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毟り落ち、羽撃く。 年下攻/脱肛/異物挿入/男性受胎/輪姦/精液吐瀉/etc...
毟り落ち、羽撃く。 4
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暫くガラス越しの濃紺に染まりゆく空を見上げていた。今日は朝から一度もタンバリンやカスタネットの音を聞いていない。手巾を握って、部屋には誰もいなくなった。
銀髪の青年を探して歩く。広場近くの脇道にまた居るだろうか。キッチンの小窓が並ぶ通りは夕飯の匂いが漂う。明かりが灯り石畳が光っている。全て張りぼてに思えた。建物の中に人などおらず、何者でもない何かが人々の暮らしを営んでいるふりをしているように思えてならなかった。この街そのものが幻のようだ。ダントプントに忘れられてしまったことが、この街全てを偽物にさせた。柔らかな風が吹き抜け、その仲間になって肉体が消えていくみたいだった。広場に散る人影も空虚に思えた。広場に接した海沿いの小道を進むと、錆びれて入り組んだ、広場を囲う荘厳な建築物の裏側へと出た。さらに進むと民家の裏口が並ぶ。道幅は狭い上に住宅地までくるとダストボックスや、レバーを回す洗濯機や倉庫代わりの木箱が置かれ、さらに狭くなっていた。リーネアが寝そべられるほどはなく、ねそべったとしても、踵から腰程までの幅しかなかった。どす黒い波が遠くで空の濃紺に飲み込まれながら緋く光っていた。波が打つ。丸みを帯びた曲がり角で磯の香りがした。道幅が少し広くなる。銀髪の青年は少し先にいた。木箱に座りながら、海かもしくは遠くに横たわるレモンの生えた山の斜面を見ていた。
潮騒に溶けて街ごと海に沈んでいきそうな感は拭えないままでいたがリーネアはわずかに自身の形を取り戻す。
「おにいさん」
憂いを帯びていた可憐さを持ち合わせている整った顔がリーネアを認めた途端に、野の花が咲くように綻ぶ。誰かに愛でられ、誰かに水を与えられて咲く花とは違う、どこか乾燥と根腐れを知ったようなそれでいて伸びたい方向に伸びていった
名も付けられていなそうな花に似ている。素直な笑みにリーネアは後ろに一歩下がりたくなってしまった。
「シロツメクサの王子様」
リーネアが考えていたことを見抜いたのか銀髪の青年は木箱から降りてリーネアを迎えた。恭しく腕を身体の前後に回し、頭を下げる。
「カタバミの踊り子さん」
銀髪の青年は顔を上げた。
「ボク、カタバミなんだ?あの黄色の花だよネ~?」
よく知っていると思った。10代後半から20代前半といった男があまり花に詳しいとは思わなかった。船員の若い連中でも精々食べられるか否かの認識だろう。
「嫌だった?」
「上等だヨ」
白い歯を見せて青年は笑った。
「ほらほら、帰るヨ。どうしてこんなところに1人で来ちゃうのサ。危ないって」
リーネアの手を取ろうとして、握られた手巾に気付き紅い瞳が白目に縁取られる。
「おにいさんに返しに来たんだ。鼻血落ちたし石鹸で洗ったよ」
銀髪の青年は紅い瞳を潤ませ、リーネアに目線を合わせて膝を折る。手巾を握った手ともう片方の手を褐色の大きな両手が包んだ。
「落ちても汚い…かな?」
暮らしの面では大雑把な船員たちの中にも時折そういった潔癖ともいえそうな、こだわりともいえそうな、目に見えていないものを気にする癖を持った者はいた。
青年は首を振り、リーネアの両手を額まで翳した。大袈裟な仕草だった。
「ありがと!」
手巾を受け取り、みすぼらしささえある平服にしまう。
「本当はね、ダントも連れてこようと思ったんだ」
「ダント?チミのお兄ちゃんのこと?」
「ダントはぼくのお兄ちゃんじゃないよ」
青年はリーネアを桜桃の双眸でじっと見て、突然抱き締める。
「うんうん。そうかそうか。苦労してきたネ。困ったらいつでもおいでナ」
「どういうこと?」
「人類はみんな家族なんだから。人類はみんな同胞なんだから。助け合わなくちゃいけないんだヨ。だからチミのお兄ちゃんもきっと家族なんだから」
リーネアは肩を叩かれる。
「そうかな?そう思う?」
初めて人を殺した船員や、船を沈めた射手が相談しに来たことがある。彼等は家族を殺したということか。
「そうだヨ。そうなんだ」
「ねぇ、じゃあ、家族だから、同胞だから、赦してくれるよね?」
「うん。チミの悩みも過ちも不条理もきっと赦してくれるだろうサ」
リーネアの背を撫で、そして青年は立ち上がる。手を繋がれ、歩き出す。
「チミのお兄さんは素敵な人だナ」
「え?」
「最低ダ、ボクは。お客様を比べてしまうなんて…」
見上げると褐色の目元が赤らみ、手術痕は薄紅色に染まっていた。リーネアの煌めく金の瞳と石畳とを忙しなく交互に見遣る。
「おにいさん?」
「いけないヨ。見ないでおくれヨ。ボクは…」
青年に握られた指先からやっとリーネアはまた自身の形を思い出す。よく晴れた日の澄んだ青空を泳ぐ白雲が呼応しそうな、からからとした爽やかな声も妙にさな調子だった。
「いけなくないでしょ。おにいさん、踊ってる時は天人菊みたいなのに、今じゃ田菜穂々だ」
青年はリーネアの眼差しから逃げる。
「でもおにいさんはやっぱりカタバミだね。ぼくはそのほうが好きだな」
乱暴で粗雑な子供たちと、澄んだ子のいた村にもあった。雑木林に続く脇に幅広く点々と顔を出す小指の爪ほどの小さな花。日に照って、緑の中で輝いたその雑草に特に感慨をリーネアは抱いていなかったが、いつ何故どのようにしてその名を知ったのかも思い出せずにいたが、その花が浮かんだ。
「ボクはカタバミになろうともサ、ええ」
リーネアの手を引いて青年は陽気だった。
「ぼくリーネア。おにいさんの名前訊いてい~い?」
「もちろん。ボクはカタバミの踊り子・ヒュイン。以後お見知りおきを、王子様」
真っ白な指にキスをしてヒュインと名乗った青年は片目だけを瞑った。
「ヒュイン?ヒュインおにいさん?」
「そうだヨ、リーネアさん」
リーネアはヒュインの肩に手を掛け、屈ませる。ブーツを軋ませ背伸びをすると、身を傾けた褐色のなめらかな頬に唇を当てた。
「素晴らしい出会いに感謝」
親愛と敬意のキスにヒュインは再び瞳を潤ませる。
「送っていくヨ、リーネアさん」
リーネアが首を傾げた。
「ぼく、帰らないよ」
リーネアに釣られ、ヒュインも首を傾げる。
「ぼくはまだ帰らない」
リーネアの顔を覗き込む。慰められているのか頭を撫でられた。
「ヒュインおにいさんみたいな人が、ダントの傍にいてくれたらな」
ヒュインの外見から推定される年頃よりずっと幼い桜桃の色をした瞳が小さく転がる。本当に水面に浮かんでいるようにヒュインの瞳はよく輝いていた。長くはないが濃い銀の睫毛が子犬を思わせる。
「えっ、え、ええ…っ?」
あっ、あっと声が弾む。
「なんてね」
冗談だとでもいうようにリーネアは軽く終え、ヒュインの忙しない桜桃がやっと落ち着きを見せる。安堵の溜息が聞こえる。
「じょ、冗談だよネ…チミのお兄さんにそんな…あんな素敵な人にボクなんか…そんな…」
すでに空は濃紺に染まって銀髪が少しずつ青を帯びたが暗くなる街の中でも輝いていた。波が音を立て、ヒュインは海を見渡した。横顔に浮かぶ耳や顎の骨、喉の隆起をリーネアは見上げた。視線に気付いたのか否か、熟れた果実がリーネアを捉える。幼さが消え、空の色を映している。少し荒れている唇が動く前にリーネアは離れた。
「じゃあね、ヒュインおにいさん。また今度」
「だめだヨ」
身長差があったくせ、耳元で声がした。立ち止まると海側の隣にヒュインは立っている。手を繋いで、リーネアを広場まで引っ張った。
「チミが帰るまで傍にいるヨ。それがいいヤ。チミはまだ帰らなくていいし、ボクはチミに肝潰さなくて済むもんネ」
ヒュインは朗らかに笑った。ダントプントよりは薄いがそれでも肉感と柔らかさのある掌が何度かリーネアの白い指を揉むように握った。
「リーネアさんのお手々はかわいいナ」
繋がれた腕が大きく揺らされる。あどけなさが戻り、夜だというのにこれからが1日の始まりだとばかりの活発な空気を漂わせた。
「ささ、ボクのことは気にしないデ。行きたいところについていくヨ」
ヒュインは陽気に笑う。大きな子供に思えた。初めて見た7つほどのダントプントのほうが落ち着いていた。
「でもどうして?」
「今ネ、この街、海賊さんがいるんだって。怖いじゃん。リーネアさんのことペロって食べちゃうんじゃないかって、心配になったノ」
「……そうなんだ。でもその怖い怖~い人喰い海賊、おにいさんのことだって食べちゃうかもしれないじゃん」
リーネアはヒュインを見上げた。ウィンキールのダントプントを眺める目は確かに獲物を見るものであっただけにリーネアは深く頷いた。
「ボクは大丈夫だヨ。ボクは不味いの、見て分かるでしょ。お目々が真っ赤で、ほら、気持ち悪いデショ?」
卑屈さも感じさせずヒュインは言った。まるで肯定を待っているかのようでさえあった。
「柘榴の中身」
「うん?」
「でも柘榴はね、なんか大人っぽいからさ、おにいさんは桜桃がかわいいな。かわいいほうがいいよ。かわいいのがいいや」
リーネアはヒュインの紅い瞳を見上げた。他の物は空の色に溶けていたがヒュインの紅い瞳は爛々としている。ヒュインが先に目を逸らした。
「チミのお兄さんに、ボクと一緒にいたことは言っちゃダメだヨ」
「なんで?目が紅くてマズそうだから?」
「うん。それもあるケド、ボクは、魔憑きの白痴と豚さんの間に生まれたらしいからネ、気持ち悪いんだって」
ヒュインはやはり卑屈な様子を見せなかった。
「…おにいさん、それ本気で言ってる?無理だよ。豚と人間じゃ子供はできないんだから」
リーネアが不審の目を向けても、ヒュインは困ったように笑うだけでどこからどこまでを本気にしているのかは分からない。
「それに、いちいち言うの?『ボクは白痴と豚の間の子です』って?この街はわざわざご挨拶に出生まで喋らなきゃいけないの?」
「そんなことはないサ」
ヒュインはまた笑った。駄々っ子を宥める笑みだった。
「他の愚民どもは知らないけど、ダントは気持ち悪がらないと思うな。気持ち悪がったら仕方ないけどね。表にはしないんじゃないかな。したら怒るよ、ぼくが。そんな子になっちゃったの!って」
どこに行くでもなく民家の並ぶ通りを歩く。夕食の匂いがした。嗅ぎ慣れた酢漬けの匂いが混じっていた。
「リーネアさんは不思議な子だナ」
「おにいさんは変な人だよ」
気付くと宿のほうに向かっていたらしく、緩やかな坂道を登りきる前に曲がって方向を変える。
「今日は踊らないの」
「5日おきに2夜連続だから、暫くないんダ」
「あの変な歌は?」
「わわっ、聞いてたノ?恥ずかしいナ!あれはネ、あれは…子守唄だから!」
ヒュインはまた照れて、弾んだ声を上げた。
「合唱だよね?」
「う、う…ん。みんなで歌うんダ」
「みんな?」
「うん、みんな」
人懐こい笑顔を浮かべてヒュインは答える。
「誰を寝かせてるの?街のみんな?」
「う、うん。それもある…あとネ、神様」
「神様?」
「うん、神様。いつも愛してくれてありがとってサ」
リーネアは足を止める。離れた手が繋ぎ直された。訝しんだ目を向けると、子犬に似た目がリーネアを覗き込む。黙ったリーネアに首を傾げた。だが何も答えず、リーネアは手を繋がれていることも忘れて、知らない道を選んでいった。街の灯りが段々と弱くなり、何も灯っていない建物が並び始める。石畳を突き破って雑草が所々伸びていた。腕が後ろから引っ張られ、ヒュインが止まっていた。不思議そうにリーネアを見ている。
「こっちに何か用があるノ?」
「こっちには何があるの?」
「恵まれない人たちのおうち」
「恵まれない人たちって?」
「家族とか、身体とか、お仕事とか、健康とか」
リーネアは幾度かヒュインと、暗闇の先を見遣った。夜風が吹き抜けていく。外に跳ねた銀髪が揺れ、リーネアの真っ白な髪も耳元で鳴った。
「来たことある?」
「うん。っていうかよく来てるヨ」
「何しに?」
「みんなからのお恵みを分けに」
颯爽と答える。舞衣装は煌びやかなくせ、平服はみすぼらしい。
「…おにいさんは何かの苦行中なの?」
「まっさか!どうしてそう思うのサ?」
「稼ぐって大変じゃん。それを自分のために使わないなんて」
「自分のために使ってるヨ!ここにいる人たちが豊かに暮らせたらそれよりいいことなんてないデショ」
踏み潰されたように大声を上げてヒュインはリーネアに紅い目を剥いた。リーネアは、そうかな、と首を傾げた。
「恵まれないから?恵まれない人たちは恵まれないなりに生きていくでしょ?そこに稼ぐ能のあるおにいさんが踏み入っていいの?」
「そんなの当然!稼ぐ能がボクにあるというなら尚更だヨ!能ある人が率先して、恵まれない人たちを助けるのがいいんだヨ!」
「…弱きを救うためなら強きを捨ててもいいの?いつかおにいさんが能無しになった時、助けてくれるとは限らないくせに?」
ヒュインはリーネアの前に屈み込む。筋肉はあるがまだ細い腕がリーネアを抱き締めた。香辛料の匂いが混じった果物の甘さを帯びた爽やかな香りがした。
「ボクは何かを期待してるワケじゃないヨ。ボクがその時そうしたいからしているノ。リーネアさんはちょっと悲しい子だネ。お兄さんに甘えられないのかナ?それならボクに甘えたらいいヨ。心からチミを愛そう」
リーネアは唇を尖らせる。
「いいよ、間に合ってる。それにぼくは悲しい子じゃないよ。今はダントがいるし、怖い怖い人喰い海賊さんたちがかわいいかわいいって言ってくれるもん」
ヒュインの肩を叩いて放させる。
「うん、うん、そうだよネ。リーネアさんも愛されて育った子だとボクは思うヨ。ボクを心配してくれたんだよネ?」
真近に大きな手術痕が走る子犬に似た顔が迫る。
「当たり前じゃん、ぼくはかわいいんだから」
少し下にあるヒュインの頬に触れた。怒ることも不快を露わにすることもなく感触と同じように柔らかな顔をした。微風がまた吹き抜けた。
「おにいさんこそ―」
言葉を切って、暗闇に呑まれた通りとはまた別の方向へ首を曲げた。耳に届いた風の中の音。ヒュインもまたリーネアを見上げながら耳を澄ませている。
「おにいさんこそ、物足りないならいい人紹介するけど?」
リーネアが言い直すと、耳を澄まして険しい表情をしたヒュインの顔はまた柔和なものへと戻り、首を振る。
「行こうカ。チミはここに用は無いはずダ」
ヒュインの手が固くリーネアを引いて、それは有無を言わせなかった。風が運んだ笑い声とも泣き声とも判別出来ない音にヒュインは温和に微笑を浮かべているが緊張を隠せていなかった。
「何か聞こえた?」
「…ここはサ、身体売るお店とか身体で遊ぶ人たちが来るお店が近いんダ。チミは近付いたらいけない」
「どうして?」
「どうして?理由は簡単だヨ。いけないことだからサ」
「どうしていけないの?」
首を傾げる。リーネアもまたヒュインのように首を傾げた。
「子供を作る真似をお金かけて遊びでしてるなんて、涜神だヨ」
「そうかな?」
ヒュインは下唇を噛んだ。リーネアは首を倒したまま、口にしたくもないといったふうなヒュインから目を離さなかった。
「みんなの身体はネ、神様からの借り物なんだヨ」
「じゃあさ、その借り物を守るために身を売るっていうのもアリでしょ。飢えるってつらいよ。おにいさん、飢えたことある?骨と皮になって借りた物返せよと?」
俯いた。だがリーネアからはよく見えた。まるで拗ねた子供だ。
「食べられそうなものならなんでも食べるよ。野草でも、乾涸びたミミズでも、まだ産まれたばかりのふわっふわの子猫でもさ。飢えが凌げたって次は寒さだよね。生憎寒さは知らないけど。その後は住むところ。やっぱり略奪を選んだ人に燃やされちゃった」
リーネアは肩を竦めた。ヒュインが遠ざけようとした真っ暗な区画の前を曲がり、薄明かりが灯る通りを歩く。酒の匂いと甘い薬草の香が焚かれている。控えめに動物や果物の掘られた板が飾られていた。色町だ。
「いけない!近付いたら、いけないヨ…」
足音が迫って背後から抱き竦められる。縋り付くようだった。
「おにいさんの御託宣は素晴らしいんだろう、きっとね。でもぼくはさ、そっちの側じゃないから」
ひらひらと、ヒュインを振り返ることもなく色町を進む。曲線を描く先から人影が現れ、リーネアは止まった。郊外の賭場とウィンキールが言っていたのを思い出す。だがその人影はダントプントだった。リーネアとヒュインの地点からは見えなかったが、何者かを突き飛ばし壁伝いに歩いて曲がり角に消えた。
「人間の血肉が神の借り物なんて嘘だよ。それかただの大衆詩だ。だって借した覚え、ないもの」
ヒュインの手を払ってリーネアは突き飛ばされた男へ向かったが、ぼうっとしていたヒュインは曲がり角へと走っていった。肩凝りが酷いと言ってきた船員がいたが、リーネアは初めて肩に何かを玉のようなものを埋め込まれた感覚があった。
「コックさんじゃん」
ウィンキールが石畳に尻餅を着いたままでいた。ばつが悪そうに顔を背け、舌打ちが色町を包む多少の喧騒に溶けた。
「追わなくていいの」
「追ったって同じですよ」
「同じって?」
「また突き飛ばされて逃げられる。お互い無駄な体力使わなくて済むというわけです」
自嘲した。口角にある血の滲んだ傷に手を伸ばすと、触れる前に虫を追い払う手付きで払われた。
「コックさんも身体売ってる"冒涜的な輩"なの?」
鼻で嗤われる。「なんですか、それ」と。
「脚開いて稼いだ薄汚い金のことですか?」
色気のある顔立ちに嫌味ったらしい笑みが浮かぶ。
「脚開くと薄汚いお金稼げるの?」
「貴方のような崇高な化け物は分からなくていいんですよ、そんなこと」
「なんで?」
「厄介だな。その様子では、理解し得る能があるとは思えませんが」
また何か問おうとすると溜息に阻まれた。
「よかった、貴方をあの場に連れて行かなくて」
「郊外の賭場とかいうところ?」
ウィンキールは立ち上り両手を叩いて、衣服も払う。すぐ傍の建物から女の笑い声や男の枯れた声がした。リーネアの問いには答えず
「あれだけダントさんにべったべたな貴方がよくオレのほうに来ましたね。意外ですよ。それとも何ですか、オレに凶兆でも出てますか。そろそろ罰が当たってもいい頃ですからね?」
「ダント泣きそうだったから。それだけの理由だよ」
挑発的な笑みが消え、目がいいようで、と小さく吐き捨てられる。
「あの子、1人にならないと泣かないでしょ…って言っても、踊り子のおにいさんが追っていったけど」
「踊り子…?」
ウィンキールは歩いて色町から引き返したが、段々と足早になり、とうとう走りだした。残されたリーネアはそのまま色町を抜けたが、街の果てに出ただけだった。その先は点々と小屋があり、その先に小さな光の群れがあった。そこがウィンキールの言っていた郊外の賭場がある地だ。真っ暗な山と輝いた星空を暫く眺めてから宿へと戻った。
宿には誰もいなかった。真っ暗な部屋に明かりを灯す気にもならず、リーネアはベッドに座ったきりだった。明朝になってやっと足音が聞こえたところで帰ってきたのはウィンキールで、彼自身に馴染んだバニラやココナッツに似た香りだけでなく酒と煙草、その他甘さを帯びた薬草の匂いをきつく漂わせていた。リーネアを見ることなくベッドに直行し、そのまま眠ってしまった。空が明るくなるにつれ、リーネアの隣の空いたベッドが薄暗い室内にくっきりと浮かび上がる。窓の外を眺めながら朝までの数時間を過ごす。何の報せもない。何の報せもなかったが、ダントプントはヒュインのもとにいるのだと何となくリーネアの中では完結していた。探そうとも思わなかった。心配も不安もない。ヒュインという青年の温和な性格と上滑りした価値観に触れたなら、これほどダントプントに近付けられるものはいないくらいだった。だがウィンキールにとってはそうではないらしい。ベッドに倒れ込むように寝た男が朝日に照らされる。初めて晒される、気に喰わないコックの無防備な状態。ウィンキールは常人にはない特殊な空気を持っている。リーネアにはその正体がはっきりと分からないでいた。
酔っ払いは早くに目覚め、浴場に向かった後にいつも通りにリーネアと共に勤務先に行った。治癒を拒み、酔いが覚めないでいることを隠しきり、店主には柔らかな笑みを見せる。店先で呼び込むリーネアに寄せられてやってくる客たちに人手が足りず、ウィンキールが給仕に回ると、人好きのする愛想笑いを貼り付けていた。仕事が終わる頃には厨房の椅子の背凭れを抱いて、ぐったりとしている。
「コックさん、仕事終わったんだけど…」
真っ白い手を伸ばすと、見もせずに察したらしく手の甲で払われる。
「帰らないの…?」
店主は困った笑みをリーネアにしたきり厨房を出て行ってしまった。
「彼のいない宿に何故帰る必要があるんです…?」
「じゃあ、ぼく先帰るよ。帰ってこないならどこかで休むんだよね?屋根があって、煙くなくて、裸のおねえさんがいないところね。心配するんだから」
ウィンキールは煩わしいほどの栗色の髪に顔を隠したまま動かなかった。街は赤く染まる前の金色が差していた。裏口から出て宿へと帰る途中でタンバリンを手にしたヒュインとすれ違った。ひらひらとタンバリンに括り付けられた麦畑のような黄金色のリボンが揺蕩う。空の光を浴び、さらに輝いていた。舞い踊りながらリーネアのもとへ跪くまでの所作は、漁港で商人から見せてもらったことがある、銀色に赤と青が照る小さな淡水魚に似ていた。
「リーネアさん」
畏まって金色に染まる真っ白な手を取り、唇を当てる。
「昨夜は、ごめんネ!」
一変した弾けた笑顔を見せ、立ち上がった。タンバリンの側面に連なった小さなシンバルがしゃらしゃらと鳴る。
「ダントとは一緒だったの?」
弾けた笑顔は固まって、眉を下げる。紅い瞳が金色に呑まれ、それから泳いだ。
「う、うん。今ネ、宿に送って…戻ってきたところなんダ!えっと…そ、の…」
落ち着きなくヒュインは自身の下唇を摘まんではすぐ離し、リーネアの足元に視線を彷徨わせてはまた唇に触れた。両手が宙を掻いて、タンバリンがそのたびに音を立て3本垂らされたリボンが揺れて煌めく。
「ダント、どうだった?」
「ど、どうだったって、なに…が…」
背筋を伸ばし、口が小刻みに震えている。ヒュインの行動にリーネアは急かされている気がした。
「泣いてたとか、怒ってたとか、落ち込んでるとかさ……」
「ああ、うん…今は、落ち着いてるヨ」
ビールを流し込んだ空の下でヒュインの顔は真っ赤に染まっていた。口元に手の甲を当て、リーネアから目を逸らす。
「そうなんだ。よかった。ありがと、おにいさん」
「じゃあネ。気を付けて帰るんだヨ。えっと、2番目のお兄様にもよろしく言っておいてネ」
「え?」
ヒュインはまたひらひらと舞っていく。リーネアは目と鼻の先にある宿へと急いで部屋へ飛び込む。ベッドに座るダントプントを久々に見たような気がして、リーネアは飛び付いた。
「リーネア、様…怒ってるんですか…」
ベッドに押し倒すと、ダントプントはひどく怯えていた。
「なんで?ぼく怒ってる?」
倒れたままのダントプントの腰に乗る。
「貴方との約束を反故にしてしまったので…」
上からダントプントの身体中に触れた。逞しい肉感を楽しんでいると、起き上がったダントプントに抱えられる。
「帰ってきてくれてよかった。大丈夫?どこも痛くない?」
「私は……俺は、貴方がそんなふうに触れていい人間じゃないんです」
少し焼けた肌がリーネアの細い手を取って、離させた。抱き上げられ、ダントプントとも距離を取られる。
「ぼく、汚かった?」
ダントプントは長い睫毛を伏せて首を振る。
「俺に触ったら…或いは…。だから、そうなる前に…」
「約束守れなかったから?それでそんなこと言うの?ごめんね。約束なんてしなきゃよかったんだ」
俯いた眼差しの先にある膝の上の手にリーネアは己の手を重ねる。震えていた。違うんです、違うんですよ。独り言ちていりのかと思うほど小さく、言い聞かせているような声。
「あっはは、ぼくがそう言ったらダントは余計自分のこと傷付けようとするよね。だから言わな~い。優しくて真面目な子なんだもんね」
まだリーネアの手の下で震えていた。
「それは、きっと貴方の…勘違いです…」
「勘違いじゃないよ。ダントはぼくにパンくれたじゃん。ごめんねって謝りながら。『お前も子猫みたいに可愛かったらね』って」
ダントプントは一瞬だけリーネアを見た。リーネアと目が合う前に逸らされる。
「覚えて、ないです。やっぱり勘違いだと思いますよ」
「ふぅん。でもぼくは覚えてるから。ダントは忘れたらいいし勘違いにしたらいいよ」
隣からダントプントのある種木材を思わせる微かな渋さを潜ませながらも陽の光を浴びて咲き誇る花のような柔らかな匂いに混じり、清涼感に包まれた香辛料の癖のある匂いを纏った柑橘類の甘い香りがした。
銀髪の青年を探して歩く。広場近くの脇道にまた居るだろうか。キッチンの小窓が並ぶ通りは夕飯の匂いが漂う。明かりが灯り石畳が光っている。全て張りぼてに思えた。建物の中に人などおらず、何者でもない何かが人々の暮らしを営んでいるふりをしているように思えてならなかった。この街そのものが幻のようだ。ダントプントに忘れられてしまったことが、この街全てを偽物にさせた。柔らかな風が吹き抜け、その仲間になって肉体が消えていくみたいだった。広場に散る人影も空虚に思えた。広場に接した海沿いの小道を進むと、錆びれて入り組んだ、広場を囲う荘厳な建築物の裏側へと出た。さらに進むと民家の裏口が並ぶ。道幅は狭い上に住宅地までくるとダストボックスや、レバーを回す洗濯機や倉庫代わりの木箱が置かれ、さらに狭くなっていた。リーネアが寝そべられるほどはなく、ねそべったとしても、踵から腰程までの幅しかなかった。どす黒い波が遠くで空の濃紺に飲み込まれながら緋く光っていた。波が打つ。丸みを帯びた曲がり角で磯の香りがした。道幅が少し広くなる。銀髪の青年は少し先にいた。木箱に座りながら、海かもしくは遠くに横たわるレモンの生えた山の斜面を見ていた。
潮騒に溶けて街ごと海に沈んでいきそうな感は拭えないままでいたがリーネアはわずかに自身の形を取り戻す。
「おにいさん」
憂いを帯びていた可憐さを持ち合わせている整った顔がリーネアを認めた途端に、野の花が咲くように綻ぶ。誰かに愛でられ、誰かに水を与えられて咲く花とは違う、どこか乾燥と根腐れを知ったようなそれでいて伸びたい方向に伸びていった
名も付けられていなそうな花に似ている。素直な笑みにリーネアは後ろに一歩下がりたくなってしまった。
「シロツメクサの王子様」
リーネアが考えていたことを見抜いたのか銀髪の青年は木箱から降りてリーネアを迎えた。恭しく腕を身体の前後に回し、頭を下げる。
「カタバミの踊り子さん」
銀髪の青年は顔を上げた。
「ボク、カタバミなんだ?あの黄色の花だよネ~?」
よく知っていると思った。10代後半から20代前半といった男があまり花に詳しいとは思わなかった。船員の若い連中でも精々食べられるか否かの認識だろう。
「嫌だった?」
「上等だヨ」
白い歯を見せて青年は笑った。
「ほらほら、帰るヨ。どうしてこんなところに1人で来ちゃうのサ。危ないって」
リーネアの手を取ろうとして、握られた手巾に気付き紅い瞳が白目に縁取られる。
「おにいさんに返しに来たんだ。鼻血落ちたし石鹸で洗ったよ」
銀髪の青年は紅い瞳を潤ませ、リーネアに目線を合わせて膝を折る。手巾を握った手ともう片方の手を褐色の大きな両手が包んだ。
「落ちても汚い…かな?」
暮らしの面では大雑把な船員たちの中にも時折そういった潔癖ともいえそうな、こだわりともいえそうな、目に見えていないものを気にする癖を持った者はいた。
青年は首を振り、リーネアの両手を額まで翳した。大袈裟な仕草だった。
「ありがと!」
手巾を受け取り、みすぼらしささえある平服にしまう。
「本当はね、ダントも連れてこようと思ったんだ」
「ダント?チミのお兄ちゃんのこと?」
「ダントはぼくのお兄ちゃんじゃないよ」
青年はリーネアを桜桃の双眸でじっと見て、突然抱き締める。
「うんうん。そうかそうか。苦労してきたネ。困ったらいつでもおいでナ」
「どういうこと?」
「人類はみんな家族なんだから。人類はみんな同胞なんだから。助け合わなくちゃいけないんだヨ。だからチミのお兄ちゃんもきっと家族なんだから」
リーネアは肩を叩かれる。
「そうかな?そう思う?」
初めて人を殺した船員や、船を沈めた射手が相談しに来たことがある。彼等は家族を殺したということか。
「そうだヨ。そうなんだ」
「ねぇ、じゃあ、家族だから、同胞だから、赦してくれるよね?」
「うん。チミの悩みも過ちも不条理もきっと赦してくれるだろうサ」
リーネアの背を撫で、そして青年は立ち上がる。手を繋がれ、歩き出す。
「チミのお兄さんは素敵な人だナ」
「え?」
「最低ダ、ボクは。お客様を比べてしまうなんて…」
見上げると褐色の目元が赤らみ、手術痕は薄紅色に染まっていた。リーネアの煌めく金の瞳と石畳とを忙しなく交互に見遣る。
「おにいさん?」
「いけないヨ。見ないでおくれヨ。ボクは…」
青年に握られた指先からやっとリーネアはまた自身の形を思い出す。よく晴れた日の澄んだ青空を泳ぐ白雲が呼応しそうな、からからとした爽やかな声も妙にさな調子だった。
「いけなくないでしょ。おにいさん、踊ってる時は天人菊みたいなのに、今じゃ田菜穂々だ」
青年はリーネアの眼差しから逃げる。
「でもおにいさんはやっぱりカタバミだね。ぼくはそのほうが好きだな」
乱暴で粗雑な子供たちと、澄んだ子のいた村にもあった。雑木林に続く脇に幅広く点々と顔を出す小指の爪ほどの小さな花。日に照って、緑の中で輝いたその雑草に特に感慨をリーネアは抱いていなかったが、いつ何故どのようにしてその名を知ったのかも思い出せずにいたが、その花が浮かんだ。
「ボクはカタバミになろうともサ、ええ」
リーネアの手を引いて青年は陽気だった。
「ぼくリーネア。おにいさんの名前訊いてい~い?」
「もちろん。ボクはカタバミの踊り子・ヒュイン。以後お見知りおきを、王子様」
真っ白な指にキスをしてヒュインと名乗った青年は片目だけを瞑った。
「ヒュイン?ヒュインおにいさん?」
「そうだヨ、リーネアさん」
リーネアはヒュインの肩に手を掛け、屈ませる。ブーツを軋ませ背伸びをすると、身を傾けた褐色のなめらかな頬に唇を当てた。
「素晴らしい出会いに感謝」
親愛と敬意のキスにヒュインは再び瞳を潤ませる。
「送っていくヨ、リーネアさん」
リーネアが首を傾げた。
「ぼく、帰らないよ」
リーネアに釣られ、ヒュインも首を傾げる。
「ぼくはまだ帰らない」
リーネアの顔を覗き込む。慰められているのか頭を撫でられた。
「ヒュインおにいさんみたいな人が、ダントの傍にいてくれたらな」
ヒュインの外見から推定される年頃よりずっと幼い桜桃の色をした瞳が小さく転がる。本当に水面に浮かんでいるようにヒュインの瞳はよく輝いていた。長くはないが濃い銀の睫毛が子犬を思わせる。
「えっ、え、ええ…っ?」
あっ、あっと声が弾む。
「なんてね」
冗談だとでもいうようにリーネアは軽く終え、ヒュインの忙しない桜桃がやっと落ち着きを見せる。安堵の溜息が聞こえる。
「じょ、冗談だよネ…チミのお兄さんにそんな…あんな素敵な人にボクなんか…そんな…」
すでに空は濃紺に染まって銀髪が少しずつ青を帯びたが暗くなる街の中でも輝いていた。波が音を立て、ヒュインは海を見渡した。横顔に浮かぶ耳や顎の骨、喉の隆起をリーネアは見上げた。視線に気付いたのか否か、熟れた果実がリーネアを捉える。幼さが消え、空の色を映している。少し荒れている唇が動く前にリーネアは離れた。
「じゃあね、ヒュインおにいさん。また今度」
「だめだヨ」
身長差があったくせ、耳元で声がした。立ち止まると海側の隣にヒュインは立っている。手を繋いで、リーネアを広場まで引っ張った。
「チミが帰るまで傍にいるヨ。それがいいヤ。チミはまだ帰らなくていいし、ボクはチミに肝潰さなくて済むもんネ」
ヒュインは朗らかに笑った。ダントプントよりは薄いがそれでも肉感と柔らかさのある掌が何度かリーネアの白い指を揉むように握った。
「リーネアさんのお手々はかわいいナ」
繋がれた腕が大きく揺らされる。あどけなさが戻り、夜だというのにこれからが1日の始まりだとばかりの活発な空気を漂わせた。
「ささ、ボクのことは気にしないデ。行きたいところについていくヨ」
ヒュインは陽気に笑う。大きな子供に思えた。初めて見た7つほどのダントプントのほうが落ち着いていた。
「でもどうして?」
「今ネ、この街、海賊さんがいるんだって。怖いじゃん。リーネアさんのことペロって食べちゃうんじゃないかって、心配になったノ」
「……そうなんだ。でもその怖い怖~い人喰い海賊、おにいさんのことだって食べちゃうかもしれないじゃん」
リーネアはヒュインを見上げた。ウィンキールのダントプントを眺める目は確かに獲物を見るものであっただけにリーネアは深く頷いた。
「ボクは大丈夫だヨ。ボクは不味いの、見て分かるでしょ。お目々が真っ赤で、ほら、気持ち悪いデショ?」
卑屈さも感じさせずヒュインは言った。まるで肯定を待っているかのようでさえあった。
「柘榴の中身」
「うん?」
「でも柘榴はね、なんか大人っぽいからさ、おにいさんは桜桃がかわいいな。かわいいほうがいいよ。かわいいのがいいや」
リーネアはヒュインの紅い瞳を見上げた。他の物は空の色に溶けていたがヒュインの紅い瞳は爛々としている。ヒュインが先に目を逸らした。
「チミのお兄さんに、ボクと一緒にいたことは言っちゃダメだヨ」
「なんで?目が紅くてマズそうだから?」
「うん。それもあるケド、ボクは、魔憑きの白痴と豚さんの間に生まれたらしいからネ、気持ち悪いんだって」
ヒュインはやはり卑屈な様子を見せなかった。
「…おにいさん、それ本気で言ってる?無理だよ。豚と人間じゃ子供はできないんだから」
リーネアが不審の目を向けても、ヒュインは困ったように笑うだけでどこからどこまでを本気にしているのかは分からない。
「それに、いちいち言うの?『ボクは白痴と豚の間の子です』って?この街はわざわざご挨拶に出生まで喋らなきゃいけないの?」
「そんなことはないサ」
ヒュインはまた笑った。駄々っ子を宥める笑みだった。
「他の愚民どもは知らないけど、ダントは気持ち悪がらないと思うな。気持ち悪がったら仕方ないけどね。表にはしないんじゃないかな。したら怒るよ、ぼくが。そんな子になっちゃったの!って」
どこに行くでもなく民家の並ぶ通りを歩く。夕食の匂いがした。嗅ぎ慣れた酢漬けの匂いが混じっていた。
「リーネアさんは不思議な子だナ」
「おにいさんは変な人だよ」
気付くと宿のほうに向かっていたらしく、緩やかな坂道を登りきる前に曲がって方向を変える。
「今日は踊らないの」
「5日おきに2夜連続だから、暫くないんダ」
「あの変な歌は?」
「わわっ、聞いてたノ?恥ずかしいナ!あれはネ、あれは…子守唄だから!」
ヒュインはまた照れて、弾んだ声を上げた。
「合唱だよね?」
「う、う…ん。みんなで歌うんダ」
「みんな?」
「うん、みんな」
人懐こい笑顔を浮かべてヒュインは答える。
「誰を寝かせてるの?街のみんな?」
「う、うん。それもある…あとネ、神様」
「神様?」
「うん、神様。いつも愛してくれてありがとってサ」
リーネアは足を止める。離れた手が繋ぎ直された。訝しんだ目を向けると、子犬に似た目がリーネアを覗き込む。黙ったリーネアに首を傾げた。だが何も答えず、リーネアは手を繋がれていることも忘れて、知らない道を選んでいった。街の灯りが段々と弱くなり、何も灯っていない建物が並び始める。石畳を突き破って雑草が所々伸びていた。腕が後ろから引っ張られ、ヒュインが止まっていた。不思議そうにリーネアを見ている。
「こっちに何か用があるノ?」
「こっちには何があるの?」
「恵まれない人たちのおうち」
「恵まれない人たちって?」
「家族とか、身体とか、お仕事とか、健康とか」
リーネアは幾度かヒュインと、暗闇の先を見遣った。夜風が吹き抜けていく。外に跳ねた銀髪が揺れ、リーネアの真っ白な髪も耳元で鳴った。
「来たことある?」
「うん。っていうかよく来てるヨ」
「何しに?」
「みんなからのお恵みを分けに」
颯爽と答える。舞衣装は煌びやかなくせ、平服はみすぼらしい。
「…おにいさんは何かの苦行中なの?」
「まっさか!どうしてそう思うのサ?」
「稼ぐって大変じゃん。それを自分のために使わないなんて」
「自分のために使ってるヨ!ここにいる人たちが豊かに暮らせたらそれよりいいことなんてないデショ」
踏み潰されたように大声を上げてヒュインはリーネアに紅い目を剥いた。リーネアは、そうかな、と首を傾げた。
「恵まれないから?恵まれない人たちは恵まれないなりに生きていくでしょ?そこに稼ぐ能のあるおにいさんが踏み入っていいの?」
「そんなの当然!稼ぐ能がボクにあるというなら尚更だヨ!能ある人が率先して、恵まれない人たちを助けるのがいいんだヨ!」
「…弱きを救うためなら強きを捨ててもいいの?いつかおにいさんが能無しになった時、助けてくれるとは限らないくせに?」
ヒュインはリーネアの前に屈み込む。筋肉はあるがまだ細い腕がリーネアを抱き締めた。香辛料の匂いが混じった果物の甘さを帯びた爽やかな香りがした。
「ボクは何かを期待してるワケじゃないヨ。ボクがその時そうしたいからしているノ。リーネアさんはちょっと悲しい子だネ。お兄さんに甘えられないのかナ?それならボクに甘えたらいいヨ。心からチミを愛そう」
リーネアは唇を尖らせる。
「いいよ、間に合ってる。それにぼくは悲しい子じゃないよ。今はダントがいるし、怖い怖い人喰い海賊さんたちがかわいいかわいいって言ってくれるもん」
ヒュインの肩を叩いて放させる。
「うん、うん、そうだよネ。リーネアさんも愛されて育った子だとボクは思うヨ。ボクを心配してくれたんだよネ?」
真近に大きな手術痕が走る子犬に似た顔が迫る。
「当たり前じゃん、ぼくはかわいいんだから」
少し下にあるヒュインの頬に触れた。怒ることも不快を露わにすることもなく感触と同じように柔らかな顔をした。微風がまた吹き抜けた。
「おにいさんこそ―」
言葉を切って、暗闇に呑まれた通りとはまた別の方向へ首を曲げた。耳に届いた風の中の音。ヒュインもまたリーネアを見上げながら耳を澄ませている。
「おにいさんこそ、物足りないならいい人紹介するけど?」
リーネアが言い直すと、耳を澄まして険しい表情をしたヒュインの顔はまた柔和なものへと戻り、首を振る。
「行こうカ。チミはここに用は無いはずダ」
ヒュインの手が固くリーネアを引いて、それは有無を言わせなかった。風が運んだ笑い声とも泣き声とも判別出来ない音にヒュインは温和に微笑を浮かべているが緊張を隠せていなかった。
「何か聞こえた?」
「…ここはサ、身体売るお店とか身体で遊ぶ人たちが来るお店が近いんダ。チミは近付いたらいけない」
「どうして?」
「どうして?理由は簡単だヨ。いけないことだからサ」
「どうしていけないの?」
首を傾げる。リーネアもまたヒュインのように首を傾げた。
「子供を作る真似をお金かけて遊びでしてるなんて、涜神だヨ」
「そうかな?」
ヒュインは下唇を噛んだ。リーネアは首を倒したまま、口にしたくもないといったふうなヒュインから目を離さなかった。
「みんなの身体はネ、神様からの借り物なんだヨ」
「じゃあさ、その借り物を守るために身を売るっていうのもアリでしょ。飢えるってつらいよ。おにいさん、飢えたことある?骨と皮になって借りた物返せよと?」
俯いた。だがリーネアからはよく見えた。まるで拗ねた子供だ。
「食べられそうなものならなんでも食べるよ。野草でも、乾涸びたミミズでも、まだ産まれたばかりのふわっふわの子猫でもさ。飢えが凌げたって次は寒さだよね。生憎寒さは知らないけど。その後は住むところ。やっぱり略奪を選んだ人に燃やされちゃった」
リーネアは肩を竦めた。ヒュインが遠ざけようとした真っ暗な区画の前を曲がり、薄明かりが灯る通りを歩く。酒の匂いと甘い薬草の香が焚かれている。控えめに動物や果物の掘られた板が飾られていた。色町だ。
「いけない!近付いたら、いけないヨ…」
足音が迫って背後から抱き竦められる。縋り付くようだった。
「おにいさんの御託宣は素晴らしいんだろう、きっとね。でもぼくはさ、そっちの側じゃないから」
ひらひらと、ヒュインを振り返ることもなく色町を進む。曲線を描く先から人影が現れ、リーネアは止まった。郊外の賭場とウィンキールが言っていたのを思い出す。だがその人影はダントプントだった。リーネアとヒュインの地点からは見えなかったが、何者かを突き飛ばし壁伝いに歩いて曲がり角に消えた。
「人間の血肉が神の借り物なんて嘘だよ。それかただの大衆詩だ。だって借した覚え、ないもの」
ヒュインの手を払ってリーネアは突き飛ばされた男へ向かったが、ぼうっとしていたヒュインは曲がり角へと走っていった。肩凝りが酷いと言ってきた船員がいたが、リーネアは初めて肩に何かを玉のようなものを埋め込まれた感覚があった。
「コックさんじゃん」
ウィンキールが石畳に尻餅を着いたままでいた。ばつが悪そうに顔を背け、舌打ちが色町を包む多少の喧騒に溶けた。
「追わなくていいの」
「追ったって同じですよ」
「同じって?」
「また突き飛ばされて逃げられる。お互い無駄な体力使わなくて済むというわけです」
自嘲した。口角にある血の滲んだ傷に手を伸ばすと、触れる前に虫を追い払う手付きで払われた。
「コックさんも身体売ってる"冒涜的な輩"なの?」
鼻で嗤われる。「なんですか、それ」と。
「脚開いて稼いだ薄汚い金のことですか?」
色気のある顔立ちに嫌味ったらしい笑みが浮かぶ。
「脚開くと薄汚いお金稼げるの?」
「貴方のような崇高な化け物は分からなくていいんですよ、そんなこと」
「なんで?」
「厄介だな。その様子では、理解し得る能があるとは思えませんが」
また何か問おうとすると溜息に阻まれた。
「よかった、貴方をあの場に連れて行かなくて」
「郊外の賭場とかいうところ?」
ウィンキールは立ち上り両手を叩いて、衣服も払う。すぐ傍の建物から女の笑い声や男の枯れた声がした。リーネアの問いには答えず
「あれだけダントさんにべったべたな貴方がよくオレのほうに来ましたね。意外ですよ。それとも何ですか、オレに凶兆でも出てますか。そろそろ罰が当たってもいい頃ですからね?」
「ダント泣きそうだったから。それだけの理由だよ」
挑発的な笑みが消え、目がいいようで、と小さく吐き捨てられる。
「あの子、1人にならないと泣かないでしょ…って言っても、踊り子のおにいさんが追っていったけど」
「踊り子…?」
ウィンキールは歩いて色町から引き返したが、段々と足早になり、とうとう走りだした。残されたリーネアはそのまま色町を抜けたが、街の果てに出ただけだった。その先は点々と小屋があり、その先に小さな光の群れがあった。そこがウィンキールの言っていた郊外の賭場がある地だ。真っ暗な山と輝いた星空を暫く眺めてから宿へと戻った。
宿には誰もいなかった。真っ暗な部屋に明かりを灯す気にもならず、リーネアはベッドに座ったきりだった。明朝になってやっと足音が聞こえたところで帰ってきたのはウィンキールで、彼自身に馴染んだバニラやココナッツに似た香りだけでなく酒と煙草、その他甘さを帯びた薬草の匂いをきつく漂わせていた。リーネアを見ることなくベッドに直行し、そのまま眠ってしまった。空が明るくなるにつれ、リーネアの隣の空いたベッドが薄暗い室内にくっきりと浮かび上がる。窓の外を眺めながら朝までの数時間を過ごす。何の報せもない。何の報せもなかったが、ダントプントはヒュインのもとにいるのだと何となくリーネアの中では完結していた。探そうとも思わなかった。心配も不安もない。ヒュインという青年の温和な性格と上滑りした価値観に触れたなら、これほどダントプントに近付けられるものはいないくらいだった。だがウィンキールにとってはそうではないらしい。ベッドに倒れ込むように寝た男が朝日に照らされる。初めて晒される、気に喰わないコックの無防備な状態。ウィンキールは常人にはない特殊な空気を持っている。リーネアにはその正体がはっきりと分からないでいた。
酔っ払いは早くに目覚め、浴場に向かった後にいつも通りにリーネアと共に勤務先に行った。治癒を拒み、酔いが覚めないでいることを隠しきり、店主には柔らかな笑みを見せる。店先で呼び込むリーネアに寄せられてやってくる客たちに人手が足りず、ウィンキールが給仕に回ると、人好きのする愛想笑いを貼り付けていた。仕事が終わる頃には厨房の椅子の背凭れを抱いて、ぐったりとしている。
「コックさん、仕事終わったんだけど…」
真っ白い手を伸ばすと、見もせずに察したらしく手の甲で払われる。
「帰らないの…?」
店主は困った笑みをリーネアにしたきり厨房を出て行ってしまった。
「彼のいない宿に何故帰る必要があるんです…?」
「じゃあ、ぼく先帰るよ。帰ってこないならどこかで休むんだよね?屋根があって、煙くなくて、裸のおねえさんがいないところね。心配するんだから」
ウィンキールは煩わしいほどの栗色の髪に顔を隠したまま動かなかった。街は赤く染まる前の金色が差していた。裏口から出て宿へと帰る途中でタンバリンを手にしたヒュインとすれ違った。ひらひらとタンバリンに括り付けられた麦畑のような黄金色のリボンが揺蕩う。空の光を浴び、さらに輝いていた。舞い踊りながらリーネアのもとへ跪くまでの所作は、漁港で商人から見せてもらったことがある、銀色に赤と青が照る小さな淡水魚に似ていた。
「リーネアさん」
畏まって金色に染まる真っ白な手を取り、唇を当てる。
「昨夜は、ごめんネ!」
一変した弾けた笑顔を見せ、立ち上がった。タンバリンの側面に連なった小さなシンバルがしゃらしゃらと鳴る。
「ダントとは一緒だったの?」
弾けた笑顔は固まって、眉を下げる。紅い瞳が金色に呑まれ、それから泳いだ。
「う、うん。今ネ、宿に送って…戻ってきたところなんダ!えっと…そ、の…」
落ち着きなくヒュインは自身の下唇を摘まんではすぐ離し、リーネアの足元に視線を彷徨わせてはまた唇に触れた。両手が宙を掻いて、タンバリンがそのたびに音を立て3本垂らされたリボンが揺れて煌めく。
「ダント、どうだった?」
「ど、どうだったって、なに…が…」
背筋を伸ばし、口が小刻みに震えている。ヒュインの行動にリーネアは急かされている気がした。
「泣いてたとか、怒ってたとか、落ち込んでるとかさ……」
「ああ、うん…今は、落ち着いてるヨ」
ビールを流し込んだ空の下でヒュインの顔は真っ赤に染まっていた。口元に手の甲を当て、リーネアから目を逸らす。
「そうなんだ。よかった。ありがと、おにいさん」
「じゃあネ。気を付けて帰るんだヨ。えっと、2番目のお兄様にもよろしく言っておいてネ」
「え?」
ヒュインはまたひらひらと舞っていく。リーネアは目と鼻の先にある宿へと急いで部屋へ飛び込む。ベッドに座るダントプントを久々に見たような気がして、リーネアは飛び付いた。
「リーネア、様…怒ってるんですか…」
ベッドに押し倒すと、ダントプントはひどく怯えていた。
「なんで?ぼく怒ってる?」
倒れたままのダントプントの腰に乗る。
「貴方との約束を反故にしてしまったので…」
上からダントプントの身体中に触れた。逞しい肉感を楽しんでいると、起き上がったダントプントに抱えられる。
「帰ってきてくれてよかった。大丈夫?どこも痛くない?」
「私は……俺は、貴方がそんなふうに触れていい人間じゃないんです」
少し焼けた肌がリーネアの細い手を取って、離させた。抱き上げられ、ダントプントとも距離を取られる。
「ぼく、汚かった?」
ダントプントは長い睫毛を伏せて首を振る。
「俺に触ったら…或いは…。だから、そうなる前に…」
「約束守れなかったから?それでそんなこと言うの?ごめんね。約束なんてしなきゃよかったんだ」
俯いた眼差しの先にある膝の上の手にリーネアは己の手を重ねる。震えていた。違うんです、違うんですよ。独り言ちていりのかと思うほど小さく、言い聞かせているような声。
「あっはは、ぼくがそう言ったらダントは余計自分のこと傷付けようとするよね。だから言わな~い。優しくて真面目な子なんだもんね」
まだリーネアの手の下で震えていた。
「それは、きっと貴方の…勘違いです…」
「勘違いじゃないよ。ダントはぼくにパンくれたじゃん。ごめんねって謝りながら。『お前も子猫みたいに可愛かったらね』って」
ダントプントは一瞬だけリーネアを見た。リーネアと目が合う前に逸らされる。
「覚えて、ないです。やっぱり勘違いだと思いますよ」
「ふぅん。でもぼくは覚えてるから。ダントは忘れたらいいし勘違いにしたらいいよ」
隣からダントプントのある種木材を思わせる微かな渋さを潜ませながらも陽の光を浴びて咲き誇る花のような柔らかな匂いに混じり、清涼感に包まれた香辛料の癖のある匂いを纏った柑橘類の甘い香りがした。
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