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【打切未完結】威鳴祭祀社 6P(27話)未完/傍観主人公/年上攻め/師弟
威鳴祭祀社 2
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6話
頬杖をついている赤い目に気を取られる。朱記帳練習半紙350枚はまだ半分も終わっていなかったが集中力が途切れたらしい。安住は水槽を泳ぐ金魚から赤い眸子に応えた。
「生命尊が夜に呼んでた」
青明は朱色のインクが付いた筆を簡易机に転がし、後ろに両腕をついた。
「…お前、その意味分かってる?」
「うん」
わずかに青明の頬が染まり、赤い目は横に流れ、部屋中に敷き詰められた新聞紙の上を泳いだ。その上に何枚も小版の半紙が並べられていた。紙面にはミミズののたくったような不安定な筆の軌跡と威鳴祭祀社を示す朱色の紋章が記されている。朱記帳だった。威鳴祭祀社で配布している紙媒体の御守で、季節によって紙の四隅を彩る装飾などが違っていた。
「随分と軽く言ってくれるんだな」
「行かないの」
「生命尊様は…多分俺を揶揄って遊んでるだけだろ。本気にして本当に伺ったら迷惑だ」
苦々しく青明は口角を上げた。安住はまた筆を握る彼から金魚に戻る。尾が揺れ、膨らんだ腹を覆う鱗が照ると後ろで書写の練習に励む青年の髪を彷彿させた。
「明日猫ちゃんを揶揄って遊ぶ」
「不思議ちゃんだな、安住は」
手は止めずに興味無さそうに青明は答えた。
「どうやるの」
「猫相手なら知らないな」
「今やる」
安住がひとり座る分だけ新聞紙は空けられていたが、器用に爪先立ちで青年ののいるわずかに畳が残る地帯へ移った。
「今やるって、それ本人に言うなよ」
彼は筆を置き、困惑気味にすぐ隣までやってきた安住に身を引いた。
「汚れるから触んなよ。落とすの大変なんだ。明日の当番俺だから」
洗濯物も自治会の人々に任せていたが、週に3日は青明が入った。
「うん」
安住は頷き、改まった態度で青明に対した。彼はなんだよ、と言いながら訝しげに眉間に皺を寄せた。紺色の作務衣から伸びるしなやかな腕は先程の忠告に反して墨汁や朱液で汚れている。
「なんだよ」
「顔が汚れてる」
滑らかな肌に手を伸ばす。猫がはためく紐に戯れるようでもあり、子供が少し高いところにある木の実を取るような仕草でもあった。
「ちょ、いいって。寝る前に洗うから…!」
「多分忘れて寝る」
そういうことが頻りにある。伸ばした腕を掴まれたため、反対の手も伸ばす。しかし阻止される。結い上げられていた長い金髪を束ねるゴムがぶつりと切れ、肩に絹の経糸が踊る。安住は獲物を狙うように爛々とした眼差しで光沢を放つ毛を凝視した。その直後、襖が爆ぜたかと思うほど勢いよく開かれた。取っ組み合いをやめないまま部屋の主は来訪者を見上げた。手を離されたため、今度は安住から腕を掴み、隙を作った彼の頬に飛ぶ朱液を舐め上げる。
「ひ…」
掴み掴まれ両手の自由が利かない青年は不意に顔を這った感触に青褪める。
「…夜に逢おうと言ったのだが、私はフられしまったのかな」
夜空に溶けていきそうな黒髪が部屋の蛍光灯で輪を作る。
「あの…、その、いいえ。忘れておりました…」
「本当か、安住?」
「ううん」
首を振った。おい、と小さく圧迫される。
「では何故来ない?何故嘘を吐いた?私は君にとって口煩いだけの男かな」
「そんなつもりでは…」
青明の赤い瞳が伏せられる。安住はまだ残る朱液に舌を伸ばした。ただ弟子を見下ろして影を落としていた端麗な顔に皺が刻まれる。それから咳払いをした。
「そのままの格好でいいから、片付けが終わり次第すぐに来なさい」
「……はい」
安住は生命尊の後を追った。夜風が前を歩く黒髪を靡かせる。
「彼は何と言っていた」
「生命尊様は…多分俺を揶揄って遊んでるだけだろ。本気にして本当に伺ったら迷惑だ」
生命尊は立ち止まった。黒髪越しの広い背中に安住は額をぶつける。
「伝わらないものだな」
「伝わらない?」
生命尊はまた歩き出し、安住も揺れる黒い毛先を追った。
7話
速い息遣いで腿に爪を立てられる。安住が履いているスラックスがひゅいん、と音を立てた。
「ぃ、や…も…ぁ、許…して、」
青明は爪研ぎにしていた他者の腿に頬擦りし、自身の額を押さえたり、またすぐ傍にある脚に縋ったりと忙しなく動き回る。
「駄目だ。君にしっかりと分かってもらわなければ」
弟子の臀部を押さえ、ふたつならぶ円やかな肌のその狭間に顔を埋めたまま生命尊は返した。淡い色の蕾を舐め、内股を吸う。日の当たらないその箇所に小さな花が咲いていった。
「ぁ…ぁあ、」
硬くなった雄芯が腰の揺れに遅れて前後に振られる。柔肌に赤みが差すたびにそれは大きくなった。
「みこ、とさま…みことさま、」
腿を引っ掻く金髪を安住は掬いあげては掌から落とした。指に絡まることはなく、するすると流れていく。段々と手付きは青明の頭に沿うようになり、額から指先を差し入れては毛先に向かって指を通していく。さらさらと落ちていく。引っ掻く力が弱くなっていく。
「私はここにいるよ」
窄まりに舌先が入った。びくびく、と青明の手が震える。
「みこ、とさま…前を、どうか、前を…っぁあ、」
「駄目だ。勿体ないだろう?君には護手淫の大切な修行がある。私がいただいていいものではないよ」
生命尊の声はひどく優しかった。
「おねが、い…ぁ、っ…しま……もぉ、ダ、メ……」
安住の手が髪を梳き、師の口が後孔を苛む。下肢が震え、青明は熱い吐息を漏らした。
「感じやすいな。どうしても前を触りたいなら、護手淫の修行に切り替えようか。私も手伝おう」
「待っ、ぁ…でも、そんな……っ」
生命尊は青秋の双袋と蕾の間の紅路に口付ける。安住は腿で、生唾を飲む音を聞いた。
「安住、受けてやりなさい」
「うん」
脚の上に乗る青明の上半身を支えて退かす。生命尊は彼の身体を抱え壁際へ連れて行った。安住は壁と青明の裸体に挟まれる。
「手をついて。護手淫を施すんだ」
「あ、ぁ、」
生命尊にされるがまま、青明は壁に手をつき、片足を持ち上げられる。まるで犬の用便に似た体勢は青明を真っ赤に染め、目には水膜が張った。下腹部の茎もまた充血し、質量が増す。先端部は粘性を帯びた雫がとうとう形を壊して畳に溶けていく。
「ぁ…ぁあず、みぃ」
安住には青明の腹と護手淫の矛しか見えず、視界も陰っていた。ただ彼の背中から見え隠れする金色の毛先が輝いて見えた。
「うん」
眼前に構える屹立に躊躇いのある手が回され、その上に形のいい手が重なった。芯に絡まり、動き出す。
「ぅ、あ、ぁあ……」
2人の重なった手の残像を安住はぼうっと見つめた。肌のぶつかる音がした。
「あ、あ…当たってます……みこ、とさ……ま……」
「そうだ。当てているんだ。私のはどうなっている?」
「っすご、く…あっ、ぁ、…すごく、硬い……」
「君を見ていたら、こうなったんだ」
生命尊の唇が青明の背中を啄ばみ、頸や肩を甘く噛む。前を扱く2人の手が激しくなった直後に緩やかになった。
「ぁっ…もぅ、だ、め…」
安住の顔に白濁が噴く。雄茎が脈打っている。目元、頬と鼻の頭、口角に散った白液がとろみを持って頤へ向かう。
「切ってあげないと」
射精後の余韻からまだ抜け出せていない青明はべたりと畳に座り込んで、覚束ない手先で円を描き、両断する。安住の顔にかかった液体がしゃらしゃらと光を纏った粒子となって消えていくが、大半は残ってしまう。
「仕方がないな」
安住の視界に大きく生命尊が映り込む。安住の顔に舌が這う。
「みことさ、ま…そんな…汚いで、す…」
「何を言っているんだ。神聖な行いのはずだろう。それに、君のだ」
「みことさま…」
生命尊は安住の顔を舐めて清めると、その場で青明に口付けた。角度を変え、濃くなっていく。離れた頃には青明は息切れを起こしていた。
「自分の味を知っておくのも悪くないだろう?」
「…は、い」
蕩けた赤い目が、その裸体に飛び込む生命尊を受け入れ、交じり合う。
8話
水の入ったバケツを運ぶ金髪の青年の歩き方が普段と違い、その後ろを人の気配に野良猫が姿を現したため安住は近寄った。数歩進んではバケツを置き、腰を摩っている。
「寝違えた」
安住は話しかけた。青明は少し驚いた顔をしたが、すぐに平生の彼に戻った。
「…そんなところだな」
「罰として買い出し付き合う」
「罰ったってお前は何も悪いことしてないだろ」
開き直ったように彼は腰を摩る。高く結い上げた髪と朱液や墨汁で薄く汚れた顔は朝早くから修行に励んでいたらしい。
「生卵守れる」
「気持ちはありがたいが、また生命尊様に怒られる」
深く抜けるような息を吐いて、自嘲的な笑みが青明の口元に浮かんだ。
「早く一人前にならなきゃならないのに、まだ生命尊様を怒らせてばかりだ。なんでだろうな。俺なりに頑張ってるつもりなんだが、成果が出ないんじゃどうにもならないな」
置いたバケツに手が触れる前に安住はバケツを持ちあげた。
「バケツ守る」
「…悪いな」
青明はわずかに沈んだ表情をみせた。
「買い出し付き合ったら生卵守って」
「多分今日は生卵買わないぞ」
バケツを運ぶ間も青明は腰を曲げたり伸ばしたりを繰り返す。
「腰守る」
「そんなヤワじゃないから大丈夫だ。もう大分良くなった。ありがとうな」
安住の手からバケツが移る。彼は腰に手を当てたままで、雑木林が茂る社殿の裏に消えていった。野良猫は暇を持て余し、石畳から外れた砂利の上に寝転んだ。威鳴祭祀社の空を覆うように伸びた木々がざわめく。シャランシャランと鈴束が鳴っている。不気味な風が吹き、野良猫は飛び上がってどこかへ走り去った。安住は振り返った。石畳をのそりのそりと歩く陰がある。シャランシャランと鈴束が鳴っている。足音が社殿のほうから徐々に近付く。札が安住の後ろから放たれ、陰の進行を阻んだ。壁を張ったように虹色の光沢が広がった。
「ワカイカラダ」
陰は札と結界を突き破り社殿の裏に続く脇道に向かう。生命尊が安住のもとに辿り着き、もう一度札を投げる。
「安住、彼を神殿へ連れて行きなさい」
生命尊が叫んだ。安住は頷いて青明を探した。普段と空気感の変わった雑木林はある一点から同じ道が続いていた。空間の狭間を彷徨っている。不穏な来客の仕業らしかった。数度目の同じ道を通り抜ける。
「どうしたんだ、安住」
対面から青明が現れた。
「生命尊が社殿に連れて行きなさいって」
青明は安住をじっと見ている。安住はその脇を通り抜けた。また青明が突っ立っている地点へ出る。彼を後方に追いやったくせ、また彼の前方に出ている。
「連れて行ってくれ、社殿に」
「だめ」
青明は苦笑して、聞き返した。安住はじっと柘榴の実を嵌め込んだような瞳を見つめた。
「帰る道あっち。結界門には一礼する。一昨日にまた来て」
威鳴祭祀社の北入口にある主に関係者が使う出入り口の方角を指で差す。しかしこのままでは目の前の青明は帰れない。
「社殿に連れて行ってくれよ」
「だめ。金色ちゃん守る。お化けちゃん守らない」
青明は眉間に皺を寄せる。
「お前…」
「金色ちゃんを探す。お化けちゃんは帰る。あっち」
安住はスラックスに入っていた塩の入っ小さな紙製の袋をペリッと破った。掌に少量しか入っていない塩を出して青明に投げる。みるみる金髪や赤い双眸は融解し、狸とも肥えた猫ともいえない獣に変わっていく。太い尾を垂らし、ひょいひょいと逃げ帰った。雑木林の外でシャランシャランと鈴束が鳴り響く。砂利音を立て青明を探した。彼は倉庫の中にいた。安住に気付くと頭や肩に綿埃や蜘蛛の巣を付けて現れる。
「どうした?安住」
「ペン貸して」
倉庫の中の備品に付けられた、整理用の名札になっている紙を剥がす。青明は怒ったが、訳が分からないといったふうに催促されるまま近場にあったインクが出るのかも怪しいマジックペンを貸す。安住はさらさらと祭文を書いていく。威鳴祭祀社の教えを書き起こしたものだった。
「どうしたんだ?」
青明は安住と紙を覗き込む。
「生命尊が社殿に連れて行きなさいって言った」
祭文を綴った紙を折り、青明の衣類の中に突っ込むと、まだ訳の分かっていない彼の手を引いた。
9話
社殿の中でも安住の選んだ本尊安置所は暗く、照明器具はなかった。人が2人程度ならば入れる大きさはあったがそうする造にはなっていなかった。青明は神聖な領域に土足で踏み入ることに躊躇いを見せながら安住の腕の中で息を潜めている。シャランシャランと鈴束が鳴っている。まだ境内を漂う淀んだ空気は消えていない。
「な、に…」
狭い場所に押し込んで密着した青明の唇が動き、安住は人差し指をそこに立てて黙らせる。外で叫びのような嘆きのような感を持って風が嘶いている。
「まだ生命尊が参拝者と一緒だから出たらだめ」
鈴束が激しく鳴っている。しかし青明には届いていないようだった。
「ドコ…ドコ…ワカイカラダ…」
参拝者は本尊安置所のすぐ前をのそりのそりと横切っていく。青明の手には安住の書いた祭文が握られ、眉根が寄った。
「最近生命尊のところに来る」
そう説明すると青明の眉間はさらに皺を刻む。
「ドコ…ドコ…」
壁に背を預けた目の前の青年が崩れかける。安住は腰を抱いて支えた。
「腰守る。もう少しだけ。すぐ帰る」
シャランシャランと鈴束が鳴った。胸や腹に当たる体温や、背や腕に縋る手は安住をぼうっとさせる。百葉箱と大差のない規模の小屋に過ぎない本尊安置所の中に吐息が木霊した。
「…ワカイカラダ…」
声が遠ざかる。安住はまだ青年を押し留めたまま頭に付いた蜘蛛の巣や埃を取り払っていた。艶かな金髪は暗い中では煌めかなかったが、繊細な音を鳴らして安住の指から滑り落ちていく。空気感が澄んだものに戻っていくと、彼を小屋から出した。日の光が再び金糸を1本1本鮮明に炙っていく。砂利の足音とともに生命尊が姿をみせた。
「青明」
生命尊は弟子に近付き、強く抱き締める。
「生命尊様?」
「無事か」
「はい…」
抱擁を解くと、生命尊は青明の手にある紙を奪い取る。
「これはもう要らない。私のほうで祓っておこう」
「はい」
立ち去っていく師の後姿へ青明は深々と頭を下げる。腰痛に彼は患部を押さえかけたが、姿勢を正した。
「生命尊」
主人を呼び止める。彼は振り返ることはなかったが足を止めた。
「腰痛い。両手塞がると危ないって生命尊言ってた。生命尊が買い出し付き合う」
「安住!」
青明は驚きに頭を上げた。瞬間的な痛みは誤魔化せず、彼は呻いて腰を押さえる。
「本当か、青明」
「安住の勘違いです」
「…良かろう。今日の買い出しは私も共に行く」
生命尊は振り返り、柔和な笑みを浮かべた。
「ありがとございます!」
弟子の肌はほんのりと淡い赤みが差す。
「それまで安静にしていることだ」
小鳥の囀りが境内に響く。近くの道路を車が通った。
「返事が聞こえないな」
「…はい」
「よろしい」
生命尊は社務所に戻っていく。姿が見えなくなるまで弟子は頭を下げていた。安住は宙を揺蕩い背で踊る金糸をぼけっと観察していた。
「安住…お前なぁ。まぁ、いいや。気を遣わせたな」
「ううん」
首を振ってまたするすると境内に戻ってきた野良猫を触りに行き、腰を摩りながら宿直所に向かう青明とすれ違った。野良猫は近付いてくる安住に怯み、また物陰に隠れてしまった。境内に1人取り残される。池を泳ぐ鯉を眺めて、暫くすると着替えた青明と普段とは違う装いの主人が宿直所から出てくる。安住の主人は半歩後ろを歩いていた弟子の手を取り並んで買い物へ出掛けていった。水が鳴る。鯉は尾で水面を叩き、緩やかだった泳ぎから加速する。涼しい風が吹き、池の周りの木々がそよいだ。
「誰かいないの?」
安住は振り返る。緩いウェーブのかかった茶髪の青年が立っている。朗らかに笑う様は主人とその弟子にはない温和さを持っていた。
「うん」
「誰も?」
「うん」
桃の花を思わせる瞳と円い目が細まった。
「ここで待っていてもいいかい」
「だめ」
安住は強く首を振った。
10話
「そんなこと言わないでさ」
「一昨日参拝して」
安住は朗らかな青年へ、裏出入り口を指差した。
「あの若い子はどこにいるのかな」
安住は答えなかった。木々が騒めく。青年は微笑を絶やさない。主人のものよりも柔らかく、嫌味がないまろやかな笑みだった。
「教えてよ」
「教えない」
青年を視界から外す。近所の電線に停まっていたらしき鳥たちが一斉に羽ばたき、カラスは喚くように鳴いて空に響き渡る。
「なんだか騒々しいね」
「おじちゃんが来たから」
「おじちゃんかな」
「おじいちゃんかな」
青年はどうだろうね、と言った。
「あの若い子は、美味しいかい?」
「分かんない」
安住の隣にやって来て、共に屈強げな魚たちを眺めた。
「鯉ちゃん食べないで。生命尊が子供の時からいた」
「食べないさ」
青年と顔を見合わせる。緩く波打つ栗色の髪は風の影響を受けやすく、弱い風に靡いていた。
「お兄さんは茉箸。祭祀者さんに伝えておいて。仲良くしようよ」
「伝えない。仲良くしない」
茉箸と名乗った青年は安住に拒まれても微笑んでいる。
「お化けちゃん帰って」
安住はふらふらと社務所に戻った。茉箸は後から付いてくる。御守や護符の並んだ購買部からマジックペンを持ち出した。
「お化けちゃん帰って。一昨日来て」
マジックペンのキャップを外す。朗らかに笑っている青年の顔面にペン先が触れた。
「待って、待ってよ」
「待たない」
茉箸は安住を外そうとするが、しがみついて爽やかな顔立ちに祭文を書いていく。紙を炙ったと時のようにインクは彼の肌を焼いていく。
「痛い、痛い。帰る、帰るよ」
安住が頭部にしがみついたまま、茉箸は社務所を出て結界門をくぐる。ばちばちと音がした。安住の身体に鋭い刺激が走った。
「可哀想に。ここから出られないんだね」
茉箸から落ち、身体を打ち付ける。金髪の青年とは出られたはずだ。起き上がれないまま、茉箸を見上げる。大きな目が細まり、安住に鋭い爪の伸びた手が迫った。
「また来るよ」
一昨日きて。金色ちゃんを食べないデ…
テレビの音が小さく聞こえた。襖の隙間から光が漏れている。腹に掛かった薄い毛布が起き上がると翻った。
『君にはどう映っているんだ』
主人の声が聞こえる。帰ってきたらしい。
『静かで…素朴で、不思議なやつです。何考えてるか分からないけど、優しくて……生命尊様にはどのように?』
テレビとはまったく関係のない話をしているようだ。
『私には…私がたった1人だけ勝てないと思った相手に見える』
『えっ、と…どのようなお方か、お聞きしても…?』
主人は、はははと軽やかに笑った。
『そう畏るな。私の双子の兄だよ』
『双子の兄がいらしたんですか』
『もう故人だがね。そう湿っぽい話じゃないから気にしなくていい』
安住は襖を開けた。生命尊に肩を抱き寄せられている青明と目が合った。彼は自身が寄りかかっていた師の胸を突っ撥ねた。本人が一番、そのことに驚きを示す。
「も、申し訳ございません!」
師が手にしていた猪口から酒がこぼれ衣類を濡らす。
「構わない」
弟子は焦燥し、師は冷静に安住にタオルを持ってくるよう命じた。タオルを運んだが、すでに部屋から生命尊はいなかった。縮こまった青明が部屋の隅で蹲っている。
「悪いな、寝起きなのに巻き込んじゃって」
曲げて掻き抱く膝へ顔を埋め、彼は謝った。
「ううん」
「ダメだな、俺。せっかくお前が気を遣ってくれたのにさ」
青明の隣に腰を下ろし、同じ目線のおおよそ同じ位置から同じ光景を見る。
「変なおじちゃん来たら気を付けて」
「変なじいさんならいっぱいいすぎて分からないな」
「変なおじちゃん、金色ちゃんのこと狙ってる」
青明は訝しげに安住を横目で見た。安住も桜桃を凝然と捉える。
「あの鯉か。たまに譲ってくれって話が来るんだよな」
安住はすぐ隣の青年を指差す。
「………金色ちゃんって俺?」
ってか人を指差すな、と指先を少し冷えた手が包んだ。
頬杖をついている赤い目に気を取られる。朱記帳練習半紙350枚はまだ半分も終わっていなかったが集中力が途切れたらしい。安住は水槽を泳ぐ金魚から赤い眸子に応えた。
「生命尊が夜に呼んでた」
青明は朱色のインクが付いた筆を簡易机に転がし、後ろに両腕をついた。
「…お前、その意味分かってる?」
「うん」
わずかに青明の頬が染まり、赤い目は横に流れ、部屋中に敷き詰められた新聞紙の上を泳いだ。その上に何枚も小版の半紙が並べられていた。紙面にはミミズののたくったような不安定な筆の軌跡と威鳴祭祀社を示す朱色の紋章が記されている。朱記帳だった。威鳴祭祀社で配布している紙媒体の御守で、季節によって紙の四隅を彩る装飾などが違っていた。
「随分と軽く言ってくれるんだな」
「行かないの」
「生命尊様は…多分俺を揶揄って遊んでるだけだろ。本気にして本当に伺ったら迷惑だ」
苦々しく青明は口角を上げた。安住はまた筆を握る彼から金魚に戻る。尾が揺れ、膨らんだ腹を覆う鱗が照ると後ろで書写の練習に励む青年の髪を彷彿させた。
「明日猫ちゃんを揶揄って遊ぶ」
「不思議ちゃんだな、安住は」
手は止めずに興味無さそうに青明は答えた。
「どうやるの」
「猫相手なら知らないな」
「今やる」
安住がひとり座る分だけ新聞紙は空けられていたが、器用に爪先立ちで青年ののいるわずかに畳が残る地帯へ移った。
「今やるって、それ本人に言うなよ」
彼は筆を置き、困惑気味にすぐ隣までやってきた安住に身を引いた。
「汚れるから触んなよ。落とすの大変なんだ。明日の当番俺だから」
洗濯物も自治会の人々に任せていたが、週に3日は青明が入った。
「うん」
安住は頷き、改まった態度で青明に対した。彼はなんだよ、と言いながら訝しげに眉間に皺を寄せた。紺色の作務衣から伸びるしなやかな腕は先程の忠告に反して墨汁や朱液で汚れている。
「なんだよ」
「顔が汚れてる」
滑らかな肌に手を伸ばす。猫がはためく紐に戯れるようでもあり、子供が少し高いところにある木の実を取るような仕草でもあった。
「ちょ、いいって。寝る前に洗うから…!」
「多分忘れて寝る」
そういうことが頻りにある。伸ばした腕を掴まれたため、反対の手も伸ばす。しかし阻止される。結い上げられていた長い金髪を束ねるゴムがぶつりと切れ、肩に絹の経糸が踊る。安住は獲物を狙うように爛々とした眼差しで光沢を放つ毛を凝視した。その直後、襖が爆ぜたかと思うほど勢いよく開かれた。取っ組み合いをやめないまま部屋の主は来訪者を見上げた。手を離されたため、今度は安住から腕を掴み、隙を作った彼の頬に飛ぶ朱液を舐め上げる。
「ひ…」
掴み掴まれ両手の自由が利かない青年は不意に顔を這った感触に青褪める。
「…夜に逢おうと言ったのだが、私はフられしまったのかな」
夜空に溶けていきそうな黒髪が部屋の蛍光灯で輪を作る。
「あの…、その、いいえ。忘れておりました…」
「本当か、安住?」
「ううん」
首を振った。おい、と小さく圧迫される。
「では何故来ない?何故嘘を吐いた?私は君にとって口煩いだけの男かな」
「そんなつもりでは…」
青明の赤い瞳が伏せられる。安住はまだ残る朱液に舌を伸ばした。ただ弟子を見下ろして影を落としていた端麗な顔に皺が刻まれる。それから咳払いをした。
「そのままの格好でいいから、片付けが終わり次第すぐに来なさい」
「……はい」
安住は生命尊の後を追った。夜風が前を歩く黒髪を靡かせる。
「彼は何と言っていた」
「生命尊様は…多分俺を揶揄って遊んでるだけだろ。本気にして本当に伺ったら迷惑だ」
生命尊は立ち止まった。黒髪越しの広い背中に安住は額をぶつける。
「伝わらないものだな」
「伝わらない?」
生命尊はまた歩き出し、安住も揺れる黒い毛先を追った。
7話
速い息遣いで腿に爪を立てられる。安住が履いているスラックスがひゅいん、と音を立てた。
「ぃ、や…も…ぁ、許…して、」
青明は爪研ぎにしていた他者の腿に頬擦りし、自身の額を押さえたり、またすぐ傍にある脚に縋ったりと忙しなく動き回る。
「駄目だ。君にしっかりと分かってもらわなければ」
弟子の臀部を押さえ、ふたつならぶ円やかな肌のその狭間に顔を埋めたまま生命尊は返した。淡い色の蕾を舐め、内股を吸う。日の当たらないその箇所に小さな花が咲いていった。
「ぁ…ぁあ、」
硬くなった雄芯が腰の揺れに遅れて前後に振られる。柔肌に赤みが差すたびにそれは大きくなった。
「みこ、とさま…みことさま、」
腿を引っ掻く金髪を安住は掬いあげては掌から落とした。指に絡まることはなく、するすると流れていく。段々と手付きは青明の頭に沿うようになり、額から指先を差し入れては毛先に向かって指を通していく。さらさらと落ちていく。引っ掻く力が弱くなっていく。
「私はここにいるよ」
窄まりに舌先が入った。びくびく、と青明の手が震える。
「みこ、とさま…前を、どうか、前を…っぁあ、」
「駄目だ。勿体ないだろう?君には護手淫の大切な修行がある。私がいただいていいものではないよ」
生命尊の声はひどく優しかった。
「おねが、い…ぁ、っ…しま……もぉ、ダ、メ……」
安住の手が髪を梳き、師の口が後孔を苛む。下肢が震え、青明は熱い吐息を漏らした。
「感じやすいな。どうしても前を触りたいなら、護手淫の修行に切り替えようか。私も手伝おう」
「待っ、ぁ…でも、そんな……っ」
生命尊は青秋の双袋と蕾の間の紅路に口付ける。安住は腿で、生唾を飲む音を聞いた。
「安住、受けてやりなさい」
「うん」
脚の上に乗る青明の上半身を支えて退かす。生命尊は彼の身体を抱え壁際へ連れて行った。安住は壁と青明の裸体に挟まれる。
「手をついて。護手淫を施すんだ」
「あ、ぁ、」
生命尊にされるがまま、青明は壁に手をつき、片足を持ち上げられる。まるで犬の用便に似た体勢は青明を真っ赤に染め、目には水膜が張った。下腹部の茎もまた充血し、質量が増す。先端部は粘性を帯びた雫がとうとう形を壊して畳に溶けていく。
「ぁ…ぁあず、みぃ」
安住には青明の腹と護手淫の矛しか見えず、視界も陰っていた。ただ彼の背中から見え隠れする金色の毛先が輝いて見えた。
「うん」
眼前に構える屹立に躊躇いのある手が回され、その上に形のいい手が重なった。芯に絡まり、動き出す。
「ぅ、あ、ぁあ……」
2人の重なった手の残像を安住はぼうっと見つめた。肌のぶつかる音がした。
「あ、あ…当たってます……みこ、とさ……ま……」
「そうだ。当てているんだ。私のはどうなっている?」
「っすご、く…あっ、ぁ、…すごく、硬い……」
「君を見ていたら、こうなったんだ」
生命尊の唇が青明の背中を啄ばみ、頸や肩を甘く噛む。前を扱く2人の手が激しくなった直後に緩やかになった。
「ぁっ…もぅ、だ、め…」
安住の顔に白濁が噴く。雄茎が脈打っている。目元、頬と鼻の頭、口角に散った白液がとろみを持って頤へ向かう。
「切ってあげないと」
射精後の余韻からまだ抜け出せていない青明はべたりと畳に座り込んで、覚束ない手先で円を描き、両断する。安住の顔にかかった液体がしゃらしゃらと光を纏った粒子となって消えていくが、大半は残ってしまう。
「仕方がないな」
安住の視界に大きく生命尊が映り込む。安住の顔に舌が這う。
「みことさ、ま…そんな…汚いで、す…」
「何を言っているんだ。神聖な行いのはずだろう。それに、君のだ」
「みことさま…」
生命尊は安住の顔を舐めて清めると、その場で青明に口付けた。角度を変え、濃くなっていく。離れた頃には青明は息切れを起こしていた。
「自分の味を知っておくのも悪くないだろう?」
「…は、い」
蕩けた赤い目が、その裸体に飛び込む生命尊を受け入れ、交じり合う。
8話
水の入ったバケツを運ぶ金髪の青年の歩き方が普段と違い、その後ろを人の気配に野良猫が姿を現したため安住は近寄った。数歩進んではバケツを置き、腰を摩っている。
「寝違えた」
安住は話しかけた。青明は少し驚いた顔をしたが、すぐに平生の彼に戻った。
「…そんなところだな」
「罰として買い出し付き合う」
「罰ったってお前は何も悪いことしてないだろ」
開き直ったように彼は腰を摩る。高く結い上げた髪と朱液や墨汁で薄く汚れた顔は朝早くから修行に励んでいたらしい。
「生卵守れる」
「気持ちはありがたいが、また生命尊様に怒られる」
深く抜けるような息を吐いて、自嘲的な笑みが青明の口元に浮かんだ。
「早く一人前にならなきゃならないのに、まだ生命尊様を怒らせてばかりだ。なんでだろうな。俺なりに頑張ってるつもりなんだが、成果が出ないんじゃどうにもならないな」
置いたバケツに手が触れる前に安住はバケツを持ちあげた。
「バケツ守る」
「…悪いな」
青明はわずかに沈んだ表情をみせた。
「買い出し付き合ったら生卵守って」
「多分今日は生卵買わないぞ」
バケツを運ぶ間も青明は腰を曲げたり伸ばしたりを繰り返す。
「腰守る」
「そんなヤワじゃないから大丈夫だ。もう大分良くなった。ありがとうな」
安住の手からバケツが移る。彼は腰に手を当てたままで、雑木林が茂る社殿の裏に消えていった。野良猫は暇を持て余し、石畳から外れた砂利の上に寝転んだ。威鳴祭祀社の空を覆うように伸びた木々がざわめく。シャランシャランと鈴束が鳴っている。不気味な風が吹き、野良猫は飛び上がってどこかへ走り去った。安住は振り返った。石畳をのそりのそりと歩く陰がある。シャランシャランと鈴束が鳴っている。足音が社殿のほうから徐々に近付く。札が安住の後ろから放たれ、陰の進行を阻んだ。壁を張ったように虹色の光沢が広がった。
「ワカイカラダ」
陰は札と結界を突き破り社殿の裏に続く脇道に向かう。生命尊が安住のもとに辿り着き、もう一度札を投げる。
「安住、彼を神殿へ連れて行きなさい」
生命尊が叫んだ。安住は頷いて青明を探した。普段と空気感の変わった雑木林はある一点から同じ道が続いていた。空間の狭間を彷徨っている。不穏な来客の仕業らしかった。数度目の同じ道を通り抜ける。
「どうしたんだ、安住」
対面から青明が現れた。
「生命尊が社殿に連れて行きなさいって」
青明は安住をじっと見ている。安住はその脇を通り抜けた。また青明が突っ立っている地点へ出る。彼を後方に追いやったくせ、また彼の前方に出ている。
「連れて行ってくれ、社殿に」
「だめ」
青明は苦笑して、聞き返した。安住はじっと柘榴の実を嵌め込んだような瞳を見つめた。
「帰る道あっち。結界門には一礼する。一昨日にまた来て」
威鳴祭祀社の北入口にある主に関係者が使う出入り口の方角を指で差す。しかしこのままでは目の前の青明は帰れない。
「社殿に連れて行ってくれよ」
「だめ。金色ちゃん守る。お化けちゃん守らない」
青明は眉間に皺を寄せる。
「お前…」
「金色ちゃんを探す。お化けちゃんは帰る。あっち」
安住はスラックスに入っていた塩の入っ小さな紙製の袋をペリッと破った。掌に少量しか入っていない塩を出して青明に投げる。みるみる金髪や赤い双眸は融解し、狸とも肥えた猫ともいえない獣に変わっていく。太い尾を垂らし、ひょいひょいと逃げ帰った。雑木林の外でシャランシャランと鈴束が鳴り響く。砂利音を立て青明を探した。彼は倉庫の中にいた。安住に気付くと頭や肩に綿埃や蜘蛛の巣を付けて現れる。
「どうした?安住」
「ペン貸して」
倉庫の中の備品に付けられた、整理用の名札になっている紙を剥がす。青明は怒ったが、訳が分からないといったふうに催促されるまま近場にあったインクが出るのかも怪しいマジックペンを貸す。安住はさらさらと祭文を書いていく。威鳴祭祀社の教えを書き起こしたものだった。
「どうしたんだ?」
青明は安住と紙を覗き込む。
「生命尊が社殿に連れて行きなさいって言った」
祭文を綴った紙を折り、青明の衣類の中に突っ込むと、まだ訳の分かっていない彼の手を引いた。
9話
社殿の中でも安住の選んだ本尊安置所は暗く、照明器具はなかった。人が2人程度ならば入れる大きさはあったがそうする造にはなっていなかった。青明は神聖な領域に土足で踏み入ることに躊躇いを見せながら安住の腕の中で息を潜めている。シャランシャランと鈴束が鳴っている。まだ境内を漂う淀んだ空気は消えていない。
「な、に…」
狭い場所に押し込んで密着した青明の唇が動き、安住は人差し指をそこに立てて黙らせる。外で叫びのような嘆きのような感を持って風が嘶いている。
「まだ生命尊が参拝者と一緒だから出たらだめ」
鈴束が激しく鳴っている。しかし青明には届いていないようだった。
「ドコ…ドコ…ワカイカラダ…」
参拝者は本尊安置所のすぐ前をのそりのそりと横切っていく。青明の手には安住の書いた祭文が握られ、眉根が寄った。
「最近生命尊のところに来る」
そう説明すると青明の眉間はさらに皺を刻む。
「ドコ…ドコ…」
壁に背を預けた目の前の青年が崩れかける。安住は腰を抱いて支えた。
「腰守る。もう少しだけ。すぐ帰る」
シャランシャランと鈴束が鳴った。胸や腹に当たる体温や、背や腕に縋る手は安住をぼうっとさせる。百葉箱と大差のない規模の小屋に過ぎない本尊安置所の中に吐息が木霊した。
「…ワカイカラダ…」
声が遠ざかる。安住はまだ青年を押し留めたまま頭に付いた蜘蛛の巣や埃を取り払っていた。艶かな金髪は暗い中では煌めかなかったが、繊細な音を鳴らして安住の指から滑り落ちていく。空気感が澄んだものに戻っていくと、彼を小屋から出した。日の光が再び金糸を1本1本鮮明に炙っていく。砂利の足音とともに生命尊が姿をみせた。
「青明」
生命尊は弟子に近付き、強く抱き締める。
「生命尊様?」
「無事か」
「はい…」
抱擁を解くと、生命尊は青明の手にある紙を奪い取る。
「これはもう要らない。私のほうで祓っておこう」
「はい」
立ち去っていく師の後姿へ青明は深々と頭を下げる。腰痛に彼は患部を押さえかけたが、姿勢を正した。
「生命尊」
主人を呼び止める。彼は振り返ることはなかったが足を止めた。
「腰痛い。両手塞がると危ないって生命尊言ってた。生命尊が買い出し付き合う」
「安住!」
青明は驚きに頭を上げた。瞬間的な痛みは誤魔化せず、彼は呻いて腰を押さえる。
「本当か、青明」
「安住の勘違いです」
「…良かろう。今日の買い出しは私も共に行く」
生命尊は振り返り、柔和な笑みを浮かべた。
「ありがとございます!」
弟子の肌はほんのりと淡い赤みが差す。
「それまで安静にしていることだ」
小鳥の囀りが境内に響く。近くの道路を車が通った。
「返事が聞こえないな」
「…はい」
「よろしい」
生命尊は社務所に戻っていく。姿が見えなくなるまで弟子は頭を下げていた。安住は宙を揺蕩い背で踊る金糸をぼけっと観察していた。
「安住…お前なぁ。まぁ、いいや。気を遣わせたな」
「ううん」
首を振ってまたするすると境内に戻ってきた野良猫を触りに行き、腰を摩りながら宿直所に向かう青明とすれ違った。野良猫は近付いてくる安住に怯み、また物陰に隠れてしまった。境内に1人取り残される。池を泳ぐ鯉を眺めて、暫くすると着替えた青明と普段とは違う装いの主人が宿直所から出てくる。安住の主人は半歩後ろを歩いていた弟子の手を取り並んで買い物へ出掛けていった。水が鳴る。鯉は尾で水面を叩き、緩やかだった泳ぎから加速する。涼しい風が吹き、池の周りの木々がそよいだ。
「誰かいないの?」
安住は振り返る。緩いウェーブのかかった茶髪の青年が立っている。朗らかに笑う様は主人とその弟子にはない温和さを持っていた。
「うん」
「誰も?」
「うん」
桃の花を思わせる瞳と円い目が細まった。
「ここで待っていてもいいかい」
「だめ」
安住は強く首を振った。
10話
「そんなこと言わないでさ」
「一昨日参拝して」
安住は朗らかな青年へ、裏出入り口を指差した。
「あの若い子はどこにいるのかな」
安住は答えなかった。木々が騒めく。青年は微笑を絶やさない。主人のものよりも柔らかく、嫌味がないまろやかな笑みだった。
「教えてよ」
「教えない」
青年を視界から外す。近所の電線に停まっていたらしき鳥たちが一斉に羽ばたき、カラスは喚くように鳴いて空に響き渡る。
「なんだか騒々しいね」
「おじちゃんが来たから」
「おじちゃんかな」
「おじいちゃんかな」
青年はどうだろうね、と言った。
「あの若い子は、美味しいかい?」
「分かんない」
安住の隣にやって来て、共に屈強げな魚たちを眺めた。
「鯉ちゃん食べないで。生命尊が子供の時からいた」
「食べないさ」
青年と顔を見合わせる。緩く波打つ栗色の髪は風の影響を受けやすく、弱い風に靡いていた。
「お兄さんは茉箸。祭祀者さんに伝えておいて。仲良くしようよ」
「伝えない。仲良くしない」
茉箸と名乗った青年は安住に拒まれても微笑んでいる。
「お化けちゃん帰って」
安住はふらふらと社務所に戻った。茉箸は後から付いてくる。御守や護符の並んだ購買部からマジックペンを持ち出した。
「お化けちゃん帰って。一昨日来て」
マジックペンのキャップを外す。朗らかに笑っている青年の顔面にペン先が触れた。
「待って、待ってよ」
「待たない」
茉箸は安住を外そうとするが、しがみついて爽やかな顔立ちに祭文を書いていく。紙を炙ったと時のようにインクは彼の肌を焼いていく。
「痛い、痛い。帰る、帰るよ」
安住が頭部にしがみついたまま、茉箸は社務所を出て結界門をくぐる。ばちばちと音がした。安住の身体に鋭い刺激が走った。
「可哀想に。ここから出られないんだね」
茉箸から落ち、身体を打ち付ける。金髪の青年とは出られたはずだ。起き上がれないまま、茉箸を見上げる。大きな目が細まり、安住に鋭い爪の伸びた手が迫った。
「また来るよ」
一昨日きて。金色ちゃんを食べないデ…
テレビの音が小さく聞こえた。襖の隙間から光が漏れている。腹に掛かった薄い毛布が起き上がると翻った。
『君にはどう映っているんだ』
主人の声が聞こえる。帰ってきたらしい。
『静かで…素朴で、不思議なやつです。何考えてるか分からないけど、優しくて……生命尊様にはどのように?』
テレビとはまったく関係のない話をしているようだ。
『私には…私がたった1人だけ勝てないと思った相手に見える』
『えっ、と…どのようなお方か、お聞きしても…?』
主人は、はははと軽やかに笑った。
『そう畏るな。私の双子の兄だよ』
『双子の兄がいらしたんですか』
『もう故人だがね。そう湿っぽい話じゃないから気にしなくていい』
安住は襖を開けた。生命尊に肩を抱き寄せられている青明と目が合った。彼は自身が寄りかかっていた師の胸を突っ撥ねた。本人が一番、そのことに驚きを示す。
「も、申し訳ございません!」
師が手にしていた猪口から酒がこぼれ衣類を濡らす。
「構わない」
弟子は焦燥し、師は冷静に安住にタオルを持ってくるよう命じた。タオルを運んだが、すでに部屋から生命尊はいなかった。縮こまった青明が部屋の隅で蹲っている。
「悪いな、寝起きなのに巻き込んじゃって」
曲げて掻き抱く膝へ顔を埋め、彼は謝った。
「ううん」
「ダメだな、俺。せっかくお前が気を遣ってくれたのにさ」
青明の隣に腰を下ろし、同じ目線のおおよそ同じ位置から同じ光景を見る。
「変なおじちゃん来たら気を付けて」
「変なじいさんならいっぱいいすぎて分からないな」
「変なおじちゃん、金色ちゃんのこと狙ってる」
青明は訝しげに安住を横目で見た。安住も桜桃を凝然と捉える。
「あの鯉か。たまに譲ってくれって話が来るんだよな」
安住はすぐ隣の青年を指差す。
「………金色ちゃんって俺?」
ってか人を指差すな、と指先を少し冷えた手が包んだ。
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