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弾丸ベルガモット 全8P/一人称×4/女性キャラあり/フィストファック/濁点喘ぎ/アヘ顔/直腸脱
弾丸ベルガモット 1 夫を性奴隷にされた妻とその双子弟と間男の話。
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-ignis-
わたしは目の前で上がる悲鳴から逃避するように出会った日を思い出して腕を振り下ろす。
「逃げたらいいわ。あなたのおうちにすべて公表するから。あなたの息子さんの学校と、お父様の会社と奥様のパート先にもすべて送らせていただくから。あの人を殺してわたしも死ぬ。それだけよ。もう二度と来ないで」
雄叫びを上げてあの人の同僚は逃げていく。良い人だと思っていたのに。あの人のいい友人だと思っていたのに。残念だった。
シャワーですべてを洗い流し、着替えてから花の匂いがする除菌剤を振りかけて寝室に行く。あの人は光を嫌がって、遮光カーテンを暫く閉じたままだった。繊維が窓奥の日差しで輝いている。あの人は-雪也さんは-ベッドで上体を起こしてぼんやりしていた。
「雪也さん」
もう彼にわたしの声は聞こえなかった。朝と昼と夕方、夜。夫の寝間着を脱がせてお襁褓を換える。数週間前からそんな生活が続いていた。
雪也さんは身体を壊されてしまった。体調を崩されたのではなく、壊された。これは夫に対しての尊敬語ではなく、中学や高校の国語なんかでやる尊敬・自発・受身…この場合は可能は含まれないけれど、その中でいう、受身。つまり夫は壊れてしまった。精神も、肉体も。特に酷い扱いを受けた肛門は時折、内部が外に露出してしまう。まるでそこから大きな貝の中身が這い出てきたみたいだった。そのことを知ったのはもう雪也さんの中からわたしが消えた頃で、病院に連れて行こうとすると癇癪を起こした子供のように暴れた。もう彼の意思とは関係なくそこは開いて露出したままで、お襁褓が必要な身体になってしまった。でも雪也さんのここが壊れたから、雪也さんは地獄の日々から解放された。とはいえまだこの人の煉獄みたいな日々は続く。この人はわたしを庇って、長いこと、慰みものになっていた。長いこと、長いこと。わたしに魔の手が伸びないよう、つらく厳しい中にいた。わたしはそれに、気付かなかった。
見せられた動画には間違いなく雪也さんが映っていた。見覚えのある床の間や土壁は社員旅行で行った旅館だった。よく覚えている。善意だと思っていたお茶を飲んで、急激に眠くなったわたしはそれが月の習慣前に来る睡魔だと思って、誰かの企みだとか、薬によるものだとか何の疑いもなく寝ていた。その間にこの人は身体を弄ばれていた。わたしがそうならないようにと。わたしは何も知らないまま、雪也さんが本当の意味で身体を壊して、飽きられて捨てられてもう外にも出られなくなるまでのうのうと本当に何ひとつ知らずに生きていた。
夫婦生活が一方的になったことも、雪也さんの変わり果てた姿と寄り添うことも、すべてわたしの務め。無為に生きていた日々はこの人の犠牲の上に成り立っていたのだから。
はじめは脱がされることを嫌がって引っ掻いたり叫んだり、暴れた。少しずつ触って、少しずつ体温を慣らして、少しずつ、少しずつ。でもそれで雪也さんはとうとうわたしというものを認識しなくなった。彼の中ではいつの間にかお襁褓が替わっていて、もしかしたらそのことすら分かっていないかも知れない。
「嫌だ……」
雪也さんはわたしの手を嫌がった。嗅覚が、それか第六感みたいなものがわたしの穢れた行いを察知したみたいな気がした。
「嫌だ…」
「雪也さん」
「嫌だ……」
伸ばした腕を払われる。虚な目はどこか一点を見つめた。わたしには絶対に見せない弱みが、否定的な言葉が無防備に晒されている。今まで聞いたことがなかった。でももう珍しいことじゃない。こうなってからは。
「嫌だ…」
「ごめんなさい。もう一度よく洗ってきますから」
雪也さんはわたしを見ることもなく落ち着き、拒絶は嘘のように凪いだ。浴室をもう一度念入りに洗う。腕も洗った。まだ雪也さんには臭いような気がした。石鹸で何度も洗う。臭気が排水溝のぬめりみたいに腕を覆っているような気がした。雪也さんを陵辱したあの同僚の生臭さがもう皮膚に染み込んでいる。タワシが目に入って石鹸を削る。痛そうだな、って思うことも雪也さんの屈辱の日を考えれば恥ずかしいことだった。爪の中も洗って、あの男の匂いを消す。あの男ごと消してしまえばよかった。でも悔いはない。雪也さんの世話はわたしがしなければ。お義母さんやお義父さんを呼べるわけない。わたしが雪也さんの妻として守らなければ。雪也さんがそうしたみたいに。泡立ったタワシが手から落ちて洗面台に転がった。ひとりで抱えるということの重みが途端に圧しかかる。傍にいて気付かなかった。何も、何ひとつ。叩きつけるような水が、よく洗った肌を叩く。沁みた。守らなきゃな。痛い。守らなきゃな。両手の石鹸の匂いを嗅いで、霧吹きのアルコールで消毒する。雪也さんの記憶から、その細胞にまで染み渡ってしまった卑劣漢たちの手垢まで消毒できたなら。
-ėrable-
久々に電話が来て山南さんのお家に向かった。雪也さん、カラダの相性いいし、ちょっと意地っ張りなところあるけどかっこいいから結構好きなんだよね。ピンポーンって押して、久々に会うからわくわくした。しかもテルホじゃなくて自宅。すぐにロックが解かれて、なんて言おうかな?土産持ってきたほうがいいかな?なんて思いながら玄関扉が開いた瞬間に真横を薙ぎ払った物に驚いて瞬間的に屈んだ。咄嗟の行動でぼく自身、把握したものじゃなかった。様子をみながら腰を上げる。とんでもない美人さんが握り拳みたいに小さな色の白い顔をして笑っていた。髪も黒くて長くて、見惚れるくらい可愛かった。数秒前のことも、どうしてここに来たのかも忘れてぼくはにへにへ笑っていたと思う。その小さな手にある金属バットを見るまでは。めちゃくちゃ綺麗な女性は絵に描いたような清楚でか弱い美人って感じだったけど、ぼくを見る目は全然、か弱いなんてものじゃなかった。殺意と敵意に満ちて、この人多分普通じゃないな、って感じがした。
「ご、ごめんなさい!間違えました!」
人違いでも見ず知らずの人に金属バット振るかね、フツー!ぼくは慌てて引き返す。
「待ってください」
声まで見た目そのままの静かな感じで、ころころって控えめに鈴の中の玉っころが転がるみたいな、風情!みたいな、侘び寂び!みたいな感じの喋り方だった。首根っこを引っ掴まれて敷地のほうに戻される。車1台収納できて、子供用ビニールプール1つくらい置けるくらいの芝生の庭とまぁ少し飾れるかなくらいの花壇があって、1歩半分くらいのウッドデッキ。田舎のぼくン家の4分の1くらいしか敷地ないけど2階建てで、ちょっと可愛らしいピンクっぽいベージュっぽい外装のマイホーム。白いコンクリートの上を辿って玄関扉までやって来る。
「主人にご用ですか」
「しゅ、主人!?あの、え、山南さん宅?なんすか」
女の人は本当に握り拳みたいに小さな小顔を傾げた。この辺にこんな綺麗な人いた?アイドルとか女優さんとかとはまた系統違うけど、とにかく芸能界とかに出てくるタイプじゃない美人だった。っていうかここ来るのにぼく、表札みたもんね。確かに山南さんのお家だった。なんかガラス工房とか陶器教室の1日体験みたいなやつで作らされそうなハンドメイドっぽい表札。波と砂浜みたいな感じの。新興住宅地にある建てられたばっかのお洒落な家にありがちな意匠凝らしたタイプの表札ね!確かに、山南って書いてあったよ。
「はい、山南です」
金属バットで襲われかけたけどやっぱ可愛いな。金属バットで撲殺されかけたけど。当たってたら頭蓋骨粉砕くらいしたんじゃないかな。
「えっと、雪也さんはご在宅ですか」
雪也さんの妹?でも妙に落ち着いてるな。お姉ちゃんかな。落ち着いてる?金属バット振り回してるのに?。
「主人に、何か?」
「あ、えっと、雪也さんの友達の、西島 深秋っていうんす。雪也さんと遊ぶ約束してて…」
雪也さんの妹さんかお姉ちゃんみたいな人の顔が少し怖くなった。
「主人と…?」
ん…?待って、主人って言ってるじゃん。っつーことは、この人、雪也さんの、お嫁さん?互いに顔を見合わせ、この女の人はなんか疑ってるみたいな目を向けてきて、ぼくはこの女の人があの雪也さんのお嫁さんということを噛み締めていた。結婚してたんだ。あの雪也さんが。結婚生活できるのかな。でもこんな可愛いお嫁さんが毎日家で待っていたら、ちょっと恥ずかしくてカオが熱くなってきちゃった。
「上がってください。ごめんなさい、気が付かなくて。主人とは歳が離れていたものですから」
そうかな?雪也さん32歳くらいだっけ?ぼく21だから別にそんなそんなじゃない?雪也さんのお嫁さんに家に入れてもらった。天井で大きな扇風機回っていて、御洒落(しゃれおつ)な雪也さんっぽいな、って思った。
「あ、雪也さんの匂いだ」
なんかつーんってくるレモンに洗剤混ぜたみたいなグレープフルーツの最強バージョンみたいな匂い。バハムートとかベヒーモスみたいな感じの名前だった。ベルモットとかモルモットみたいな。くんくん鼻を動きしていると雪也さんのお嫁さんがちょっと睨んだような気がしてやめた。
「なんていうんですっけ。雪也さんのハンドクリーム、こんな匂いでしたよね」
場を和ませるつもりが雪也さんのお嫁さんはなんかもっとキッてなった。ぼくの姉ちゃんが怒った時にちょっと似てる。この前好き人(ピ)と事故って寝たまま起きないけど。
「…知りません」
「じゃあ雪也さんに聞こっと」
リビングに案内されてコーヒーかお茶か聞かれて、どっちも苦手だけど味薄い分お茶かな、って思ったらココアもあるっていうからココアにした。
-ignis-
あの日わたしが油断したみたいに深秋とか名乗った子供にココアを淹れる。ココアの粉と白い粉末。すぐに熱湯に溶け、マドラーで掻き混ぜる。子供みたいにいきなり飲んで熱がっている。雰囲気は人懐こい子犬だったが焦茶色の髪は毛先が傷んで栄養状態の悪い猫のようだった。雪也さんの名を親しげに連呼する。ふーふーとココアに息を吹きかけている深秋とかいう子供をちらと見る。雪也さんの何?ココアのカップを置いて手を互いに握って熱を逃している。不躾に部屋の匂いを嗅いでいる。カウンターを隔てたわたしを大きな目で捕まえて、わたしが彼の目の前に腰を下ろすまでずっと追う。
「やっぱりいい匂いです」
室内を遠慮なく嗅ぐ。犬みたいだ。
「この匂い、好きなんですね。唇に塗ってるやつもこれだったっすよね!」
バハムートだか、モルモットだか!と能天気に話している。雪也さんの何?
「この匂い、何ていうんですっけ。ぼくも同じの買お」
わたしは答えなかった。温くなっているココアを飲んで、へらへら笑っている。わたしは一言断って水場に戻った。包丁を研ぐ。この前の雪也さんの同僚よりも弱そう。
「ね、雪也さんのお嫁さん!」
昔、友達の家に行った時、友達のお母さんをそんな風に読んだものだった。
「名乗るのが遅れましたね、火花と申します。火花と書いて、ホノカです」
「じゃあホントに雪也さんの…!」
「主人が何か?」
「ずっと妹だと思ってたんですけどね!よく電話してるトコみてたんです」
無邪気に笑う。雪也さんに何をしたかも知らないで。
「夏祭りみたいな名前っすね!あ、でもそれは花火か」
「はい。8月の生まれなものですから」
「ぼく7月!雪也さんは10月でしたっけ?あ、そだ。雪也さんは?」
「少し外に出ているみたいで。主人が呼び出したのにごめんなさい。帰ってくるまでゆっくりしていって」
深秋とかいう子供の目が重く瞬く。大きな目は子供のようで、子供も子供っぽい人も苦手な雪也さんが本当に彼を呼んだのか疑わしい。本当に親しいのだろうか。わたしが妻であることも把握していなかった。包丁を研ぎながらうつらうつらと船を漕ぎはじめる深秋とかいう子供を観察する。細いけれど背丈はあるし、何より男女の力の差には敵わない。焦らず、ゆっくり眠気に落ちていく様をみる。結束バンドを手探りで掴む。ハエを打ち落とすみたいにゆっくり、ゆっくり。焦らない。研ぎたての包丁がシャンデリアみたいな照明で光っている。雪也さんを苦しめたなら殺す…まだはしないけど。ソファーの上に投げ出された指を見つめる。薬指を貰う?雪也さんとの結婚生活を奪われたんだから。小指?もう子供は望めないから。中指?それとも人差し指…迷っているうちに深秋とかいう子の首が背凭れにかくりと仰け反ったのを確認した。後悔なさいよ、後悔なさい。深秋とかいう子供に一歩、一歩距離を詰める。日向ぼっこをする猫みたいに能天気な寝顔。大きく開いた膝を閉じ、足首を結束バンドで括った。小さく身動いだがまだ目覚めてはいなかった。両手も拘束する。殺す、殺す、殺す殺す殺す。殺さない。牢屋に入ってしまったら誰が雪也さんの傍にいるの。襟首を掴んで引っ張ってみる。意識のない人間は思ったよりも重くて、雪也さんと相談しながら買ったソファーをまったくの部外者の血で汚さなきゃならないのかな、なんて思った。落ちるかな。落ちないかも知れない。捨てる?雪也さんが買ってくれたのに?でも捕まえた。もう敢行るしかない。張りのある頬に包丁の先端を当ててみる。弾力があった。まだ高校を出たばかりくらいの子供だ。子供だから、何?子供なら雪也さんを辱めても許すの?まさか。子供でも容赦しない。わたしの中に少年法なんてものはないのだから。だってこの子供が雪也さんにしたことは、市井の子供だってしていいことではないはず。わたしがこれからすることも正当性なんてないけど、自分の破滅の可能性も考えず雪也さんに手を出したのはこの人なんだから。迷いがある。罪悪感がある。躊躇いがある。それをすべて背負うと決めた。その重さがわたしの罪なんだから。でも薄汚い強姦魔の血で雪也さんも座る、雪也さんが買ってくれたソファーを汚せない。
覚えておいてとは言わないけど忘れないでよ。
眉の端を切りつける。短く入れた線が遅れてぱくりと赤く染まる。人の肌を故意に傷付けてしまった。渦巻く叫びたいような衝動を無理矢理飲み込む。正当性を主張しようとしてしまう。正当性なんてない。正当性を何の後ろめたさもなく主張するのなら証拠を提出して然る機関に出たらいい。でもそこに雪也さんの気持ちは介入してない。だからこれは夫を心身共に壊された女の愚行で、雪也さんは関係ない。だから邪魔する感情は雪也さんに贈りたいわたしの残滓で、止めたくない敵意は雪也さんには見せられないわたしの正体。一呼吸置いてカウンターキッチンへ戻る。鍋に水を入れて沸かした。雪也さんの同僚は爪先に熱湯をかけたらすべて自白した。雪也さんが気に入らなかったと。学歴も高くて成績が良くて、女性社員からも人気があって、出世街道まっしぐらの雪也さんが気に入らなかったって。プライドが高くていつも周りを見下して透かしている雪也さんを陥れたって。ぐちゃり、ぐちゃり、肉の破裂する音がまだ耳で繰り返されて、それはほとんど悲鳴で掻き消えたけど指を潰す感触が手の中に残っていて。砂肝が食べたいなんて思って、でも雪也さんはあまり食べているという認識がないみたいだからよく噛んで強く飲み込むような物はあまり…思ったより簡単に潰れた指はミニトマトの危うさに似ていた。でも雪也さんはトマトが嫌いみたい。わたしには言わないけど少し引き攣る表情が面白くて分かっていてもつい添えてしまう。あの人は弱みをみせない。いつでも余裕綽綽で、颯爽として、ひとりで抱え込む。わたしはすべてに気付かないフリをしてまるであの人が完全無欠の王子様みたいに振る舞う。もう十分だよと届いたらよかったのに。何も分かっていなかった。何ひとつ。見えるものしか見ていなかった。わたしが思っていた以上に気を張って、神経を擦り減らして、身体を暴かれていた。
鍋の中の水が煮え滾る。文字通り、比喩でも何でもなく煮湯を飲ませる。耐熱カップに湯を注ぐ。まだ躊躇いがある。専門学校を出たばかりのわたしの弟くらい。痛い、熱いと泣き喚いたら可哀想だ。熱湯の入ったコップを片手にわたしは立ち尽くしてしまう。鼻を摘んでその口に流し込むだけ。何を躊躇っているのか分からない。そのうち階段のほうから足音がした。寝間着姿の雪也さんが身体を引き摺るようにリビングへやってきた。わたしのほうを見ることもなくソファーに寝る深秋とかいう子供に寄り添う。彼の肩に頭を預け目を瞑る。スリッパだけの裸足の足が寒そうだった。寝間着もあまり厚みがなくわたしはブランケットを取り出して彼の膝に掛ける。雪也さんの誇り高かった目にもうわたしの入る余地はなかった。雪也さんは深秋とかいう子供の手を拘束した結束バンドを外そうとして何度も引っ掻いた。そろそろ爪を切らないと肌を傷付けてしまう。
「雪也さん」
爪切りを出すと彼の前に跪く。図体ばかり大きな子供みたいな子の膝に置かれた夫の手を取った。こうなる前は頻繁に身嗜みに気を遣っていた。今ではわたしがやらなければ爪は伸びたまま。好き嫌いも激しくなってささくれが目立つ。手にハンドクリームを塗ることも拒まれ乾燥してしまっている。唇も逆剥けや罅割れがあった。凛として鋭い美しさは消えてしまったけど淀んだ美しさが代わりに現れた。隣に部外者がいることも忘れて爪を切っていく。ささくれの剥けた皮も切って血が滲んでいる箇所に小型の絆創膏を巻く。雪也さんお気に入りのハンドクリームから薫るベルガモットは消え、その手からは除菌剤に付いているグリーンフローラルと洗剤の匂いがした。がさがさした大きな手にハンドクリームを塗りたくなる。
「雪也さん…」
呼んでも反応はない。ぐぅぐぅ寝ている隣の犬みたいな子に頭を押し付けるだけだった。安らかな表情でその子の胸の辺りに耳を当てている。この子、雪也さんの何なの。
-ėrable-
おごご、ってゆう自分のイビキで目が覚めた。肩が凝って膝が痛くて肘も軋んで身体ちょっと重くて、前に飼ってた猫がぼくが起きた時に首とか心臓のところにいた時みたいだった。そんなつもりで、ダメだろ~?って感じ手を伸ばしかけたけど何か不思議な力みたいなのが働いて両手が別々に動かなかった。あと足も。めちゃくちゃお洒落な扇風機とオペラでやるやつの電気が天井にあった。肩半分があったかくてちょっと重かった。やっぱ猫乗ってる?首持ち上げるとめちゃくちゃ綺麗な女の人いてナンパしそうになったけど雪也さんのお嫁さんだった。
「あり?え?雪也さんのお嫁さん?」
白いやつで両手が縛ってある。怒ってるみたいな冷めた目で、ぼく何かしたっけ?ってちょっと焦った。
「雪也さんの何なの、貴方」
「え…?」
雪也さんとえっちっちな仲って言っていいの?これ。
「雪也さんのお友達?本当に?」
「もうちょっと、アッチッチな関係かも知れないっす」
綺麗な目がス…ってなってぼくに被ってる猫を、猫じゃない、なんかあったかいやつを雪也さんのお嫁さんは横に退かした。っていうか雪也さんだ。パジャマ姿珍しい。バスローブしか見たことない。かわいい。クマさん柄だ。雪也さんのお嫁さんが選んだのかな。抱き寄せたくなったけど手が動かなかった。
「雪也さん」
硬いゴムみたいなやつで動かせないぼくの手に雪也さんのちょっとかさかさした手が乗っかった。
「ごめん、寝ちゃって。どんくらい寝てた?」
「俺も、寝てた」
ひっ、て音がして雪也さんのお嫁さんが口元押さえてどっかに行ってしまった。なんかゴキブ…そうつまりGか何かいたのかなってぼくは立ち上がったけど右足首と左足首がくっついて歩けなかった。あと雪也さんがぼくの腕引っ張った。
「雪也さんのお嫁さん、大丈夫?」
「ほのか…?」
「雪也さんのお嫁さんあっち行っちゃった」
外から見ると小さく感じられたけど中に入ると結構広い。雪也さんのお嫁さんが出て行った廊下を指で差す。
「ほのか…」
雪也さんはなんかボーッとしててまだ寝てるみたいだった。寝起き良さそうなのに。自宅では雪也さんのお嫁さんに起こしてもらってずっとベタベタ甘えてるのかな。それとももしかして体調悪いの?
「雪也さんのお嫁さん泣きそうだった」
「ほのか…?」
雪也さんはまだ変な様子でなんかまだ話が通じそうになかった。ぼくより早く起きて華麗に朝飯とか頼んでたのに。でもバスローブよりクマさん刺繍のパジャマのがかわいいや。眠そうな目がぼくを見て、お嫁さんが他の男の人といるの嫌じゃないのかな、とか、あんまり 他人ン家うろうろするの悪いかなって思ったんだけど、なんか喧嘩してるっぽかったし、雪也さんのお嫁さんなんか泣きそうだったし放って置けないよ。だっていきなり飛び出して行った。お腹痛かったのかな。
「ぼく見てくる」
ぴょんぴょんジャンプして廊下に進む。床抜けないよね?雪也さんは何も言わない。ただカーテンの奥の隣の家の壁ばっかの窓見てた。やっぱ新興住宅地って狭いね。バハムートだがエシャロットだかっていうお洒落グレープフルーツみたいな匂いはもう鼻が慣れちゃって、匂い覚えて後でお店で探そうとおもったのにあんまり分からなくなっちゃった。爪先で出来るだけ床抜けないように跳ねてトイレとか洗面所とか探した。風呂場にいるみたいで跳ねた拍子に洗面所のマットを蹴ってずらしてしまった。
「雪也さんのお嫁さん!」
跳ねるのちょっと楽しくなってたけど風呂場のドア開けたら雪也さんのお嫁さんが蹲ってた。身体用洗剤のいい匂いがした。
「大丈夫?」
髪綺麗。昔話の偉い女の人みたい。やっぱり駅前の爆弾おにぎりより顔小さい。雪也さんのお嫁さんはぼくを見上げた。かわいいけどちょっと怖い。
「雪也さん、わたしには一言も、口利いてくれなかったのに」
「…夫婦喧嘩?」
墨汁で髪染めてんのかな。いきなりスって立ち上がって雪也さんのお嫁さんがぼくの口元を掴んだ。ガンって感じに勢いよく背中ぶつけて目の前になんか出された。銀色でキラキラしてる。首筋が冷たくなってびっくりした。目の前に子供用マスクでも使えそうなくらい小さな顔があって、かわいいけどめちゃくちゃ怒ってる。皺になっちゃう。
「雪也さんと寝た?」
「う、うん、はい!でもさっき起きましたよ。あ、雪也さんのお嫁さんも見ましたもんね!」
たらたら汗流してぼくは雪也さんのお嫁さんを宥めようとした。雪也さん何言ったんだ?めちゃめちゃ怒ってない?
「違います!雪也さんをいじめたのかって訊いてるんです!」
「へ?えっ?わぁ!」
髪掴まれて風呂の蓋が開いて、顔突っ込まれる。雪也さんと雪也さんのお嫁さんの出汁が入ったお風呂!
「あんたたちのせいで!あんたたちのせいで雪也さんは壊れちゃったんだから!」
水のばしゃばしゃ音とか水に入った音でよく聞き取れなかったけど雪也さんのお嫁さんがなんかキィキィ言ってるのは分かった。もしかしてぼくが雪也さんに加担してると思ってる?女の子って味方しないと敵扱いするもんね!ダメだよ、男と女でそんなふうに分けるなんて。雪也さんと雪也さんのお嫁さんの出汁とれてるお風呂は乳白色で雪也さんみたいとか雪也さんのお家みたいにいい匂いがした。絶対ちょっと高い入浴剤。肌にいいやつ。大体肌にいいやつだろうけど。ばしゃん、ばしゃん顔面を水に浸けられて、息するリズムを間違えて鼻で吸う。ぬるま湯が入って痛かった。雪也さんが入ったお風呂の湯で鼻なんか洗っちゃった!
「雪也さんを返して!雪也さんを返してよ!」
「ほのか」
あ、雪也さん!って水に沈められた時に喋ったから口の中が雪也さんと雪也さんのお嫁さんが入ったお風呂のぬるま湯でいっぱいになったし勿体無いから飲んだ。
「雪也さん…!」
クマさんパジャマの雪也さんと綺麗な雪也さんのお嫁さんが並ぶと絵になった。結婚式とかめちゃくちゃ絵になったんだろうな。
「みあ」
「うんうん、雪也さん。よく似合ってる、クマさんパジャマ」
雪也さんはハンケチーフとか腕時計とかネクタイとかめちゃんこ趣味が良い。ちょっと合わせるのが難しそうなものでも雪也さんのスタイルとかセンスとか扱い方がやっぱり垢抜てるんだよ。気づいたことは口にする。それで雪也さんはかっこいい顔がによによする。パラシュートだか電流コードみたいな名前の最強グレープフルーツみたいな匂いがするハンドクリームも確かそんな感じで「君も使うか」なんて言って塗りたくってくれた。唇にも塗ってくれたけどチュウしたら落ちちゃってまた塗ってくれたんだよね。またチュウしたけど。
「雪也さん…」
「ほのか」
雪也さんのお嫁さんが雪也さんのクマさんパジャマに頬擦りして、いいなぁって思ってたら雪也さんがぼくのことも見てもう1人分スペース空けてくれたけどぼくはびしょ濡れなので遠慮したから後から褒めてもらお。褒めてはくれないけど。ただ本当に真面目で夫婦喧嘩はお犬様もお食べちゃんしないって現実だわ。
わたしは目の前で上がる悲鳴から逃避するように出会った日を思い出して腕を振り下ろす。
「逃げたらいいわ。あなたのおうちにすべて公表するから。あなたの息子さんの学校と、お父様の会社と奥様のパート先にもすべて送らせていただくから。あの人を殺してわたしも死ぬ。それだけよ。もう二度と来ないで」
雄叫びを上げてあの人の同僚は逃げていく。良い人だと思っていたのに。あの人のいい友人だと思っていたのに。残念だった。
シャワーですべてを洗い流し、着替えてから花の匂いがする除菌剤を振りかけて寝室に行く。あの人は光を嫌がって、遮光カーテンを暫く閉じたままだった。繊維が窓奥の日差しで輝いている。あの人は-雪也さんは-ベッドで上体を起こしてぼんやりしていた。
「雪也さん」
もう彼にわたしの声は聞こえなかった。朝と昼と夕方、夜。夫の寝間着を脱がせてお襁褓を換える。数週間前からそんな生活が続いていた。
雪也さんは身体を壊されてしまった。体調を崩されたのではなく、壊された。これは夫に対しての尊敬語ではなく、中学や高校の国語なんかでやる尊敬・自発・受身…この場合は可能は含まれないけれど、その中でいう、受身。つまり夫は壊れてしまった。精神も、肉体も。特に酷い扱いを受けた肛門は時折、内部が外に露出してしまう。まるでそこから大きな貝の中身が這い出てきたみたいだった。そのことを知ったのはもう雪也さんの中からわたしが消えた頃で、病院に連れて行こうとすると癇癪を起こした子供のように暴れた。もう彼の意思とは関係なくそこは開いて露出したままで、お襁褓が必要な身体になってしまった。でも雪也さんのここが壊れたから、雪也さんは地獄の日々から解放された。とはいえまだこの人の煉獄みたいな日々は続く。この人はわたしを庇って、長いこと、慰みものになっていた。長いこと、長いこと。わたしに魔の手が伸びないよう、つらく厳しい中にいた。わたしはそれに、気付かなかった。
見せられた動画には間違いなく雪也さんが映っていた。見覚えのある床の間や土壁は社員旅行で行った旅館だった。よく覚えている。善意だと思っていたお茶を飲んで、急激に眠くなったわたしはそれが月の習慣前に来る睡魔だと思って、誰かの企みだとか、薬によるものだとか何の疑いもなく寝ていた。その間にこの人は身体を弄ばれていた。わたしがそうならないようにと。わたしは何も知らないまま、雪也さんが本当の意味で身体を壊して、飽きられて捨てられてもう外にも出られなくなるまでのうのうと本当に何ひとつ知らずに生きていた。
夫婦生活が一方的になったことも、雪也さんの変わり果てた姿と寄り添うことも、すべてわたしの務め。無為に生きていた日々はこの人の犠牲の上に成り立っていたのだから。
はじめは脱がされることを嫌がって引っ掻いたり叫んだり、暴れた。少しずつ触って、少しずつ体温を慣らして、少しずつ、少しずつ。でもそれで雪也さんはとうとうわたしというものを認識しなくなった。彼の中ではいつの間にかお襁褓が替わっていて、もしかしたらそのことすら分かっていないかも知れない。
「嫌だ……」
雪也さんはわたしの手を嫌がった。嗅覚が、それか第六感みたいなものがわたしの穢れた行いを察知したみたいな気がした。
「嫌だ…」
「雪也さん」
「嫌だ……」
伸ばした腕を払われる。虚な目はどこか一点を見つめた。わたしには絶対に見せない弱みが、否定的な言葉が無防備に晒されている。今まで聞いたことがなかった。でももう珍しいことじゃない。こうなってからは。
「嫌だ…」
「ごめんなさい。もう一度よく洗ってきますから」
雪也さんはわたしを見ることもなく落ち着き、拒絶は嘘のように凪いだ。浴室をもう一度念入りに洗う。腕も洗った。まだ雪也さんには臭いような気がした。石鹸で何度も洗う。臭気が排水溝のぬめりみたいに腕を覆っているような気がした。雪也さんを陵辱したあの同僚の生臭さがもう皮膚に染み込んでいる。タワシが目に入って石鹸を削る。痛そうだな、って思うことも雪也さんの屈辱の日を考えれば恥ずかしいことだった。爪の中も洗って、あの男の匂いを消す。あの男ごと消してしまえばよかった。でも悔いはない。雪也さんの世話はわたしがしなければ。お義母さんやお義父さんを呼べるわけない。わたしが雪也さんの妻として守らなければ。雪也さんがそうしたみたいに。泡立ったタワシが手から落ちて洗面台に転がった。ひとりで抱えるということの重みが途端に圧しかかる。傍にいて気付かなかった。何も、何ひとつ。叩きつけるような水が、よく洗った肌を叩く。沁みた。守らなきゃな。痛い。守らなきゃな。両手の石鹸の匂いを嗅いで、霧吹きのアルコールで消毒する。雪也さんの記憶から、その細胞にまで染み渡ってしまった卑劣漢たちの手垢まで消毒できたなら。
-ėrable-
久々に電話が来て山南さんのお家に向かった。雪也さん、カラダの相性いいし、ちょっと意地っ張りなところあるけどかっこいいから結構好きなんだよね。ピンポーンって押して、久々に会うからわくわくした。しかもテルホじゃなくて自宅。すぐにロックが解かれて、なんて言おうかな?土産持ってきたほうがいいかな?なんて思いながら玄関扉が開いた瞬間に真横を薙ぎ払った物に驚いて瞬間的に屈んだ。咄嗟の行動でぼく自身、把握したものじゃなかった。様子をみながら腰を上げる。とんでもない美人さんが握り拳みたいに小さな色の白い顔をして笑っていた。髪も黒くて長くて、見惚れるくらい可愛かった。数秒前のことも、どうしてここに来たのかも忘れてぼくはにへにへ笑っていたと思う。その小さな手にある金属バットを見るまでは。めちゃくちゃ綺麗な女性は絵に描いたような清楚でか弱い美人って感じだったけど、ぼくを見る目は全然、か弱いなんてものじゃなかった。殺意と敵意に満ちて、この人多分普通じゃないな、って感じがした。
「ご、ごめんなさい!間違えました!」
人違いでも見ず知らずの人に金属バット振るかね、フツー!ぼくは慌てて引き返す。
「待ってください」
声まで見た目そのままの静かな感じで、ころころって控えめに鈴の中の玉っころが転がるみたいな、風情!みたいな、侘び寂び!みたいな感じの喋り方だった。首根っこを引っ掴まれて敷地のほうに戻される。車1台収納できて、子供用ビニールプール1つくらい置けるくらいの芝生の庭とまぁ少し飾れるかなくらいの花壇があって、1歩半分くらいのウッドデッキ。田舎のぼくン家の4分の1くらいしか敷地ないけど2階建てで、ちょっと可愛らしいピンクっぽいベージュっぽい外装のマイホーム。白いコンクリートの上を辿って玄関扉までやって来る。
「主人にご用ですか」
「しゅ、主人!?あの、え、山南さん宅?なんすか」
女の人は本当に握り拳みたいに小さな小顔を傾げた。この辺にこんな綺麗な人いた?アイドルとか女優さんとかとはまた系統違うけど、とにかく芸能界とかに出てくるタイプじゃない美人だった。っていうかここ来るのにぼく、表札みたもんね。確かに山南さんのお家だった。なんかガラス工房とか陶器教室の1日体験みたいなやつで作らされそうなハンドメイドっぽい表札。波と砂浜みたいな感じの。新興住宅地にある建てられたばっかのお洒落な家にありがちな意匠凝らしたタイプの表札ね!確かに、山南って書いてあったよ。
「はい、山南です」
金属バットで襲われかけたけどやっぱ可愛いな。金属バットで撲殺されかけたけど。当たってたら頭蓋骨粉砕くらいしたんじゃないかな。
「えっと、雪也さんはご在宅ですか」
雪也さんの妹?でも妙に落ち着いてるな。お姉ちゃんかな。落ち着いてる?金属バット振り回してるのに?。
「主人に、何か?」
「あ、えっと、雪也さんの友達の、西島 深秋っていうんす。雪也さんと遊ぶ約束してて…」
雪也さんの妹さんかお姉ちゃんみたいな人の顔が少し怖くなった。
「主人と…?」
ん…?待って、主人って言ってるじゃん。っつーことは、この人、雪也さんの、お嫁さん?互いに顔を見合わせ、この女の人はなんか疑ってるみたいな目を向けてきて、ぼくはこの女の人があの雪也さんのお嫁さんということを噛み締めていた。結婚してたんだ。あの雪也さんが。結婚生活できるのかな。でもこんな可愛いお嫁さんが毎日家で待っていたら、ちょっと恥ずかしくてカオが熱くなってきちゃった。
「上がってください。ごめんなさい、気が付かなくて。主人とは歳が離れていたものですから」
そうかな?雪也さん32歳くらいだっけ?ぼく21だから別にそんなそんなじゃない?雪也さんのお嫁さんに家に入れてもらった。天井で大きな扇風機回っていて、御洒落(しゃれおつ)な雪也さんっぽいな、って思った。
「あ、雪也さんの匂いだ」
なんかつーんってくるレモンに洗剤混ぜたみたいなグレープフルーツの最強バージョンみたいな匂い。バハムートとかベヒーモスみたいな感じの名前だった。ベルモットとかモルモットみたいな。くんくん鼻を動きしていると雪也さんのお嫁さんがちょっと睨んだような気がしてやめた。
「なんていうんですっけ。雪也さんのハンドクリーム、こんな匂いでしたよね」
場を和ませるつもりが雪也さんのお嫁さんはなんかもっとキッてなった。ぼくの姉ちゃんが怒った時にちょっと似てる。この前好き人(ピ)と事故って寝たまま起きないけど。
「…知りません」
「じゃあ雪也さんに聞こっと」
リビングに案内されてコーヒーかお茶か聞かれて、どっちも苦手だけど味薄い分お茶かな、って思ったらココアもあるっていうからココアにした。
-ignis-
あの日わたしが油断したみたいに深秋とか名乗った子供にココアを淹れる。ココアの粉と白い粉末。すぐに熱湯に溶け、マドラーで掻き混ぜる。子供みたいにいきなり飲んで熱がっている。雰囲気は人懐こい子犬だったが焦茶色の髪は毛先が傷んで栄養状態の悪い猫のようだった。雪也さんの名を親しげに連呼する。ふーふーとココアに息を吹きかけている深秋とかいう子供をちらと見る。雪也さんの何?ココアのカップを置いて手を互いに握って熱を逃している。不躾に部屋の匂いを嗅いでいる。カウンターを隔てたわたしを大きな目で捕まえて、わたしが彼の目の前に腰を下ろすまでずっと追う。
「やっぱりいい匂いです」
室内を遠慮なく嗅ぐ。犬みたいだ。
「この匂い、好きなんですね。唇に塗ってるやつもこれだったっすよね!」
バハムートだか、モルモットだか!と能天気に話している。雪也さんの何?
「この匂い、何ていうんですっけ。ぼくも同じの買お」
わたしは答えなかった。温くなっているココアを飲んで、へらへら笑っている。わたしは一言断って水場に戻った。包丁を研ぐ。この前の雪也さんの同僚よりも弱そう。
「ね、雪也さんのお嫁さん!」
昔、友達の家に行った時、友達のお母さんをそんな風に読んだものだった。
「名乗るのが遅れましたね、火花と申します。火花と書いて、ホノカです」
「じゃあホントに雪也さんの…!」
「主人が何か?」
「ずっと妹だと思ってたんですけどね!よく電話してるトコみてたんです」
無邪気に笑う。雪也さんに何をしたかも知らないで。
「夏祭りみたいな名前っすね!あ、でもそれは花火か」
「はい。8月の生まれなものですから」
「ぼく7月!雪也さんは10月でしたっけ?あ、そだ。雪也さんは?」
「少し外に出ているみたいで。主人が呼び出したのにごめんなさい。帰ってくるまでゆっくりしていって」
深秋とかいう子供の目が重く瞬く。大きな目は子供のようで、子供も子供っぽい人も苦手な雪也さんが本当に彼を呼んだのか疑わしい。本当に親しいのだろうか。わたしが妻であることも把握していなかった。包丁を研ぎながらうつらうつらと船を漕ぎはじめる深秋とかいう子供を観察する。細いけれど背丈はあるし、何より男女の力の差には敵わない。焦らず、ゆっくり眠気に落ちていく様をみる。結束バンドを手探りで掴む。ハエを打ち落とすみたいにゆっくり、ゆっくり。焦らない。研ぎたての包丁がシャンデリアみたいな照明で光っている。雪也さんを苦しめたなら殺す…まだはしないけど。ソファーの上に投げ出された指を見つめる。薬指を貰う?雪也さんとの結婚生活を奪われたんだから。小指?もう子供は望めないから。中指?それとも人差し指…迷っているうちに深秋とかいう子の首が背凭れにかくりと仰け反ったのを確認した。後悔なさいよ、後悔なさい。深秋とかいう子供に一歩、一歩距離を詰める。日向ぼっこをする猫みたいに能天気な寝顔。大きく開いた膝を閉じ、足首を結束バンドで括った。小さく身動いだがまだ目覚めてはいなかった。両手も拘束する。殺す、殺す、殺す殺す殺す。殺さない。牢屋に入ってしまったら誰が雪也さんの傍にいるの。襟首を掴んで引っ張ってみる。意識のない人間は思ったよりも重くて、雪也さんと相談しながら買ったソファーをまったくの部外者の血で汚さなきゃならないのかな、なんて思った。落ちるかな。落ちないかも知れない。捨てる?雪也さんが買ってくれたのに?でも捕まえた。もう敢行るしかない。張りのある頬に包丁の先端を当ててみる。弾力があった。まだ高校を出たばかりくらいの子供だ。子供だから、何?子供なら雪也さんを辱めても許すの?まさか。子供でも容赦しない。わたしの中に少年法なんてものはないのだから。だってこの子供が雪也さんにしたことは、市井の子供だってしていいことではないはず。わたしがこれからすることも正当性なんてないけど、自分の破滅の可能性も考えず雪也さんに手を出したのはこの人なんだから。迷いがある。罪悪感がある。躊躇いがある。それをすべて背負うと決めた。その重さがわたしの罪なんだから。でも薄汚い強姦魔の血で雪也さんも座る、雪也さんが買ってくれたソファーを汚せない。
覚えておいてとは言わないけど忘れないでよ。
眉の端を切りつける。短く入れた線が遅れてぱくりと赤く染まる。人の肌を故意に傷付けてしまった。渦巻く叫びたいような衝動を無理矢理飲み込む。正当性を主張しようとしてしまう。正当性なんてない。正当性を何の後ろめたさもなく主張するのなら証拠を提出して然る機関に出たらいい。でもそこに雪也さんの気持ちは介入してない。だからこれは夫を心身共に壊された女の愚行で、雪也さんは関係ない。だから邪魔する感情は雪也さんに贈りたいわたしの残滓で、止めたくない敵意は雪也さんには見せられないわたしの正体。一呼吸置いてカウンターキッチンへ戻る。鍋に水を入れて沸かした。雪也さんの同僚は爪先に熱湯をかけたらすべて自白した。雪也さんが気に入らなかったと。学歴も高くて成績が良くて、女性社員からも人気があって、出世街道まっしぐらの雪也さんが気に入らなかったって。プライドが高くていつも周りを見下して透かしている雪也さんを陥れたって。ぐちゃり、ぐちゃり、肉の破裂する音がまだ耳で繰り返されて、それはほとんど悲鳴で掻き消えたけど指を潰す感触が手の中に残っていて。砂肝が食べたいなんて思って、でも雪也さんはあまり食べているという認識がないみたいだからよく噛んで強く飲み込むような物はあまり…思ったより簡単に潰れた指はミニトマトの危うさに似ていた。でも雪也さんはトマトが嫌いみたい。わたしには言わないけど少し引き攣る表情が面白くて分かっていてもつい添えてしまう。あの人は弱みをみせない。いつでも余裕綽綽で、颯爽として、ひとりで抱え込む。わたしはすべてに気付かないフリをしてまるであの人が完全無欠の王子様みたいに振る舞う。もう十分だよと届いたらよかったのに。何も分かっていなかった。何ひとつ。見えるものしか見ていなかった。わたしが思っていた以上に気を張って、神経を擦り減らして、身体を暴かれていた。
鍋の中の水が煮え滾る。文字通り、比喩でも何でもなく煮湯を飲ませる。耐熱カップに湯を注ぐ。まだ躊躇いがある。専門学校を出たばかりのわたしの弟くらい。痛い、熱いと泣き喚いたら可哀想だ。熱湯の入ったコップを片手にわたしは立ち尽くしてしまう。鼻を摘んでその口に流し込むだけ。何を躊躇っているのか分からない。そのうち階段のほうから足音がした。寝間着姿の雪也さんが身体を引き摺るようにリビングへやってきた。わたしのほうを見ることもなくソファーに寝る深秋とかいう子供に寄り添う。彼の肩に頭を預け目を瞑る。スリッパだけの裸足の足が寒そうだった。寝間着もあまり厚みがなくわたしはブランケットを取り出して彼の膝に掛ける。雪也さんの誇り高かった目にもうわたしの入る余地はなかった。雪也さんは深秋とかいう子供の手を拘束した結束バンドを外そうとして何度も引っ掻いた。そろそろ爪を切らないと肌を傷付けてしまう。
「雪也さん」
爪切りを出すと彼の前に跪く。図体ばかり大きな子供みたいな子の膝に置かれた夫の手を取った。こうなる前は頻繁に身嗜みに気を遣っていた。今ではわたしがやらなければ爪は伸びたまま。好き嫌いも激しくなってささくれが目立つ。手にハンドクリームを塗ることも拒まれ乾燥してしまっている。唇も逆剥けや罅割れがあった。凛として鋭い美しさは消えてしまったけど淀んだ美しさが代わりに現れた。隣に部外者がいることも忘れて爪を切っていく。ささくれの剥けた皮も切って血が滲んでいる箇所に小型の絆創膏を巻く。雪也さんお気に入りのハンドクリームから薫るベルガモットは消え、その手からは除菌剤に付いているグリーンフローラルと洗剤の匂いがした。がさがさした大きな手にハンドクリームを塗りたくなる。
「雪也さん…」
呼んでも反応はない。ぐぅぐぅ寝ている隣の犬みたいな子に頭を押し付けるだけだった。安らかな表情でその子の胸の辺りに耳を当てている。この子、雪也さんの何なの。
-ėrable-
おごご、ってゆう自分のイビキで目が覚めた。肩が凝って膝が痛くて肘も軋んで身体ちょっと重くて、前に飼ってた猫がぼくが起きた時に首とか心臓のところにいた時みたいだった。そんなつもりで、ダメだろ~?って感じ手を伸ばしかけたけど何か不思議な力みたいなのが働いて両手が別々に動かなかった。あと足も。めちゃくちゃお洒落な扇風機とオペラでやるやつの電気が天井にあった。肩半分があったかくてちょっと重かった。やっぱ猫乗ってる?首持ち上げるとめちゃくちゃ綺麗な女の人いてナンパしそうになったけど雪也さんのお嫁さんだった。
「あり?え?雪也さんのお嫁さん?」
白いやつで両手が縛ってある。怒ってるみたいな冷めた目で、ぼく何かしたっけ?ってちょっと焦った。
「雪也さんの何なの、貴方」
「え…?」
雪也さんとえっちっちな仲って言っていいの?これ。
「雪也さんのお友達?本当に?」
「もうちょっと、アッチッチな関係かも知れないっす」
綺麗な目がス…ってなってぼくに被ってる猫を、猫じゃない、なんかあったかいやつを雪也さんのお嫁さんは横に退かした。っていうか雪也さんだ。パジャマ姿珍しい。バスローブしか見たことない。かわいい。クマさん柄だ。雪也さんのお嫁さんが選んだのかな。抱き寄せたくなったけど手が動かなかった。
「雪也さん」
硬いゴムみたいなやつで動かせないぼくの手に雪也さんのちょっとかさかさした手が乗っかった。
「ごめん、寝ちゃって。どんくらい寝てた?」
「俺も、寝てた」
ひっ、て音がして雪也さんのお嫁さんが口元押さえてどっかに行ってしまった。なんかゴキブ…そうつまりGか何かいたのかなってぼくは立ち上がったけど右足首と左足首がくっついて歩けなかった。あと雪也さんがぼくの腕引っ張った。
「雪也さんのお嫁さん、大丈夫?」
「ほのか…?」
「雪也さんのお嫁さんあっち行っちゃった」
外から見ると小さく感じられたけど中に入ると結構広い。雪也さんのお嫁さんが出て行った廊下を指で差す。
「ほのか…」
雪也さんはなんかボーッとしててまだ寝てるみたいだった。寝起き良さそうなのに。自宅では雪也さんのお嫁さんに起こしてもらってずっとベタベタ甘えてるのかな。それとももしかして体調悪いの?
「雪也さんのお嫁さん泣きそうだった」
「ほのか…?」
雪也さんはまだ変な様子でなんかまだ話が通じそうになかった。ぼくより早く起きて華麗に朝飯とか頼んでたのに。でもバスローブよりクマさん刺繍のパジャマのがかわいいや。眠そうな目がぼくを見て、お嫁さんが他の男の人といるの嫌じゃないのかな、とか、あんまり 他人ン家うろうろするの悪いかなって思ったんだけど、なんか喧嘩してるっぽかったし、雪也さんのお嫁さんなんか泣きそうだったし放って置けないよ。だっていきなり飛び出して行った。お腹痛かったのかな。
「ぼく見てくる」
ぴょんぴょんジャンプして廊下に進む。床抜けないよね?雪也さんは何も言わない。ただカーテンの奥の隣の家の壁ばっかの窓見てた。やっぱ新興住宅地って狭いね。バハムートだがエシャロットだかっていうお洒落グレープフルーツみたいな匂いはもう鼻が慣れちゃって、匂い覚えて後でお店で探そうとおもったのにあんまり分からなくなっちゃった。爪先で出来るだけ床抜けないように跳ねてトイレとか洗面所とか探した。風呂場にいるみたいで跳ねた拍子に洗面所のマットを蹴ってずらしてしまった。
「雪也さんのお嫁さん!」
跳ねるのちょっと楽しくなってたけど風呂場のドア開けたら雪也さんのお嫁さんが蹲ってた。身体用洗剤のいい匂いがした。
「大丈夫?」
髪綺麗。昔話の偉い女の人みたい。やっぱり駅前の爆弾おにぎりより顔小さい。雪也さんのお嫁さんはぼくを見上げた。かわいいけどちょっと怖い。
「雪也さん、わたしには一言も、口利いてくれなかったのに」
「…夫婦喧嘩?」
墨汁で髪染めてんのかな。いきなりスって立ち上がって雪也さんのお嫁さんがぼくの口元を掴んだ。ガンって感じに勢いよく背中ぶつけて目の前になんか出された。銀色でキラキラしてる。首筋が冷たくなってびっくりした。目の前に子供用マスクでも使えそうなくらい小さな顔があって、かわいいけどめちゃくちゃ怒ってる。皺になっちゃう。
「雪也さんと寝た?」
「う、うん、はい!でもさっき起きましたよ。あ、雪也さんのお嫁さんも見ましたもんね!」
たらたら汗流してぼくは雪也さんのお嫁さんを宥めようとした。雪也さん何言ったんだ?めちゃめちゃ怒ってない?
「違います!雪也さんをいじめたのかって訊いてるんです!」
「へ?えっ?わぁ!」
髪掴まれて風呂の蓋が開いて、顔突っ込まれる。雪也さんと雪也さんのお嫁さんの出汁が入ったお風呂!
「あんたたちのせいで!あんたたちのせいで雪也さんは壊れちゃったんだから!」
水のばしゃばしゃ音とか水に入った音でよく聞き取れなかったけど雪也さんのお嫁さんがなんかキィキィ言ってるのは分かった。もしかしてぼくが雪也さんに加担してると思ってる?女の子って味方しないと敵扱いするもんね!ダメだよ、男と女でそんなふうに分けるなんて。雪也さんと雪也さんのお嫁さんの出汁とれてるお風呂は乳白色で雪也さんみたいとか雪也さんのお家みたいにいい匂いがした。絶対ちょっと高い入浴剤。肌にいいやつ。大体肌にいいやつだろうけど。ばしゃん、ばしゃん顔面を水に浸けられて、息するリズムを間違えて鼻で吸う。ぬるま湯が入って痛かった。雪也さんが入ったお風呂の湯で鼻なんか洗っちゃった!
「雪也さんを返して!雪也さんを返してよ!」
「ほのか」
あ、雪也さん!って水に沈められた時に喋ったから口の中が雪也さんと雪也さんのお嫁さんが入ったお風呂のぬるま湯でいっぱいになったし勿体無いから飲んだ。
「雪也さん…!」
クマさんパジャマの雪也さんと綺麗な雪也さんのお嫁さんが並ぶと絵になった。結婚式とかめちゃくちゃ絵になったんだろうな。
「みあ」
「うんうん、雪也さん。よく似合ってる、クマさんパジャマ」
雪也さんはハンケチーフとか腕時計とかネクタイとかめちゃんこ趣味が良い。ちょっと合わせるのが難しそうなものでも雪也さんのスタイルとかセンスとか扱い方がやっぱり垢抜てるんだよ。気づいたことは口にする。それで雪也さんはかっこいい顔がによによする。パラシュートだか電流コードみたいな名前の最強グレープフルーツみたいな匂いがするハンドクリームも確かそんな感じで「君も使うか」なんて言って塗りたくってくれた。唇にも塗ってくれたけどチュウしたら落ちちゃってまた塗ってくれたんだよね。またチュウしたけど。
「雪也さん…」
「ほのか」
雪也さんのお嫁さんが雪也さんのクマさんパジャマに頬擦りして、いいなぁって思ってたら雪也さんがぼくのことも見てもう1人分スペース空けてくれたけどぼくはびしょ濡れなので遠慮したから後から褒めてもらお。褒めてはくれないけど。ただ本当に真面目で夫婦喧嘩はお犬様もお食べちゃんしないって現実だわ。
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