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金春村 全34話(打切り風)/5話~/剽軽攻め/偏屈クール攻め/ワンコ受け/若パパ受け/
金春村 19
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火子は山鳩を呼んだ。彼は尻込みしている。稲城長沼が咳をまた殺して、行くように言った。咲桜もそこに口添えした。そこでやっと少年は衣服を正して幼馴染のもとに駆けていく。
「据え膳食っときゃよかった、はナシね」
「はい。巻き込んで申し訳ない。私と彼とのことに……」
「まさか!最初からオレ込みの話だったよ。仲間外れにしなさんな」
山鳩が去ってしまうと咲桜は挑戦的な態度で布団に近寄った。
「で、実際のところどうなのさ。言葉の綾でああは言ったけど、使いもんになんの?」
「はい」
「きちんと勃った?」
「はい」
「今も?」
「はい」
空返事なのか面倒臭げに稲城長沼は同じ調子の返事を繰り返す。口元に手を当て、勢いのある溜息を出して咳を往なす。
「別に今は隠れてないんだし、ちゃんと咳して悪いもの出したほうがいいんじゃないの」
熱っぽい目が咲桜を捉える。それが数秒続き、彼は無言で横になった。隣の部屋からは幼馴染2人の会話が聞こえる。色気も罪もない話し声は多少の無理をしてでも守りたくなるようなところがあった。小さな咳払いがそこに混じる。
「若様は私を辱めたいということは」
「うん?」
「何も、私が山鳩さんを抱く様でなくてもいいわけです」
「ほうほう」
稲城長沼は布団に潜る。鼻先が隠れると、むず痒くなるような可憐さが顕れる。この男には山鳩とは違った、火子とも異なる、猫や小鳥とは反対の可愛いらしさがある。
「私の自涜に耽ける様でも、いいわけです」
雲行きが怪しくなってきた。咲桜は宙に目を投げる。
「というと……?」
「3人で殴られると言いましても山鳩さんが殴られたり蹴られたりなどというのは我慢なりません。私は陸前高田様の前であるにも関わらず、山鳩さんに囚われて、みっともなく劣情にまみれながら自涜に耽ります」
咲桜は稲城長沼の目が天井や壁を睨め回したのを見逃さなかった。
「……なるほど」
「若様が山鳩さんのこともお許しにならなかった場合は陸前高田様のほうでも嘆願していただきたいのです。若様に殴られるのは2人だけで…………」
「いいよ。山鳩クンが甚振られるのはオレだっていい気持ちしないし。お嬢ちゃんもあんだけ頑張って、可哀想だ」
傷だらけの美貌にはまだ迷いの色があったが、やがて妙に丁寧な手付きで掛け布団を捲ると寝衣の前を解いた。鍛えられた胸板にしっとりと汗をかいている。唯美的な外見に反し、傷痕がよく目立つ。肉の削れたようなものもあれば、薄い膜として治ったものもある。
「オレは男相手には興味が無いんでね。嫁御とのアツい思い出に浸っているからどうぞごゆっくり」
嫋やか色艶で、稲城長沼はしなやかな脚を晒した。寝衣の裾が脛に絡まっている。下穿きをずらす。視界に入った下腹部に咲桜は驚いて前にのめる。
「焼かれたんです」
火傷の痕が薄い毛の乗った肌に何本も走っている。淡い肉色の膜が張っている。直線状のそれはおそらく火箸だろう。過敏な箇所の近くということもあって痛々しさがさらに増す。
「若旦那に……?」
彼は頷いた。
「山鳩さんにもあるはずです。私が山鳩さんを手籠にして、その罰が下った直後のことです。仲が裂けていなかったことに大変、お怒りで」
「揃いの傷というわけね」
気付いてやると稲城長沼は彼に似合わない柔和な、満面ではないものの満足げな微笑を浮かべた。そして彼はまたしかつめらしい表情に戻り、傷痕が行き交う下生えの中に佇む陰部に手を伸ばした。大きさと太さがあるが、持主が分かってしまうとどこか淑やかな印象を残す。むさ苦しや悍ましくいやらしいところのない感じがあった。生々しさがない。諦めたような、覚悟を決めたのかも分からない息が風邪ひき男の鼻から抜けていった。
視界情報よりも聴覚が咲桜を焦らせ、戸惑わせた。稲城長沼の乱れた鼻息が途中から口呼吸に変わり、時折声を混じらせる。衣摺れもまた容易に個人の内密な律動を打ち明け、咲桜は顔を真っ赤にした。連なった指の中から膨らんだ男性器が見え隠れし、強い光を帯びていく。荒れた息に布の擦れた音が応える。何か別のことを考えても、鮮烈に、風邪ひきの美男子の淫事が脳髄に刻まれていった。長い睫毛を伏せ、薄い瞼の折り畳まれた目を細める。簾戸の奥では軽快な2人の笑い声が聞こえた。山鳩との間に明らかな色事の気配がない火子についてこの風邪ひきはどう思っているのだろう。
「………っ、」
くしゃりと敷妙が音を立てる。稲城長沼の肩や腕が弛緩して震えた。咲桜は手拭いを持ってくると呟いて簾戸を開けた。火子と山鳩の振り返る。2人は並んでいた。ただの傍観者に過ぎなかったが隣室で行われたことに後ろめたさを覚えた。
「もう少しかかりそうです」
火子が言った。咲桜は生活感のある内装の中であまり生活感のない室内を見回していた。夏場ということもあるが囲炉裏は塞がれている。手拭いは部屋の隅に積み上げられていた。いつ洗濯し、いつ干して畳んだものなのかも分からない。乾涸びているような質感だった。
「翠鳥と洗いに行ってくださる?あまりここの水を使うのは悪いから」
「ほいほい」
小さな甕はよく洗うように言われた。調理器具と食器をいくつか渡される。埃を被り、こびりついている。山鳩とともに稲城長沼の家を出た。彼は楽しそうだった。青藍の影で消える、彼の雰囲気によく合った陽気さがある。
「火子お嬢ちゃんって料理できんのな」
「そうです、そうです!きんぴらとかすごく美味しいんですよ」
このあと青藍のもとに帰るなどということはすっぱり忘れたような快活さだった。自分のことのように火子について話し、はしゃいでいる。それが枷も檻もない山鳩らしかった。根暗男たちがこの少年に惹かれる理由が染みていくように分かる。そして青藍は野州山辺という立場や上下関係によってこの少年の素を渇望しても叶うことはないのだ。そして歴然とした力の差を持ってしても稲城長沼から奪えるのはこの無邪気に罪深い少年の肉体だけなのだ。青藍は悪趣味で、ある種の精神的な被虐趣味、咲桜からいうと天邪鬼な性癖があるのかも知れない。稲城長沼にこの可憐さと相反した快活さも併せ持つ少年を籠絡させたいに違いなかった。そして、嫉妬と憤激に酔っているのだ。業の深い関係の一端を重く担う年少者を咲桜は歩きながら見ていた。彼もそれに気付き、椎の実のような瞳を向けた。
近くの川に着いて食器を洗い、甕に水を汲む。非常に透き通った綺麗な水で、温度も低い。山鳩はじとりと流れる水を見ていた。
「少し浴びていく?」
その言葉を待っていたとばかりに山鳩の目付きが変わり、小さな八重歯を見せて笑った。
「咲桜様は?」
「お兄さんは腰冷やしちゃマズいから遠慮しておくけんど」
傷んだ草履を脱いで、山鳩の両足が水に浸かる。小さく点々とした影が動いた。
「山鳩クンは川遊びが好きね」
「火子お嬢様と遊んだときのこと、思い出すですから……それに、おでがずっと、川遊びしてたら、火子お嬢様も、昔のこと思い出してくれるかも知れないと思って。火子お嬢様、昔のこと思い出したら、思い出してももう昔みたいに遊べないし、残酷かも知れないんですけど」
しかしこの川は人ひとりが浸かれるようなところではなかった。山鳩は控えめに足を濡らし、手で掬ったりする。咲桜はその辺に生えていた草を折って流す。上手く舟は作れなかった。
「少しずつ思い出してるよ、きっと。ンだって随分変わったもんよ、お嬢ちゃん。いいね~、オレも仲の良い幼馴染が欲しかったゾ」
「咲桜様には、いらっしゃらなかったんですか?咲桜様はたくさんお友達、いそうですけど」
新しく葉を千切って草舟を折る。
「へ~、山鳩クンからそう見えてんだ、オレ。仲の良い幼馴染はいなかった。いたっちゃいたけど、ちょっと違う」
山鳩と火子の間には感じられないものが、咲桜と後々の妻となる娘の間にはあった。
「ちょっと違う?」
「オレの親友は実の弟だったからね。恋バナってやつも、弟にしたもんだよ、うんうん」
「恋ばな?」
「色恋沙汰の馬鹿話ってこと」
指についた草の匂いを川で洗う。山鳩は強く興味を示す。
「弟さんいらっしゃるんですか」
「そ、そ」
「咲桜様に、似てる?」
「全然似てないよ。まさかこんなオレみたいなのが2人いちゃ、マズいからね」
彼がすでに死没していることは言わなかった。訊かれない限りは答えない。自ら出した話題により、楽しげなこの少年を打ちのめしたくはない。
「とにか~く、親友が弟になっちゃうくらい、あんまり外の付き合いってなかったよ」
「ご兄弟で仲が良いからそう見えたんですよ、きっと!咲桜様は誰とでも仲良くなれてすごいなって、おで、思ってます」
山鳩は朗らかに笑った。夏らしくない気候の中で、胸だけが季節感を持つ。この少年を捜索した夜からどうもおかしかった。ただ可愛らしいでは済まない、奥深く、背中まで穿たれるような感覚を得ることがある。
「じゃ、そろそろ行きますかね」
山鳩はこくりと首肯した。しかし咲桜とは反対の方向に気を取られる。咲桜も彼の視線の先を探す。一瞬、イノシシが出たものかとぎょっとした。よく日に焼けた肌に洒落た淡い赤の着流しを腰で翻している人間の男だ。巴炎よりも体格がよい。仲の良い兄弟と間違われても仕方のない2人の視線を浴び、手拭いらしきものを洗っていた男も顔を上げた。
「すみません、ちょっと川を汚しちまって」
紅梅色の着流しの男は分かったとばかりに腕を振った。生地に金糸が入っているらしく妙な照り方をした。野州山辺の屋敷の者でないとすれば、この辺りの者ではない。
「この山って結構、外からの出入りある?」
「そんなに無いですよ。この山、妖怪が出るとか、死体がいっぱい埋まってるって噂あるので……」
「なんでまた」
「昔、野師の人たちがここに捨てていくって聞きました」
山鳩は川に手拭いを浸している男を振り返った。固く絞り、身体を拭いている。
「さ、行くか。おっかなくなってきた」
「咲桜様、こういう話、苦手?」
「まっさか。山鳩クンが怖そうだったからに決まってるでしょうが」
「お、おで別に、大丈夫です!」
吃りながらも語気を強めた少年の頭に手を置いた。外仕事が減り、野州山辺の次男の餌付けを受けて髪質が良くなっている。
「頼りにしてるよ~ん?」
稲城長沼の住まいへ踵を返す。水の重みがあるために足取りは来た時よりも遅かった。何度か言葉を交わし、話題は些細なことから稲城長沼のことに移っていく。賑やかなようでいて山鳩は意外と寡黙なところがある。
「稲城くんっていえばさ、稲城くんが女の子になったの見たことある?」
訊ねてしまってから咲桜は失敗に気付く。稲城長沼の話からすると山鳩を殴打のない暴行で甚振った時、春菜葉の姿であるはずだった。
「あります。声も女の子で、紫逢ちゃ……長沼くんがそのまま女の子になっちゃったのかと思いました」
咲桜の危惧したところはなかった。
「オレもやってみようかな?そしたら山鳩クン、可愛いって言ってくれる?」
「咲桜様がするならきっと可愛いですよ」
「名前は~、紅梅か季桃だな。美女だぜ。そしたらあーしと逢引きしてね」
野州山辺の次男の束縛や稲城長沼の執拗な独占欲のことも気にした様子がなく彼は呑気さを窺わせる軽さで頷いた。
「でもそんなことしたら、お嬢ちゃんに怒られちまうね。山鳩クンに悪戯するな~って。山鳩クンに悪い影響だ~って。山鳩クンって呼ばないか、お嬢ちゃんは」
「翠鳥って、咲桜様も呼んでください」
「えっ。いいの?結構、特別な事情があるみたいだけど…………?」
「呼んでください、よかったら。おで、咲桜様なら、どっちで呼ばれても嬉しいですケド、翠鳥のほうが、なんか、火子ちゃんも呼んでるし、嬉しいなって……」
「翠鳥」
呟くように呼んでみる。幼馴染から恋人へ、そこから妻へと関係に伴って呼び方が変わった時のことを思い出す。御せない感慨が内側から咲桜の、主に顔を、炙る。
「照れるな……なんか」
どうしようもなくなって髪を触った。山鳩は突然俯いてしまい、耳まで真っ赤にして甕をさらに大事げに抱き締める。
「こ、これからも、いっぱい、呼んでください……」
「いっぱい呼ぶよ。で、でも、とりあえずのところは山鳩クン。みんなの、前では……」
山鳩はこくこく頷いた。
「それより君も、2人きりのときは咲桜さんって、お兄ちゃん、言っただろ~?」
「ご、ごめんなさい。忘れてました」
「お屋敷だと表面上ってものがあるからね。でも山鳩クンとは、稲城くんにしてるみたいに接して欲しいよ。ンでも、オレのほうが明確にご主人様のお客さんってことで偉くなっちゃうからね。山鳩クンが自然とそうなるように頑張りま~す」
おどけてみせると彼は人懐こく笑った。醜くはないがあまり良いともいえない平凡な器量が愛嬌で溢れた。それが可愛いらしい。
「稲城くんとは仲良いの?やっぱ?」
「はい。いいと思います。いつもおでがお仕事失敗すると、慰めてくれたんです。暗くなったら反省会したな~。今はもう、外仕事、ほとんどないけど……」
今は青藍の傍に付きっきりのはずだ。
「若旦那、怖い?」
「ちょっとだけ…………」
「そっか」
「火子ちゃんには、ナイショですよ」
大したことではないと訴えるのが、彼は上手かった。
「分かった。でもいつでも来たらいいや、オレのところ。そしたら3人でも4人でも遊ぼうな」
「よにん?」
「稲城くん」
合点がいったように少年が唸った。それは彼の雰囲気や性格とはまた別の、無関心というか枝葉末節のことといった感じの瑣末極まりないどうでも良さそうなものだった。
「そういう感じの方向には仲良くなかった?」
「紫逢……長沼くんとですか?」
「うん」
「……その、前にちょっと色々あって。おでは大丈夫なんです。でも気を遣ってるみたいで。ホントに、おでは、何ともないのに。それよりも、おでのコトに巻き込んじゃって悪いなって思ってるのに、なんか、ちょっと言葉にするの怖くて言えないんです。もしおでがそのこと言っちゃったら、なんか紫逢ちゃ……長沼くん、もうおでと遊んでくれなくなっちゃいそうで。ちゃんと謝らないの、卑怯ですけど……」
咲桜は山鳩を睨むように強く見てしまった。
「稲城くん、なんか言ってなかったの、それについて……もうちょっと、核心的なことって言うかさ」
他人の好意を勝手に打ち明けてしまうわけにはいかなかった。しかし確認してみたくもなる。何か、他人事ながらも聞き捨てならないすれ違いがあるようだ。
「何も……ただ、色々あったから、長沼くんはおでのこと傷付けちゃったと思ってるみたいですけど、おで男だし、別にそこまで気にしてないんです。でもそれ言うの、長沼くんのほうに余計気を遣わせそうだから、おでも言わないようにしてて……これ、言っていいのか分からないけど、長沼くんが悪者みたいに聞こえちゃうから言っちゃいます。長沼くんのお仕事上のご不幸ってやつで、長沼くんが大変なときに、おでが能天気にしてたから……」
稲城長沼の恋慕はやはりただの他人事であり、その色恋沙汰の経過と顛末は大衆演劇と同じような娯楽に過ぎなかった。湿気た花火のような男の懸想は火の点くこともなく終わるのだ。見ている咲桜のほうでも燻る。
「火子ちゃんには分かってもらえなくて。親戚とは聞いてるんですけど、おでとのことがあったから仲が悪くなっちゃったんです。気拙いですよね。ごめんなさい、咲桜さん。巻き込んじゃって」
「いーのよ、オレから首突っ込んでるんだし」
内心、稲城長沼を鼻で嗤った。彼の辛抱は届いてやしない。話しているうちに着いた。裏口から回ると清々しさのある米の匂いが漂ってきた。火子が迎え、甕や食器の置く場所を指示すると調理器具を持っていった。山鳩と手分けして火子の言うとおりにしてから囲炉裏の傍でおとなしくしていた。隣で少年がそわそわしている。咲桜は上体を崩し、簾戸を開けた。稲城長沼は野州山辺の当主の如く下半身だけ布団に入れて起きている。目が合った。
「寝とけって風邪っぴき」
「どうも落ち着いていられません」
「山鳩クンが横っちょに居れば寝られる?」
意図せず、しかし悪意を秘めているととられても仕方のないような笑みが出てきてしまう。家主は露骨に苦手げにした。
「余計眠れません」
赤らんだ頬が呆れたように溜息を吐いた。ほぼそれと同時に玄関戸が叩かれる。
「誰?」
思い当たる節があるかという意図を含ませ訊ねる。相手は首を振った。山鳩が出た。
「わいはぁ、川坊主やんけね」
妙に馴れ馴れしい、大きな声だった。咲桜の前で稲城長沼は頭を抱えた。地響きがする。声だけでなく足音も大きい。咲桜は簾戸と柱に挟んでいた上体を引く。紅梅色の生地に金糸の入った大きな男だった。猪首に近い。羆に似た迫力もある。鼻が高く眉が太い。目元を深く窪み、額から影を落とす。がっしりとした顎は魚の背骨までも難なく平らげてしまいそうだ。男は常人ならば刮っ開いたような大きな目で咲桜を一瞥した。街で好かれるような歌劇人のような類いの美形ではないが、文明を厭う野生的な美しさを持ったいい男振りをしていた。
「知り合いけぇ?」
大柄な男は咲桜を通り過ぎ、簾戸を引いた。まるで圧し潰さんばかりだった。
「どこにおる?」
「ここです」
稲城長沼がぼそりと呟いた。
「おうおう、風邪ひいたんけぇ。こないないじけっ子みてになって。如何したそが青痣はぁ?」
男が動くたびに地が揺れる。彼は稲城長沼の前でどしんと屈んだ。
「姉御が悲しむだ。太りッ!」
「嫌です。それで、どういったご用件なんです」
咲桜は稲城長沼と大男のいる部屋を覗いた。上から山鳩も首を伸ばし、火子もその上から顔を突き出した。
「何ば言いよと。其方が姉ば呼びなしっせぇ、吾が来たんだがん」
「何故、義兄さんがいらっしゃったんです」
「其方がえずいとるち聞いたぎぃ、吾も行けりお三紅が言うよったんよ」
どこの地方のどこの言葉かも分からない強めな訛りに咲桜は口を挟んだ。
「なんて?」
先に反応したのは大男のほうだった。ガハハ!と突然笑い出す。
「どうも、どうも。三河安城の山茶花いいます。茶梅と呼ばれとります、よろしぅお願いな。ところでわての顔映らしな義弟どんをぷっくらしたん誰だん?」
三河安城と名乗った男は拳を鳴らす。
「あ~、多分、意味が合ってれば、野州山辺っておうちの不良息子です。金春村ってとこにあるんですけど」
「まぁ、お兄さん!」
火子が叫んだ。男は自分の腕に嵌っていた念珠を引き千切った。咲桜は咄嗟に真上にいた山鳩を庇う。しかし三河安城とかいう巨男は散らばった一珠を指で弾いた。何かに当たったのを質量のあるものが落下したらしい鈍い音で知る。稲城長沼がまた頭を抱える。
「仕事を増やさないでいただきたい……」
風邪以上に疲れた様子で稲城長沼は珍しく咲桜に直接的な頼み事をした。普段の頼み事とは夜間、寝ているときに布団から投げ落とされているのである。以前は火子たちの迎えと山鳩の捜索だった。しかし今回は、この三河安城という男の弾いたものが当たった忍びの回収だった。山鳩も付いてくる。
「あんな兄ちゃんがいるとは驚き桃の木山椒の木。山鳩クンは知ってた?」
「知りませんでした。長沼くん、あんまり自分のこと話してくれないから」
「じゃあいつも、オレにするみたいに黙り?黙秘権の行使?ありゃ便利だね。尤も、こっちが尋問官になったときは勘弁だけど。だから上官の見てないところで……」
不思議げな表情と純な眼差しを向けられて黙る。
「そういえば、あんまり話さないかも知んないです。おでのことは話さなくても、いつも見ているはずですし、喋るの嫌いみたいだからおでも頑張って黙ってます」
「山鳩クンは頑張って黙るんだ」
「だっておで、黙ってるの苦手なんですもん」
「じゃあオレとはいっぱい話そうね」
咲桜は脳裏に稲城長沼の美貌をしっかりと貼り付けた。
「はい!」
念珠の一粒を撃たれた忍びは敷地の外、向かいの家の軒下の物置のようなところで伸びていた。
「あ、鬼雀茶衆の人だ」
山鳩の発見は無邪気だったが、同じ輪の中に居ようとも、仕事次第では身内の密偵をするらしい。
「据え膳食っときゃよかった、はナシね」
「はい。巻き込んで申し訳ない。私と彼とのことに……」
「まさか!最初からオレ込みの話だったよ。仲間外れにしなさんな」
山鳩が去ってしまうと咲桜は挑戦的な態度で布団に近寄った。
「で、実際のところどうなのさ。言葉の綾でああは言ったけど、使いもんになんの?」
「はい」
「きちんと勃った?」
「はい」
「今も?」
「はい」
空返事なのか面倒臭げに稲城長沼は同じ調子の返事を繰り返す。口元に手を当て、勢いのある溜息を出して咳を往なす。
「別に今は隠れてないんだし、ちゃんと咳して悪いもの出したほうがいいんじゃないの」
熱っぽい目が咲桜を捉える。それが数秒続き、彼は無言で横になった。隣の部屋からは幼馴染2人の会話が聞こえる。色気も罪もない話し声は多少の無理をしてでも守りたくなるようなところがあった。小さな咳払いがそこに混じる。
「若様は私を辱めたいということは」
「うん?」
「何も、私が山鳩さんを抱く様でなくてもいいわけです」
「ほうほう」
稲城長沼は布団に潜る。鼻先が隠れると、むず痒くなるような可憐さが顕れる。この男には山鳩とは違った、火子とも異なる、猫や小鳥とは反対の可愛いらしさがある。
「私の自涜に耽ける様でも、いいわけです」
雲行きが怪しくなってきた。咲桜は宙に目を投げる。
「というと……?」
「3人で殴られると言いましても山鳩さんが殴られたり蹴られたりなどというのは我慢なりません。私は陸前高田様の前であるにも関わらず、山鳩さんに囚われて、みっともなく劣情にまみれながら自涜に耽ります」
咲桜は稲城長沼の目が天井や壁を睨め回したのを見逃さなかった。
「……なるほど」
「若様が山鳩さんのこともお許しにならなかった場合は陸前高田様のほうでも嘆願していただきたいのです。若様に殴られるのは2人だけで…………」
「いいよ。山鳩クンが甚振られるのはオレだっていい気持ちしないし。お嬢ちゃんもあんだけ頑張って、可哀想だ」
傷だらけの美貌にはまだ迷いの色があったが、やがて妙に丁寧な手付きで掛け布団を捲ると寝衣の前を解いた。鍛えられた胸板にしっとりと汗をかいている。唯美的な外見に反し、傷痕がよく目立つ。肉の削れたようなものもあれば、薄い膜として治ったものもある。
「オレは男相手には興味が無いんでね。嫁御とのアツい思い出に浸っているからどうぞごゆっくり」
嫋やか色艶で、稲城長沼はしなやかな脚を晒した。寝衣の裾が脛に絡まっている。下穿きをずらす。視界に入った下腹部に咲桜は驚いて前にのめる。
「焼かれたんです」
火傷の痕が薄い毛の乗った肌に何本も走っている。淡い肉色の膜が張っている。直線状のそれはおそらく火箸だろう。過敏な箇所の近くということもあって痛々しさがさらに増す。
「若旦那に……?」
彼は頷いた。
「山鳩さんにもあるはずです。私が山鳩さんを手籠にして、その罰が下った直後のことです。仲が裂けていなかったことに大変、お怒りで」
「揃いの傷というわけね」
気付いてやると稲城長沼は彼に似合わない柔和な、満面ではないものの満足げな微笑を浮かべた。そして彼はまたしかつめらしい表情に戻り、傷痕が行き交う下生えの中に佇む陰部に手を伸ばした。大きさと太さがあるが、持主が分かってしまうとどこか淑やかな印象を残す。むさ苦しや悍ましくいやらしいところのない感じがあった。生々しさがない。諦めたような、覚悟を決めたのかも分からない息が風邪ひき男の鼻から抜けていった。
視界情報よりも聴覚が咲桜を焦らせ、戸惑わせた。稲城長沼の乱れた鼻息が途中から口呼吸に変わり、時折声を混じらせる。衣摺れもまた容易に個人の内密な律動を打ち明け、咲桜は顔を真っ赤にした。連なった指の中から膨らんだ男性器が見え隠れし、強い光を帯びていく。荒れた息に布の擦れた音が応える。何か別のことを考えても、鮮烈に、風邪ひきの美男子の淫事が脳髄に刻まれていった。長い睫毛を伏せ、薄い瞼の折り畳まれた目を細める。簾戸の奥では軽快な2人の笑い声が聞こえた。山鳩との間に明らかな色事の気配がない火子についてこの風邪ひきはどう思っているのだろう。
「………っ、」
くしゃりと敷妙が音を立てる。稲城長沼の肩や腕が弛緩して震えた。咲桜は手拭いを持ってくると呟いて簾戸を開けた。火子と山鳩の振り返る。2人は並んでいた。ただの傍観者に過ぎなかったが隣室で行われたことに後ろめたさを覚えた。
「もう少しかかりそうです」
火子が言った。咲桜は生活感のある内装の中であまり生活感のない室内を見回していた。夏場ということもあるが囲炉裏は塞がれている。手拭いは部屋の隅に積み上げられていた。いつ洗濯し、いつ干して畳んだものなのかも分からない。乾涸びているような質感だった。
「翠鳥と洗いに行ってくださる?あまりここの水を使うのは悪いから」
「ほいほい」
小さな甕はよく洗うように言われた。調理器具と食器をいくつか渡される。埃を被り、こびりついている。山鳩とともに稲城長沼の家を出た。彼は楽しそうだった。青藍の影で消える、彼の雰囲気によく合った陽気さがある。
「火子お嬢ちゃんって料理できんのな」
「そうです、そうです!きんぴらとかすごく美味しいんですよ」
このあと青藍のもとに帰るなどということはすっぱり忘れたような快活さだった。自分のことのように火子について話し、はしゃいでいる。それが枷も檻もない山鳩らしかった。根暗男たちがこの少年に惹かれる理由が染みていくように分かる。そして青藍は野州山辺という立場や上下関係によってこの少年の素を渇望しても叶うことはないのだ。そして歴然とした力の差を持ってしても稲城長沼から奪えるのはこの無邪気に罪深い少年の肉体だけなのだ。青藍は悪趣味で、ある種の精神的な被虐趣味、咲桜からいうと天邪鬼な性癖があるのかも知れない。稲城長沼にこの可憐さと相反した快活さも併せ持つ少年を籠絡させたいに違いなかった。そして、嫉妬と憤激に酔っているのだ。業の深い関係の一端を重く担う年少者を咲桜は歩きながら見ていた。彼もそれに気付き、椎の実のような瞳を向けた。
近くの川に着いて食器を洗い、甕に水を汲む。非常に透き通った綺麗な水で、温度も低い。山鳩はじとりと流れる水を見ていた。
「少し浴びていく?」
その言葉を待っていたとばかりに山鳩の目付きが変わり、小さな八重歯を見せて笑った。
「咲桜様は?」
「お兄さんは腰冷やしちゃマズいから遠慮しておくけんど」
傷んだ草履を脱いで、山鳩の両足が水に浸かる。小さく点々とした影が動いた。
「山鳩クンは川遊びが好きね」
「火子お嬢様と遊んだときのこと、思い出すですから……それに、おでがずっと、川遊びしてたら、火子お嬢様も、昔のこと思い出してくれるかも知れないと思って。火子お嬢様、昔のこと思い出したら、思い出してももう昔みたいに遊べないし、残酷かも知れないんですけど」
しかしこの川は人ひとりが浸かれるようなところではなかった。山鳩は控えめに足を濡らし、手で掬ったりする。咲桜はその辺に生えていた草を折って流す。上手く舟は作れなかった。
「少しずつ思い出してるよ、きっと。ンだって随分変わったもんよ、お嬢ちゃん。いいね~、オレも仲の良い幼馴染が欲しかったゾ」
「咲桜様には、いらっしゃらなかったんですか?咲桜様はたくさんお友達、いそうですけど」
新しく葉を千切って草舟を折る。
「へ~、山鳩クンからそう見えてんだ、オレ。仲の良い幼馴染はいなかった。いたっちゃいたけど、ちょっと違う」
山鳩と火子の間には感じられないものが、咲桜と後々の妻となる娘の間にはあった。
「ちょっと違う?」
「オレの親友は実の弟だったからね。恋バナってやつも、弟にしたもんだよ、うんうん」
「恋ばな?」
「色恋沙汰の馬鹿話ってこと」
指についた草の匂いを川で洗う。山鳩は強く興味を示す。
「弟さんいらっしゃるんですか」
「そ、そ」
「咲桜様に、似てる?」
「全然似てないよ。まさかこんなオレみたいなのが2人いちゃ、マズいからね」
彼がすでに死没していることは言わなかった。訊かれない限りは答えない。自ら出した話題により、楽しげなこの少年を打ちのめしたくはない。
「とにか~く、親友が弟になっちゃうくらい、あんまり外の付き合いってなかったよ」
「ご兄弟で仲が良いからそう見えたんですよ、きっと!咲桜様は誰とでも仲良くなれてすごいなって、おで、思ってます」
山鳩は朗らかに笑った。夏らしくない気候の中で、胸だけが季節感を持つ。この少年を捜索した夜からどうもおかしかった。ただ可愛らしいでは済まない、奥深く、背中まで穿たれるような感覚を得ることがある。
「じゃ、そろそろ行きますかね」
山鳩はこくりと首肯した。しかし咲桜とは反対の方向に気を取られる。咲桜も彼の視線の先を探す。一瞬、イノシシが出たものかとぎょっとした。よく日に焼けた肌に洒落た淡い赤の着流しを腰で翻している人間の男だ。巴炎よりも体格がよい。仲の良い兄弟と間違われても仕方のない2人の視線を浴び、手拭いらしきものを洗っていた男も顔を上げた。
「すみません、ちょっと川を汚しちまって」
紅梅色の着流しの男は分かったとばかりに腕を振った。生地に金糸が入っているらしく妙な照り方をした。野州山辺の屋敷の者でないとすれば、この辺りの者ではない。
「この山って結構、外からの出入りある?」
「そんなに無いですよ。この山、妖怪が出るとか、死体がいっぱい埋まってるって噂あるので……」
「なんでまた」
「昔、野師の人たちがここに捨てていくって聞きました」
山鳩は川に手拭いを浸している男を振り返った。固く絞り、身体を拭いている。
「さ、行くか。おっかなくなってきた」
「咲桜様、こういう話、苦手?」
「まっさか。山鳩クンが怖そうだったからに決まってるでしょうが」
「お、おで別に、大丈夫です!」
吃りながらも語気を強めた少年の頭に手を置いた。外仕事が減り、野州山辺の次男の餌付けを受けて髪質が良くなっている。
「頼りにしてるよ~ん?」
稲城長沼の住まいへ踵を返す。水の重みがあるために足取りは来た時よりも遅かった。何度か言葉を交わし、話題は些細なことから稲城長沼のことに移っていく。賑やかなようでいて山鳩は意外と寡黙なところがある。
「稲城くんっていえばさ、稲城くんが女の子になったの見たことある?」
訊ねてしまってから咲桜は失敗に気付く。稲城長沼の話からすると山鳩を殴打のない暴行で甚振った時、春菜葉の姿であるはずだった。
「あります。声も女の子で、紫逢ちゃ……長沼くんがそのまま女の子になっちゃったのかと思いました」
咲桜の危惧したところはなかった。
「オレもやってみようかな?そしたら山鳩クン、可愛いって言ってくれる?」
「咲桜様がするならきっと可愛いですよ」
「名前は~、紅梅か季桃だな。美女だぜ。そしたらあーしと逢引きしてね」
野州山辺の次男の束縛や稲城長沼の執拗な独占欲のことも気にした様子がなく彼は呑気さを窺わせる軽さで頷いた。
「でもそんなことしたら、お嬢ちゃんに怒られちまうね。山鳩クンに悪戯するな~って。山鳩クンに悪い影響だ~って。山鳩クンって呼ばないか、お嬢ちゃんは」
「翠鳥って、咲桜様も呼んでください」
「えっ。いいの?結構、特別な事情があるみたいだけど…………?」
「呼んでください、よかったら。おで、咲桜様なら、どっちで呼ばれても嬉しいですケド、翠鳥のほうが、なんか、火子ちゃんも呼んでるし、嬉しいなって……」
「翠鳥」
呟くように呼んでみる。幼馴染から恋人へ、そこから妻へと関係に伴って呼び方が変わった時のことを思い出す。御せない感慨が内側から咲桜の、主に顔を、炙る。
「照れるな……なんか」
どうしようもなくなって髪を触った。山鳩は突然俯いてしまい、耳まで真っ赤にして甕をさらに大事げに抱き締める。
「こ、これからも、いっぱい、呼んでください……」
「いっぱい呼ぶよ。で、でも、とりあえずのところは山鳩クン。みんなの、前では……」
山鳩はこくこく頷いた。
「それより君も、2人きりのときは咲桜さんって、お兄ちゃん、言っただろ~?」
「ご、ごめんなさい。忘れてました」
「お屋敷だと表面上ってものがあるからね。でも山鳩クンとは、稲城くんにしてるみたいに接して欲しいよ。ンでも、オレのほうが明確にご主人様のお客さんってことで偉くなっちゃうからね。山鳩クンが自然とそうなるように頑張りま~す」
おどけてみせると彼は人懐こく笑った。醜くはないがあまり良いともいえない平凡な器量が愛嬌で溢れた。それが可愛いらしい。
「稲城くんとは仲良いの?やっぱ?」
「はい。いいと思います。いつもおでがお仕事失敗すると、慰めてくれたんです。暗くなったら反省会したな~。今はもう、外仕事、ほとんどないけど……」
今は青藍の傍に付きっきりのはずだ。
「若旦那、怖い?」
「ちょっとだけ…………」
「そっか」
「火子ちゃんには、ナイショですよ」
大したことではないと訴えるのが、彼は上手かった。
「分かった。でもいつでも来たらいいや、オレのところ。そしたら3人でも4人でも遊ぼうな」
「よにん?」
「稲城くん」
合点がいったように少年が唸った。それは彼の雰囲気や性格とはまた別の、無関心というか枝葉末節のことといった感じの瑣末極まりないどうでも良さそうなものだった。
「そういう感じの方向には仲良くなかった?」
「紫逢……長沼くんとですか?」
「うん」
「……その、前にちょっと色々あって。おでは大丈夫なんです。でも気を遣ってるみたいで。ホントに、おでは、何ともないのに。それよりも、おでのコトに巻き込んじゃって悪いなって思ってるのに、なんか、ちょっと言葉にするの怖くて言えないんです。もしおでがそのこと言っちゃったら、なんか紫逢ちゃ……長沼くん、もうおでと遊んでくれなくなっちゃいそうで。ちゃんと謝らないの、卑怯ですけど……」
咲桜は山鳩を睨むように強く見てしまった。
「稲城くん、なんか言ってなかったの、それについて……もうちょっと、核心的なことって言うかさ」
他人の好意を勝手に打ち明けてしまうわけにはいかなかった。しかし確認してみたくもなる。何か、他人事ながらも聞き捨てならないすれ違いがあるようだ。
「何も……ただ、色々あったから、長沼くんはおでのこと傷付けちゃったと思ってるみたいですけど、おで男だし、別にそこまで気にしてないんです。でもそれ言うの、長沼くんのほうに余計気を遣わせそうだから、おでも言わないようにしてて……これ、言っていいのか分からないけど、長沼くんが悪者みたいに聞こえちゃうから言っちゃいます。長沼くんのお仕事上のご不幸ってやつで、長沼くんが大変なときに、おでが能天気にしてたから……」
稲城長沼の恋慕はやはりただの他人事であり、その色恋沙汰の経過と顛末は大衆演劇と同じような娯楽に過ぎなかった。湿気た花火のような男の懸想は火の点くこともなく終わるのだ。見ている咲桜のほうでも燻る。
「火子ちゃんには分かってもらえなくて。親戚とは聞いてるんですけど、おでとのことがあったから仲が悪くなっちゃったんです。気拙いですよね。ごめんなさい、咲桜さん。巻き込んじゃって」
「いーのよ、オレから首突っ込んでるんだし」
内心、稲城長沼を鼻で嗤った。彼の辛抱は届いてやしない。話しているうちに着いた。裏口から回ると清々しさのある米の匂いが漂ってきた。火子が迎え、甕や食器の置く場所を指示すると調理器具を持っていった。山鳩と手分けして火子の言うとおりにしてから囲炉裏の傍でおとなしくしていた。隣で少年がそわそわしている。咲桜は上体を崩し、簾戸を開けた。稲城長沼は野州山辺の当主の如く下半身だけ布団に入れて起きている。目が合った。
「寝とけって風邪っぴき」
「どうも落ち着いていられません」
「山鳩クンが横っちょに居れば寝られる?」
意図せず、しかし悪意を秘めているととられても仕方のないような笑みが出てきてしまう。家主は露骨に苦手げにした。
「余計眠れません」
赤らんだ頬が呆れたように溜息を吐いた。ほぼそれと同時に玄関戸が叩かれる。
「誰?」
思い当たる節があるかという意図を含ませ訊ねる。相手は首を振った。山鳩が出た。
「わいはぁ、川坊主やんけね」
妙に馴れ馴れしい、大きな声だった。咲桜の前で稲城長沼は頭を抱えた。地響きがする。声だけでなく足音も大きい。咲桜は簾戸と柱に挟んでいた上体を引く。紅梅色の生地に金糸の入った大きな男だった。猪首に近い。羆に似た迫力もある。鼻が高く眉が太い。目元を深く窪み、額から影を落とす。がっしりとした顎は魚の背骨までも難なく平らげてしまいそうだ。男は常人ならば刮っ開いたような大きな目で咲桜を一瞥した。街で好かれるような歌劇人のような類いの美形ではないが、文明を厭う野生的な美しさを持ったいい男振りをしていた。
「知り合いけぇ?」
大柄な男は咲桜を通り過ぎ、簾戸を引いた。まるで圧し潰さんばかりだった。
「どこにおる?」
「ここです」
稲城長沼がぼそりと呟いた。
「おうおう、風邪ひいたんけぇ。こないないじけっ子みてになって。如何したそが青痣はぁ?」
男が動くたびに地が揺れる。彼は稲城長沼の前でどしんと屈んだ。
「姉御が悲しむだ。太りッ!」
「嫌です。それで、どういったご用件なんです」
咲桜は稲城長沼と大男のいる部屋を覗いた。上から山鳩も首を伸ばし、火子もその上から顔を突き出した。
「何ば言いよと。其方が姉ば呼びなしっせぇ、吾が来たんだがん」
「何故、義兄さんがいらっしゃったんです」
「其方がえずいとるち聞いたぎぃ、吾も行けりお三紅が言うよったんよ」
どこの地方のどこの言葉かも分からない強めな訛りに咲桜は口を挟んだ。
「なんて?」
先に反応したのは大男のほうだった。ガハハ!と突然笑い出す。
「どうも、どうも。三河安城の山茶花いいます。茶梅と呼ばれとります、よろしぅお願いな。ところでわての顔映らしな義弟どんをぷっくらしたん誰だん?」
三河安城と名乗った男は拳を鳴らす。
「あ~、多分、意味が合ってれば、野州山辺っておうちの不良息子です。金春村ってとこにあるんですけど」
「まぁ、お兄さん!」
火子が叫んだ。男は自分の腕に嵌っていた念珠を引き千切った。咲桜は咄嗟に真上にいた山鳩を庇う。しかし三河安城とかいう巨男は散らばった一珠を指で弾いた。何かに当たったのを質量のあるものが落下したらしい鈍い音で知る。稲城長沼がまた頭を抱える。
「仕事を増やさないでいただきたい……」
風邪以上に疲れた様子で稲城長沼は珍しく咲桜に直接的な頼み事をした。普段の頼み事とは夜間、寝ているときに布団から投げ落とされているのである。以前は火子たちの迎えと山鳩の捜索だった。しかし今回は、この三河安城という男の弾いたものが当たった忍びの回収だった。山鳩も付いてくる。
「あんな兄ちゃんがいるとは驚き桃の木山椒の木。山鳩クンは知ってた?」
「知りませんでした。長沼くん、あんまり自分のこと話してくれないから」
「じゃあいつも、オレにするみたいに黙り?黙秘権の行使?ありゃ便利だね。尤も、こっちが尋問官になったときは勘弁だけど。だから上官の見てないところで……」
不思議げな表情と純な眼差しを向けられて黙る。
「そういえば、あんまり話さないかも知んないです。おでのことは話さなくても、いつも見ているはずですし、喋るの嫌いみたいだからおでも頑張って黙ってます」
「山鳩クンは頑張って黙るんだ」
「だっておで、黙ってるの苦手なんですもん」
「じゃあオレとはいっぱい話そうね」
咲桜は脳裏に稲城長沼の美貌をしっかりと貼り付けた。
「はい!」
念珠の一粒を撃たれた忍びは敷地の外、向かいの家の軒下の物置のようなところで伸びていた。
「あ、鬼雀茶衆の人だ」
山鳩の発見は無邪気だったが、同じ輪の中に居ようとも、仕事次第では身内の密偵をするらしい。
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