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迫られて、プリズム 全11P/年上攻/情緒不安定受/OD/近親相姦(男女)/疑似スカ/サブCPあり
迫られて、プリズム 3
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◇
普段ならばすぐに本の世界へとのめり込めた。だが数行辿るたびに震える様子のない端末に焦れる日々を過ごした。あのコースターに書いた文面を思い出す。ほぼ衝動だった。正確には覚えていない。『よかったら連絡ください』と書いた気でいた。よくなかった、ということかも知れない。良い印象を与えられなかった?岩城は本を置いて、端末の前に正座する。浅香と名乗った現代の若者の代名詞的な風貌をした、あの青年がまさか端末を持っていないということはないだろう。今まで蔑ろにしてきた人々はこういう心持ちでいたのだろうか。明日は来るか、その時に。しかし体調が悪そうだった。長引くのではないか。直接。相手は客だ。悶々として端末をいじる。勤務先以外、あまり連絡は取っていない。時折、飛び出してきた実家の母からも電話番号を変えてから連絡を取っていない。結局逆らえない父を上手くやったらいい。 夫にも息子にもいい顔をし、角を立つことを恐れて言いたいことも言わない母の事勿れ主義が小さい頃から好きになれなかった。
忘れているだけかもしれない。まだその程度の認識なのだ。だが客と従業員の関係で出過ぎてはいまいか。そうでもしなくては彼へ近付くことなど出来ない。端末から無理矢理に意識を逸らし、かといって閉じた本にまた戻れるのかというと難しい。浅香という青年が気になって、気になって。柔らかい生地に包まれたしなやかな筋肉の感触がまだ指先に残っている。戸惑った顔。意外に自分より低い背。全身がカッと熱を帯びた。
風邪か。
体温計を脇に挟む。熱はない。熱はない、が、熱を持って膨らんでいる。目を逸らす。忙しかった?忙しくはあったが、読書する時間はあり、入浴の時間も寝る時間も一息入れる時間もあり、そういうことをこなす時間はあった。淡白といえば淡白だった。問題はそこではない。何を引き金に。あまり構わなかったから。それ以外にない。
どうする?
膨らみへ手を伸ばす。浅香のテーブルに突っ伏す姿が脳裏を過ぎって、触れる前に引き下がる。何を考えた?明日会うかも知れないのに?ではどうする。岩城と下腹部の膨らみは睨み合う。早くやることをしろと疼いて急かす。手が伸びかける。浅香くん。声をのせずに呟いてみる。浅香くん。会いたい。何者かに手首を掴まれ引き摺り込まれるように、岩城の手は下着と肌の間を滑る。浅香くん…
「…ッ、」
テーブルに倒れた浅香の短くも濃い睫毛。顎を伝う泡立った唾液。青白い唇。不謹慎だ!一度触れた肉から手を引く。“いつも”は何を“使って”いた? 特別何か用意をするでもなく、いつもならば…ただの興味のつもりだった。あの女性と遊び慣れている小麦色の掌でどのように自身を慰めているのか。他意はない。性の処理に困りそうもないあの若い青年はどのように。興味だ。それを幾度繰り返した。興味だ。ただの。好奇心だった。一種の僻みにも似ていた。僻み。誰に。あの青年に。それとも。
テーブルの上の端末が震えた。待ちわびた振動に跳び起きる。しかしディスプレイに表示されているのは迷惑メールだった。待てど、待てど連絡は来ない。今日は諦めたほうがいいのかも知れない。意識を逸らされさらに滾りをみせる一部がさらに主張を強める。意識してはならなかった想像が条件反射として流れてくる。甘やかな痺れと恐れが駆け上がり、理性はやめろやめろを繰り返す。抗えない衝動はだが反することを選び脳裏にはあの青年が力無くテーブルへ上体を預ける光景が広がった。湧き上がってくる快感と習慣に任せて指が熱芯に絡んだまま動きはじめる。硬さと質量が増していく。名も知らなかった青年の痴態が虚ろな世界に映される。戸惑いながら自らを慰めるのか、それとも慣れた手つきで事務的に、もしくは愉しんで。どれもいい。どれもよかった。岩城の身体は汗ばみ、荒く息を吐く。明日は会えるのか。会いたい。声を聞きたい。また触れたい。全ては望まない。せめて姿だけでも。
「っ…!」
掌で迸りを受け止める。“いつも”より強い酩酊感に動けなくなる。
数日経っても浅香は姿を現さなかった。待ち侘びるように初めは躊躇いと比例した快感が伴った行為も、躊躇いだけが薄れて快感だけを残すようになっていた。明らかに回数が増えた。読書の時間が減り、空想と妄想からそのまま自涜に耽溺してしまっていた。胸が熱くなって、締め付けられる苦しさが手を速めた。姿を見るまで甘い苦しみは続くのだろうか。いつになればあの可憐な男を映せる。それまでに涸れてしまいはしないか。2度目の吐精に呻いた。ほぼ毎日だ。とろとろと滴るような精を憐れみを込めて茫然と見つめた。浅香をどうしたいのか分からなかった。ただ記憶に頼りきり、浅香の身体を眺め回した。小麦色の体温に触れた気になり、泡を吹いた唇の柔らかさを想像し、そこから漏れる蕩けた声を何パターンも虚無から聞いた。また擦りそうになる。触らない日まであったのが嘘のようだった。3度目に擦れた痛みを感じることもなくなった。浅香の姿を見なければ本当に死んでしまう。手淫によって。頭の中が萎むような感覚に耐えて、少し間を置けばまた身を焦がす。満たされるのは訳の分からない焦燥感と隣り合った肉欲だけだった。もう一度妄想に沈むか否かを考えあぐねていたところで端末が鳴った。浅香から連絡が来たものかと思った。何日も経っているがふと思い出したのかもしれない。期待は打ち砕かれた。「喫茶店アネモネ」とディスプレイには表示されていた。電話に出る。用件は、裏口の鍵を閉め忘れたかも知れないから一番近くに住んでいる岩城に確認してきてほしい、そして開いていた場合は事務所にある鍵で締めてきてほしいという旨だった。承諾する。どうせ不毛な感情に苛まれ自慰に耽るだけなのだ。気分転換にはなるだろうと外に出た。
喫茶店アネモネの戸締りはきちんとされていた。待ち焦がれている相手と辿ったよく知る道を、アパートとは全く違う方角であるが、行ってしまおうかなどと迷って立ち竦む。湿った空気に当たりながら冷静な頭が止せと言い、帰ろうとした時だった。鼻を啜る音がした。外灯を背にした男が泣いている。腕で目元を拭い、喫茶店アネモネの前を通りかかる。その姿を岩城は知っていた。知っていたどころか、冒涜さえした。男なら誰だってしていることだ。開き直ることも出来た。しかし岩城にとって、あの行為は冒涜に他ならなかった。開き直れなかった。可憐という言葉を使うにはどこか影のある、けれど健やかな少年然とした青年の顔に臭い汁を塗りたくり、舐めさせた。頭の中で、何度も。それが恐ろしくもあった。己の妄想でありながら、己が憎かった。
「浅香くんなのか」
夢を見ているのだ。妄想は続いているのだ。でなければ何故彼とこのような時間に会うのだろう。鼻を啜る音が止む。
「だ、れ…?」
警戒を帯びた声が震えている。待ち侘びた声だ。胸を鷲掴まれた感じがあった。淫夢の中では再現出来なかった。忘れてしまっていた。忘れているはずがなかった。ただ記憶出来なかった。瞬時に蘇る。この声で今日から、明日も。擦り上げた器官が期待している。
「アネモネの……もう具合は大丈夫なのか」
夜は好きだが、これほどまでに夜の暗さを憎んだことはなかった。顔がはっきりと見えない。
「えっと…はい!その節はありがとうございまっした」
逃げたい、という態度を隠さない。だが調子は明るかった。返事を寄越さなかったのだ。結果は見えているではないか。しかし期待を捨て切れない。彼の愛らしい唇から、虚構の世界で幾度となく雄芯を咥えさせた唇から、蕩けそうな声で答えを聞くまで。
「浅香くん」
一歩近付く。怯えを見せ一歩後退られる。
「いわたさん…?い、いわいさ…?いわ…さん、その、あの、」
「岩城雪々。雪々でいい」
戸惑う彼の腕を取る。手を引っ込めようとしていたが、そうはさせなかった。
「右手の傷は消えたか」
「そ、そっちは左手っすから…!もうばっちり消えたっすよ」
手の中にあった手を引かれ、離してしまう。少し乾燥した冷たい柔肌。あの手で、どのように自身を慰めているのだろう。飽くほど考え、飽くほど想像し、まだ飽かない。
「浅香くん」
連絡をくださいとメモを送り、連絡は来なかった。待っていると念を押しもした。だというのに連絡は無かった。つまりその気がなかったのだ。好かれていなかった。否、忙しかっただけなのでは。否、忘れていただけなのでは。否、番号を書き間違えたのでは。邪魔な忖度と留まらない期待が入り混じる。
「駄目なのか」
「え?」
◇
薄暗い中で冷淡な印象を受ける端整な顔が迫った。びっくりして夕凪は背を反らす。
「…なんでもない」
目の前の美青年は俯いて首を振る。夜がよく似合っていた。退廃的な雰囲気が冷めて見透かした美しさを助長している。夕凪は少しの間見惚れていた。だが腹の底に渦巻く不快感が幻想世界の住人のような男に浸ることを赦しはしなかった。
「じゃ、じゃあ。夜も遅いっすから」
「待て」
たとえ毒物を飲んでも吐瀉物や嘔吐とは縁の無さそうな、むしろ馨しい花や煌めきに満ちた宝石でも吐きそうなほどの美しい顔とそれに見合った落ち着いた声が怒りを露わにして夕凪にさらに迫った。吐きそうなのだ。勘弁してほしさを伝えられない。
「な、なんすか…?」
「夜も遅い。送ろう」
「だ、大丈夫っす…夜が遅いなら、いわ…いわおさんのほうこそ…」
雑な量飲んだ薬と酒が体内で暴れている。帰宅を促している。鳥籠を、住処を、この商店街を妙な体液で汚すのは本望ではない。汚いところなどひとつとして無さそうな綺麗な男が傍にいる。口元を押さえる。性分なのか女慣れしているのかひとつひとつの仕草に目敏かった。
「大丈夫じゃないだろう。また発作か」
発作。確かに。夕凪は勢いで吐いてしまっても汚れないよう顔を背け、そして自嘲した。発作だ。あれは。
「なんでも…っぅう」
頭ごと逸らしていたというのに男は目の前を塞ぐ。両腕の服を摘まれ顔を覗き込まれた。吐気を忘れるほどの美しさなどというのは気分の話で肉体的にはそうもいかない。見つめられていたことなど再び顔を逸らしてから気付く。
「しっかりしろ。歩けるか?」
「はい。もう帰るっすから」
「送らせてくれ。こっちも気が気じゃない」
迷惑をかけてばかりだった。何故放っておかないのだろう。善意に漬け込む態度を取ってしまっていたのかも知れない。
「家、すぐそこっすから!それに、やっぱまだ家、散らかってるから…」
喫茶店の店員は微笑を浮かべる。
「そんなことを気にしていたのか。上がるつもりはない」
夕凪は首を振った。何か勘付いているのか。何故家に着いて行きたがるのだろう。薄暗い考えばかりが湧き出た。夕凪の家庭の秘密を何か知っているのか。聞き齧ったのか。逡巡する答えを確かめられない問いに、胃の痛みが追撃する。
「本当に…もう治ったっすから…」
「浅香くん。余計な世話かも知れないが、俺は君が心配なんだ。それに、」
ひとつ思い当たる節があった。あのコースターのことかも知れない。
「コースターのことっすか」
そうでなければこのまで執拗な問答を繰り返さない。ぎくりとした表情で夕凪を見る。まさかこの店員の物だとは思わなかった。
「ちゃんと黙ってるっすから!」
「浅香くん?」
「捨てたんで、大丈夫っす」
下手をうったアネモネ店員は眉間に皺を寄せる。大事な物だったのだろうか。想い人とは違う者に連絡先を渡してたのはこの者の過失なのだ。千載一遇のチャンスを逃したにせよ責められる謂れはない。身構えた。
「捨てた?」
低くなった声音に自然と夕凪の眉間にも不穏な皺が寄る。胃が痛んだ。早く帰って吐きたい。
「なんすか…」
「それが君の……分かった」
あっさりとアネモネの店員は身を引いた。
「でも、アネモネには来てくれるんだろう?」
つらそうな響きが混じっている。秘密を握ってしまったらしい夕凪を歓迎しないのだろう。ただそれだけではない。店内で泡を吹き失神だってしたのだ。出入り禁止になっても仕方がないとすら思っていた。
「もう行かないっすから安心してください」
美しい男に背を向け家路に着こうとした。夜の散歩は出来そうにない。
「待て。来い」
乱雑に肩を掴まれ、引き摺られる。気持ち悪さがすでに喉元まで来ている。今から帰ってもトイレに間に合うか否か。反抗の力が嘔吐に回ってしまいそうでされるがまま自宅とは違う方向へ連れられる。
「な、に。なんす、か…」
歩きたくなかった。気持ちが悪い。吐きそうだ。
「ト、イレ…トイレ…」
単語で訴えるので精一杯だった。引っ張り上げられるように階段を登り、その頃には誰と居るだとか何処に向かっているだとかはまるで考えられなかった。ただ吐いてはならない場所だと言い聞かせることだけだった。ほぼ見ず知らずの少し気の良い冷たい顔立ちの美男がドアを開ける。思ったよりも広い玄関に放り込まれた。部屋にも台所付きの短い廊下にも明かりが点いていた。
「トイレだろう」
カチッと音がした。夕凪は洗濯機横のアルミ製よドアを開く。閉める余裕はなかった。便器を上げた瞬間、くしゃみ同然に嘔吐物が爆ぜた。胃液と、まだわずかに形を残した多量の錠剤、酒と白い繊維。酔うと考えも無しにティッシュやカレンダーやメモ帳やその他紙を毟って口に入れてしまう悪癖だ。荒く息をする。口内に残る強い酸味。また吐きたくなる。突然中身を失った胃が鳴った。少しずつ頭は冷静になっていく。見慣れないトイレだとか、風呂場を仕切る衝立だとか。アネモネの店員だ。忘れていた。
「あの、ごめんなさ…」
振り返った。冷たい手に顎を掬われる。相手を認識した時には唇が塞がっていた。触れるだけ触れてまだ拭いてもいない口元を舐められる。現状を飲み込めていない夕凪の唇がまた塞がれる。ぬるりとしたものが口内へ侵入する。胃液特有の酸味が残る口腔を暴き、上顎を撫でられる。慄いた舌を機嫌を取るように突つかれると、掘り起こされ、絡んだ。質感があった。鳥肌が立つ。
「…ぁっ、んぁ」
忘れていた息を思い出す。小さな声が漏れた。口腔を満たした唾液が糸を引いた。瞠目するほど美しい顔から目が離せない。されたことをよく理解できていなかった。その行為自体も、その意味も、意図も。
喫茶店店員はトイレの出入り口を塞ぐように立っていた。夕凪は何も言えないでいた。何か言えば、今あったことを肯定してしまいそうな感じがした。何か幻覚だと思っていたかった。まだ流されていない便器に視線が落ちて、しかし直視できなかった。
「リビングで待ってる」
返事も首肯もせず家主である不審者が目の前から去るのを待つ。何をされる。嫌がらせか。便器の蓋を下ろしてから流す。他に汚したところはないか確認し、洗面台を借りた。
「お、お邪魔したっす…」
リビングに向かって礼を言う。反応はない。
「あの!お邪魔!したっす!」
吐き気の次は酔いが夕凪を苛んだ。胃が軋む。近所迷惑も考えずに叫ぶもやはり反応がなかったため構わずに帰ることにした。口元を拭う。涙が出た。忘れられる。相手もおそらく酔っていたのだと言い聞かせる。ひとつひとつの挙動がおかしかったのだから。絡み酒の類だろう。商店街で会いさえしなければ喫茶店アネモネにはもう行かないのだ。忘れられる。発作が忘れさせる。おそらく、きっと。裏切られたという感覚があった。何も裏切られてなどいない。頭を抱える。酔っているだけだ。あの男も酔っていただけだ。動けなくなる。妹も便器を抱えて吐いていた。それをただ見下ろしていた。怖かったのだ。苦しかったのだ。つらかったのだ。父親に腰を抱かれ、制服のスカートが捲れていた。揺れた2本の髪束。背中から覆い被さり、臀部を振りまくっていた。怪獣だ。化物だ。獣物だ。思い出すな、思い出すな。念じてみるが無駄になる。バランスを失って歩く様はホラー映画に出てくるゾンビに似ていた。恐れていた発作に襲われそうになる。何故薬を吐いてしまった。何故酒を排出してしまった。
「あ…あぁァ…!」
心までゾンビになったようだった。叫び声を抑える。纏わりつくような唾液が口の端を落ちていく。
胃が軋む。視界が滲む。このまま家には帰れない。
◇
頭の中が沸騰しそうだった。下がっていく体温についさっきまでの現実がついていかない。唇に触れる。柔らかかった。怯えて見上げた幼い顔を思い出すと胸を痛くさせる。また見たい。しかし拒まれたではないか。はっきりと。捨てたと言った。もうアネモネには来ないと言った。生まれて初めての感覚だった。頭に血が上るという表現を身を以て知った。制御が利かなかった。たとえ嘔吐直後でもその無謀な唇を吸いたかった。諦めるため気持ちを打ち明けるつもりでいた。だが言えない。まだ言えそうにない。可憐な青年が締めていった玄関扉の音を頭の中で再生する。諦めなければならない。諦められるだろう。あの青年はもうアネモネには来ないのだ。指先が冷えていた。酒に混じった彼の匂い。胃液の味。唇の柔らかさ。漏れた声の甘さ。諦めるという決意を表すには昂ぶる中心に氷と化した手が伸びる。布越しに焦らした。欲望と期待の蛹が疼いている。
「…ッ」
便器を抱く背中を思い出す。便器を叩いた嘔吐物の音。喉を胃液が迸る苦しそうな呻き。彼の吐いた酸味。新鮮なうちに使いたかった。彼を消費している。体調不良の子犬のような青年に執拗に絡んで、無理矢理引っ張ってきてしまった。背徳感に寒気がした。だが不快ではない。肉芯に向かって素肌を辿った。直接触れたい。己にも、彼にも。諦められるわけがない。圧倒的に足らなかった。諦めようとする気すら元々ありはしない。胃液の味がそれを確かなものにしてしまった。根本から大きく擦る。先端部を指で潰すように摘む。少し痛いくらいが好みだった。
「は…っ、ぁ、」
キスの時に漏らした声を思い出すと突き抜けるような快感があった。湿った音がする。唇で覚えた柔らかさを"使った"。あの口唇で扱かれたら…
水音がする。諦めきれない。健やかな青年とどうなりたいのかはっきりとしたものはなかった。だがフラれ、はいそうですかと引き下がれそうにない。昂ぶりがまた大きく膨らんだ。手が止まらない。快感は増していく。脳裏にいやらしく誘う浅香夕凪が過った。胃液の代わりに白濁で口元を汚し、唾液と先走りで濡れた唇。かぶりつきたい。上擦った声を聞きたい。射精感が一気に高まった。
「ぁ…っ!」
掌に飛び散る。ぞっとするほど美しい顔が悩ましげに歪んだ。長い睫毛が伏せる。息が静かな室内に響いた。すぐさま襲ってくる虚しさにいつまでも白濁に汚れた指を見ているわけにもいかなかった。肝心なことを忘れている。あの人はもう来ないと言ったのだ。怯えた目を向けられたのだ。連絡先を書いたコースターのことは覚えていたくせ、捨てたと言ったのだ。腹の底から何かしなければというエネルギーが渦巻いている。だが何をしたらいいのかが分からない。端末を手に取って検索欄に彼の名を打ち込んだ。そして消す。何をしたいのかも分からない。狂ってしまいそうだ。端末を放り投げる。本の山にぶつかって床を滑る。
浅香くん。浅香くん。浅香くん。
真っ直ぐ家路につけたのだろうか。眠れるだろうか。何故喫茶アネモネには来ないのか。嫌われているのか。何をしたのだろう。無理矢理連れ込んだ時点で嫌われていた。何をしたのだ。直せばいいのだ。嫌われているところを直せば。直すしかない。そうすれば来店する。岩城は悶々としてその夜は布団に入った。もう来ないなど嘘だ。彼の日常なのだから。眠れない夜は長かった。普段なら寝付きは良い方だったというのに。部屋の隅で端末が鳴った。岩城への確認のメッセージだったが、持ち主は布団の中でじっと浅香夕凪に囚われていた。やってしまったことを反芻し、その度に胸を熱くさせては反省を繰り返した。ほぼ朝という時間帯にやっと眠った。
普段ならばすぐに本の世界へとのめり込めた。だが数行辿るたびに震える様子のない端末に焦れる日々を過ごした。あのコースターに書いた文面を思い出す。ほぼ衝動だった。正確には覚えていない。『よかったら連絡ください』と書いた気でいた。よくなかった、ということかも知れない。良い印象を与えられなかった?岩城は本を置いて、端末の前に正座する。浅香と名乗った現代の若者の代名詞的な風貌をした、あの青年がまさか端末を持っていないということはないだろう。今まで蔑ろにしてきた人々はこういう心持ちでいたのだろうか。明日は来るか、その時に。しかし体調が悪そうだった。長引くのではないか。直接。相手は客だ。悶々として端末をいじる。勤務先以外、あまり連絡は取っていない。時折、飛び出してきた実家の母からも電話番号を変えてから連絡を取っていない。結局逆らえない父を上手くやったらいい。 夫にも息子にもいい顔をし、角を立つことを恐れて言いたいことも言わない母の事勿れ主義が小さい頃から好きになれなかった。
忘れているだけかもしれない。まだその程度の認識なのだ。だが客と従業員の関係で出過ぎてはいまいか。そうでもしなくては彼へ近付くことなど出来ない。端末から無理矢理に意識を逸らし、かといって閉じた本にまた戻れるのかというと難しい。浅香という青年が気になって、気になって。柔らかい生地に包まれたしなやかな筋肉の感触がまだ指先に残っている。戸惑った顔。意外に自分より低い背。全身がカッと熱を帯びた。
風邪か。
体温計を脇に挟む。熱はない。熱はない、が、熱を持って膨らんでいる。目を逸らす。忙しかった?忙しくはあったが、読書する時間はあり、入浴の時間も寝る時間も一息入れる時間もあり、そういうことをこなす時間はあった。淡白といえば淡白だった。問題はそこではない。何を引き金に。あまり構わなかったから。それ以外にない。
どうする?
膨らみへ手を伸ばす。浅香のテーブルに突っ伏す姿が脳裏を過ぎって、触れる前に引き下がる。何を考えた?明日会うかも知れないのに?ではどうする。岩城と下腹部の膨らみは睨み合う。早くやることをしろと疼いて急かす。手が伸びかける。浅香くん。声をのせずに呟いてみる。浅香くん。会いたい。何者かに手首を掴まれ引き摺り込まれるように、岩城の手は下着と肌の間を滑る。浅香くん…
「…ッ、」
テーブルに倒れた浅香の短くも濃い睫毛。顎を伝う泡立った唾液。青白い唇。不謹慎だ!一度触れた肉から手を引く。“いつも”は何を“使って”いた? 特別何か用意をするでもなく、いつもならば…ただの興味のつもりだった。あの女性と遊び慣れている小麦色の掌でどのように自身を慰めているのか。他意はない。性の処理に困りそうもないあの若い青年はどのように。興味だ。それを幾度繰り返した。興味だ。ただの。好奇心だった。一種の僻みにも似ていた。僻み。誰に。あの青年に。それとも。
テーブルの上の端末が震えた。待ちわびた振動に跳び起きる。しかしディスプレイに表示されているのは迷惑メールだった。待てど、待てど連絡は来ない。今日は諦めたほうがいいのかも知れない。意識を逸らされさらに滾りをみせる一部がさらに主張を強める。意識してはならなかった想像が条件反射として流れてくる。甘やかな痺れと恐れが駆け上がり、理性はやめろやめろを繰り返す。抗えない衝動はだが反することを選び脳裏にはあの青年が力無くテーブルへ上体を預ける光景が広がった。湧き上がってくる快感と習慣に任せて指が熱芯に絡んだまま動きはじめる。硬さと質量が増していく。名も知らなかった青年の痴態が虚ろな世界に映される。戸惑いながら自らを慰めるのか、それとも慣れた手つきで事務的に、もしくは愉しんで。どれもいい。どれもよかった。岩城の身体は汗ばみ、荒く息を吐く。明日は会えるのか。会いたい。声を聞きたい。また触れたい。全ては望まない。せめて姿だけでも。
「っ…!」
掌で迸りを受け止める。“いつも”より強い酩酊感に動けなくなる。
数日経っても浅香は姿を現さなかった。待ち侘びるように初めは躊躇いと比例した快感が伴った行為も、躊躇いだけが薄れて快感だけを残すようになっていた。明らかに回数が増えた。読書の時間が減り、空想と妄想からそのまま自涜に耽溺してしまっていた。胸が熱くなって、締め付けられる苦しさが手を速めた。姿を見るまで甘い苦しみは続くのだろうか。いつになればあの可憐な男を映せる。それまでに涸れてしまいはしないか。2度目の吐精に呻いた。ほぼ毎日だ。とろとろと滴るような精を憐れみを込めて茫然と見つめた。浅香をどうしたいのか分からなかった。ただ記憶に頼りきり、浅香の身体を眺め回した。小麦色の体温に触れた気になり、泡を吹いた唇の柔らかさを想像し、そこから漏れる蕩けた声を何パターンも虚無から聞いた。また擦りそうになる。触らない日まであったのが嘘のようだった。3度目に擦れた痛みを感じることもなくなった。浅香の姿を見なければ本当に死んでしまう。手淫によって。頭の中が萎むような感覚に耐えて、少し間を置けばまた身を焦がす。満たされるのは訳の分からない焦燥感と隣り合った肉欲だけだった。もう一度妄想に沈むか否かを考えあぐねていたところで端末が鳴った。浅香から連絡が来たものかと思った。何日も経っているがふと思い出したのかもしれない。期待は打ち砕かれた。「喫茶店アネモネ」とディスプレイには表示されていた。電話に出る。用件は、裏口の鍵を閉め忘れたかも知れないから一番近くに住んでいる岩城に確認してきてほしい、そして開いていた場合は事務所にある鍵で締めてきてほしいという旨だった。承諾する。どうせ不毛な感情に苛まれ自慰に耽るだけなのだ。気分転換にはなるだろうと外に出た。
喫茶店アネモネの戸締りはきちんとされていた。待ち焦がれている相手と辿ったよく知る道を、アパートとは全く違う方角であるが、行ってしまおうかなどと迷って立ち竦む。湿った空気に当たりながら冷静な頭が止せと言い、帰ろうとした時だった。鼻を啜る音がした。外灯を背にした男が泣いている。腕で目元を拭い、喫茶店アネモネの前を通りかかる。その姿を岩城は知っていた。知っていたどころか、冒涜さえした。男なら誰だってしていることだ。開き直ることも出来た。しかし岩城にとって、あの行為は冒涜に他ならなかった。開き直れなかった。可憐という言葉を使うにはどこか影のある、けれど健やかな少年然とした青年の顔に臭い汁を塗りたくり、舐めさせた。頭の中で、何度も。それが恐ろしくもあった。己の妄想でありながら、己が憎かった。
「浅香くんなのか」
夢を見ているのだ。妄想は続いているのだ。でなければ何故彼とこのような時間に会うのだろう。鼻を啜る音が止む。
「だ、れ…?」
警戒を帯びた声が震えている。待ち侘びた声だ。胸を鷲掴まれた感じがあった。淫夢の中では再現出来なかった。忘れてしまっていた。忘れているはずがなかった。ただ記憶出来なかった。瞬時に蘇る。この声で今日から、明日も。擦り上げた器官が期待している。
「アネモネの……もう具合は大丈夫なのか」
夜は好きだが、これほどまでに夜の暗さを憎んだことはなかった。顔がはっきりと見えない。
「えっと…はい!その節はありがとうございまっした」
逃げたい、という態度を隠さない。だが調子は明るかった。返事を寄越さなかったのだ。結果は見えているではないか。しかし期待を捨て切れない。彼の愛らしい唇から、虚構の世界で幾度となく雄芯を咥えさせた唇から、蕩けそうな声で答えを聞くまで。
「浅香くん」
一歩近付く。怯えを見せ一歩後退られる。
「いわたさん…?い、いわいさ…?いわ…さん、その、あの、」
「岩城雪々。雪々でいい」
戸惑う彼の腕を取る。手を引っ込めようとしていたが、そうはさせなかった。
「右手の傷は消えたか」
「そ、そっちは左手っすから…!もうばっちり消えたっすよ」
手の中にあった手を引かれ、離してしまう。少し乾燥した冷たい柔肌。あの手で、どのように自身を慰めているのだろう。飽くほど考え、飽くほど想像し、まだ飽かない。
「浅香くん」
連絡をくださいとメモを送り、連絡は来なかった。待っていると念を押しもした。だというのに連絡は無かった。つまりその気がなかったのだ。好かれていなかった。否、忙しかっただけなのでは。否、忘れていただけなのでは。否、番号を書き間違えたのでは。邪魔な忖度と留まらない期待が入り混じる。
「駄目なのか」
「え?」
◇
薄暗い中で冷淡な印象を受ける端整な顔が迫った。びっくりして夕凪は背を反らす。
「…なんでもない」
目の前の美青年は俯いて首を振る。夜がよく似合っていた。退廃的な雰囲気が冷めて見透かした美しさを助長している。夕凪は少しの間見惚れていた。だが腹の底に渦巻く不快感が幻想世界の住人のような男に浸ることを赦しはしなかった。
「じゃ、じゃあ。夜も遅いっすから」
「待て」
たとえ毒物を飲んでも吐瀉物や嘔吐とは縁の無さそうな、むしろ馨しい花や煌めきに満ちた宝石でも吐きそうなほどの美しい顔とそれに見合った落ち着いた声が怒りを露わにして夕凪にさらに迫った。吐きそうなのだ。勘弁してほしさを伝えられない。
「な、なんすか…?」
「夜も遅い。送ろう」
「だ、大丈夫っす…夜が遅いなら、いわ…いわおさんのほうこそ…」
雑な量飲んだ薬と酒が体内で暴れている。帰宅を促している。鳥籠を、住処を、この商店街を妙な体液で汚すのは本望ではない。汚いところなどひとつとして無さそうな綺麗な男が傍にいる。口元を押さえる。性分なのか女慣れしているのかひとつひとつの仕草に目敏かった。
「大丈夫じゃないだろう。また発作か」
発作。確かに。夕凪は勢いで吐いてしまっても汚れないよう顔を背け、そして自嘲した。発作だ。あれは。
「なんでも…っぅう」
頭ごと逸らしていたというのに男は目の前を塞ぐ。両腕の服を摘まれ顔を覗き込まれた。吐気を忘れるほどの美しさなどというのは気分の話で肉体的にはそうもいかない。見つめられていたことなど再び顔を逸らしてから気付く。
「しっかりしろ。歩けるか?」
「はい。もう帰るっすから」
「送らせてくれ。こっちも気が気じゃない」
迷惑をかけてばかりだった。何故放っておかないのだろう。善意に漬け込む態度を取ってしまっていたのかも知れない。
「家、すぐそこっすから!それに、やっぱまだ家、散らかってるから…」
喫茶店の店員は微笑を浮かべる。
「そんなことを気にしていたのか。上がるつもりはない」
夕凪は首を振った。何か勘付いているのか。何故家に着いて行きたがるのだろう。薄暗い考えばかりが湧き出た。夕凪の家庭の秘密を何か知っているのか。聞き齧ったのか。逡巡する答えを確かめられない問いに、胃の痛みが追撃する。
「本当に…もう治ったっすから…」
「浅香くん。余計な世話かも知れないが、俺は君が心配なんだ。それに、」
ひとつ思い当たる節があった。あのコースターのことかも知れない。
「コースターのことっすか」
そうでなければこのまで執拗な問答を繰り返さない。ぎくりとした表情で夕凪を見る。まさかこの店員の物だとは思わなかった。
「ちゃんと黙ってるっすから!」
「浅香くん?」
「捨てたんで、大丈夫っす」
下手をうったアネモネ店員は眉間に皺を寄せる。大事な物だったのだろうか。想い人とは違う者に連絡先を渡してたのはこの者の過失なのだ。千載一遇のチャンスを逃したにせよ責められる謂れはない。身構えた。
「捨てた?」
低くなった声音に自然と夕凪の眉間にも不穏な皺が寄る。胃が痛んだ。早く帰って吐きたい。
「なんすか…」
「それが君の……分かった」
あっさりとアネモネの店員は身を引いた。
「でも、アネモネには来てくれるんだろう?」
つらそうな響きが混じっている。秘密を握ってしまったらしい夕凪を歓迎しないのだろう。ただそれだけではない。店内で泡を吹き失神だってしたのだ。出入り禁止になっても仕方がないとすら思っていた。
「もう行かないっすから安心してください」
美しい男に背を向け家路に着こうとした。夜の散歩は出来そうにない。
「待て。来い」
乱雑に肩を掴まれ、引き摺られる。気持ち悪さがすでに喉元まで来ている。今から帰ってもトイレに間に合うか否か。反抗の力が嘔吐に回ってしまいそうでされるがまま自宅とは違う方向へ連れられる。
「な、に。なんす、か…」
歩きたくなかった。気持ちが悪い。吐きそうだ。
「ト、イレ…トイレ…」
単語で訴えるので精一杯だった。引っ張り上げられるように階段を登り、その頃には誰と居るだとか何処に向かっているだとかはまるで考えられなかった。ただ吐いてはならない場所だと言い聞かせることだけだった。ほぼ見ず知らずの少し気の良い冷たい顔立ちの美男がドアを開ける。思ったよりも広い玄関に放り込まれた。部屋にも台所付きの短い廊下にも明かりが点いていた。
「トイレだろう」
カチッと音がした。夕凪は洗濯機横のアルミ製よドアを開く。閉める余裕はなかった。便器を上げた瞬間、くしゃみ同然に嘔吐物が爆ぜた。胃液と、まだわずかに形を残した多量の錠剤、酒と白い繊維。酔うと考えも無しにティッシュやカレンダーやメモ帳やその他紙を毟って口に入れてしまう悪癖だ。荒く息をする。口内に残る強い酸味。また吐きたくなる。突然中身を失った胃が鳴った。少しずつ頭は冷静になっていく。見慣れないトイレだとか、風呂場を仕切る衝立だとか。アネモネの店員だ。忘れていた。
「あの、ごめんなさ…」
振り返った。冷たい手に顎を掬われる。相手を認識した時には唇が塞がっていた。触れるだけ触れてまだ拭いてもいない口元を舐められる。現状を飲み込めていない夕凪の唇がまた塞がれる。ぬるりとしたものが口内へ侵入する。胃液特有の酸味が残る口腔を暴き、上顎を撫でられる。慄いた舌を機嫌を取るように突つかれると、掘り起こされ、絡んだ。質感があった。鳥肌が立つ。
「…ぁっ、んぁ」
忘れていた息を思い出す。小さな声が漏れた。口腔を満たした唾液が糸を引いた。瞠目するほど美しい顔から目が離せない。されたことをよく理解できていなかった。その行為自体も、その意味も、意図も。
喫茶店店員はトイレの出入り口を塞ぐように立っていた。夕凪は何も言えないでいた。何か言えば、今あったことを肯定してしまいそうな感じがした。何か幻覚だと思っていたかった。まだ流されていない便器に視線が落ちて、しかし直視できなかった。
「リビングで待ってる」
返事も首肯もせず家主である不審者が目の前から去るのを待つ。何をされる。嫌がらせか。便器の蓋を下ろしてから流す。他に汚したところはないか確認し、洗面台を借りた。
「お、お邪魔したっす…」
リビングに向かって礼を言う。反応はない。
「あの!お邪魔!したっす!」
吐き気の次は酔いが夕凪を苛んだ。胃が軋む。近所迷惑も考えずに叫ぶもやはり反応がなかったため構わずに帰ることにした。口元を拭う。涙が出た。忘れられる。相手もおそらく酔っていたのだと言い聞かせる。ひとつひとつの挙動がおかしかったのだから。絡み酒の類だろう。商店街で会いさえしなければ喫茶店アネモネにはもう行かないのだ。忘れられる。発作が忘れさせる。おそらく、きっと。裏切られたという感覚があった。何も裏切られてなどいない。頭を抱える。酔っているだけだ。あの男も酔っていただけだ。動けなくなる。妹も便器を抱えて吐いていた。それをただ見下ろしていた。怖かったのだ。苦しかったのだ。つらかったのだ。父親に腰を抱かれ、制服のスカートが捲れていた。揺れた2本の髪束。背中から覆い被さり、臀部を振りまくっていた。怪獣だ。化物だ。獣物だ。思い出すな、思い出すな。念じてみるが無駄になる。バランスを失って歩く様はホラー映画に出てくるゾンビに似ていた。恐れていた発作に襲われそうになる。何故薬を吐いてしまった。何故酒を排出してしまった。
「あ…あぁァ…!」
心までゾンビになったようだった。叫び声を抑える。纏わりつくような唾液が口の端を落ちていく。
胃が軋む。視界が滲む。このまま家には帰れない。
◇
頭の中が沸騰しそうだった。下がっていく体温についさっきまでの現実がついていかない。唇に触れる。柔らかかった。怯えて見上げた幼い顔を思い出すと胸を痛くさせる。また見たい。しかし拒まれたではないか。はっきりと。捨てたと言った。もうアネモネには来ないと言った。生まれて初めての感覚だった。頭に血が上るという表現を身を以て知った。制御が利かなかった。たとえ嘔吐直後でもその無謀な唇を吸いたかった。諦めるため気持ちを打ち明けるつもりでいた。だが言えない。まだ言えそうにない。可憐な青年が締めていった玄関扉の音を頭の中で再生する。諦めなければならない。諦められるだろう。あの青年はもうアネモネには来ないのだ。指先が冷えていた。酒に混じった彼の匂い。胃液の味。唇の柔らかさ。漏れた声の甘さ。諦めるという決意を表すには昂ぶる中心に氷と化した手が伸びる。布越しに焦らした。欲望と期待の蛹が疼いている。
「…ッ」
便器を抱く背中を思い出す。便器を叩いた嘔吐物の音。喉を胃液が迸る苦しそうな呻き。彼の吐いた酸味。新鮮なうちに使いたかった。彼を消費している。体調不良の子犬のような青年に執拗に絡んで、無理矢理引っ張ってきてしまった。背徳感に寒気がした。だが不快ではない。肉芯に向かって素肌を辿った。直接触れたい。己にも、彼にも。諦められるわけがない。圧倒的に足らなかった。諦めようとする気すら元々ありはしない。胃液の味がそれを確かなものにしてしまった。根本から大きく擦る。先端部を指で潰すように摘む。少し痛いくらいが好みだった。
「は…っ、ぁ、」
キスの時に漏らした声を思い出すと突き抜けるような快感があった。湿った音がする。唇で覚えた柔らかさを"使った"。あの口唇で扱かれたら…
水音がする。諦めきれない。健やかな青年とどうなりたいのかはっきりとしたものはなかった。だがフラれ、はいそうですかと引き下がれそうにない。昂ぶりがまた大きく膨らんだ。手が止まらない。快感は増していく。脳裏にいやらしく誘う浅香夕凪が過った。胃液の代わりに白濁で口元を汚し、唾液と先走りで濡れた唇。かぶりつきたい。上擦った声を聞きたい。射精感が一気に高まった。
「ぁ…っ!」
掌に飛び散る。ぞっとするほど美しい顔が悩ましげに歪んだ。長い睫毛が伏せる。息が静かな室内に響いた。すぐさま襲ってくる虚しさにいつまでも白濁に汚れた指を見ているわけにもいかなかった。肝心なことを忘れている。あの人はもう来ないと言ったのだ。怯えた目を向けられたのだ。連絡先を書いたコースターのことは覚えていたくせ、捨てたと言ったのだ。腹の底から何かしなければというエネルギーが渦巻いている。だが何をしたらいいのかが分からない。端末を手に取って検索欄に彼の名を打ち込んだ。そして消す。何をしたいのかも分からない。狂ってしまいそうだ。端末を放り投げる。本の山にぶつかって床を滑る。
浅香くん。浅香くん。浅香くん。
真っ直ぐ家路につけたのだろうか。眠れるだろうか。何故喫茶アネモネには来ないのか。嫌われているのか。何をしたのだろう。無理矢理連れ込んだ時点で嫌われていた。何をしたのだ。直せばいいのだ。嫌われているところを直せば。直すしかない。そうすれば来店する。岩城は悶々としてその夜は布団に入った。もう来ないなど嘘だ。彼の日常なのだから。眠れない夜は長かった。普段なら寝付きは良い方だったというのに。部屋の隅で端末が鳴った。岩城への確認のメッセージだったが、持ち主は布団の中でじっと浅香夕凪に囚われていた。やってしまったことを反芻し、その度に胸を熱くさせては反省を繰り返した。ほぼ朝という時間帯にやっと眠った。
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