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ネイキッドと翼(74話~) ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/
ネイキッドと翼 74
しおりを挟む茉世は蘭が帰ってくると、その傍を離れなかった。鏡花辺津月が怖い。穏和な人かと思いきや、途端に目の色を変え、嘲笑を浮かべる。戸惑ってしまう。
茶の間には"青ちゃん"が闊歩していた。ソファーの背凭れの天端に図々しく座り、尻尾を揺らしていたが、茉世の姿を見ると、彼女に実を擦り寄せて喜んでいた。余程、蘭たちとの外出が嫌だったらしい。
「久遠くんの様子を看て参ります」
家の中でもスーツに正座。堅苦しい所作であった。月が部屋を出ていくのを目で追った。談笑していた蘭が茉世に顔を向ける。
「月くんと何かあった?」
怪訝な眼差しは、却って目を逸らせない。
「何も……ありませんでしたよ」
彼女が人間と話しはじめたことで、砂埃を被ったような色味の猫は頭突きを繰り返す。野太い声で存在を主張する。
「月くんちょっと、仕事で色々あって……ちょっと最近不安定なところがあるから、その……」
「ああ……そういうことでしたら、確かに思い当たる節があったような……」
とてもそれだけでは片付けられなかったが、しかし茉世には分からないことだった。
「ゴメンね、家のごたごたに巻き込んじゃって」
「んなーご、なぁご」
「それなら、永世さんのことはわたしがやります。そんな状態なら、大変でしょうし……」
蘭の返事は思ったテンポと違っていた。
「禅さんは嫌がるかもしれませんけど……! 放っておけませんし……」
「世話をかけるね、茉世ちゃん」
それを承諾と受け取っていいのか、躱されてしまったのか茉世には分からなかった。曖昧な返事のように思えた。
鏡花辺津月と永世のやり取りは世間一般的な若者たちのものと変わらないように見えた。格下の分家だと貶すのは本人のいない場でのことだろう。本人を前に口にすることはないだろう。態度で示すことはないだろう。けれども茉世は心苦しくなってしまった。
「見てきます」
猫が名残惜しそうな声を漏らした。茉世は永世の部屋に向かう。外が光った。雷だ。廊下を歩いている途中で脚に柔らかなものがぶつかった。
「黒ちゃん?」
"青ちゃん"と接触しないよう、隔離したはずだ。正体を確かめると、飼猫のるんだった。小間使いのように扱っている永世の部屋を閉め切られて機嫌が悪いらしい。抱き上げようと試みるが、腕を蹴られてしまう。禅と霖、永世にしか懐かない。
るんは茉世について来た。永世の部屋の襖をノックし、返事の後に開くと吸い込まれていった。
「わぁ、るんさん」
るんは病人に構いやしない。容赦なく小間使いを踏み潰して、布団の上に座ってしまった。
「さっきまで呼んでも来なかったんですが。どちらに?」
「禅さんの部屋にいたようですよ。その辺りで合流したので……」
布団の脇に座していた月は目を眇めて茉世を見上げる。
「茉世奥様。何かご用がおありですか」
「わたしも永世さんの様子を看にきたんです」
車高カーテンは開かれていた。レースカーテンの奥で、雨が勢いよく振る。空が轟いている。
「さっき倒れたでしょう。体調はいかがかと思ったので」
月の前でも、冷淡な態度を忘れない。
「倒れたのではありません。立ち眩みを起こしただけです。季節の変わり目に、意外と弱いタイプだったのかもしれませんね」
「どちらでも変わりませんよ……」
「茉世奥様はとても久遠くんのことがご心配なんですね。仲がよろしいようで、羨ましい限り」
永世は微苦笑を浮かべる。外が閃き、一瞬彼が真っ白く塗られた。
「一応は、家族みたいなものですし……そうでなくても、この家に寝泊まりしている方でしょう?」
月の口角は耳まで裂けかねないほど吊り上がる。不穏な感じがあった。しかし襖の奥で野太い声の猫が鳴く。
「んなーご」
黄ばんだ白い猫の"青ちゃん"だ。
「月くん、ちょっとお遣いを頼みたいんだケド……」
蘭も居るらしい。月は畳を淑やかに軋ませて腰を上げた。
「ええ、承知しました。何なりと」
月が襖を出る機会を窺って、"青ちゃん"は永世の部屋に入りたがった。るんは渋い面をしてそれを見ていた。険悪ではないようだが、打ち解けているわけでもないらしい。"青ちゃん"は蘭に抱き抱えられ、連行される。狡猾な個体であった。誰がこの家で一番偉いのか、瞬時に理解しているようだ。誰に媚びれば利得があるのかよく分かっている。
2人きりになり、茉世は落ち着かなくなった。永世は元気そうであるし、月にも案じていた行動は見られなかった。退出する時機を見計らう。だが露骨なことはしたくない。月が出て行ったばかりである。
雷鳴の束の間、溜息が聞こえ、駆け巡っていた思案が停まる。永世は目を閉じ、身体を傾けた。横臥するというよりも倒れていくように思えた。落雷でも受けたというのか。咄嗟に前へ出て、手を伸ばしていた。支えながら、支えきれず、身体で受け止める。自ら起き上がろうとする気配もなく、されるがままだった。重みを感じる。筋肉と骨の詰まった肉体は重い。
「大丈夫ですか」
永世は目を閉じたまま、浅い呼吸を繰り返している。肌はじっとりと汗ばんでいた。茉世の身体も蒸されて湿気を帯びていく。
「すみません……少し疲れてしまって……」
発声の振動が、受け止めた胸に響き渡る。
「喧しくしすぎましたね。ごめんなさい」
「いいえ……そうではなく……こう見えて、ぼく、実は意地っ張りなものですから」
茉世は傍にあったタオルで汗を拭った。
「意外性は、別にないです」
「えー……? 茉世さんには、素直なつもりなのにな」
おどける姿にも弱々しさが垣間見える。胸の中心が熱く疼く。腕が震えた。抱き締めてしまった。高い体温と、湿った質量。生命力を感じる。生き物が腕のなかに収まっている。放しがたい。嫌がられるまでそうしているつもりだった。だが彼の呼吸は落ち着き、寝息へと変わる。その耳元にある心臓の鼓動で、彼はすぐに目覚めてしまうかもしれない。
寝顔を覗く。睫毛の長さがより判別できる。乾いた唇から目を離せない。惹かれる。不埒だ。赦されざることだ。それは加害行為だ。茉世は固唾を呑んで顔を背けた。
その直後、足音も合図もなく襖が開く。茉世は冷ややかな視線を以って見下された。月である。
「禅くんの用事があるので、中学校に行って参ります。茉世奥様、世は物騒でございますから、久遠くんの傍を何卒離れることのないように」
「はあ……」
胡散臭く柔和に眇められた目が、永世に向く。月はジャケットの懐から扇子を抜き取ると、永世の頭を叩こうとした。だがぶつかったのは茉世の手の甲である。痛みはないが、乾いた音が鳴った。
「なんですか。病人に」
「泥棒猫がいたものですから」
「るんさんですか? るんさんは何もしていませんけれど」
胸に寄り掛かっていた永世の身体が小さく動いた。
「本家の嫁になんて無様な為体なんです。これでは分家そのものがナメられてしまいます」
泥沼を泳ぐような気怠げで重苦しげな所作だった。永世は身体を起こす。
「分家をナメられるほどの本家ですか?」
三途賽川がどれほど偉いのだろう。やっていることは旧時代に囚われた身分差別と女性差別である。諺の有様から推察すれば児童虐待も疑われる。鱗獣院炎などは形こそ世間一般の意味合いと異なるかもしれないが、ヤングケアラーではあるまいか。次男は無責任に家出し、末男は事情があれども義務教育を受けず、別の機関に頼ることもない。真っ当に生きているのは長男と四男、それからアイドルの三男くらいなものだ。一体何がそこまで偉いのだろう。何故この現状でそこまで威張り腐れるのか。
月は微笑を浮かべた。そして茉世の頬を張った。彼女は力の働いた方向に首を曲げ、無防備に横面を晒す。
「売春婦ならお金のためですからね、大目に見ます。生きる術なら仕方がありません。ですが、牝はいけない」
言い終えた直後、月の身体もよろめいた。茉世には布団が波打ったことしか分からなかった。
「赦してください、茉世さん。分家として、月くんはそう言うしかないんです。何故なら、ぼくが分家で、彼も分家だからです。不甲斐ないですが」
永世が月を殴ったらしいのだ。
「拳骨は私怨や。平手でやりぃや。これから出掛けんねんぞ」
月は大袈裟な溜息を吐いて自身の頬を撫でた。
「すみません。本家のお嫁さんに手を上げた以上は……申し訳ないです。月くんも謝って」
永世は月の頭を押さえつけ、額を床に擦り付けた。
「あ……いや、そんな……」
頬を打たれた精神的ショックも消え失せた。たったの一言が病人に土下座をさせてしまっている。
「頭を上げてください。わたしは大丈夫です……」
「ダメやんけ。相手はんを被害者にしてやらな。ワテは行くで、この大雨ンなか。ああ忙し」
月はそそくさと部屋を出て行った。女物の甘たるい香水が薫った。静止していた永世が病熱に汗ばむ顔を綻ばせたことに気付いたのは、その匂いを嗅いだのとほぼ同時だった。瞳と瞳が対峙する。畳についた手が動く。ほぼ無意識だった。視界の端で己の手も伸びていた。指が絡む。
「あ……」
体温で我に返る。
「ごめんなさい」
稲光の直後、唇が触れそうな距離にいた。
「ぼくは、茉世さんの面子も守れないような男です」
「何を、言って……」
内容は半分も頭に入っていなかった。狼狽える。このままで、口付けてしまう。そしてそれを拒否できないことを彼女は自覚しなければならなかった。散々吸い合った唇を見詰めてしまった。柔らかさを知っている。想像した。欲求は深まる。だが理性を捨てられたわけではない。葛藤はなかった。理性が勝っていた。しかし欲望に背を向けきれもしなかった。前進も後退もしない。相手に身を委ねた。
「永世さん……」
悲嘆にも似た声を漏らす。思考は真っ白く、眼前は澄んだ焦茶。ガラスが打ち砕かれるような雷音に耳を劈かれるはずであった。けれども彼女は唇に当たる弾力を認めるので精一杯だった。甘い蜜を頭蓋骨のなかに注入されたようだった。不合理な幸福感が広がっていく。目蓋が落ちた。快い麻酔だ。
引き寄せられながら、傾いていく。しかし彼女は気付かなかった。逞しい布団に包まれ、一心不乱に舌を絡めた。置いていかれたくなかった。置いていかれたならばこの時間は終わる。必死だった。
「は……ぁ、ん……」
舌に纏わりつくどちらのものともいえない口水が冷たく感じられた。やがて三度ほど連続して肩を叩かれ、茉世は蒸れた敷布団から身を起こす。名残惜しさがあった。唇が荒れている。軟らかなものが足らない。軟らかなものに当てていたい。
「暑くて……」
永世は額を拭った。微笑を向けられる。真夏に菜園で見たのと同じようでいて、どこか婀娜。
「上手く、なりましたか」
彼はペットボトルの蓋を回していた。
「え?」
「キス……」
ペットボトルが彼の口元で逆さまになり、水が揺らめく。涼やかな音がした。茉世は浮沈する喉笛を眺めていた。今その首を食い千切れば、喉を潤せそうなものだ。彼女は生唾を呑んだ。焦茶色の瞳が転がり、咄嗟に視線で拾ってしまった。危うげな首の丘陵の蜿りが止まる。水が叩きつけられる。
「ぅ……ッん!」
焦茶色ばかり目にして、補色が視えそうだった。唇によく知った暴れ者の弾力が再来する。口腔に水が流れ入る。茉世は小刻みにそれを飲んだ。意識が溶ける。柔らかな睡眠薬のようだ。上体に力が加わっていることも分からなかった。背中が畳に引き寄せられ、やがて隙間はなくなった。口腔の水もなくなった。空になった口の中を、永世の舌が漁っていく。隠しているものは何もない。すべて曝している。去っていこうとするのを引き留めて、絡みついた。彼にもざらついたところがある。
「ん………っ」
口は下腹部から遠いはずだった。だが臍の下のほうが熱く疼いている。蒸れた空気に温められたのではない。内部から発生したものだった。
茉世は身を震わせた。快楽というほどはっきりしたものではなかった。曖昧だった。眠気に似ていた。柔らかく温かな、気に入りの布団に包まれ、慣れ親しんだ枕に身を委ねるような。
唇が離れていく。互いに溶けて混ざり合ってしまったようだ。輪郭もぼやけて、糸のように細まり、2人を繋いで別個体にさせない。
「上手くなったかどうかは分かりませんけど……ぼくは気持ちいいです」
茉世は真上に手を伸ばしてしまった。頬を捉える。長い睫毛が微かに動じた。頭の重みを掌に感じる。彼は頬を擦り寄せていた。猛烈な情動が噴き上がる。悲しみにも似ていた。錯覚してしまう。だが錯覚だと彼女は分かっていた。この者には懸想している相手がいる。そして茉世は遠回しに拒絶を示されている。ところが遊び相手にはなるのだろう。少なくとも強い厭悪はないのだろう。それとも主家の嫁に対する忖度だとでもいうのか。
「永世さんの邪魔、しません……」
「邪魔ってなんですか」
「……」
茉世は俯いてしまった。
「茉世さんって、ぼくのこと好きなんですか」
そんなはずはないだろう、という響きがあった。そんなはずはないために、この発言は成り立つのだ。つまり冗談なのだと……
大事なことを忘れていた。
「そんなことあるわけないじゃないですか!」
叫んでいた。
永世は微笑む。朗らかだ。風鈴がひとつそよ風に遊ばれたような音色を思わせる笑みだった。それからバッテリーがなくなったように、徐々に気拙そうに強張っていく。アルパカのような睫毛が伏せった。
「いや、不謹慎な冗談でした。申し訳ない」
「勘違いしないでください……キスの練習、ですよ……」
「はい。ぼくの唇が擦り切れても、付き合いますよ」
伏せった目が窺うように持ち上がる。口元にも微笑が戻る。茉世は目を逸らした。
「身に余る光栄です」
「光栄なものですか。利用されているのに」
「でも気持ちいいですから……」
彼の掠れた声、吐息が茉世の胸元を燻す。鼓動が速まるあまり、心臓が肋骨を突き破り、肉と皮を張り裂いて、飛び出てきてしまいそうだった。息が上がる。彼の荒れた唇を見詰めてしまった。視界が明滅する。惹かれていた。彼の肉感、彼の持つ弾力、彼の意外な狂暴性。その舌遣いに屈服している。もう負けていた。勝算はない。
茉世は蛙と化していた。蛇の出方を待つほかない。蛇が動いたそのときに、やっと身の振り方が分かる。
「茉世さん」
平生とは違う響きをしていた。彼は手を伸ばし、茉世の頭を両手で押さえつけ、彼女の唇に噛みついた。そして彼女もそれを受け入れていた。飽きもせず舌を吸い合い、身体を擦り寄せる。瑞々しく張りのある男体に、胸を押し付けるのは心地が良かった。
昨晩の入浴剤の匂いが、まだ薫っている。それは酒精を含んでいるのではあるまいか。茉世は酔ってしまった。高い体温に包まれ、酔いの回りは早くなる。
「ぁ……ぁふ、………っん………」
身体がおかしい。拒絶できない。何故ならば嫌悪が湧かなかったからだ。理性が負けたからだ。眼前の甘い毒の蜜を啜る怠惰に堕ちたからだ。
身悶える茉世との生じるわずかな隙間を永世は赦さない。彼もまた茉世を放す気配はなかった。茉世を掻き抱き、まるで熱殺蜂球だ。実際、茉世は交合わった口唇と舌に冷たさを覚えていた。リップクリームは舐め落とされたが、乾燥する暇もなかった。
堕落は絶美。
チョコレートガナッシュを詰め込んだ瞳が、体温で溶けてしまったに違いない。その眼には水飴が張っている。
一度離れた。下唇が触れそうなところで、刹那、葉末から滴る朝露程度の思考が戻った。
赦されないことだ。浅ましい。軽薄だ。
しかし人には感情と欲がある。理性もあるが事情もある。最適解も分かっている。躊躇いがないわけではない。だが欲があるのだ。
茉世は永世の唇を吸った。脳天まで下から斬り上げられ、真っ二つになるような開放感があった。天然の興奮剤は宛ら刃のよう。
柔らかな弾力を楽しむ。噴出した恐ろしい分泌物が、良心を叩き斬っていく。かといって開き直れるわけでもなかった。
彼女は飽きもせず永世の舌を舐めていた。中断を求められている。分かってはいたが応じなかった。抱き締められ、背中を撫でていた彼の手はいつの間にか腿を這い、中断を乞うため四指で軽く叩かれる。
「ん……っ、もうダメです。筋肉痛になっちゃいますよ」
永世は解れた淫糸を舌先で巻き取った。茉世は話こそ聞いていたが、上体を支えていることができなかった。倒壊していくビルのような躯体を、永世の腕が絡め取る。蒸れた匂いが強くなる。彼女は頬を擦り寄せた。
「は………、ごめんなさい………」
舌の根本が重い。呂律が回らない。
「雷、やみましたね」
雨音が静かだった。季節柄、夕立など珍しいものではない。
「雷、怖いんですか」
上擦った、幼気な色を帯びた声音を彼女は出した。それでいて明らかに侮り、それが目的の意思疎通とでも言わんばかりの語気であった。
「怖いですよ。落ちたら大変でしょう。でもなんだか、ワクワクもします。こんなことをお訊きになるなんて、茉世さんのほうこそ怖気付いているんじゃないですか」
永世もまた露骨に軽侮を示した。だが彼の音吐は低く柔らかく、眸子はまろく輝いている。
彼はこういう接し方をしていただろうか。茉世のなかに疑問が過る。だが深みに嵌まる名も場所も知らぬ沼めいたものではなかった。では彼はどういう態度であったか。慎ましく控えめで、一本筋が通っている。
「怖いです。夏……終わるの」
茉世は鼻先が潰れるほど永世に頭を突き入れる。
「秋は、」
彼は一言、区切った。
「秋は、美味しいもの、多いでしょう。今より涼しくなって、過ごしやすくなるんじゃないですか。栗に柿、さつまいも……かぼちゃにさんま。ぼくのことなんて、忘れちゃうんだろうな」
卑屈なことを言っておきながら、そこに嫌味はなかった。どこか挑戦的であり、独り言のようでもあった。
「永世さんのほうこそ、海外に行ったらわたしのこと、忘れてしまうクセに……」
「……忘れるんですかね。忘れられるんでしょうか……でも茉世さんはぼくのこと、忘れたっていいんですけどね」
「嫌です、そんなの」
永世は笑う。大騒ぎした後の雨よりも楚々としている。茉世は彼のこの笑みを鈴に閉じ込めて、いつどこでも聞けるようにしてしまいたかった。
彼は茉世を放した。布団を抜け、数えるほどの私物を手繰り寄せる。
「茉世さんは金木犀の香り、好きですか」
「嫌いではないです」
「よかった。父なんて、おトイレの匂いって言うんですよ。この前ちょっと買い物に行ったら、若い女の子たちが群がっていて、こういうの流行ってるんだなって……」
オレンジ色のチューブを渡される。ハンドクリームだった。
「え……ありがとう、ございます……」
「匂いは記憶と結びつくんだそうです。じゃあこの匂いでぼくのこと、思い出してくれますか」
茉世は手の甲にハンドクリームを少し落とした。匂いを嗅ぐ。金木犀の穏やかな甘い香りがする。再現度は高い。
「本物の金木犀みたいな香りですね。でも、永世さんっぽい匂いではないです」
少量のクリームを手に塗り込む。普通のハンドクリームよりも固い質感はバターやマーガリンに似ている。
「ええ……? ぼくっぽい匂いってなんですか?」
永世は悪戯っぽく白い歯を見せている。恍けた面構えも、茉世の心臓を鷲掴み、爪を立て、指の狭間から零れ落ちそうになる。
「永世さんは花束みたいな匂いがします。大きなお花の匂い……だから、お花の匂いだと思います。多分、白いブーケみたいな」
それはおそらく入浴剤の匂いであった。だが永世の匂いだった。
「ぼく、匂い嗅がれていたんですね」
彼に茉世を誂う意図はおそらくなかったのだろう。むしろ彼は虚を突かれたようだった。彼は自身の匂いを確かめていた。
「すみません。匂いには気を付けていたんですが……」
茉世はありのまま、彼女のなかでの事実、現実、本音を口にしたつもりだった。ところが彼は嫌味として受け取ったのか、自身の体臭を嗅ぎ取ろうとしている。
「だ、大丈夫ですよ。いい匂いですから……永世さんはいい匂いがします。多分入浴剤だと思うんですけど、なんでか、みんなとは違う匂いがして……」
彼女は何を言うつもりだったのだろう。目の前で泳ぐ焦茶色の瞳に、彼女我に返った。
「いや、あの……その、金木犀の匂いはやっぱりちょっと女性的な感じがして……永世さんは爽やかなあっさりした匂いだと思うので、入浴剤とかの匂いなのかなって! お風呂上がり、さっぱりしますもんね……! あ、あの、これは例えばの話で……金木犀の匂いではないなって、そういうことなんです!」
茉世は捲し立てた。睨まれるどころか微笑を向けられているというのに彼女は慌てふためいている。
「臭いわけじゃなくてよかったです。あ、でも、気を遣ってくれているんじゃないですか」
彼女は鼻を鳴らした。いやらしさのない匂いのはずなのだ。しかし淫らだった。欲が芽吹いて、葉を広げ、一息に蕾と化して花開く。
「いい匂いです……」
同時に彼女は蜂であり、蝶だった。佳香に惹かれていく。衝動的なようでいて、恐れもあった。躊躇いもあった。しかし彼女は永世の耳元に鼻先を近付けた。唇に耳朶が当たる。歯が疼いた。
「……っ、茉世さん………」
息を詰めるのが、さらに茉世の歯に響いた。耳朶を咬む。
「ふ………っ、」
咬むだけでは足りなかった。吸う。
「茉世さん……」
グミの食感がある。痛みはあるだろうが、皮膚が裂け、血が滲み、肉が千切れるほどではないはずだ。
「永世さん、美味しいです……」
赤児のときに、ろくに乳を飲まなかったのかもしれない。反動なのか。茉世は男の耳垂を吸った。噛んだ。舌で遊ぶ。
「ま、つよさ………ぁっ……!」
永世の身体が強張った。茉世は彼を掴んだ。腹と背中を掴んで耳朶を齧る。
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