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ああ紙風吹、鶴が舞う電脳 人見知り年下攻/四肢欠損受/単孔/産卵/記憶操作/ザル設定
ああ紙風吹、鶴が舞う電脳 1
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真っ赤な門の前に立つ。2本の柱に笠木と貫木があり、妙な形をしていた。観光ガイドブックによればこの州は神が違い、聖堂はないし大先生もいないのだという。恐ろしい地に転勤させられたものだとセオノアは戸惑いはしたものの、今になって引き返すことも出来ずに赤い欄干のある橋を渡る。下でせせらぐ川が気になり、よく磨かれて照る欄干に腕を掛けて水面を眺める。幅は広いが浅い川で、澄んだ水の中には魚が泳いでいた。眩しいほどのレッドともオレンジともいえない微妙な赤で塗られた門や欄干、木板で出来た橋に今まで暮らしていた地域とは一変した異州の情緒に慣れるのか、不安が過る。橋の果てにはセオノアの見慣れたビル群が見えたが、地味な色合いの瓦が重ねられた白い塗りの塀が長く州の入り口を囲んでいる。どこか他者を寄せ付けない、閉鎖的なものを感じた。
この地はグレン州のトモエ県と呼ばれ、セオノアが越してきた街はヒラオリ区といった。元は地方だったが統合し、その後はアドレスや管轄が州に改められた。独自の文化や習慣を持ち、セオノアも小さい頃に土産の伝統工芸品を貰ったことがある。厳しい顔の描いてある丸みを帯びた置物で、片目を盲いた人形だった。用途が分からず実家のリビングに飾ってある。先程通った門や橋の欄干と同じ鮮やかな赤色をしていて、飼っていた猫に尾で落とされたり、手で倒されたりして遊ばれている。ふと遠くなってしまった実家のことを考えて溜息を吐く。新しい勤務地にまだ足を踏み入れてもいないがすぐさまよく知った土地に帰りたくなった。川の魚を暫く見つめ、不安な気分と向き合ってしまう。行くしかない。自身の能力を鑑みても、仕事を辞めるわけにはいかない。不祥事に巻き込まれたが、左遷で済んだだけよかった。喜ぶべきなのだ。出来るだけ前向きなことを考えてみても、あまりにも無理矢理な方向転換に本心は誤魔化しきれない。水面に映る青空に鳥が飛ぶ。高い位置を飛んでいるようだが、大きく、生態系も大いに異なっているのかと思った。水面下の魚と鳥の反射がかぶった。尾の長い、燃え盛るような色に顔を上げる。見間違いかもしれなかった。燃えている鳥が飛んでいられるものか。疲れているのだ。長い間ジェット機に乗り、そしてずっとタクシーに乗っていた。殆どが睡眠時間だったがあまり眠れた気がしなかった。重い足取りで残りの橋を渡っていく。まだヒラオリの地も踏んでいないに等しい。地図を読み込んだ端末が道案内を始める。
工業地帯にセオノアの新たな勤務先はあった。ヒラオリ区は南北で工業地帯か住宅街かに分かれていた。空気が澄みきり、おそらくかなりの距離があるだろう山々に蒼く陰を落としている。凹凸がはっきりと認められ、美しい。景色を楽しんでいられたのもわずかなものだった。すでに挨拶は済ませたが、それでも所長とたまたま所長室やその近くの休憩所にいた社員の一部だけで、これからこの地で再び最初から関係を築かなければならないことに腹の辺りが捻られるようだった。セオノアは人付き合いが苦手な性分だった。猫背になりながら、所長に勧められたとおりにヒラオリ区に湯治に来ているという「オウミ様」に挨拶をしに行くことにして工業団地を彩る夾竹桃の垣に沿って歩いた。所長の口振りからすると聖堂で来訪者たちを教え諭す大先生に似た立場や役職の者のように感じられた。教えられた旅館を端末に吹き込む。何度か試すが全く違う地方や地区名が検索されてしまった。グレン地方は訛りや地方言葉が特に強く、あまり広域には通用しない言語や表記まで頻繁に用いているため、発音時に使う顔の筋肉まで違うようだった。言語や文化の壁もまた内気なセオノアの胃を執拗に弱々と痛め付ける。何度か試し、やっとこの辺りのアドレスとマップが検索に引っ掛かり、音声案内が始まる。運送トラックばかりでほぼ通行人や普通車両の見当たらない入り組んだ道から出る。住宅地が大通りの先に、川と田園や空地を隔ててから広がっていた。色取り取りの車が走っていく。空は青く、高い。乾いた風が吹き抜け、遠くの山々はやはり気晴らしにはなったが飽きるまでの問題だった。音声ガイドも聞き流し、田園の間に張り巡らされている線路を辿り、電波塔の果てを眺め途方に暮れていると、ふわりと甘い香りが漂った。フルーツの匂いで、嗅ぎ慣れた人工的な強いものではなかった。
「グレン地方は初めてでございますか」
乾いた風の音が攫ってきた声かと思うほど、細い声が聞こえ、びっくりしながらセオノアは振り返る。自身と同じ黒髪が艶やかな、楚々とした美女だった。セオノアは見惚れて固まる。買い物袋を抱えた白い手、丸みのない胸部、細い首と、黒髪、そして紅い瞳が濃い睫毛に囲まれてセオノアを見つめ、首を傾げていた。よく梳かれた長い髪が風に遊ぶ。セオノアは黙ったままだった。女は、セオノアが遠目で見てきたことのある女性たちよりの平均よりいくらか背が高かった。
「ご案内いたしますよ、どちらでも」
ウィンドチャイムのような、か細く高い声で女は微笑む。セオノアは顔を真っ赤にして、呼吸を誤り小さく咳き込む。女の麗らかな紅い瞳を見ていられなかった。
「えっ…と、でも、でも、どうして…」
「電波塔を眺めていらしたので」
女は微笑むと手招きをしてセオノアの前を歩く。不思議な雰囲気に誘われてセオノアはその背を追った。女はボディラインの浮き出る薄手のニットに長いプリーツスカートを靡かせていた。女は風に向かって歩いていく。買い物袋が音を立てる。髪は躍るが乱れはしない。セオノアは意思か意思でないかも関係なく女の後に続く。大通りと大通りの重なった十字路の角に旅館がある。女はそこを目指す。歩行者用信号がまだ赤だというのに女が歩き出そうとしたために慌てて肩を掴み、確かな人の感触に飛び上がる。車が目の前を通り過ぎていく。
「ご、ご、ご、ごめんなさい」
女が振り向くと同時に、他人の、それも異性の身体に触れてしまったことを素直に謝る。固い肉感が掌に残ったままだった。
「ありがとうございます」
女は微笑み、青になってから横断歩道を渡った。行き先を告げたでもなく女は真っ直ぐに、異風土の情緒がある建物へ入っていく。
「えっと、あ、あの…」
自動ドアのガラスで女の後姿は閉ざされる。セオノアは足を止める。端末の音声が途絶えた。目的地に到着しました、と表示されている。何か白昼夢のような感じがあった。「オウミ様」という存在もまた胡散臭く思え、所長の言葉を曲解したようなつもりになる。あれも何か白昼夢で、でなければ幻聴のような。端末の画面表示を落とし、女の消えて行った建物へ背を向けた。あの女が美しかったから都合の良い妄想をして尾行してしまったのだ!セオノアは恐ろしくなって工業団地へと戻った。首の皮一枚で繋がり、遠方へ飛ばされたのだ。初日にもならないうちから問題を抱えてどうするつもりなのか。頭を抱え、社宅街に向かう。近隣の住民には挨拶を済ませたほうが後々のためだろう。あまり人と話すのは得意でなかった。
「どうかなさいましたか」
夾竹桃とフェンスの角を曲がると、目の前に陰が迫る。風の靡くような声質は、先程聞いたばかりだった。見開かれた紅い瞳がセオノアを見下ろす。
「っひ…」
長く厚い前髪の奥でリンゴの皮に似た双眸が無遠慮に覗き込み、首を傾げた。
「ご案内いたします」
女はやはり背が高かった。知人ではないが、知らない人でもない。しかし頭は真っ白だった。何も言わずに引き返してしまったことを怒っているのかも知れない。
「い、要らないです…け、結構です…」
一歩後退る。空いた距離を詰められる。リンゴの皮のように少し黒ずんだ赤が近付いた。
「"オウミ様"の旅館はあちらです。参りましょう。是非ご一緒させてくださいまし」
ただならない威圧に怯む。女の態度は柔らかいが有無を言わせない雰囲気はセオノアが幼い頃に遭った不審者によく似ていた。赤い実のような瞳はどちらともつかない不断さに焦れることもなくブルーの目を捉えている。
「あ、の…あの、さっきは…」
女は黙ったままで、手を滑らかに差し出した。保湿の行き届いた白い手は少し爪の形が鋭く感じられる。
「えっと…」
女の爪が怖くなる。
「"オウミ様"がお待ちでございます」
麗らかな女の顔が柔らかく笑む。所長は何も言わなかったが、所長の厚意なのだろうか。世間話だと軽んじていた"オウミ様"の挨拶は必須だったのかも知れない。セオノアは頷いてしまった。
連れてこられたのはやはり先程女と別れた建物だった。館内は湿度が高かった。長い廊下を歩き、女が木製の引戸を開き入室を促した。
「スティカか?」
奥から若い男の声がした。セオノアは足を止めた。
「こ、こ、こん、こんにちは。セ、セオノアと申しま、す!え…っと、あの、ここに住むことになりまして…」
ふわりと甘い果物の香りがした。女がセオノアを追い越す。彼女が彼女であることは間違いなかった。しかし黒い髪はなく、代わりに長い金髪が揺れていた。びっくりしてセオノアは言葉を失う。服も着ていなかった。張った肩にしなやかな筋肉のついた両腕。引き締まった腰と、羽毛に覆われた下半身。長い尾を枯草を編んだような床に引き摺り歩いた。
「オウミ様」
人にしか見えない上半身と人とは思えない下半身を持つ目の前の者は目的の人物を呼んだ。だがセオノアは目的など忘れ、驚きのあまり意識を手放した。
前から気持ち悪いと思ってたのよね
確かに…いつも1人だし
よぉ、孕ませ野郎
君の勤務態度は真面目だが、こればっかりは庇いきれない
あんたってほんとおめでたい男
なぁに、君が全て責任を認めてくれたらいいんだ、慰謝料は私が払うんだからね。
長い間だったような気もしたが短い間だったようにも思う。開いた視界に人が映る。褐色の肌の銀髪で、目を凝らすと男だと分かった。長い睫毛に囲まれた紅い瞳に薄い二重瞼。通った鼻梁に薄い唇。美丈夫といったところだ。しかし、違和感を覚えた。その正体を知ろうと身を起こしたところで、寝ていたことを知る。濡れたタオルが額から落ちた。
「調子はどうだ?」
青年はセオノアの座高と同じほどの背丈しかなかった。頭の大きさも特別小さいというわけでもなく、肩幅もセオノアよりしっかりしているくらいだった。凝視してしまう。青年は溜息を吐くように笑った。
「驚いたか」
青年には両手脚がなかった。両腕は二の腕の半分ほどで、両脚は大腿の半分の半分も無い。身体にフィットする素材のインナーを着ていた。短い袖のものだったが腕のほうが短かった。
「あっ…の、ああ、ごめんなさい」
無遠慮に四肢を眺めていた。青年は苦笑する。
「正直なやつだな」
「あっ、えっと、あの、セオノアと申します、あの、すみませ…っ、あれ?」
何をしに来たのか忘れていた。思い出せそうで思い出せない。以前の職場で聞いた陰口ばかりが思い浮かんで、気分が落ち込んだ。
「オウミ様に会いにきたんだと聞いているが?」
「あ!そうです。あのっ、長居してすみませっ…」
「いいや?忙しいやつだな」
セオノアは室内を見回した。何か尋常でないものを見たような気がした。
「それで何の用だ?」
「え?」
「オウミは俺だ。オウミ・ハーブレイ。よろしく」
始めの一言しか頭に入らなかった。"オウミ様"がこの青年であるということを理解するのに意識を全て使ってしまっていた。
「オウミが屋号でハーブレイが本名だ。セオノアといったか。ここにはきたばかりか」
返事を忘れ、数度頷く。"オウミ様"はセオノアを見つめていた。萎縮しながら伺うように観察するような眼差しを受け入れる。
「どこから来た?」
「あの、アイ、アイラーロ県です、あの、旧ブネーデン地方の、」
遥か遠く東北の方角にある、合併して消えた地方だ。グレン地方はグレン州として残っているが、ブネーデンは州名としても残らなかった。青年は話を聞いているのかいないのかじっとセオノアを眺めていた。
「あの…」
「聞いているさ。あれだな、リンゴジュースが美味しかったな」
話の途中で青年は全く違う方向を向いた。茶を頼みたい、と何者かに言った。視線の先を追う。上半身はヒトであり、下半身は猛禽類である、夢の中で見たような生き物がいる。金髪が分厚い胸板に垂れている。知らない美青年が左右に引いて開閉させる扉の奥からセオノアを窺っていた。立派な風采とは不釣り合いな自信の無さそうな表情をしていた。
「彼はスティカ。でも普段はシャヤって呼ぶことだな。訳有ってあんな姿だが、綺麗だろ」
畳に散っていた羽根をひとつ拾って見せた。
「申し訳ゴザイマセン…ません…驚かせるつもりはありませんでした…デシタ…」
半人半獣の美青年は襖からゆっくりと出てくるとセオノアの前に立つ。長身であるため彼は金色の瞳でセオノアを見下ろし、セオノアは見上げた。
「お茶をお持ちします…シマス…」
半獣の美青年はセオノアと四肢の無い青年へ頭を下げて部屋から出ていった。床を掃くように引き摺る尾と後姿を凝視していた。
「この辺りだと迦陵頻伽って呼ばれているらしいな。ただ古書には女しかいないらしいから、あいつは違うかもな」
「えっと、あの…」
「住む家は決まっているのか」
もじもじとしながらセオノアは頷いた。
「社宅がある、ので…」
「そうか。ということは、どこかの会社員なんだな」
「あ…はい…」
"オウミ様"はそうか、と朗らかな調子を崩さない。セオノアは萎縮する。何か話さなければいけない気はしたが、何を話せばいいのか思い浮かばなかった。
「この辺りは工業地区だものな。俺も世話になっている。どこの会社だ?」
「シャークスモールクレスト……シャークスモールクレストっていう、か、会社で…」
切れ長の目がわずかに大きくなった。相手を安心させるような小さな笑みを浮かべていた。
「SSC重工なら知っている。特に世話になっているよ。よろしくな」
"オウミ様"は片手を差し出した。縫い跡の走る、今では丸みを帯びた肌。セオノアはびっくりして伸ばしかけた手が不自然に止まる。
「すまない、勢い余った」
「ああッ、い、いいえ…すみません」
失礼な態度を取ってしまったことに叫喚して宙に残したままの手を、下げかけられた二の腕の断面へと近付けた。縫い跡に触れないように軽く握る。少し硬い感じがあった。
「ありがとう。君に出会えて嬉しいよ」
霜柱のような睫毛の奥の黒ずんだ赤の瞳が細まった。
「は、はい…」
「君がSSC重工の人なら、きっとまた会える」
「はい…」
寡黙そうな見た目に反し、"オウミ様"は様々なことをセオノアに話し、問うた。そのうち半獣の美青年が茶と蜜柑を持ってきた。黒髪の美女から漂った香りの正体を理解した。
「あ、あの…」
「どうした?」
セオノアの対面に座る半獣の美青年はよく色付いた蜜柑を剥きはじめる。隣に"オウミ様"が座り、俯き固まりながらも必至に話題を出そうとするセオノアの顔を覗き込む。
「黒髪の、綺麗な女の人が…その、ここにいたはず…なんですけ、ど…」
「…君には黒髪美女に見えたのか」
"オウミ様"は愉快そうに笑って半獣の美青年を見た。彼は蜜柑の白い部分を剥がしている。
「人によって違って見えるらしい。美女か」
羨ましいな。冗談混じりに"オウミ様"は言った。
「オウミ様に、は…ど、どのように…」
「ハーブレイでいい。ハーブレイが親から貰った名前だ」
「ハ、ハーブレイ様…」
「ハーブレイ様は慣れないな。ハーブレイ。無理そうなら、ハーブレイさんとか、くんとかで」
くすくすと笑い声が聞こえ、顔を上げると半獣の美青年が堪えるように笑っていた。
「ハーブレイ様は、呼び慣れませんね…マセンネ…」
剥かれた蜜柑の房をひとつひとつもぎ取り、解体していく。その様子を見ていると蜜柑の乗った盆を勧められた。蜜柑を手に取ると左右に割る。セオノアを除く2人の空気が固まった。視線が皮に包まれたままの2つの房に注がれる。
「案外大胆なんだな」
「そんな剥き方知りませんでした…デシタ…」
極細な木の棒を2本腋に挟んだハーブレイは金髪の美青年が剥いた蜜柑を器用に摘んで口に運んだ。見慣れない金色の、猫のような瞳はセオノアのまだ手を付けていない片方の蜜柑へ注がれたままだった。
「た、食べますか…」
何か失態をおかしてしまったのではないかと戦慄しながら問う。彼はこくりこくり何度も頷いた。執念すら感じられた。顔立ちだけでいうなら年上のような印象があったが仕草がどこか幼い。剥き方だけしか変わらないというのに何か価値のある骨董品のように両断された蜜柑を観察し、そしてやっと房を覆う皮を剥きはじめた。
「面白い人が来たものだ」
「あ…い、いえ…」
結局長居をしてしまった。旅館から出てきて、少し喋っただけだというのに興奮だもしているのか頭がわずかに痛かった。人とは話さないのだ。話さなくなってしまった。人々との付き合いが億劫になってしまったのだ。さらに。根深くなってしまった。掌を返すように存在を認識し、罵倒や侮蔑の対象になった日から。仕事の付き合いだと割り切れる関係性が一番良いのだ。私的な会話は要らない。興味も要らないのだ。明日のことを考えながら暗くなった空の下を指定の社員住宅へと向かった。少しずつ家具を揃えればいいだろう。休みに大型家電を注文しに行くまではコインランドリーに通えばいい。この地にもあるはずだ。あれこれと新しい地での生活を考え、陰鬱な気分で乾いた風の中を歩いた。広がる田園風景と行き交う車。肥やしの香りは田舎暮らしの祖母の家を思い出させた。遠くには陸橋がライトによって存在を主張していた。ここで生きていくか、今の仕事を放り出して故郷に帰るかだった。おそらく辞職は出来るだろう。簡単に通るかもしれない。だがシャークスモールクレスト重工業株式会社の社員でなくなれば、有る事無い事、尾鰭や背鰭が付いた悪い噂を流されるかも知れない。やりかねないと思った。そうすれば家族にまで迷惑がかかってしまう。思考は気分を蝕んでいくばかりだった。
シャークスモールクレスト重工業株式会社ヒラオリ製作所本工場は自動車製造の他に有人機動兵器の操縦席の大部分の製造をしていた。セオノアが飛ばされた部署はそこだった。夢と希望に満ち溢れ過ぎているため商業となり得なかったらしかったがまだその部署は取り潰されず、有人機動兵器が作られている。兵器を使う局面など、とうの昔に終わっていた。今では災害地や、戦争によって大破した発電所からの放射能漏れで住めなくなってしまった地区の瓦礫撤去などに活かされているらしい。
新しい職場の人々はセオノアを除け者にしたわけでもなく喋ることを好まなかった。所長が喧しい挨拶して、簡単な自己紹介と共に10人足らずの仕事仲間は各々の持ち場に散っていった。訊いてもいない専門的なことには口がよく回り、華やかな表情を見せたがいざ自身のこととなると断言できることは少ないといった調子でセオノアはむしろ居心地の良さすら感じられた。所長もまた事務作業に籠りきりというわけではなく工場で作業をしていた。時折機嫌が良くなると巨大ではあるが物静かな工場内に所長の雑談が響いた。昼前にはスーツの上に作業着を着た外部の者が見学しながら書類をまとめたりなどしていた。
昼食の時間は所長が自由参加といって工場裏であり敷地の端にある木の下にコンクリートの廃材などを置いた小さなスペースを設け、部署の者たちは気が向くとそこで集団で昼食を摂っていた。相変わらず一方的に所長が喋るばかりだった。再会は思わぬところで、会社から数メートル離された工場のすぐ側にある2階建てではあるが粗末な事務所に寄り、工場に戻ると彼はいた。スーツの上に作業着を着た集団に囲まれるように、彼は立っていた。両手両足がある。金属で出来た肘から指先。腿や膝、そして足。セオノアが本格的に異動する前から完成していたらしき有人機動兵器の操縦席へ導かれていく。人型であるらしく、セオノアは全体像を見たことがない。所長が広げた設計図だけだったが、線や点や数字、備考が記されていたためよく把握は出来ていない。
「セオノア」
何人かの者たちに囲まれながら、ハーブレイはセオノアに声を掛けた。
「あ…」
互いに目は合ったが、何人もいる中で個人的な話をするのが苦手で、セオノアは近くの機械の陰に隠れてしまった。数秒経ってから顔を出す。パール塗装された白い装甲が開かれた。シートは黒くメッシュ素材になっている。朝に、完成品として見せられたのだった。ハーブレイはコックピットに乗り込むと義足を外した。片方の義手も外し、もう一方は他の者が外しにかかる。義手義足を持っている者たちを置いて装甲が閉まった。ハーブレイがパイロットなのだと再び装甲が開かれた時に遅れて気付いた。
「セオノア」
陰で眺めているとダウンライトに照らされた暗い操縦席にまだ座っているハーブレイが声を掛けた。工場内は響きやすく、それが自身の名となるとどこか叱られている感じがあった。
「は、はい…」
そこにいた者たち全員の眼差しを向けられ、セオノアの身体は強張った。ゆっくりと完成したばかりのコックピットに近寄った。微かな虹色を帯び、その中でも若干青を強く浮かび上がらせる光沢が美しい。
「ほら、また会えただろう」
「あぁっ…は、はい…こ、こんにち、は…」
「こんにちは。シートの改良を頼んだのだがとてもいい。所長さんはすぐに戻ってくるだろうか」
びくびくしながら昼食の時間が今終わったばかりであることを告げ、他に用事が無ければすぐに戻ってくる予定であることを告げる。しどろもどろだったがハーブレイは頷いていた。
「分かった。ありがとう。ついでにすまないがセオノア。少し右の義手のネジが緩んでしまった。締めてもらえないだろうか」
「あ、あっ、はい!今、こ、工具をお持ちしま、すので…」
左の義手を嵌められると、その手で右腕を差し出す。まだ新しい型だった。使用者の肌や質感に合わせたシリコンを被せるタイプではなく、彼の場合は切断されている二の腕の筋力の動きを読み取り、可動するようになっている。集団に囲まれていたが、見るのは義手だけだ。片膝を立て、その上に腕を乗せると右手首の調子を点検する。ネジの形を確認してから持ち手のゴム部分が擦り切れたドライバーを工具箱から取り出す。合わないドライバーを無理矢理突き入れたような跡がある。義手の開発と製造が特殊な会社のため普及しているドライバーではなかなか合わないのだ。以前使っていた拡大眼鏡がこの義手の製造メーカーと同じだっために持っていた携帯用の短いポールペンと見紛う小さなドライバーをハーブレイに差し出す。キーホルダーになっていた。
「あの、…このドライバー、あの…あげます…使わないし…このネジに合うやつなんで…」
赤い瞳がコックピットのダウンライトに照らされ、不思議な色合いをしていた。
「いいのか?」
「は、はい…」
「だが、君に話し掛ける口実が減ってしまうな。ありがとう。あとでお礼をさせてくれ」
右腕を左手だけで器用に装着すると、ハーブレイはセオノアの掌に乗る短いボールペン型のキーホルダーを摘んだ。指の背に当たる部分が劣化しづらく加工されたプラスチックに覆われた指が掌をくすぐった。
「い、いえ…そんな…」
「引っ越し祝いもかねて」
そう言うとハーブレイは義足を着け始め、シートから降りた。彼が運んだコックピットの匂いは新車に似ていた。ハーブレイの仕事仲間らしき者たちがタブレット操作をしながらあれこれと意見を聞き、ひとつひとつ専門的な用語が飛び交っていた。セオノアは昼前まで作業をしていた場所へと戻る。その少し後に戻ってきた所長に大仕事を終えた顔だな、ハーブレイがよろしく言っていた、他にもお偉いさんにはどんどん媚びろ、と大笑いされながら油に塗れたタオルで鼻をんだ手で頭を掻き乱しながら撫で繰り回された。
帰り際に見失った黒髪の美女が迎えに来た。事務所の2階から降りてきた直後で陰から現れたため驚きのあまり悲鳴すら忘れていた。
「オウミ様の命によりお迎えに上がりました」
「あっ、!あ、貴方は…」
美女は首を傾げる。声を出すのもやっとだった。頭の中が真っ白になり、言葉が出なかった。
「オウミ様からお聞きしておりませんか」
「なっ、な、何をでつ、何をで…しゅか…」
不思議そうな顔をされ、成人女性と思われたが幼く映った。見覚えがあるがはっきりと思い出せない。
「引っ越し祝いをするとか」
急な提案と、脳裏に浮かんだ人だらけの酒屋にセオノアは固まった。
こいつ、社内で一番カワイイ子襲って孕ませたんだぜ、ワルだろ?
連れられた合同交友会で紹介された時のことだった。口笛や揶揄の声が上がっていた。
「い、いい…いいです…!」
美女を振り切って反対方向へ駆け出した。
この地はグレン州のトモエ県と呼ばれ、セオノアが越してきた街はヒラオリ区といった。元は地方だったが統合し、その後はアドレスや管轄が州に改められた。独自の文化や習慣を持ち、セオノアも小さい頃に土産の伝統工芸品を貰ったことがある。厳しい顔の描いてある丸みを帯びた置物で、片目を盲いた人形だった。用途が分からず実家のリビングに飾ってある。先程通った門や橋の欄干と同じ鮮やかな赤色をしていて、飼っていた猫に尾で落とされたり、手で倒されたりして遊ばれている。ふと遠くなってしまった実家のことを考えて溜息を吐く。新しい勤務地にまだ足を踏み入れてもいないがすぐさまよく知った土地に帰りたくなった。川の魚を暫く見つめ、不安な気分と向き合ってしまう。行くしかない。自身の能力を鑑みても、仕事を辞めるわけにはいかない。不祥事に巻き込まれたが、左遷で済んだだけよかった。喜ぶべきなのだ。出来るだけ前向きなことを考えてみても、あまりにも無理矢理な方向転換に本心は誤魔化しきれない。水面に映る青空に鳥が飛ぶ。高い位置を飛んでいるようだが、大きく、生態系も大いに異なっているのかと思った。水面下の魚と鳥の反射がかぶった。尾の長い、燃え盛るような色に顔を上げる。見間違いかもしれなかった。燃えている鳥が飛んでいられるものか。疲れているのだ。長い間ジェット機に乗り、そしてずっとタクシーに乗っていた。殆どが睡眠時間だったがあまり眠れた気がしなかった。重い足取りで残りの橋を渡っていく。まだヒラオリの地も踏んでいないに等しい。地図を読み込んだ端末が道案内を始める。
工業地帯にセオノアの新たな勤務先はあった。ヒラオリ区は南北で工業地帯か住宅街かに分かれていた。空気が澄みきり、おそらくかなりの距離があるだろう山々に蒼く陰を落としている。凹凸がはっきりと認められ、美しい。景色を楽しんでいられたのもわずかなものだった。すでに挨拶は済ませたが、それでも所長とたまたま所長室やその近くの休憩所にいた社員の一部だけで、これからこの地で再び最初から関係を築かなければならないことに腹の辺りが捻られるようだった。セオノアは人付き合いが苦手な性分だった。猫背になりながら、所長に勧められたとおりにヒラオリ区に湯治に来ているという「オウミ様」に挨拶をしに行くことにして工業団地を彩る夾竹桃の垣に沿って歩いた。所長の口振りからすると聖堂で来訪者たちを教え諭す大先生に似た立場や役職の者のように感じられた。教えられた旅館を端末に吹き込む。何度か試すが全く違う地方や地区名が検索されてしまった。グレン地方は訛りや地方言葉が特に強く、あまり広域には通用しない言語や表記まで頻繁に用いているため、発音時に使う顔の筋肉まで違うようだった。言語や文化の壁もまた内気なセオノアの胃を執拗に弱々と痛め付ける。何度か試し、やっとこの辺りのアドレスとマップが検索に引っ掛かり、音声案内が始まる。運送トラックばかりでほぼ通行人や普通車両の見当たらない入り組んだ道から出る。住宅地が大通りの先に、川と田園や空地を隔ててから広がっていた。色取り取りの車が走っていく。空は青く、高い。乾いた風が吹き抜け、遠くの山々はやはり気晴らしにはなったが飽きるまでの問題だった。音声ガイドも聞き流し、田園の間に張り巡らされている線路を辿り、電波塔の果てを眺め途方に暮れていると、ふわりと甘い香りが漂った。フルーツの匂いで、嗅ぎ慣れた人工的な強いものではなかった。
「グレン地方は初めてでございますか」
乾いた風の音が攫ってきた声かと思うほど、細い声が聞こえ、びっくりしながらセオノアは振り返る。自身と同じ黒髪が艶やかな、楚々とした美女だった。セオノアは見惚れて固まる。買い物袋を抱えた白い手、丸みのない胸部、細い首と、黒髪、そして紅い瞳が濃い睫毛に囲まれてセオノアを見つめ、首を傾げていた。よく梳かれた長い髪が風に遊ぶ。セオノアは黙ったままだった。女は、セオノアが遠目で見てきたことのある女性たちよりの平均よりいくらか背が高かった。
「ご案内いたしますよ、どちらでも」
ウィンドチャイムのような、か細く高い声で女は微笑む。セオノアは顔を真っ赤にして、呼吸を誤り小さく咳き込む。女の麗らかな紅い瞳を見ていられなかった。
「えっ…と、でも、でも、どうして…」
「電波塔を眺めていらしたので」
女は微笑むと手招きをしてセオノアの前を歩く。不思議な雰囲気に誘われてセオノアはその背を追った。女はボディラインの浮き出る薄手のニットに長いプリーツスカートを靡かせていた。女は風に向かって歩いていく。買い物袋が音を立てる。髪は躍るが乱れはしない。セオノアは意思か意思でないかも関係なく女の後に続く。大通りと大通りの重なった十字路の角に旅館がある。女はそこを目指す。歩行者用信号がまだ赤だというのに女が歩き出そうとしたために慌てて肩を掴み、確かな人の感触に飛び上がる。車が目の前を通り過ぎていく。
「ご、ご、ご、ごめんなさい」
女が振り向くと同時に、他人の、それも異性の身体に触れてしまったことを素直に謝る。固い肉感が掌に残ったままだった。
「ありがとうございます」
女は微笑み、青になってから横断歩道を渡った。行き先を告げたでもなく女は真っ直ぐに、異風土の情緒がある建物へ入っていく。
「えっと、あ、あの…」
自動ドアのガラスで女の後姿は閉ざされる。セオノアは足を止める。端末の音声が途絶えた。目的地に到着しました、と表示されている。何か白昼夢のような感じがあった。「オウミ様」という存在もまた胡散臭く思え、所長の言葉を曲解したようなつもりになる。あれも何か白昼夢で、でなければ幻聴のような。端末の画面表示を落とし、女の消えて行った建物へ背を向けた。あの女が美しかったから都合の良い妄想をして尾行してしまったのだ!セオノアは恐ろしくなって工業団地へと戻った。首の皮一枚で繋がり、遠方へ飛ばされたのだ。初日にもならないうちから問題を抱えてどうするつもりなのか。頭を抱え、社宅街に向かう。近隣の住民には挨拶を済ませたほうが後々のためだろう。あまり人と話すのは得意でなかった。
「どうかなさいましたか」
夾竹桃とフェンスの角を曲がると、目の前に陰が迫る。風の靡くような声質は、先程聞いたばかりだった。見開かれた紅い瞳がセオノアを見下ろす。
「っひ…」
長く厚い前髪の奥でリンゴの皮に似た双眸が無遠慮に覗き込み、首を傾げた。
「ご案内いたします」
女はやはり背が高かった。知人ではないが、知らない人でもない。しかし頭は真っ白だった。何も言わずに引き返してしまったことを怒っているのかも知れない。
「い、要らないです…け、結構です…」
一歩後退る。空いた距離を詰められる。リンゴの皮のように少し黒ずんだ赤が近付いた。
「"オウミ様"の旅館はあちらです。参りましょう。是非ご一緒させてくださいまし」
ただならない威圧に怯む。女の態度は柔らかいが有無を言わせない雰囲気はセオノアが幼い頃に遭った不審者によく似ていた。赤い実のような瞳はどちらともつかない不断さに焦れることもなくブルーの目を捉えている。
「あ、の…あの、さっきは…」
女は黙ったままで、手を滑らかに差し出した。保湿の行き届いた白い手は少し爪の形が鋭く感じられる。
「えっと…」
女の爪が怖くなる。
「"オウミ様"がお待ちでございます」
麗らかな女の顔が柔らかく笑む。所長は何も言わなかったが、所長の厚意なのだろうか。世間話だと軽んじていた"オウミ様"の挨拶は必須だったのかも知れない。セオノアは頷いてしまった。
連れてこられたのはやはり先程女と別れた建物だった。館内は湿度が高かった。長い廊下を歩き、女が木製の引戸を開き入室を促した。
「スティカか?」
奥から若い男の声がした。セオノアは足を止めた。
「こ、こ、こん、こんにちは。セ、セオノアと申しま、す!え…っと、あの、ここに住むことになりまして…」
ふわりと甘い果物の香りがした。女がセオノアを追い越す。彼女が彼女であることは間違いなかった。しかし黒い髪はなく、代わりに長い金髪が揺れていた。びっくりしてセオノアは言葉を失う。服も着ていなかった。張った肩にしなやかな筋肉のついた両腕。引き締まった腰と、羽毛に覆われた下半身。長い尾を枯草を編んだような床に引き摺り歩いた。
「オウミ様」
人にしか見えない上半身と人とは思えない下半身を持つ目の前の者は目的の人物を呼んだ。だがセオノアは目的など忘れ、驚きのあまり意識を手放した。
前から気持ち悪いと思ってたのよね
確かに…いつも1人だし
よぉ、孕ませ野郎
君の勤務態度は真面目だが、こればっかりは庇いきれない
あんたってほんとおめでたい男
なぁに、君が全て責任を認めてくれたらいいんだ、慰謝料は私が払うんだからね。
長い間だったような気もしたが短い間だったようにも思う。開いた視界に人が映る。褐色の肌の銀髪で、目を凝らすと男だと分かった。長い睫毛に囲まれた紅い瞳に薄い二重瞼。通った鼻梁に薄い唇。美丈夫といったところだ。しかし、違和感を覚えた。その正体を知ろうと身を起こしたところで、寝ていたことを知る。濡れたタオルが額から落ちた。
「調子はどうだ?」
青年はセオノアの座高と同じほどの背丈しかなかった。頭の大きさも特別小さいというわけでもなく、肩幅もセオノアよりしっかりしているくらいだった。凝視してしまう。青年は溜息を吐くように笑った。
「驚いたか」
青年には両手脚がなかった。両腕は二の腕の半分ほどで、両脚は大腿の半分の半分も無い。身体にフィットする素材のインナーを着ていた。短い袖のものだったが腕のほうが短かった。
「あっ…の、ああ、ごめんなさい」
無遠慮に四肢を眺めていた。青年は苦笑する。
「正直なやつだな」
「あっ、えっと、あの、セオノアと申します、あの、すみませ…っ、あれ?」
何をしに来たのか忘れていた。思い出せそうで思い出せない。以前の職場で聞いた陰口ばかりが思い浮かんで、気分が落ち込んだ。
「オウミ様に会いにきたんだと聞いているが?」
「あ!そうです。あのっ、長居してすみませっ…」
「いいや?忙しいやつだな」
セオノアは室内を見回した。何か尋常でないものを見たような気がした。
「それで何の用だ?」
「え?」
「オウミは俺だ。オウミ・ハーブレイ。よろしく」
始めの一言しか頭に入らなかった。"オウミ様"がこの青年であるということを理解するのに意識を全て使ってしまっていた。
「オウミが屋号でハーブレイが本名だ。セオノアといったか。ここにはきたばかりか」
返事を忘れ、数度頷く。"オウミ様"はセオノアを見つめていた。萎縮しながら伺うように観察するような眼差しを受け入れる。
「どこから来た?」
「あの、アイ、アイラーロ県です、あの、旧ブネーデン地方の、」
遥か遠く東北の方角にある、合併して消えた地方だ。グレン地方はグレン州として残っているが、ブネーデンは州名としても残らなかった。青年は話を聞いているのかいないのかじっとセオノアを眺めていた。
「あの…」
「聞いているさ。あれだな、リンゴジュースが美味しかったな」
話の途中で青年は全く違う方向を向いた。茶を頼みたい、と何者かに言った。視線の先を追う。上半身はヒトであり、下半身は猛禽類である、夢の中で見たような生き物がいる。金髪が分厚い胸板に垂れている。知らない美青年が左右に引いて開閉させる扉の奥からセオノアを窺っていた。立派な風采とは不釣り合いな自信の無さそうな表情をしていた。
「彼はスティカ。でも普段はシャヤって呼ぶことだな。訳有ってあんな姿だが、綺麗だろ」
畳に散っていた羽根をひとつ拾って見せた。
「申し訳ゴザイマセン…ません…驚かせるつもりはありませんでした…デシタ…」
半人半獣の美青年は襖からゆっくりと出てくるとセオノアの前に立つ。長身であるため彼は金色の瞳でセオノアを見下ろし、セオノアは見上げた。
「お茶をお持ちします…シマス…」
半獣の美青年はセオノアと四肢の無い青年へ頭を下げて部屋から出ていった。床を掃くように引き摺る尾と後姿を凝視していた。
「この辺りだと迦陵頻伽って呼ばれているらしいな。ただ古書には女しかいないらしいから、あいつは違うかもな」
「えっと、あの…」
「住む家は決まっているのか」
もじもじとしながらセオノアは頷いた。
「社宅がある、ので…」
「そうか。ということは、どこかの会社員なんだな」
「あ…はい…」
"オウミ様"はそうか、と朗らかな調子を崩さない。セオノアは萎縮する。何か話さなければいけない気はしたが、何を話せばいいのか思い浮かばなかった。
「この辺りは工業地区だものな。俺も世話になっている。どこの会社だ?」
「シャークスモールクレスト……シャークスモールクレストっていう、か、会社で…」
切れ長の目がわずかに大きくなった。相手を安心させるような小さな笑みを浮かべていた。
「SSC重工なら知っている。特に世話になっているよ。よろしくな」
"オウミ様"は片手を差し出した。縫い跡の走る、今では丸みを帯びた肌。セオノアはびっくりして伸ばしかけた手が不自然に止まる。
「すまない、勢い余った」
「ああッ、い、いいえ…すみません」
失礼な態度を取ってしまったことに叫喚して宙に残したままの手を、下げかけられた二の腕の断面へと近付けた。縫い跡に触れないように軽く握る。少し硬い感じがあった。
「ありがとう。君に出会えて嬉しいよ」
霜柱のような睫毛の奥の黒ずんだ赤の瞳が細まった。
「は、はい…」
「君がSSC重工の人なら、きっとまた会える」
「はい…」
寡黙そうな見た目に反し、"オウミ様"は様々なことをセオノアに話し、問うた。そのうち半獣の美青年が茶と蜜柑を持ってきた。黒髪の美女から漂った香りの正体を理解した。
「あ、あの…」
「どうした?」
セオノアの対面に座る半獣の美青年はよく色付いた蜜柑を剥きはじめる。隣に"オウミ様"が座り、俯き固まりながらも必至に話題を出そうとするセオノアの顔を覗き込む。
「黒髪の、綺麗な女の人が…その、ここにいたはず…なんですけ、ど…」
「…君には黒髪美女に見えたのか」
"オウミ様"は愉快そうに笑って半獣の美青年を見た。彼は蜜柑の白い部分を剥がしている。
「人によって違って見えるらしい。美女か」
羨ましいな。冗談混じりに"オウミ様"は言った。
「オウミ様に、は…ど、どのように…」
「ハーブレイでいい。ハーブレイが親から貰った名前だ」
「ハ、ハーブレイ様…」
「ハーブレイ様は慣れないな。ハーブレイ。無理そうなら、ハーブレイさんとか、くんとかで」
くすくすと笑い声が聞こえ、顔を上げると半獣の美青年が堪えるように笑っていた。
「ハーブレイ様は、呼び慣れませんね…マセンネ…」
剥かれた蜜柑の房をひとつひとつもぎ取り、解体していく。その様子を見ていると蜜柑の乗った盆を勧められた。蜜柑を手に取ると左右に割る。セオノアを除く2人の空気が固まった。視線が皮に包まれたままの2つの房に注がれる。
「案外大胆なんだな」
「そんな剥き方知りませんでした…デシタ…」
極細な木の棒を2本腋に挟んだハーブレイは金髪の美青年が剥いた蜜柑を器用に摘んで口に運んだ。見慣れない金色の、猫のような瞳はセオノアのまだ手を付けていない片方の蜜柑へ注がれたままだった。
「た、食べますか…」
何か失態をおかしてしまったのではないかと戦慄しながら問う。彼はこくりこくり何度も頷いた。執念すら感じられた。顔立ちだけでいうなら年上のような印象があったが仕草がどこか幼い。剥き方だけしか変わらないというのに何か価値のある骨董品のように両断された蜜柑を観察し、そしてやっと房を覆う皮を剥きはじめた。
「面白い人が来たものだ」
「あ…い、いえ…」
結局長居をしてしまった。旅館から出てきて、少し喋っただけだというのに興奮だもしているのか頭がわずかに痛かった。人とは話さないのだ。話さなくなってしまった。人々との付き合いが億劫になってしまったのだ。さらに。根深くなってしまった。掌を返すように存在を認識し、罵倒や侮蔑の対象になった日から。仕事の付き合いだと割り切れる関係性が一番良いのだ。私的な会話は要らない。興味も要らないのだ。明日のことを考えながら暗くなった空の下を指定の社員住宅へと向かった。少しずつ家具を揃えればいいだろう。休みに大型家電を注文しに行くまではコインランドリーに通えばいい。この地にもあるはずだ。あれこれと新しい地での生活を考え、陰鬱な気分で乾いた風の中を歩いた。広がる田園風景と行き交う車。肥やしの香りは田舎暮らしの祖母の家を思い出させた。遠くには陸橋がライトによって存在を主張していた。ここで生きていくか、今の仕事を放り出して故郷に帰るかだった。おそらく辞職は出来るだろう。簡単に通るかもしれない。だがシャークスモールクレスト重工業株式会社の社員でなくなれば、有る事無い事、尾鰭や背鰭が付いた悪い噂を流されるかも知れない。やりかねないと思った。そうすれば家族にまで迷惑がかかってしまう。思考は気分を蝕んでいくばかりだった。
シャークスモールクレスト重工業株式会社ヒラオリ製作所本工場は自動車製造の他に有人機動兵器の操縦席の大部分の製造をしていた。セオノアが飛ばされた部署はそこだった。夢と希望に満ち溢れ過ぎているため商業となり得なかったらしかったがまだその部署は取り潰されず、有人機動兵器が作られている。兵器を使う局面など、とうの昔に終わっていた。今では災害地や、戦争によって大破した発電所からの放射能漏れで住めなくなってしまった地区の瓦礫撤去などに活かされているらしい。
新しい職場の人々はセオノアを除け者にしたわけでもなく喋ることを好まなかった。所長が喧しい挨拶して、簡単な自己紹介と共に10人足らずの仕事仲間は各々の持ち場に散っていった。訊いてもいない専門的なことには口がよく回り、華やかな表情を見せたがいざ自身のこととなると断言できることは少ないといった調子でセオノアはむしろ居心地の良さすら感じられた。所長もまた事務作業に籠りきりというわけではなく工場で作業をしていた。時折機嫌が良くなると巨大ではあるが物静かな工場内に所長の雑談が響いた。昼前にはスーツの上に作業着を着た外部の者が見学しながら書類をまとめたりなどしていた。
昼食の時間は所長が自由参加といって工場裏であり敷地の端にある木の下にコンクリートの廃材などを置いた小さなスペースを設け、部署の者たちは気が向くとそこで集団で昼食を摂っていた。相変わらず一方的に所長が喋るばかりだった。再会は思わぬところで、会社から数メートル離された工場のすぐ側にある2階建てではあるが粗末な事務所に寄り、工場に戻ると彼はいた。スーツの上に作業着を着た集団に囲まれるように、彼は立っていた。両手両足がある。金属で出来た肘から指先。腿や膝、そして足。セオノアが本格的に異動する前から完成していたらしき有人機動兵器の操縦席へ導かれていく。人型であるらしく、セオノアは全体像を見たことがない。所長が広げた設計図だけだったが、線や点や数字、備考が記されていたためよく把握は出来ていない。
「セオノア」
何人かの者たちに囲まれながら、ハーブレイはセオノアに声を掛けた。
「あ…」
互いに目は合ったが、何人もいる中で個人的な話をするのが苦手で、セオノアは近くの機械の陰に隠れてしまった。数秒経ってから顔を出す。パール塗装された白い装甲が開かれた。シートは黒くメッシュ素材になっている。朝に、完成品として見せられたのだった。ハーブレイはコックピットに乗り込むと義足を外した。片方の義手も外し、もう一方は他の者が外しにかかる。義手義足を持っている者たちを置いて装甲が閉まった。ハーブレイがパイロットなのだと再び装甲が開かれた時に遅れて気付いた。
「セオノア」
陰で眺めているとダウンライトに照らされた暗い操縦席にまだ座っているハーブレイが声を掛けた。工場内は響きやすく、それが自身の名となるとどこか叱られている感じがあった。
「は、はい…」
そこにいた者たち全員の眼差しを向けられ、セオノアの身体は強張った。ゆっくりと完成したばかりのコックピットに近寄った。微かな虹色を帯び、その中でも若干青を強く浮かび上がらせる光沢が美しい。
「ほら、また会えただろう」
「あぁっ…は、はい…こ、こんにち、は…」
「こんにちは。シートの改良を頼んだのだがとてもいい。所長さんはすぐに戻ってくるだろうか」
びくびくしながら昼食の時間が今終わったばかりであることを告げ、他に用事が無ければすぐに戻ってくる予定であることを告げる。しどろもどろだったがハーブレイは頷いていた。
「分かった。ありがとう。ついでにすまないがセオノア。少し右の義手のネジが緩んでしまった。締めてもらえないだろうか」
「あ、あっ、はい!今、こ、工具をお持ちしま、すので…」
左の義手を嵌められると、その手で右腕を差し出す。まだ新しい型だった。使用者の肌や質感に合わせたシリコンを被せるタイプではなく、彼の場合は切断されている二の腕の筋力の動きを読み取り、可動するようになっている。集団に囲まれていたが、見るのは義手だけだ。片膝を立て、その上に腕を乗せると右手首の調子を点検する。ネジの形を確認してから持ち手のゴム部分が擦り切れたドライバーを工具箱から取り出す。合わないドライバーを無理矢理突き入れたような跡がある。義手の開発と製造が特殊な会社のため普及しているドライバーではなかなか合わないのだ。以前使っていた拡大眼鏡がこの義手の製造メーカーと同じだっために持っていた携帯用の短いポールペンと見紛う小さなドライバーをハーブレイに差し出す。キーホルダーになっていた。
「あの、…このドライバー、あの…あげます…使わないし…このネジに合うやつなんで…」
赤い瞳がコックピットのダウンライトに照らされ、不思議な色合いをしていた。
「いいのか?」
「は、はい…」
「だが、君に話し掛ける口実が減ってしまうな。ありがとう。あとでお礼をさせてくれ」
右腕を左手だけで器用に装着すると、ハーブレイはセオノアの掌に乗る短いボールペン型のキーホルダーを摘んだ。指の背に当たる部分が劣化しづらく加工されたプラスチックに覆われた指が掌をくすぐった。
「い、いえ…そんな…」
「引っ越し祝いもかねて」
そう言うとハーブレイは義足を着け始め、シートから降りた。彼が運んだコックピットの匂いは新車に似ていた。ハーブレイの仕事仲間らしき者たちがタブレット操作をしながらあれこれと意見を聞き、ひとつひとつ専門的な用語が飛び交っていた。セオノアは昼前まで作業をしていた場所へと戻る。その少し後に戻ってきた所長に大仕事を終えた顔だな、ハーブレイがよろしく言っていた、他にもお偉いさんにはどんどん媚びろ、と大笑いされながら油に塗れたタオルで鼻をんだ手で頭を掻き乱しながら撫で繰り回された。
帰り際に見失った黒髪の美女が迎えに来た。事務所の2階から降りてきた直後で陰から現れたため驚きのあまり悲鳴すら忘れていた。
「オウミ様の命によりお迎えに上がりました」
「あっ、!あ、貴方は…」
美女は首を傾げる。声を出すのもやっとだった。頭の中が真っ白になり、言葉が出なかった。
「オウミ様からお聞きしておりませんか」
「なっ、な、何をでつ、何をで…しゅか…」
不思議そうな顔をされ、成人女性と思われたが幼く映った。見覚えがあるがはっきりと思い出せない。
「引っ越し祝いをするとか」
急な提案と、脳裏に浮かんだ人だらけの酒屋にセオノアは固まった。
こいつ、社内で一番カワイイ子襲って孕ませたんだぜ、ワルだろ?
連れられた合同交友会で紹介された時のことだった。口笛や揶揄の声が上がっていた。
「い、いい…いいです…!」
美女を振り切って反対方向へ駆け出した。
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