しい。
「そんなこと言って、消えんだろ?オレ…キュディはどうなるんだ!デュンは…?」
気味の悪い男は何も答えなかった。自身の体重も支え切れず杖をついていた腕はディレックを容易に抱き上げる。連れ去られてしまう。呼吸器を取り付けられ血を抜かれている半裸の青年との距離が開いていく。
「レニー!」
もう会えないような気がした。このまま互いに消えてしまうかも知れない。夢だと言われ、それを半分承知してしまっているというのに潔くすべてを諦められない。あの少年に彼を任せられない。末の弟を信じていたい。まだ消えたくない。
◇
キュアッドリーはデュミルと共にライン=プンクト礼拝堂に連れて来られていた。ディレックが急病で倒れたと聞いて気が気でなかったが養父になろうとする少年は神に心願るように言うばかりで、中身のあることは何も言わなかった。その熱心に心願する少年の両隣に座らされている2人の兄弟を銀髪の女が信徒席の最後列に行儀悪く座り、頬杖をついて眺めていた。まだ養父になることに兄弟全員の承認がないため、部外者ながらも彼女はキュアッドリーの付き添いとして同行した。覚えるのも面倒な長く複雑で他言語のような唱名が響く。末の子供は途中で飽きたらしく立ち上がって堂内を駆けた。外に出ないよう銀髪の女も立つ。開け放された扉の奥には黒いカラスがアスファルトを埋め尽くしていた。彼女は小さな腕を捻り上げるように握った。
カラスは汚ぇぞ。
青い大きな瞳がレンズ越しの緑色を捉える。女は舌打ちして目を逸らす。
「かみさまはおらんちか、あんひとはなににいのっとっと?」
どうしてそう思った。それはお前の思想か。
空よりも濃く海より淡い眸子が眇められる。デュミルは女の手を振り払ってカラスの群れに突き進んだ。キュアッドリーが来る前に面倒を看ていた少年が大聖堂の崩落に巻き込まれ命を落とした。だが死因は自刃によるものだった。禁術によって地神は死んだ。殺人歴のある孤児の少年の死後は惨めなものだった。墓を作ることも許されず、女はその手で傷を洗い、身体を拭き、服を着せて土に埋めた。生前彼が毎日掃除していた墓地に。
「しっとるくせに」
青い瞳に炎が燃え滾った。銀髪の女は溜息を吐いた。州知事の目にもそういう現象がよく起きたものだった。栗色の髪に青い瞳、大聖堂を築いた初代大祠官は自身に呪いをかけ、同じ霊感を持った者に使命を継がせてしまった。ここまでは堕ち毀れた祠官に代わり、大聖堂の管理人をやるために読み込んだ典籍に記されていた。地神を失った国を州知事だけでは支え切れず、彼は自分の親族である娘を機材に繋いだ。銀髪の女の左手が日に光った。
今何を聞いた。
「しゅうちじ、ディレックばつれてにげよったけん、さがせちいうてる」
どうするんだ。
銀髪の女はまだ堂内で心願り、唱名する少年とその隣にいるキュアッドリーを一瞥した。地神の声を死に損ないの州知事が聞き、州知事の声を祠官が教えとして人民に説き、導く。そしてこの子供は州知事と同じ素質を持ちながら人になれなかった。銀髪の女はカラスの中に立つデュミルを観察していた。神は死に、今は州知事とその血族の娘によって国は持っている。目の前の子供は兄弟を装って何か目論んでいる。あの兄弟は女にとって不可解な存在だったが、それでも罪と後悔と試練を具現化しているようだった。州知事は大聖堂を崩落させた、前科持ちの孤児を返し、死に至らせ、配偶者を連れ去った。キュアッドリーに見抜かれた時、ひとつ腹奥に詰め込んだ石を取り除かれたような気がした。話が分かる相手ではないとは分かっている。そしてこの子供の本心でもない。
何もするな。あの兄弟には、何も…
「にせもぬどうしのあいだにかみさまうまれるん、こまるちゆっとるたい」
女は眉根を寄せた。何の話をしているのか分からなかったがデュミルは紅焔を瞳に携え空を見上げた。
「だけん、そぎゃんこつならんようにうたんとならんたい」
放っておけ。あいつ等に手を出すな。一体あいつ等に何の咎がある?
デュミルは首を振った。女は焦る。
「つぎのかみさま、ひとのつくったものたいね。うみにしずんどん。ばってんまだめざめちょらん。にせもぬどうしのかみさまとほんもぬのかみさま、どっちがさきにうまるるんかちところたい」
海に人工神という大型の兵器が沈んだのは記憶に新しい。女もまたその州局の勤め人として関わったことがある。この風変わりな子供の言葉は、まるであの兄弟かその保護者から新たな神が産まれるとでも言うかのようだった。
あのガキたちの弟として訊くが、お前自身はどうしたいんだ。
淡々と話す幼児に女は諦めたような弱った声で訊ねた。
「かみさまにはにせもんでぃもおれんとっちゃ2ばんめぬかぞくたい。ころせるわけなかと。ばってん、」
彼は続きを言わずにへらへらと笑った。女は背後から近付く足音を聞いた。手を繋がれ緑の目は硬直した。
「何してるの?デュン、危ないから中に入らなきゃ」
デュミルは彼女に見せていた表情を消し、兄に駆け寄る。キュアッドリーは女の手を放し、弟を入り口の傍にある水道に促した。カラスは飛び立っていく。どこにでもいる幼い兄弟の姿が木陰に入り、手を洗い、弟が派手に水を飛ばしたことを叱っている。髪は栗色ではなかった。利発さはなく、もう少し抜けていた。年の頃もまったく違う。だがそこに生前の面影を重ねてしまう。地神は死んだはずだった。あの子とともに。
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
保育士だっておしっこするもん!
こじらせた処女
BL
男性保育士さんが漏らしている話。ただただ頭悪い小説です。
保育士の道に進み、とある保育園に勤めている尾北和樹は、新人で戸惑いながらも、やりがいを感じながら仕事をこなしていた。
しかし、男性保育士というものはまだまだ珍しく浸透していない。それでも和樹が通う園にはもう一人、男性保育士がいた。名前は多田木遼、2つ年上。
園児と一緒に用を足すな。ある日の朝礼で受けた注意は、尾北和樹に向けられたものだった。他の女性職員の前で言われて顔を真っ赤にする和樹に、気にしないように、と多田木はいうが、保護者からのクレームだ。信用問題に関わり、同性職員の多田木にも迷惑をかけてしまう、そう思い、その日から3階の隅にある職員トイレを使うようになった。
しかし、尾北は一日中トイレに行かなくても平気な多田木とは違い、3時間に一回行かないと限界を迎えてしまう体質。加えて激務だ。園児と一緒に済ませるから、今までなんとかやってこれたのだ。それからというものの、限界ギリギリで間に合う、なんて危ない状況が何度か見受けられた。
ある日の紅葉が色づく頃、事件は起こる。その日は何かとタイミングが掴めなくて、いつもよりさらに忙しかった。やっとトイレにいける、そう思ったところで、前を押さえた幼児に捕まってしまい…?
山本さんのお兄さん〜同級生女子の兄にレ×プされ気に入られてしまうDCの話〜
ルシーアンナ
BL
同級生女子の兄にレイプされ、気に入られてしまう男子中学生の話。
高校生×中学生。
1年ほど前に別名義で書いたのを手直ししたものです。
身体検査が恥ずかしすぎる
Sion ショタもの書きさん
BL
桜の咲く季節。4月となり、陽物男子中学校は盛大な入学式を行った。俺はクラスの振り分けも終わり、このまま何事もなく学校生活が始まるのだと思っていた。
しかし入学式の一週間後、この学校では新入生の身体検査を行う。内容はとてもじゃないけど言うことはできない。俺はその検査で、とんでもない目にあった。
※注意:エロです
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる