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エスケープアイノブーケ 1話放置/クール攻め/ワンコ受け/クローンもの/特殊設定予定/女体キャラあり

エスケープアイノブーケ 1 気になっていた八重歯の彼と謎の研究施設に誘拐された話

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 音楽を止める。好きなミュージシャンだったが、あまり売れはしなかった。テレビで数度観たことがあるがあまり目立つところはない。それでも不思議な世界観を作り上げ、自分たちの音楽性を追求していく様に惹かれ、その方向性がただ単に好みでもあった。すでに解散しているのが惜しいが、同時にミュージシャンとしての形が完結したことに安堵してもいる。変貌しない。大量消費の商業主義と化した使い捨ての楽曲にはなって欲しくない。
 車のドアが軽快な音を立て開いた。ヨスガ-縁-は目の前にそびえ立つ高層ビルを見上げる。雨だった。水滴が睫毛に絡む。そしてまじろぐとおぞましさすら感じる美貌に伝い落ちた。黒い雲が灰色の空を囲っている。小さな影が光を求め飛んでいく。



 図書館で勉強をして帰りに寄るファストフード店にいる別のハイスクールの生徒のことが一目見たときから気になっていた。スティックポテトを齧る唇や、口角に引っ掛かる八重歯、笑った時に消える目。言葉を交わしたことはなく、声を聞いたことがあるのみだった。炭酸ドリンクや甘さの強いメニューばかり頼んでいるのはコーヒーにしか用のないリク-緑-とは反対だった。やがて目的が口実に変わった。毎日、遠目から八重歯のカレを見ていた。ぐりんとした三白眼で、小猿のような雰囲気がある。それでいて人懐こい犬や気紛れな猫のような態度も取っているのだから興味は尽きない。
 言葉は何も交わせなかった。一言でさえ交わせる機会はうに来なかった。ハイスクールを卒業すると、リクはユニバーシティに進学した。キャンパスは学園都市の中心部にある。図書館もファストフード店も揃っている。それでも外地のファストフードを訪ねた。八重歯のカレとは会えない。


 しかし会えた。

 まるで新興住宅地の展示会のようだった。否、ペットショップだ。視力がすぐに落ちそうなかなり強い照明を浴びている。壁の二面をガラス張りにされ、その奥は暗かった。記憶を辿った。頭が鈍く痛むが、外傷を受けたようなものとは違う。鼻腔が沁みた。図書館の帰りに例のファストフード店へ寄る道で背後から抱き付かれたのだ。悪臭ともいえない刺激臭が顔面を刺すようだったのは覚えている、そこからの記憶がない。
 リクはソファーから起き上がる。ソファー、ドレッサー、片側だけのキッチンテーブルセット、家具がすべて向いているほうはそのまま壁一面にガラスが嵌められ、その奥は暗かったが、もう一面の嵌め殺しのガラス壁は面積が狭められている。中を覗いた。そこも展示室のようだった。この展示室と同じくソファーが置かれ、その上に誰かいた。傷んだ茶髪や跳ねた毛先は八重歯のカレを思い出せた。だがおそらくリクの幻想だろう。しかしこの幻想が妙に粘こい。ガラスを叩いた。八重歯のカレかも知れない。それが知りたい。ここでこれからどうなるのか知れないが、八重歯のカレを起こさなければならない。名前を知らないために呼べなかった。ガラスを叩くが、音も衝撃も吸収される。八重歯のカレと思しき人物は寝たまま動かない。透明な壁を殴り続ける。感触からいうとガラスではなく強化された樹脂のように思われた。骨が痛むと引っ掻いた。爪は短く切り揃えてある。八重歯のカレが自分を一個人として見てくれるかも知れない。
 展示室の壁が開いた。扉はない。突然、綺麗な長方形の穴を描くように開いたのだ。白衣に防護メガネを掛けた者たちが入ってくる。リクは透過性の強い壁板に背中を預けた。両手を上げる。医療従事者のようでいて、その雰囲気は医療従事者とはかけ離れて見える。白衣の袖から伸びるゴム手袋が握るのは注射器だった。一滴二滴、液体が漏れ出ている。リクは後退るが、壁が邪魔をする。左肩から右胸斜め掛けに刺又で留められた。注射針が近付く。刺又を押し除けられない。
 天井に嵌め込まれた強すぎる白い光が途端に真っ赤に染まった。鼓膜を突き破りかねない警報が鳴った。ブーッ、ブーッと、耳がおかしくなりそうだった。視界も赤くなる。白衣の者たちがたじろぐ隙にリクは刺又を退ける。赤いランプが室内をぐるぐると回り、聴覚は激しい警報にほぼ機能しなかった。ドアのあった壁に近付くと作られたような長方形の穴が開く。数歩もない暗い通路を出ると、展示室の外に出た。一目見たリクの感想は研究所だった。2つ並ぶショールームの照明を頼りに、そこは暗かった。無機質な壁と床に、繋がったようなせり出たデスクと一体型のキーボード、そしてモニターが設置されている。伸され倒され積まれている白衣の者たちは皆、生きているのか死んでいるのか分からなかったが、出血や損壊は見当たらなかった。しかし1人だけ、白衣も着ずに立っているのがいる。歳の頃はリクよりも随分下、15、6歳だろう。展示室に繋がるらしきボタンを操作している。警報が止む。赤いランプも消えた。少女と見紛ったが、強い光と薄暗さが細い首にある隆起を強く描いていた。長い指がボタンを押した。炭酸飲料のボトルを開けたような音がする。明るすぎる展示室とこの無機質な研究所を隔てる強化樹脂の透明な壁が持ち上がっていく。2部屋同時だった。リクの意識は白衣でもなく、明らかにこの研究所らしき仕事場に乱入してきたとしか言い様のない少年から離れた。存在すら忘れてしまった。彼の脳裏にはソファーで横になっている八重歯のカレだけだ。謎の機械的なデスクを跨ぎ、猫みたいに寝ている気になる相手を揺り起こす。触れた瞬間、静電気に似た悦びを覚えた。
「起きろ……起きろ……!」
 リクの気になって仕方がない相手は寝返りをうつ。にゃむにゃむと唇を食み、目覚める気配はない。早く逃げねばならない。抱き上げようとする。笑い方、仕草、雰囲気それらと同じく子供っぽい八重歯のカレはリクの腕を嫌がった。思わず引っ叩いてしまう。今は起こし、逃げねばならない。
「ん……っ何?」
 濡れたガラス玉のような目が開いた。真っ先にリクを捉えた。
「早く来い」 
 眠気眼が冴えるのを待つ時間はない。腕を乱暴に掴んで展示室から引っ張りだす。機械の並んだデスクを、突然に歩かされた八重歯のカレは跨げずに転び落ちる。リクは自分よりもいくらか背の低げな相手を受け止める。まだデスクに埋め込まれたキーボードの前に立っている少年と目が合った。
「ありがとう」
「………別に」
 表情ひとつ変えずに少年は顔を背けた。
「兄弟なん?」
 まだリクの腕の中に着地の低い体勢でいる八重歯のカレが訊ねた。強い照明がその瞳をさらに大きく見せる。猫ほど聡明げではなかった。ショウガラゴのような愛嬌がある。吸い込まれそうだ。吸い込まれても構わなかったが、身体が吸い込まれることを許さない。目を合わせていられなかった。
「違う」
 声音が低くなってしまう。
「早く逃げたほうがいいんじゃない」
 少年の指先はキーボードを突ついていたが押すつもりがあるわけでもないようだった。リクは八重歯のカレを引っ張る。訳も分からず付いてくる。
「何?なんなんだよ?」
「いいから来い」
 廊下に出る。辺りを警戒しながら左右どちらが正しいのかも分からないまま腕に気になる人を収めて進む。
「暑苦しいって!なんなんの、アンタ。つか、誰?」
 この一言はリクを打ちのめす。分かっていたことでも自ずと抱いてしまう期待が砕かれた瞬間だった。本当に一方的に見ていただけらしい。長くもないが決してそう短くはない間、限定的な範囲にかかわらず、この人の中にファストフード店でコーヒーだけを買っていく男子生徒などいなかった。
「誰って……」
「有名な人だった?モデルさんとか?」
「………違う」
 人懐こげだった目が不信感を示している。
「まぁいいや。おで、トータロー-桃太郎-ってんだ。トータって呼んでな。よろ」
 握手を求められた。両手で掴みそうなのを堪えると、タイミングを逃す。怪訝げな表情が深まっていく。握り損ねた子供みたいな手が落ちていった。
「なんだよ、ノリ悪いな」
 友好的な態度の空振った八重歯のカレのほうもばつが悪そうだった。
「トータ……トータ…………」
 呼べる名を得て、リクは呼ぶつもりもなく繰り返す。長いこと求めてきた情報だ。あらゆる名前を何度も想像して、どれも合わなかった。トータロー。胸に染み入っていく。トータロー。この名前は想定していなかった。ファストフード店に足繁く通っていた頃の自分に教えてやりたい。スティックポテトをウサギみたいに食らう八重歯のカレの名前を。トータロー。
「何?」
 印象は良くないらしい。返事には険がある。ファストフード店で談笑していた友人たちに向けていたような愛想はひとつもない。
「いいや、なんでもない………」
 目を合わせられない。顔も見られない。顔を見られたくない。上擦る声を抑えると低く素気無く聞こえる。それを桃太郎の気分を害することだと分かっていながら繕えない。
「ってかここどこなん?」
「分からない」
「分かんないってなんで」
「起きたらここにいた。ここから出よう」
 有無を言わせずに桃太郎を引っ張る。すぐに止められたとはいえ派手な警報が鳴ったのだ。誰か外部から人が来てもおかしくない。にもかかわらず、廊下は静かである。観葉植物も窓もない無機質な壁と床はさきほどの研究室みたいなところと大して変わりがない。むしろあそこが研究室である匂いを強めた。
「なぁ」
「静かにしてくれ。見つかったらどうなるか分からない」
 防護目鏡を付けた白衣の者たちから注射をされそうになったことを、この長年気に掛けてきた相手は知らない。
「う、うん。なんかのサプライズとかじゃねぇの?アンタ誕生日?」
 耳を澄まし、壁に桃太郎を押し潰さんばかりに寄って、少しずつ進んでいく。
「違う。それと、俺はリク」
「うん……?うん。あ、そう。リクね、ども」
 スティックポテトを齧り友人たちとの話に夢中になっていた口から呼ばれた時、リクの胸には電流が走るようだった。塩と油のついて白く照っていた唇が、リクの名のために動いている。妙な感動に陥った。固まっていると顔を覗かれる。無邪気な上目遣いだ。身長差がそうさせる。ファストフード店で観ていた相手が眼前にいる。
「リク?」
「気安く呼ぶな」
 咄嗟に出た言葉は本心ではなかった。
「はぁ?ふざけんなっ。やってらんねぇ。おで帰る!」
 慎重に進まねばならないところを桃太郎は喚いた。壁に押し付けようとするリクを突き飛ばす。
「おい!」
「なんでアンタみたいなカンジ悪いやつに束縛されなきゃなんないんだよ!どーゆーつもりか知らないケド、おで知~らない!」
 無警戒なのがかえって怪しい廊下を桃太郎は駆けていった。
「トータ!」
 来た方向とは逆へ小さくなっていく背中を見送り、思わずリクも叫んでしまった。



 ランドリーシューターから落ちてきたらしい少年の姿にサナエ-早苗-はランドリーコーナーを使えずにいた。意識から洗濯という目的がどこかに飛んでしまった。
 この男は見た目は30代後半といった頃合いで、目元にいくらか疲れた影が落ちている。青白く、まだ強壮な年頃であるにもかかわらず黒々とした髪は艶やかだが髭は薄い。若い時分はかなりの美男子であることを窺わせた。
 彼は白衣やシーツに埋もれた子供を見つけてからまるでオブジェのようになっていた。その人目を惹くだけでなく、感慨を与える端麗な容姿はオブジェの役割を十分に果たせるだろう。
「き、君……」
 餅のような頬に手の甲で触れた。弾力にどくりと脈を飛ばした。肌理きめが溶けて彼の肌に入り込むような滑らかさがある。あまり汚れのない白衣や真っ白なシーツも少年に対して効果的な演出がされていた。彼は短い睫毛を持ち上げる。頭を痛がった。
「いってぇ……」
 そしてサナエに気付く。
「リクのお父さん?」
 何者かの父親と間違われ、そんな歳かと彼は微苦笑を浮かべる。
「違うか。誰?ここどこ?コインランドリー?」
 少年は衣料を踏み、大規模なランドリーケースから出ようとする。
「そうだ、洗濯場だ」
「なんだ、そっか。びっくりした。なんか変な奴等に追われてさ。ゴミ燃やすトコだったらどうしようかと思った」
 彼はにかりと八重歯を見せた。サナエはまた胸の中心を軽く揉まれたような心地がした。少年は廊下に出ていった。しかしまた戻ってくる。何をするかと思えば慌てた様子で白い山に潜る。
「何をしている」
「しっ!」
 廊下を白衣の連中が通っていた。足音が過ぎ去っていく。すると少年は首を突き出す。
「行った?」
「行った」
「なんかおで、サプライズゲストみたいな感じで、いきなりここに来たんだよね」
 彼は髪を掻いた。言っている本人も何を話しているのか分かっていないようだ。サナエも要領を得ない。
「連れて来られたということか」
「そ!なんか変なヤツもいたんだけど、すげぇ失礼なヤツでさ。いきなり抱き付いてきたかと思ったら、喋るなとか呼ぶなとか言うんだぜ」
 話を聞いている限り性犯罪者だ。サナエは小さく唸った。
「それは酷いな」
「おで帰りたい。誰だよ、こんなサプライズしたの。嬉しくねぇよ」
 また足音がした。少年は怯え、また白衣とシーツの山をかぶる。
「……俺の部屋に来ないか。ここだと落ち着かないだろう」
 足音はランドリースペースを横切らずに止まった。異国の賑々しいが妖しげな祭りを思わせる仮面を掛けた白衣の長身が入ってきた。
「誰と喋っていた?」
 サナエはこの男が苦手だった。ヨスガ-縁-という若いくせこの研究所を乗っ取り、己の模倣を増産しているという話だ。そしてサナエもまたこの仮面の男を模倣したものとして生み出された。
 サナエはオリジナルに逆らえない。すべてを掌握されている。しかし少年のことを打ち明けることもできない。
「あれ?リクの声だ。リク?あ~、バレちった。最悪」
 白い繊維の山が蠢いた。ヨスガの仮面の奥にある目も彼を捉えたようだった。
「何それ、なんのコスプレだよ?全然似合ってねぇし。つか怒ってんの?でもおで悪くねぇもん。アンタが先にケンカ打ったんだからな」
 ヨスガは溜息を付いた。仮面を外す。サナエとよく似た目鼻立ちだが、まだ20代前半といった頃合いの瑞々しさで、鼻梁の通り、薄い唇と切れの長い目を覆うすっと入った二重瞼は冷淡な印象を与えた。長く濃い睫毛が伏せられ、桃太郎を寒々とした視線で放さない。
「そうか。俺はそんなに酷いやつだったか。気を付ける」
「ふん、許したげる」
「ありがとう」
 抱擁を求めるようにヨスガは両腕を広げた。素直な返答に気の好さそうな少年は応じようとした。
「待て。彼は君の探している相手じゃないかも知れない」
 肩を掴んだ。彼は不思議そうな表情で振り返る。
「いや、リクだけど。さっき言った性悪男ってコイツ!でも反省してるみたいだから許したげるんだ」
 可憐な唇がきゃらきゃら笑う。
「許してくれてありがとう、桃太郎トウタロウ
 背の高いヨスガは20代男性の平均身長くらいの彼のおとがいを捉えて上を向かせる。
「高身長マウントやめろよ」
 顎を掬うヨスガの手を桃太郎と呼ばれたサナエからするとまだ少年といえる相手は払い除けた。彼は物怖じしない。
「おっちゃん、ありがとな。リクと帰るよ、せっかく友達になれたんだし。行こうぜ、リク」
 ヨスガは意味深長な微笑を浮かべている。目が合った。サナエはまるで己の若い頃、よく似た弟や息子のようなこの男が苦手だ。
「待て」
 気付きけば桃太郎と呼ばれていた少年を呼び止めていた。少年といってもまだ右も左も分からない子供ではなく、生まれて10年も経たないのはサナエのほうだ。彼は生まれた年月でいえばヨスガよりも年若いのである。それでいて成長期を終え声にも掠れが混じり、容貌が30代に差し掛かっているのはこの研究所によるところが大きい。すべてはヨスガをモデルにした設計に過ぎなかった。オリジナルが模倣品の邪魔を許すはずがない。
「どした?」
 桃太郎を引き寄せる。ヨスガの眼差しは冷淡にサナエを捉える。わずかばかりサナエのほうが背が高い。
「この人は、きっと君の知り合いではない」
「そんなことねぇよ。顔も声もリクだもん」
 無邪気げな瞳がサナエを見上げる。目と目で会話をするなど不可能だ。相手が示すのは戸惑いと不信感だ。
「……なんで?」
 よく光を集めたまなこにサナエは言い様のない後ろめたさを覚えた。彼はここに居ていい人間ではないということだけがはっきり分かった。サナエの視線は桃太郎を離れ、ヨスガの動向を窺っていた。互いに元から表情が乏しい。
「桃太郎、帰ろう。こんな薄気味悪いところはもう嫌だ」
「う、うん。じゃあな、おっちゃん」
 呆気なく桃太郎はサナエから離れた。ヨスガのほうに行ってしまう。
「ヨスガ、お前は一体その子に何をする気だ……」
 桃太郎と肩を組み、ランドリースペースを出て行こうとするヨスガが首だけサナエを向いた。
「やっぱ知り合いなん?親戚とか?」
 先に口を開いたのは桃太郎のほうだった。
「ああ。俺の―だよ」
 作ったような甘い声音とともに桃太郎は膝から崩れ落ちた。白衣に包まれた腕が抱き留める。空いたほうの手に光るのは注射器だ。
「ヨスガ」
「余計なことを吹き込むな。模倣品は俺の駒になっていればいい」
 ヨスガは桃太郎を抱き上げ、ランドリースペースから連れて行く。まったく模倣品は反抗しないという驕慢に浸かった背後からサナエは足を払った。生贄を奪取する。意識を失った身体は重かった。ランドリースペースを駆け抜け、行くあてはない。自室に帰ればすぐに捕まる。入り組んだ曲がり角をあるだけ曲がっていった。
「起きなさい、桃太郎」
 途中、途中、彼を揺らしてみても目覚める気配がない。サナエは自室とはまったく反対の方角にあるが、彼と同類の者の部屋に辿り着いた。居てくれと願う。ドアを叩いた。インターホンを押す。ヨスガに追い付かれてしまうかも知れない。
 目の前のドアが開いた。人工的な花の香水が薫る。出てきた部屋の主の顔も見ずに彼は桃太郎を差し出した。
「彼を頼みたい」
 相手は言われるがまま、ほぼ咄嗟に桃太郎を預かってしまった。漆黒の大きな目とそれを囲う長い睫毛がサナエを見上げた。白い肌によく生えたストロベリージャムを塗ったような赤い唇は小さくぽんやりと開くだけだった。サナエよりも生まれは早いが、まだ少女といった頃合いの彼女はショウ-青-といった。黒いベルベット生地のジャケットにフリルの多いがあまり華美でないピンク色のワンピースを身に付けている。
「ヨスガに渡さないで欲しい」
 彼女は小さな頭をこくりと頷いた。
「何も知らないフリをするんだ。俺に何があっても彼を渡さないでほしい」
 彼女はまた頷いた。艶めいた黒髪が白い輪を作っている。サナエは飛ぶように駆けていった。ショウはその細腕から信じられないほどの力で男性の平均身長はある桃太郎を抱き上げている。パッチワークのカバーが妙に部屋の中で浮いているソファーに彼を座らせるが、意識のないために倒れてしまう。諦めたように桃太郎の姿勢を整え、ブランケットを腹に掛けた。彼女は一度ソファーから離れ、やがて室内には音楽が鳴り始める。雨音やせせらぎ、鳥の囀りや遠くの雷鳴を収録したCDアルバムだ。戻ってきた彼女の手にはポーチが握られている。可憐ながらも表情のない顔で見ず知らずの若者を眺め、やはり表情もないままリップカラーを取り出すと、指で芯を撫でた。顔料の付いた指の腹が意識の無い唇をなぞる。口角まで引いて、まだ肉感を惜しんだ。この者とは会ったことはないが、この者を知っている。原本オリジナルのヨスガが自室の奥に大切に保管している。だがこの者ではない。姿形はよく似ているが、まったく異なっている。大きく違う。
 頬に掌を添える。ガラスケースの奥にいる瓜二つのものには触れられなかったが、今こうして、模倣品か或いは原本には手が届いている。肌理きめと肌理が吸い付くように合う。冷え性の傾向があるショウの指先が温まる。強力な粘着剤や磁力が介在しているわけでもないが、ショウは離せなくなった。ヨスガの派生でありながら、核の部分に変わりがない。サナエなどは性別まで同じだ。
「起きて」
 そこまで多くはない頬肉を摘む。ショウもまたヨスガに見つかることに嫌気が差す。早く起こし、ヨスガから逃さねばならない。サナエにも返さない。
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