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流浪 -complex-

complex 3

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 同棲相手は寝ていなかった。別れ際にメオからもらったパンを食らい、寝巻き姿の婚約者に経緯を説明する。
「君の顔を見てから寝ようと思ってね。家のことはすべてやったから。君も疲れただろう。紫鴉しあをありがとう。着替えや日用品はどうする。俺が出勤前に届けるのがいいかな」
 彼岸は笑みを貼り付けたまま何から返していいのか分からなかった。婚約者ハンスは虐待され瀕死の弟を連れ出し、親元から離れてきただけに野垂れ死にかけていた弟と同年代の赤の他人に半ば依存的であった。当の弟はすでに健康優良児にまでなっている。実子を心配する父親のような面をするハンスへ彼岸は苦笑いを浮かべた。あの少年の正体をこの者は知らない。
「ありがとうございます。貴郎あなたはお仕事がありますもの、あの子のお世話くらいわたくしがやりますわ」
 ハンスはわずかな困惑を示したが、それで話がついた。
「じゃあ、俺はもう寝るよ」
「はい。おやすみなさいませ」
 彼岸は何度目かのおやすみを言って寝室に消えていく背中を見送った。大手企業グループのゲーム製作の株式会社に勤務しているらしいが時々帰宅しない日もあった。残業か、接待か、弟のところに寄るか、どれでも良かった。ダブルベッドで眠らなければならないのが窮屈で仕方ない。隣に他人の気配がある。気が休まらなかった。リビングのソファーのほうが居心地も寝心地も良かった。寝に入る直前まで肩凝りが伴う。この者の弟を殺すまで。


「彼岸」
「…はい?」
 隣で寝返りをうつ衣擦れが暗い中に響いた。レースカーテン越しの大窓から入る青白い光は柔らかい。
「のらりくらりとここまで来てしまったが…君のことを俺は何も知らないな」
 さっさと寝ろよという一言を飲み込み、返事したことを悔いた。
他人ひとに言いたくない事情はあるかと思うから…聞かないでもいいと思っていた」
「わたくしにそんな過去はございませんわ」
 ハンスは訊かずとも、毒々しい両親と虐待された弟について話した。弟の話を初めて出された時に。
「紫鴉と接する君は、まるで優しい姉のようだ。弟でもいるのか」
「おりませんわ」
 姉と義兄がいた話をしようとして、やめてしまった。訊かれていないことを喋るのも面倒になった。
「そうか…妹も?」
「妹もおりません」
「会社の後輩が、弟の友人たちといる君を見たというから…それなら間違いだろうな。雑な奴だ」
 探るような響きはなかった。そうですわね、と返事をする。隻腕の後輩がわざわざそのことを話していたのは盲点だった。雑談の出汁にでもされたのだろう。
「おやすみ、彼岸。少しだけだが君のことを知れてよかった」
 歯の浮くような言葉をハンスは何の嫌味もなく言いのける。
「おやすみなさいまし」


 紫鴉は病院で寛いでいた。今すぐにでも退院出来そうなほどで、日当たりのいい窓際のベッドは快適そうだった。普段彼が寝ているソファーよりも広さがある。
「ガキ、来たぞ。退院できそうか」
 ベッドの脇に荷物を詰めたカバンを置く。紫鴉はグラビア雑誌を開いていた。隣の患者のベッドサイドに積まれた雑誌をみるに、借りたらしい。
「もうすぐじゃないの。安心してよ、手前の治療費くらいどうにかするから」
「ガキが気ィ遣うな。どうだ?婚約者ヤツがあれこれ訊いてくるからな。興味はねぇが聞いてやる」
「看護師さんも優しいし、いいんじゃない。星4。さっき女の人来たんだけどさ」
「ほぉ?」
 室内のベッドのどこかの見舞人のことだろう。
「あんたのこと訊いてきた」
 グラビア雑誌を捲り、オレンジのビキニの写真を見た途端、紫鴉は口笛を吹いた。
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