18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-4

結局は俗物( ◠‿◠ )

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ネイキッドと翼(74話~) ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 75

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 耳朶に味はなかったというのに、茉世まつよは吸うことをやめられなかった。その柔らかな肉に歯を立てずにいられない。
「茉世さん……っ、どうしたんですか」
 噛み千切る動きをしたが、彼女の歯はそう深くまで刺さってなかった。
「永世さんの耳、綺麗ですね」
「初めて言われましたよ……ピアス、刺してたんですけどね。もう穴も塞がってしまったみたいです」
「ここにほくろがあります」
 茉世はまた首を伸ばし、灼熱感を帯びている男体を引き寄せ、耳朶の裏にあるほくろを舌先で押した。
「んっ、」
「耳弱いんですね」
「誰にでも触らせるところじゃないでしょう……?」
「まるで誰にでも触らせるところがあるみたい……」
 茉世はわずかに眉を顰めた。
「ないです。ぼくのこと触ったのは茉世さんだけです」
「そんなの嘘です……だって永世さん、モテそうだし……」
 だがしかし註釈がつく。彼の恋愛対象が女性である場合に限っては、と。
「なんですか、それ。人生で一度だってモテたことなんかないですよ。御園生みそのうくんに訊いてみてください」
 まるで冷水をかけられたような気分になる。共通の知己の名を出されるのは。
「気付かなかっただけだと思います……」
 茉世は眉尻を下げた。顔を伏せ、悄然として永世を見上げた。彼は震えた。目を逸らされる。それを良いことに、茉世はまた魅惑の果実に誘われていった。カシューナッツのようでいて、それは瑞々しく、なめらかで、柔らかい。欲求の籠もった吐息が長く細く、日焼けで色の抜けた毛先をそよがせる。
 永世は戦慄いた。
「……あ、あの、茉世さん………その、ぼくも男なんで………あの、非情に情けないんですけど………」
 彼は嫌がった。主家の嫁を躱し、彼女の腕に触れる。咄嗟に、その発言の真意を見遣ってしまった。男体の下肢に至る境い目でタオルケットが盛り上がっている。そしてこの己の反射的な行動と、視界に入った事象について、茉世は頬を赤らめた。
「あ、あ、ご、ごめんなさい……あ、あの、いいえ………その、た、大変ですね、男の人は……昨日はなさらなかったんですね……」
 ごまかすつもりであった。ある程度の共感を示し、雑談として軽く受け流すつもりであった。むしろ掘り下げてしまっていることなど、発するまで分かっていなかった。他意はなく、大した意味を持たせるつもりもなく、無難にやり過ごし、失態を無効化するための応答であった。けれども逆であった。
「しましたよ」
 大真面目に彼は答えた。一際低くなった声振りに茉世は焦った。
「じゃあ……どうして………」
「昨日したって……そんなふうに触られたら……反応します」
 茉世は彼のその低まった声が怖かった。しかし高鳴る。そう明るくない部屋が眩しく感じられた。己の浅い息を聞く。
よこしまな気持ちがあるの、バレちゃいましたね」
 勝ち誇ったように見えた。開き直っているのだろうか。将又はたまた、虚勢か。もしくは誂われている。彼女は対抗心を煽られた。
「永世さんだけじゃないです」
「え?」
 永世はどこか優越感を滲ませたような意地の悪い微笑が消え失せ、代わりに間の抜けた表情を見せた。
「わたしの所為ですもんね。わたしの所為なら、わたしが責任とります」
 タオルケットに潜らせた手を膨らみに添える。布越しに熱く疼いた芯を感じる。
「えっ!」
 彼が目を丸くする。あどけないつらを見ながら、茉世も目を見開いた。
「永世さん……あの、下着………穿いてます……?」 
「……」 
 彼の頬が染まった。
 下着と寝間着。布2枚の感触にしては生々しい輪郭を感じるのだった。
「寝るとき、穿かないんです………だから………困るんです。その………――と」
 勃つと、と彼は小声になった。茉世も強気に出たはいいが、予想外の一言に狼狽える。
「そ、そうなんですね……」
 今まで見てきた寝間着姿が次々と脳裏を駆け巡っていく。あのてらついた品の良いパジャマの下は、タンクトップ一枚だったのである。
「……ゲンメツしましたか……?」
 彼の目は握られた部分を見詰めていた。さながら首根っこを摘まれた猫のような態度だった。
「い、いいえ。そういう健康法、ありますもんね」
 茉世はばつが悪くなった。布の蛹を下から上へ、ゆっくりとなぞっていく。毒蛇めいた血管を跨いだ感じがある。彼女は引き攣っていく永世の顔立ちを覗く。無邪気というに陰があり、謎めいた人というには快闊かいかつであった。だがいずれにしろ、色事など連想されない雰囲気を醸し出していた。手の中にある凶暴な牡徴が、奥ゆかしい風貌の肉体から生えているとは彼女にはまだ納得しきれていなかった。
「パジャマ、少し湿ってますね」
「あっ……」
 親指で張り詰めたすももにじる。
「ん……っ、茉世さん………っ、パジャマ、2枚しかないんです……っあ、」
 その膂力りょりょくを使えば容易に女を振り払い、追い払い、放り出すことができるはずだった。何故、弱者の立場をとったのか。ここは人の世だった。腕力の世界ではなかった。分家のせがれが本家の当主の嫁に乱暴を働くことは、たとえ正当な理由があったとしても、心理的に難しいことなのだろう。
 茉世のなかに、浮薄な愉悦が生まれる。
「じゃあ、汚れたら困りますね」
 片手でウエストゴムを下げる。壮厳な屹立が跳ねて飛び出た。茉世は怯んだ。記憶にあるものより大きかった。しかし静止していたのも束の間のこと。
「あ、ぁ……!」
 裏返った呻き声は男児のものを思わせた。好奇心が芽生える。新しい玩具を得たのと変わらなかった。彼女は肉楽器を試さずにいられない。扱くと身動ぎ、熱い息を吐く。美音に聞き入る。
「茉世さん……っそんな、あ、」 
 眉根を寄せて、睫毛を伏せる様を茉世は観察していた。先程まで強気でいた唇が今では慄えている。青山藍の暴力を自ら受け入れていたときの頼もしさはそこにはなかった。
「好きな人のことでも考えていたらどうですか?」
 務めて鰾膠にべもない態度をとった。悄然とした陰がその清らかな美しさを湛えたつらに走る。
「好きな、人………っ、あ、あ、あ!」
 復唱。彼女は腹が立った。彼はそうでない女に肉体を滾らせておきながら好みの女を思い浮かべるのだろう。否! 或いはとある男を思い浮かべるのだ。一心不乱に熱串を掌で摩擦する。
 茉世の身体に汗が湧いた。体温も大きさも皮膚質も違うはずの紛い物でこの象徴は悦んでいる。けれども彼女も結局はそうなのだった。青山藍が嗤っている。
 彼女はプラムを頬張った。
「あ、ちょ………ッ、まつ、………っ」
 男体が跳ねた。だが茉世は押さえつけて雄蕊を吸った。慣れてはいなかった。勢いだった。肩に置かれた熱い手に、身体中が濡れた。
「汗かいてますから……っ、茉世さん、茉世さ………っ、ま、つよ………、」
 彼女は目を閉じて口淫に励んだ。昨晩の入浴剤の匂いがした。アンダーヘアは相変わらず剃られ続けていた。この男の濃厚な匂いを肺いっぱいに吸い込めないことが惜しい。
「汚いですから……」
 首を振った。焦った。歯を立てそうになったのだった。
「ん……っ、永世さんに汚いところなんてないですから………」
 口元に張り付いた毛を除ける。
「あ……わたしが舐めるのが、ってことですか」
 茉世は自身の口水で汚れた根棒を握る。
「そんな……茉世さんにこそ……あっ、あっ、あっ」
 ゆっくりとリズムに合わせて手筒を動かす。永世は身を起こし、前屈みになった。茉世は彼の肩に腕を置いた。
「永世さんのあそこ舐めちゃったので、後で拭きますね」
 耳元で囁くと、彼は痙攣しているかのようだった。茉世の手のなかで剛直が脈動する。
「ちゃんと後で拭きますから……」
 彼女は眼前の魅惑に抗えなかった。ライチのような質感の耳朶に齧りついた。唇と肌が吸着するようだ。
「は………、ぁ、茉世さん………っ」
「痛いですか……?」
「そこで喋るのは、っ、あ、……」
 掌とグロテスクな男体の徴の狭間に粘液が増えていく。茉世の手は残像がとして宙に溶けていた。
「永世さんのお耳、美味しいです……」
 茉世の手扱きは疎かになった。彼女は耳朶を食むのことに意識を注いでいた。
「……、っん、ぁ、……」
 永世は自ら腰を突き上げる。主家の嫁の手筒を押し広げる、灰桃色と小麦色のグラデーションがかかった腫棒を通す。薄い表皮が下へ上へと縒れ、濃淡を変えていった。
 茉世は彼の肩に置いた腕を伸ば、その首に回した。彼の唇に指を入れ、蛞蝓の交尾のように絡め合っていた舌を摘んだ。
「ん、ふ」
「永世さんのあそこ舐めちゃいましたから……永世さん……」
 生温かく濡れた舌の感触を、彼女は何度も擦った。自身の指と自身の舌が連動したかのようだ。耳朶を嬲る。噛むのもやめられない。
 永世の反応もまた官能に屈したようだった。彼は隘路を突く。茉世のおやゆびと示指の間に雁首を引っ掛ける。
「手、放してください………もう………、汚れてしまいます……!」
 彼の歯が指を挟む。茉世の歯も疼いた。耳朶に歯を指していく。グミのようだ。マシュマロのようでもある。
「茉世さん………っ、出ますから………もう、出ます……! 茉世さん……!」
 茉世のなかに花が咲いていく。瑞々しく、疵ひとつない花だ。彼女は牡の把手を放した。欲望に染まった男体は虚無を突く。
「汚れたら困るんですものね?」
 耳朶を舌で弾いた。彼女はふたたび永世の股ぐらへと身を沈めた。
「な、にを………」
「汚れたら、困るんでしょう?」  
 茉世は手淫を再開した。口を近付ける。どちらの手にしろ唾液か淫液かに触れているのにも構わず、髪を耳に掛けた。先端部にだけ唇を被せ、肉幹を扱く。
 相手の限界を感じた。
「茉世さん……! 茉世さん………口、離してくださ…………っ、茉世さ、………茉世……! あぁ……っ!」
 口を離せと言った当人が彼女の口唇にグランスを押し付けていた。
「ん………っ」
 温かな粘液が茉世の口内に飛散する。内膜に当たり、落ちていく。生々しい風味が鼻を突き抜ける。清爽な美男子といえど、身体は水と塩分、その他でできているようだ。花や果物でできているわけではないようなのだ。
 脈動が治まるまで待っていた。荒い息遣いを聞いていた。落ち着くと、残滓を啜る。やはり、彼は花でも果実でもなかった。生々しい喉越しを味わう。これが彼なのだ。歓喜に涙が滲む。
「茉世さん……」
 弱々しい呼び方であった。口を開けば主家だの分家だの言っている一族である。怯えているに違いない。
「美味しかったです」
 やおら顔を上げると、蕩けたガナッシュと視線がぶつかった。しかし直後、彼は倒れてしまった。



 彼の意識はあったが、水を飲ませると眠ってしまった。汗に濡れた寝間着は替えさせるほかなく、汗を拭くと、鱗獣院りんじゅういんだんに繊維を伸ばされた、もとは蓮のものだった浴衣を着せた。
 茉世は脱がせたパジャマを持って脱衣所に向かう。媚香がくゆる。彼女の鼻は引き寄せられるようだった。もし人気ひとけさえなかったなら、そこには牝獣がいたかもしれない。
「それ、誰の」 
 永世の部屋を出てすぐのところで、禅と鉢合わせる。蒸したタオルを用意したときや浴衣を取りに行ったときではなく、間の悪いことに寝間着を持ち帰ってきたときのタイミングである。
「……永世さんのです」
 素直に打ち明けるほかない。手にした寝間着が証明してしまう。
「なんであんたが? 月に任せるって、蘭兄ちゃん言ってただろ」
鏡花辺津きょうげべつさんはお遣いにいきました。ですから代わりに、わたしが看病していました」
 嘘である。看病などしていなかった。ただ淫行に耽っていた。
「あんたの元カレに任せればいいじゃん」  
「え……?」
 義末弟が誰のことを言っているのか分からなかった。
「あの新しいお手伝い。御園生みそのうとかいってなかった?」
 茉世は呆気にとられた。
「あの人はただの幼馴染です! そういうからかいはあの人に迷惑ですから……」
「あ、そ。で、義姉さんが永世のパジャマ、脱がせたの?」
 禅は義姉の目など見ずに、彼女の抱えた寝間着を見ていた。
「はい」
「蓮兄の次は、永世なんだ?」 
「どういうことですか」  
「まだシラ切んの? 別にいいけど……浮気すんのも別にいい。でもそれなら蘭兄ちゃんと別れて。蘭兄ちゃんに変なビョーキうつすなよ」
 そう言って、部屋へと帰っていった。禅は勘違いしているらしい。三途賽川さんずさいかわで生まれ育っていながら、嫁に決定権があると思っているようだ。
 脱衣所に着くと、洗濯籠の前に立った。茶の間に蘭の気配があったが、この場には誰もいない。茉世は永世の脱殻に鼻を寄せた。思考を掠め取っていく艶やかな匂いが脳髄をそよいでいく。洗濯用洗剤と昨晩の入浴剤は茉世も知っていた。実際、その身に纏った匂いでもある。ところが、そこに紛れた汗と彼自身の体臭はそうではない。男性用ボディソープの柑橘系の匂いも混ざっているようだ。
「はぁ………」 
 溜息が漏れた。世間一般的にはおそらく馨しいものではなかっただろう。けれども茉世にとっては鼻を摘むことも背けることもできない、魅了の香気だった。腰が砕け、膝が慄え、胸が高鳴る。意識はぼんやりとした。
 はやく手放すべきだ。決して好い行いではない。それは2人の男をさらに裏切る行為だった。しかし彼女の肉体は火照っていた。意識は理性もろとも靄がかかる。だが霧散したわけではない。欲望を振り切る。
 自室へと戻った。その足取りは焦っているようだった。黒い猫に出迎えられるが、撫でてやることもせず、茉世は畳に転がった。身体の疼きに耐えられない。
「なぁん、なぁん」
 黒い毛尨けむくはもはや飼主と化している人間を案じているようだった。けれども茉世はこの可憐な小動物に気を割いてやる余裕もなかった。
「あぁ………永世さん………」
 服の上から胸を揉む。あの者の手の質感など知るべきではなかった。そこに彼の手を思い描くこともできたし、己の手との違いを感じることもできた。
「なぁーん」
 黒い猫が構え、構え、と擦り寄るが、茉世は情欲に目が眩んでいた。
「なぁん。なぁーん」
 その長鳴きは嘆きに似ていた。
「ぅ………ん、永世さん………」
 乳房を撫で回していると、猫が割り入ろうと試みている。
「あ………黒ちゃん……」
 後ろめたい気持ちが隙間風よろしく、淫らな火照りを冷ましていく。こんなことはしてはいけない。侮辱だ。驕りだ。消費だ。人を人とも思わない鬼畜の所業だ。



『あいつが初めての相手だからだろう?』
 頬に水滴が落ちた。暦の上では秋だというのに、年々高くなる気温は雨粒のひとつも温めてしまうらしい。
 茉世は眠っていたつもりもなかったが目蓋を開けた。ぼやけた視界のなかに人がいる。直感で男だと思った。そして裸体だとも思った。茉世はやがてこの裸夫の風貌に思い当たった。
『もし俺だったら、俺のことを意識したのか?』
 悪魔のようだ。茉世の知る最も美しい人間の姿を借りている。だが皮肉なものだ。偶然なのか、その者に対する印象は、彼女が三途賽川家に来たときのまま。苦手意識は払底しきれなかった。
「あの人は優しかった」
 潜在意識とは恐ろしいものだ。逃げられない。けれど無意識は、あの者を破瓜はかの相手と判断しているらしい。尼寺橋渡にじのはしわたりてんでも、青山藍でもない。
『……本家の嫁だからだ。あいつの婚約者がどれだけ心を痛めていたのか、先輩は知らないんだろう?』
「それでも大切にしてくれて嬉しかった。一緒にごはん食べてくれたの、嬉しかったんです……」
 大した出来事は起きなかったというのに、あの者と過ごした時間の些細な会話、光景が甦った。穏やかな心地になる。同時に初秋の匂いを嗅いだときのような寂しさが訪れた。
『俺も先輩のこと、大切にする……』
 茉世は苦笑いを浮かべた。自身の知られざる意識をまた知ることになった。三途賽川次男に"大切に"されたかったらしい。
「こんなこと、やめたほうがいいのは分かっているんです……」
 我が身、我が心はどのような反応を示すのだろう。彼女は興味があった。
「やめたほうがいいのは分かっているのに……」
『不倫をする女は嫌いだ』
 自身の見せる義長弟の幻影だというのに、茉世の胸は拳を喰らった。理屈では分かっている。世間的な意見も分かっている。だが自身の理解していることでも他人の姿で投げられると、息が詰まった。狼狽えてしまった。善からぬことだ。悪しきことだ。
「でも、しちゃった……」
『最低だ、先輩は』
「うん……」
 言い訳は無用。
『穢らわしい……!』
「うん」
『でも俺も、兄さんの嫁が好きなんだ。同じ穴の狢なんだ。だから先輩とお揃い』
 ぼやけた裸夫は茉世に迫った。頬に柔らかなものが当たる。彼女は戸惑った。そうは思っていなかった。
「そんなことはないですよ。だって蓮さんは独身でしょう」
 認識を改めるべきだ。苦手意識を持っているからといって、同属に引き入れて貶めるべきではない。
『先輩と結婚する。先輩としか結婚しない』
 茉世から見て、義長弟は大人びていた。若くして家督を継いだ兄のすぐ下の弟で、さらに3人も4人も弟たちがいるのもあるのだろう。家庭も複雑そうである。しかし同時に幼さもあった。その家庭の複雑さゆえに被庇護者でいる時間が短かったためか。
「もし蓮さんと結婚したとして、そのときも不倫をやめられない女だったらどうするんですか」
 これは自己に対する疑心でもあった。蘭のことは愛せなかったが、人情は湧いているつもりだった。優しい夫だとは思っている。しかし実際の行動は裏切ってばかりだ。そしてまた裏切るのだろう。蘭の人の好さを侮っているのか。蘭に限らず、配偶者であれば、裏切ることも容赦しないのだろうか。
『俺を捨てなければ、…………不倫してもいい。離婚は切り出さないし、慰謝料も請求しない。先輩が慰謝料請求されたなら、俺が払う……』
 茉世は左手に触れた。傷跡がむず痒くなった。あの義長弟の仕業ではない。あの義長弟がそこまで背負うことではないのだ。
『先輩のことは俺が気持ち良くする……不倫なんてしてる間もないくらい……俺でいっぱいにする。大切にするから……俺を選んで。先輩……』
 自身には正直に打ち明けるべきだ。逃げるわけにはいかない。反省しなければならない。茉世は苦しくなった。
「ごめんなさい……」
 良心では御せない情動というものがあったのだ。もともと持っていたのか、将又はたまた生まれてしまったのか、それは彼女にも分からなかった。いずれにしろ結果として、養家の名に瑕をつけた。
『茉世』
 ぼやけた裸夫の身体の曲線が鮮明になっていく。茉世の腕を鷲掴み、義理の弟の顔をした幻影は眼交まなかいにまで近付いた。
『あいつとまたキスしてきた? キス以上のこともされたのか』
 雪女を彷彿とさせる美貌から涙を滴らせ、裸夫は唇を噛んでいた。細やかな肌理きめは溶けていくのだろうか。
『先輩の唇は、俺とだけキスしていればいいんだ……!』
 そうは思わなかった。茉世はそうは思わなかったが、彼女自身が作り出した幻影はそう言っている。
「キスしないでっ!」
 しかし遅かった。幻影の唇に塞がれていた。だが所詮は夢である。
「んぁ……」
 先程の接吻を思い出していた。下腹部の奥まで掬い取っていくようなキスだった。頭を抱かれ、口腔で混ざる水音を聞く。
『先輩――……』


 物音で、目が覚めた。逆様になった襖が開き、そこに御園生瑠璃が立っている。
「ごめん、起こしちゃったよな?」 
 首から手拭いを下げているが、服装は運動をしてきたのではないようだ。彼はデイシアマーケットのシフトを終えてきたのだ。
「ううん、平気。おかえりなさい」
「ただいま」 
「今帰ってきたところ?」 
 茉世が身体を起こすと黒い猫が長鳴きして絡みつく。
「そうそう。あとマシキョー寄って久遠きゅんに色々買ってきた。まっちゃんは、これ」 
 近くのドラッグストアの袋を漁り、御園生瑠璃はチョコレート菓子を差し出す。パッケージも風味も秋仕様のチョコレート菓子だった。
「ありがとう。いつもごめんね」  
「気にすんなよ。したくてしてんだから。それに食欲の秋だからな」 
 御園生瑠璃は襖を閉めて去っていった。柔らかな余韻を感じていたのも束の間、茉世は拳を握った。乾燥して皮膚が軋む。朗らかな幼馴染の後姿は鏡のようだ。知られたくないことが歴々まざまざと脳裏を駆けていく。
「なぁん、なぁん……」
 握った拳を解いた。やり場のなくなった手は猫の頭を撫でる。
 やがて、鏡花辺津月が帰ってきた。スーツ姿のまま茉世の部屋へやって来る。
「"おかえりなさい"」
 彼は目元を細めて言った。茉世は戸惑い、月の冷ややかな微笑をまじまじと見てしまった。
「"おかえりなさい"」
 彼はふたたび同じことを言った。そこには威圧があった。敵意にも害意にも似ていた。やすりと化した空気に、茉世は押し負ける。
「お……おかえりなさい………」
 それが正解であったのかは分からなかった。復唱する。
「ただいま帰りました」
 彼は目元も口元も綻ばせる。同じ顔だというのに笑みにも種類があるようだ。
「茉世奥様は、末旦那様の担任の先生にお会いしたことはありますか?」
「ありませんが……」
 彼は目も口も弧線状にしたままだった。
「とても素敵な方でしたよ、見た目は」
「見た目"は" ?」 
「そうです」
 そして口を閉ざすと、部屋に踏み入り、隅に座ってしまった。
「あ、あの……わたし、お茶の間に行こうかと……思っていて……」
「旦那様も居間にいらっしゃるようですが、セックスなさるんですか。お元気ですね」
「え?」
「まだセックスを経ていない夫婦が、セックスをしないのに同じ空間にいるのはよろしくないですね。まずはセックスをしてください。そうでないなら極力大旦那様とはいないでください。セックスせんのに満足してまうやん?」
 茉世は面食らった。頭が真っ白になる。車内で同様のことを言われたときよりも効果があった。
「ら、蘭さんの意思もありますし……」
「ございません。三途賽川の男児たる者、嫁の誘いを断わるのは禁じられております。分家も同様です。どうかしましたか、茉世奥様。何か心当たりが? 三途賽川の血脈の誰か様が誘いに応じたとて、茉世奥様に好意があってのことではございません。茉世奥様。家訓で禁じられているからでございます。茉世奥様の意思次第でございます。大旦那様がセックスを拒むことは有り得ません。つまり、すべて茉世奥様にかかっているのです」
「しません……」
「では、セックスをなさらないのであれば、セックストレーニングを実施させていただきます。茉世奥様はオナニーをしようとしていますね。目を見れば分かります。間違ったオナニーはいけませんね。セックスの邪魔です。セックスの邪魔は夫婦不仲の原因です。夫婦仲の邪魔はセックスの邪魔。セックスの邪魔はセックスレスの素。茉世奥様、私がオナニー指導をさせていただきます」
 彼は白い手袋を外すと立ち上がった。茉世は身構える。
「では、手を清めて参りますのでお待ちください」
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