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煉獄アクアリウム 全4P /温厚おっさん受/クール敬語年下攻/モブ要素/女性キャラあり
煉獄アクアリウム 1 元上司が姉の婚約者になって目の前に現れた話
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越前 楓は一度開けた襖を閉めた。見慣れた部屋に見慣れない人物がいたからだ。幻覚だろうか。それとも人違い。今この家には姉がいるはずだ。見間違えるはずはないが、一瞬の判断であったから背景や反射の都合で全く姉には見えない姿として捉えてしまっただけなのかも知れない。それから昼は居間にほぼ姿を現さないが可能性としては父もいる。
「お邪魔しています」
特徴のないよくいる声が襖越しに曇って聞こえる。ここで聞こえないふりをすることは出来ず越前は襖をまた開いた。
「こちらからご挨拶せず申し訳ありません」
私生活の場所であるここに通されているということは越前の父・九嵐の仕事の用で赴いたわけではなさそうだ。越前は越前家の犬・求愛と戯れる男を見た。目元に年齢が出始めている色白の中年。胡座を直そうとしていたがその脚にはノルウェージャンフォレストキャット・多恋が喉を鳴らしている。
「とんでもないです」
飼い主の弟で5年は共に生きている越前には全く懐かないミニチュアダックスフントが荒れた指で撫でられて清掃道具じみた尻尾を振っている。越前が触れば、噛もうとする。高飛車な老猫の多恋もだ。
「季良里さんが少し家を空けるそうで…」
越前は、はぁそうですか、と小さく呟いた。この男は一時期、ほんの短期間越前の上司だった。そしておそらく、越前の姉・季良里の婚約者だ。久々の再会だったが特に話すことはない。忘れているのだろう、多く後輩を持っていたこの男は。
「姉がすみません。まさか客人を置いて出掛けてしまうなんて」
高慢な生きた毛玉を膝に乗せ穏やかに笑う男を、越前は立ったまま見下ろす。姉の旦那になるかも知れない男だが関係ない。今では部下だ。形式だけの謝罪を並べる。
「出張から帰ったところですか?」
「…ええ。すみません、今お茶出します」
「ああ、いいえ、お構いなく。お忙しい中にお邪魔してしまったようで…」
まさかこの男が自身のスケジュールを把握しているとは思えない。季良里から聞いたのだろう。男の手の中の求愛が吠える。越前に牙を剥く。男は困った表情をして頭を撫でると落ち着いた。男が求愛に伸ばした腕を多恋の真っ白い手が押えつける。飼い主の家族はどちらなのか。微かに苛立ちながら越前は台所へ向かう。
まだ新入社員の頃に、犬や猫にやたらと好かれるあの男と出会った。直々の上司だ。大岡秋庭という。社長の息子という難しい立場にもかかわらず他の社員と変わらず接し、気は回るが自身は人に頼るのが苦手な性格をしていたと越前は短い付き合いの中で思った。茶を汲み、来客用の湯飲みと盆に乗せて居間に持っていく。
「熱いのでお気をつけてください」
大岡は課長であるにもかかわらず茶を配る。誰よりも早く出勤して。茶も態々自費でこだわりの茶葉を選んでいた。人が入るたびに大岡が湯飲みを選ぶのだ。模様がひとりひとり違う。大岡のイメージで模様が違う。さくら模様の物を出された者もいれば魚模様、紅葉や渦巻やうさぎが描かれた物を出された者もいた。越前には黒猫が描かれた湯飲みが差し出された。柔らかい質の黒髪と、無愛想と言われてしまうくらいあまり顔に表情が出せないところだろうか。大岡の遠回しな人物評のような気がして越前は少し気落ちした。
「ありがとうございます。いただきますね」
優しい目元に皺が寄る。温和な雰囲気は相変わらずだ。この男が昇るはずだった地位を越前はその血筋で奪い取ったというのに思うところはないのだろうか。越前が直々の部下だったことさえ大岡は忘れているかも知れないのだ。数多い後輩が大岡に懐いていた。騒がしく。媚びとは違う、懐き方だった。
大岡が湯飲みへ意識を向けると膝に乗っていた多恋(たらば)も身体を起こしてテーブルに丸い両手を乗せて大岡が興味を示した物を縹色の両目で探している。求愛の尻尾が大幅に速く揺れ動いているのが見える。この2匹に接待を任せて自室に引っ込もうか迷っていた。季良里は何時に帰ってくるのだろうか。客人が来ているにもかかわらず出なければならないほどの用件とは何なのか。季良里の帰宅まで元上司で現部下の相手をしなければならないのだろうか。大岡が態々言うとは思わないが細かいところから露わになり、父・九嵐から嫌味や小言を聞かされるのも越前は避けたいことだった。
「姉は何時頃戻ると…?」
「時間はおっしゃっていませんでしたので…もし何か用がおありでしたら、また日を改めて…」
大岡は猫や犬に邪魔されながら茶を飲む。お互い存在を無視するかのように暮らす求愛と多恋の連携に越前は苦笑する。飼い主であり名付け親の季良里にでさえここまで懐いていない。不遜な態度を崩さない多恋の喉の音がテーブルを隔てていても聞こえる。
「用はありません。勝手な姉で申し訳ない」
「ですが…お疲れですよね。海外出張でしょうから…」
「だとしてもあなたは客人で、それを放っておいているのは俺の姉ですので」
大岡の私服のシャツに見慣れた長く白い毛が付着している。だが多恋(たらば)は構わず頭や頬や身体を大岡に擦り付けて、喉を鳴らしている。越前は肉々しく重い毛玉を掴んで引き寄せたがもさもさした太い尾が越前の手を引っ叩く。
「相変わらず、君は優しいんですね…」
大岡が微笑む。求愛が大岡の気を引いて、越前に向けられた大きく揺れる尻尾が嘲笑っているようだった。
「姉さん、客が来ているのに出掛けるのはちょっとどうにかなりませんかね」
姉・季良里の部屋に行くと、風呂上がりだったらしく濡れた黒髪を梳かしていた。
「もぉ、楓ちゃん!」
季良里はわざとらしく頬を膨らませる。越前が着替えていていても脱いでいる最中でも季良里は構わず越前の部屋や風呂場に入ってくる。だから越前も気にしていなかった。
「だってあの人と居るの、つまらないんですもの」
椿だろうか、花の香りが部屋に充満している。芳香剤や柔軟剤、香水というよりは髪のオイルらしかった。
「つまらない?」
「求愛ちゃんも多恋ちゃんもあの人のことばっかり。面白い話もしてくださらないし」
季良里は髪をいじりながらそう言った。確かに犬や猫に囲まれていた。越前が話すとどちらが鳴くか呻く。
「だからといって、困ります」
「困るのなら楓ちゃんからお父様に言って」
「姉さんが大岡さんと結婚するのは別に困らないです」
前提は違う。ぴしゃりと言うと季良里の緩んだ表情が締まる。
「そんなこと言うなら楓ちゃんが大岡さんと結婚すればいいのよ」
ふんっ、と季良里が拗ねた。バスタオルを巻いただけの身体が越前を押して、襖が音を立ててしまった。
「姉さん!」
「楓ちゃんのバカ!」
薄紅色と白で淡い模様が浮かぶ襖に向き直る。
「姉さん、男同士は結婚出来ないってご存知ないんですか?」
「知らないもん!お父様が出来るって言ったら出来るもん!」
越前は話にならないと自室へ戻ろうとして振り返る。多恋が越前を覗いていた。だが目が合うと顔を逸らされ居間へ行ってしまった。
大岡が越前の面倒を看ていたのは半年ほどだった。その後別の課に移りそこでまた半年在籍し、昇任すると重役とまではいかなかったがいずれ遠くないうち、そこに就かされるのであろう位置に付けられた。会社の私物化だという陰口を聞いたことがあるがその通りかも知れない。大岡は何も言わなかった。異動の時でさえ特別なことは何も言わなかった。課一同から贈られた花束と菓子折り、それから個々から貰った色々な物。大岡からは香り付きの茶葉だった。だが言葉はいつもと変わらない。また明日越前はこの席に座り、この席に黒猫の湯飲を置くのだと信じて疑っていない様子に思えた。会社が同じでも使う普段居る場所が違う。社内食堂も階級で時間差がある。大岡とは全く会わなかった。久々に見た姿は少し老けていた。特に目元に強く疲労を残している。それが大人の色気か。優しく穏やかだが前から陰のある男だと越前は思っていた。だから当時は越前の同僚だった女性社員たちも素敵だなんだと言っていた。髪型の変化や化粧の変化には気付き前向きに話しかけるがそこに下心は感じさせない。後輩の不手際や疲労には目敏く気付き、助力を惜しまない。
「くらぶちゃんよ」
居間で唸る求愛の様子を見に行くと風呂上がりの父・九嵐がいた。牙を剥いて威嚇している求愛に甘い顔を晒している、グレーの毛が多い初老。家主のことも理解していないらしいこの光景には慣れている。腰にタオルを巻いている。広い居間の、大の大人が寝られるくらいに大きなテレビを点けてティッシュで鼻を穿っている。和風だが近代的な要素を多く取り入れた横に広い平屋に越前は文句はなかったが、ひとつだけ欠陥があるとすると浴室から自室に行くには居間を通らなければならないという点だった。自宅であり血の繋がった家族なのだからとバスタオル一枚で姉と父は居間を通る。会社ではきっちりした格好で隙も生活感もない父と姉の人間的な姿。特に父はバスタオル一枚で居間に長く居座る。越前は着替えを持って脱衣所で着替えている。それを神経質だのと姉や父は笑う。大岡が季良里と結婚すればおそらく婿入りだ。マイホームなど持たずここで暮らすことになる。大岡もおそらく着替えを持って行って脱衣所で着替えるだろう。湯気を立てた寝間着で髪を乾かしながら居間を通るのだろうか。大岡が。気の弱そうな目元を染めて。湯気を立てながら。濡れた髪をタオルで乾かしながら。湿気を多分に含んだ寝間着に身を包み。ここを。越前は近い未来にありそうな光景を思い描いて止まった。
「楓、どうした」
多恋は父の脚の水滴を舐めている。父はでれでれとまだ乾ききっていない手で多恋を抱き上げながら越前を見た。
「あ、いいえ。今日、大岡さんがお見えになりまして」
「ああ。そうだろうな、おれが取り付けた。季良里とはよろしくやってたか」
「は、はぁ。まぁ、それなりに」
会社で見せる険しい顔と一変して家では表情が豊かだ。その落差に越前はついてゆけなかった。
「なんなら今度3人で温泉でも行くか!季良里は…行かんだろうな」
父は季良里の気持ちを知っているのだろうか。だが父とだけならとにかく、大岡と3人というのは避けたいところだ。気拙くなるのが目に見えている。今日のように。肩凝りや節々がどこか重たく感じるのは今朝乗った飛行機のせいではないだろう、おそらく。
「まぁお前にはあっちこっち異動させまくって挙句には海外出張ばかりで大変な思いはさせているからな。労いも込めていいんじゃないか」
越前の周りを求愛はぐるぐるぐるぐる回っている。多恋は父・九嵐に持ち上げられながらぐるぐる喉を鳴らしている。
「父さん、本当に大岡さんと姉さんを結婚させるおつもりで…?」
父・九嵐は片眉を上げて越前を一瞥した。意味深長な仕草だ。テレビが最も良く観える位置に置いたソファに座る。要のバスタオルに多恋を乗せた。父は何も言わない。
大岡の大きな掌が茶髪を撫でる。越前は人垣越しにそれを遠く見ていた。八重歯が特徴的な越前と同い年の青年だった。よくあの髪色で面接が通ったものだと思っていたが地毛だったらしい。大学で配られた黒髪にしなければいけないという強迫観念に駆らるような脅迫じみた押し売りは何だったのかと思う。
『大岡さん、やったよオレ!』
人気者だった。太陽のような男だった。犬のようにも思えた。だが求愛とは違う。誰にでも擦り寄り、誰にでも懐く犬。だが求愛と同じように大岡には群を抜いて懐く。
『北条くん、よくやりましたね』
越前はただデスクに向かう。やったな、やったね、同僚たちの声がする。和気藹々とした雰囲気は新入社員が多いせいか、それともここを治める者の性分ゆえか。
異動の際も今生の別れだと勘違いしているのではないかというほどあの太陽のような男は泣いていた。北条享保という男。
『越後さん、オレ…っ、絶対越後さんのこと忘れません…ッ、!』
目を腫らして北条はそう言っていた。一線引いていた越前に気さくに話しかけてきた同期もこの北条だった。誰とでも仲良くなれる人間だった。いずれは血筋でどうにかなる越前とは違い、人柄を含めた実力で上を獲るのかも知れないと思っていた。
『大岡さんのことが好きです』
聞くつもりのなかったこと聞いた。異動が決まったと告げられて帰ってきた直後だった。いつもよりも遅い時間帯に休憩に入ったらしかった。自動販売機が置かれ、少し行けば喫煙スペースもあるコモンスペースと呼ばれる、小規模だが寛げる場所。越前は身を隠してしまった。
『君の気持ちは嬉しいのですが…その気持ちには応えられそうにありません』
いつもの声だった。いつもの、目下にも丁寧で敬語を崩さない大岡の柔らかい声。妻も子もいないと聞いている。人の生き方だ。大岡の世代なら口煩くは言われるかも知れないが取り巻く時代は未婚に寛容に…むしろ諦念さえ抱いているように越前は思う。配偶者や子持ちが社会的信頼の指針であるならあまりにも便りのない指針だ。妻子持ちの他の上司より大岡のほうが幾分人格が出来上がって見える。それが家庭を持たない余裕なのだろうか。
大岡を意識したのはあれが始まりだったのかも知れない。北条は異性に人気だった。明るい人柄と表裏のない態度は同性からも人気だったが、何よりルックスが甘かった。大きな目は大きく光りを反射させ、ウイスキーに近い色をした瞳が透けて見えた。だから女子社員からも引く手数多の北条が大岡に慕情を抱いているとは越前は全く想像をつかなかった。男を好きな男とは、小太りで妙な箇所に髭を剃り残して髪は短く刈ってある者ではないのか。越前の中で固まっていた像が崩れ去る。あれが人として好きであるとか、上司として好きであるという意味には聞こえなかった。緊迫した雰囲気と北条のいつもよりわずかに低く、そして畏まった態度が何よりその印象を強くさせる。
『大岡課長って私のこと、苦手ですよね』
ただ気付いてしまったのはそのことだった。北条の告白を断った時よりも越前に対する日常的で事務的な会話の緊迫感に気付いてしまった。異動の前日の最後の挨拶だった。公私混同したことを初めて言った気がする。大岡は困った顔をして笑った。上手く躱したつもりらしかった。それが無性に腹立たしかった。愛想笑いで繕って否定しろと思った。同時に肯定も期待していた。だがどちらとも受け取れ、どちらとも違う曖昧な笑みで誤魔化された。変なことを訊いてしまったと越前は後悔した。大岡が誰を苦手としていようが仕事上の付き合いに関係はない。大岡は職務に滞りができるほどあからさまに態度に出しているわけではない。ほんの些細な違いだ。些細すぎて、おそらく誰も気付かないほど。だが越前は気付いてしまった。
『妙なことをお訊きしました。忘れてください。短すぎるほどの間でしたがお世話になりました』
花束や紙袋を抱えて越前はぶっきらぼうに大岡に頭を下げて背を向けた。
大岡の姿を社内で見るようになった。今まで全く目にしなくなっていたが。越前のなかで大岡という概念が消え失せていたのかも知れない。だがまた意識の中に浮上して、姿を認識しはじめたのか。気の弱そうな笑みを浮かべて部長たちの後ろを歩いている。資料室に入っていった。施錠の音がする。大岡の残像を見つめてでもいるのか越前は立ち止まって扉を見ていた。
越前の初めて入った課の者たちもすでに別の課へ異動になったり退社していたり出産や育児などの休暇に入ったりなどばらばらになっている。まだ2年ほどしか経っていないが遠い昔のことのように思えた。
越前のいる課とは近くはないが遠くもない休憩スペースが越前は好きだった。大窓が取り付けられ、日光がよく当たる。喫煙スペースが近いせいか非喫煙者は寄らない分、人が少ない。越前は煙草は吸わないが嫌煙家というほどでもなかった。このスペースにある自動販売機で桃の缶飲料を飲むのが好きだった。ここからは資料室がよく見える。派手な茶髪の青年がうろうろしているのも見えた。越前の自宅でもよく見る光景だ。季良里が風呂に入っていると求愛が浴室の前をぐるぐる回り、うろうろと歩き、越前を見ると牙を剥く。多恋は扉をカリカリ引っ掻いて越前を見ると逃げてしまう。求愛は唐揚げのような焦げたキツネ色のミニチュアダックスフントだが、今資料室の前にいるのは柴犬によく似ている。越前は犬や猫に嫌われやすいというわけではない。野良猫や散歩中の犬には懐かれる。おそらく求愛や多恋が個体差として越前を嫌っているようだった。資料室の前の柴犬も越前と目が合っても牙を剥くことはない。
「越後さん、お久しぶりでっす!」
北条は人懐こい笑みを浮かべている。ただギクリと肩を跳ねさせたことを越前は見逃さなかった。廊下というのに大きな声で北条は越前が座るソファへとやってくる。壁に減り込んだ造りのソファは背凭れが押し返すような形をしている。
「久しぶり」
北条は相手の機嫌や愛想の有無に関係なく常に明るい。そして単純なのか感情が表に出やすい。挨拶をされ挨拶を返す。話すことは何もない。同期入社の元同僚で現在は直々ではないとはいえ越前は上司。一族であるがゆえの異例のスピード出世をこの素直な青年はどう思っているのだろう。
「越後さん、今から休憩ですか?」
「はい。北条くんは誰か探している?」
北条はぎょっとした。
「いや…そういうわけでは…」
北条はもともと落ち着きのないタイプだ。注意力散漫で多動なところがある。そういったところもまた女性社員から人気があった。現代の文化や文明、科学に染まりきっている感覚をあるが、"ワイルド"な雰囲気と愛らしいキャラクターとのギャップなのだそうだ。越前は分からん、と思いながら聞いていた。思えば入社当時はよく課の同期たちと社内食堂で昼食を摂ったものだ。今では年齢層が高く、立場上の遠慮が億劫で社内食堂には近付いていない。大岡が皆が同時に作業が終えられるよう計らったり、割り振ったり、切り上げていたように思う。大岡のような男と結婚出来たら幸せだろうと語る同期の女性社員の話とそれを茶化す同期の男性社員の中で話に参加しなくても楽しい日々だったように今では思い起こされた。だが季良里には合わなかったらしい。年齢が離れているからか。季良里は色黒で隆々とした筋肉を誇り、堀の深い顔立ちで毛深そうな豪胆さがメーターを振り切ったような男がタイプだった。大岡や越前、今目の前にいる北条とは真逆の像。探せばいるのだろうが風土や遺伝も考慮すると身近には季良里が選ぶほどは該当者はいない。
「課長を探しているのでは?」
越前はさきほど資料室に入っていった大岡を思い出す。北条は落ち着きのない大きな目を止めて、じっと越前の足元を見つめている。
「いや、あの、それは…そうなんですけど…」
「急ぎの報告ではない?」
「え、えぇ…まぁ…」
歯切れの悪い受け答え。北条は気分に左右されやすい傾向が特に強い。課のムードメーカーで士気を上げるのは得意だが同時に著しく1人落ち込むことも多い。周りに励ます仕事仲間がいるから大した支障が出ていない。だが今は目の前に越前しかいない。北条が大岡に失恋していたのはもう随分と前の話でその後どうなったかは知らないが、異動前日の大袈裟な送別会ではぎくしゃくしている様子は感じられなかった。それにあれから大分経っている。
「課長がどうかしたのか」
様子のおかしい北条に焦れ、単刀直入に訪ねる。
「…越後さんにはあまり関係のないことです」
顔色を窺っているのかちらちらと越前と目が合っては放されながら北条は言う。怖いなら最初から言うなと思いながら、なら仕事に戻ったらどうだと押す。北条はどう思うだろう、実力ではなく血筋で上司よりさらに上司になった同期を。だが望まない責任も負わされてしまった。社歴に見合わない上司としての。
「大岡課長なら部長たちと資料室だ。用があるなら行けばいい」
越前は不審な北条に語気を荒げる。
「言われなくても!そう、します…」
だが北条は踵を返して資料室には寄り付かずそのまま元来た廊下を辿っていった。
のろのろと桃の缶飲料を飲みながら休憩時間を過ごしていた。資料室の鍵が外される音がした。見慣れた部長たちがぞろぞろと出てきた。だが大岡の姿がない。飲み屋から出てきた中年といった光景だ。部長たちは越前に気付くことなく去っていく。大岡だけ資料が見つからないのだろうか。会いたくはない。だが無性に北条に苛立った。
『大岡さんのことが好きです』
『大岡課長って私のこと、苦手ですよね』
『越後さんにはあまり関係のないことです』
北条の告白が、過去の自身の妙な問いかけが、北条の微かに敵意を孕んだ声がぐるぐる頭の中を駆け回る。
「失礼します」
資料室に入ったことはない。陰湿な印象のある、劣化を防ぐために窓に暗幕がかけられ照明の範囲も限られている暗い部屋らしく、以前先輩が幽霊が出るの出ないのと話していた。扉を開くと苦味のある草の香りがした。畳の枯れた香りとは違う、瑞々しいが青く苦味の中に潮を感じる匂い。この匂いを男ならきっと嗅いだことがある。変わった紙を使っているのだな、と思った。さらに壁や棚の隅、窓の桟、資料そのものに巣食う様々な種類のカビや埃がそういったものの原因なのだと。
かたり…
人間の生理的な匂いに近い空気が籠っている。物音が微かにした。入室者がいれば、大岡なら何か言うはずだ。こんにちは。どうなさいました。その他。大岡は気が回る男であるから。それとも大岡はあの部長たちに紛れて出ていったのかも知れない。ラックや棚で迷路のようになった資料室を半ば好奇心で進む。周りを見渡す。きちんと地震対策がされていないのは問題だ。
「もう、無理です…!」
あと1列ほどで壁、というところで大岡の声がした。部屋の3隅にデスクとデスクライトがあるらしい。あともう1隅が見えるというところで越前は足を止めた。お
「大岡課長?」
誰かと話している様子はない。気配がなかった。大岡の気配もなかったが、声が聞こえて存在を確認できた。それとももう1人いるのだろうか。物音が激しくなる。大岡の姿があった。薄暗い空間で怯えた双眸だけが何となく越前は分かった。
「な、んで…どうして…」
動揺が声音から伝わった。肩で息をして、隅にあるデスクと対になった椅子に腰掛けず、床に座り込んだ大岡が目を見開いて越前を見上げている。
「課長…?北条が探していましたが」
大岡が越前から身を引く。衣擦れの音がした。
「…越前くん…、」
「資料、見つからないなら手伝いますよ」
腰を痛めているのか立ち上がろうとしない大岡に越前はそう声をかけて大岡の近くのラックと向かい合う。大岡は無言だ。
「何をお探しで?顧客リストですか?それとも…」
「北条くんは何か言っていましたか」
吐息の音が大きく聞こえた。掠れた声に目眩がする。数日前に越前宅に来ていた時と随分様子が違って見える。
「課長、風邪ですか?体調悪そうです」
越前の問いは問いで返され、大岡の問いも問いで返された。
「少し、身体を冷やしたかも知れません…」
大岡は静かにそう答えた。
「あまり無理をなさらず。一度こじらせると大変ですからね。北条くんも心配しますよ」
「そ、うですね…北条くんが…」
大岡の安堵した様子が気に入らなかった。大岡は怠そうに腰を上げる。越前が一度屈んで肩を貸そうとしたが、困った笑みを浮かべられてしまった。越前は今、大岡の上司なのだ。
「越前くんを使いっ走りのように扱ってしまって申し訳ありません。すぐに北条くんの元に向かいます」
大岡にそのつもりはないのだろう。だが突き放されたような感覚がある。儚い笑みが何故だか痛々しい。
「課長」
咄嗟に呼び止めてしまった。自身の声でそれに気付く。調子が狂う。自宅でこの男を見てから。呼んだのは越前だが、大岡と見つめ合ってしまい、顔を瞬時に逸らしてしまった。その無礼を責めるでもなく大岡は越前の腕を掴む。
「越前くん」
「は、い…」
大岡に触れられる腕が熱い。ジャケットとシャツを隔てているにも関わらず。魚になった気分だった。人の手に触れられ、鱗が爛れていきそうだ。
「越前くんには…その、嫌われていると思っていたから、よかった…」
「なッ、え…」
大岡の微笑む姿に頭が真っ白になった。
『大岡さんのことが好きです』
『大岡課長って私のこと、苦手ですよね』
『越後さんにはあまり関係のないことです』
甘酸っぱい告白、浅はかな問い、あしらわれた好奇心。
「お邪魔しています」
特徴のないよくいる声が襖越しに曇って聞こえる。ここで聞こえないふりをすることは出来ず越前は襖をまた開いた。
「こちらからご挨拶せず申し訳ありません」
私生活の場所であるここに通されているということは越前の父・九嵐の仕事の用で赴いたわけではなさそうだ。越前は越前家の犬・求愛と戯れる男を見た。目元に年齢が出始めている色白の中年。胡座を直そうとしていたがその脚にはノルウェージャンフォレストキャット・多恋が喉を鳴らしている。
「とんでもないです」
飼い主の弟で5年は共に生きている越前には全く懐かないミニチュアダックスフントが荒れた指で撫でられて清掃道具じみた尻尾を振っている。越前が触れば、噛もうとする。高飛車な老猫の多恋もだ。
「季良里さんが少し家を空けるそうで…」
越前は、はぁそうですか、と小さく呟いた。この男は一時期、ほんの短期間越前の上司だった。そしておそらく、越前の姉・季良里の婚約者だ。久々の再会だったが特に話すことはない。忘れているのだろう、多く後輩を持っていたこの男は。
「姉がすみません。まさか客人を置いて出掛けてしまうなんて」
高慢な生きた毛玉を膝に乗せ穏やかに笑う男を、越前は立ったまま見下ろす。姉の旦那になるかも知れない男だが関係ない。今では部下だ。形式だけの謝罪を並べる。
「出張から帰ったところですか?」
「…ええ。すみません、今お茶出します」
「ああ、いいえ、お構いなく。お忙しい中にお邪魔してしまったようで…」
まさかこの男が自身のスケジュールを把握しているとは思えない。季良里から聞いたのだろう。男の手の中の求愛が吠える。越前に牙を剥く。男は困った表情をして頭を撫でると落ち着いた。男が求愛に伸ばした腕を多恋の真っ白い手が押えつける。飼い主の家族はどちらなのか。微かに苛立ちながら越前は台所へ向かう。
まだ新入社員の頃に、犬や猫にやたらと好かれるあの男と出会った。直々の上司だ。大岡秋庭という。社長の息子という難しい立場にもかかわらず他の社員と変わらず接し、気は回るが自身は人に頼るのが苦手な性格をしていたと越前は短い付き合いの中で思った。茶を汲み、来客用の湯飲みと盆に乗せて居間に持っていく。
「熱いのでお気をつけてください」
大岡は課長であるにもかかわらず茶を配る。誰よりも早く出勤して。茶も態々自費でこだわりの茶葉を選んでいた。人が入るたびに大岡が湯飲みを選ぶのだ。模様がひとりひとり違う。大岡のイメージで模様が違う。さくら模様の物を出された者もいれば魚模様、紅葉や渦巻やうさぎが描かれた物を出された者もいた。越前には黒猫が描かれた湯飲みが差し出された。柔らかい質の黒髪と、無愛想と言われてしまうくらいあまり顔に表情が出せないところだろうか。大岡の遠回しな人物評のような気がして越前は少し気落ちした。
「ありがとうございます。いただきますね」
優しい目元に皺が寄る。温和な雰囲気は相変わらずだ。この男が昇るはずだった地位を越前はその血筋で奪い取ったというのに思うところはないのだろうか。越前が直々の部下だったことさえ大岡は忘れているかも知れないのだ。数多い後輩が大岡に懐いていた。騒がしく。媚びとは違う、懐き方だった。
大岡が湯飲みへ意識を向けると膝に乗っていた多恋(たらば)も身体を起こしてテーブルに丸い両手を乗せて大岡が興味を示した物を縹色の両目で探している。求愛の尻尾が大幅に速く揺れ動いているのが見える。この2匹に接待を任せて自室に引っ込もうか迷っていた。季良里は何時に帰ってくるのだろうか。客人が来ているにもかかわらず出なければならないほどの用件とは何なのか。季良里の帰宅まで元上司で現部下の相手をしなければならないのだろうか。大岡が態々言うとは思わないが細かいところから露わになり、父・九嵐から嫌味や小言を聞かされるのも越前は避けたいことだった。
「姉は何時頃戻ると…?」
「時間はおっしゃっていませんでしたので…もし何か用がおありでしたら、また日を改めて…」
大岡は猫や犬に邪魔されながら茶を飲む。お互い存在を無視するかのように暮らす求愛と多恋の連携に越前は苦笑する。飼い主であり名付け親の季良里にでさえここまで懐いていない。不遜な態度を崩さない多恋の喉の音がテーブルを隔てていても聞こえる。
「用はありません。勝手な姉で申し訳ない」
「ですが…お疲れですよね。海外出張でしょうから…」
「だとしてもあなたは客人で、それを放っておいているのは俺の姉ですので」
大岡の私服のシャツに見慣れた長く白い毛が付着している。だが多恋(たらば)は構わず頭や頬や身体を大岡に擦り付けて、喉を鳴らしている。越前は肉々しく重い毛玉を掴んで引き寄せたがもさもさした太い尾が越前の手を引っ叩く。
「相変わらず、君は優しいんですね…」
大岡が微笑む。求愛が大岡の気を引いて、越前に向けられた大きく揺れる尻尾が嘲笑っているようだった。
「姉さん、客が来ているのに出掛けるのはちょっとどうにかなりませんかね」
姉・季良里の部屋に行くと、風呂上がりだったらしく濡れた黒髪を梳かしていた。
「もぉ、楓ちゃん!」
季良里はわざとらしく頬を膨らませる。越前が着替えていていても脱いでいる最中でも季良里は構わず越前の部屋や風呂場に入ってくる。だから越前も気にしていなかった。
「だってあの人と居るの、つまらないんですもの」
椿だろうか、花の香りが部屋に充満している。芳香剤や柔軟剤、香水というよりは髪のオイルらしかった。
「つまらない?」
「求愛ちゃんも多恋ちゃんもあの人のことばっかり。面白い話もしてくださらないし」
季良里は髪をいじりながらそう言った。確かに犬や猫に囲まれていた。越前が話すとどちらが鳴くか呻く。
「だからといって、困ります」
「困るのなら楓ちゃんからお父様に言って」
「姉さんが大岡さんと結婚するのは別に困らないです」
前提は違う。ぴしゃりと言うと季良里の緩んだ表情が締まる。
「そんなこと言うなら楓ちゃんが大岡さんと結婚すればいいのよ」
ふんっ、と季良里が拗ねた。バスタオルを巻いただけの身体が越前を押して、襖が音を立ててしまった。
「姉さん!」
「楓ちゃんのバカ!」
薄紅色と白で淡い模様が浮かぶ襖に向き直る。
「姉さん、男同士は結婚出来ないってご存知ないんですか?」
「知らないもん!お父様が出来るって言ったら出来るもん!」
越前は話にならないと自室へ戻ろうとして振り返る。多恋が越前を覗いていた。だが目が合うと顔を逸らされ居間へ行ってしまった。
大岡が越前の面倒を看ていたのは半年ほどだった。その後別の課に移りそこでまた半年在籍し、昇任すると重役とまではいかなかったがいずれ遠くないうち、そこに就かされるのであろう位置に付けられた。会社の私物化だという陰口を聞いたことがあるがその通りかも知れない。大岡は何も言わなかった。異動の時でさえ特別なことは何も言わなかった。課一同から贈られた花束と菓子折り、それから個々から貰った色々な物。大岡からは香り付きの茶葉だった。だが言葉はいつもと変わらない。また明日越前はこの席に座り、この席に黒猫の湯飲を置くのだと信じて疑っていない様子に思えた。会社が同じでも使う普段居る場所が違う。社内食堂も階級で時間差がある。大岡とは全く会わなかった。久々に見た姿は少し老けていた。特に目元に強く疲労を残している。それが大人の色気か。優しく穏やかだが前から陰のある男だと越前は思っていた。だから当時は越前の同僚だった女性社員たちも素敵だなんだと言っていた。髪型の変化や化粧の変化には気付き前向きに話しかけるがそこに下心は感じさせない。後輩の不手際や疲労には目敏く気付き、助力を惜しまない。
「くらぶちゃんよ」
居間で唸る求愛の様子を見に行くと風呂上がりの父・九嵐がいた。牙を剥いて威嚇している求愛に甘い顔を晒している、グレーの毛が多い初老。家主のことも理解していないらしいこの光景には慣れている。腰にタオルを巻いている。広い居間の、大の大人が寝られるくらいに大きなテレビを点けてティッシュで鼻を穿っている。和風だが近代的な要素を多く取り入れた横に広い平屋に越前は文句はなかったが、ひとつだけ欠陥があるとすると浴室から自室に行くには居間を通らなければならないという点だった。自宅であり血の繋がった家族なのだからとバスタオル一枚で姉と父は居間を通る。会社ではきっちりした格好で隙も生活感もない父と姉の人間的な姿。特に父はバスタオル一枚で居間に長く居座る。越前は着替えを持って脱衣所で着替えている。それを神経質だのと姉や父は笑う。大岡が季良里と結婚すればおそらく婿入りだ。マイホームなど持たずここで暮らすことになる。大岡もおそらく着替えを持って行って脱衣所で着替えるだろう。湯気を立てた寝間着で髪を乾かしながら居間を通るのだろうか。大岡が。気の弱そうな目元を染めて。湯気を立てながら。濡れた髪をタオルで乾かしながら。湿気を多分に含んだ寝間着に身を包み。ここを。越前は近い未来にありそうな光景を思い描いて止まった。
「楓、どうした」
多恋は父の脚の水滴を舐めている。父はでれでれとまだ乾ききっていない手で多恋を抱き上げながら越前を見た。
「あ、いいえ。今日、大岡さんがお見えになりまして」
「ああ。そうだろうな、おれが取り付けた。季良里とはよろしくやってたか」
「は、はぁ。まぁ、それなりに」
会社で見せる険しい顔と一変して家では表情が豊かだ。その落差に越前はついてゆけなかった。
「なんなら今度3人で温泉でも行くか!季良里は…行かんだろうな」
父は季良里の気持ちを知っているのだろうか。だが父とだけならとにかく、大岡と3人というのは避けたいところだ。気拙くなるのが目に見えている。今日のように。肩凝りや節々がどこか重たく感じるのは今朝乗った飛行機のせいではないだろう、おそらく。
「まぁお前にはあっちこっち異動させまくって挙句には海外出張ばかりで大変な思いはさせているからな。労いも込めていいんじゃないか」
越前の周りを求愛はぐるぐるぐるぐる回っている。多恋は父・九嵐に持ち上げられながらぐるぐる喉を鳴らしている。
「父さん、本当に大岡さんと姉さんを結婚させるおつもりで…?」
父・九嵐は片眉を上げて越前を一瞥した。意味深長な仕草だ。テレビが最も良く観える位置に置いたソファに座る。要のバスタオルに多恋を乗せた。父は何も言わない。
大岡の大きな掌が茶髪を撫でる。越前は人垣越しにそれを遠く見ていた。八重歯が特徴的な越前と同い年の青年だった。よくあの髪色で面接が通ったものだと思っていたが地毛だったらしい。大学で配られた黒髪にしなければいけないという強迫観念に駆らるような脅迫じみた押し売りは何だったのかと思う。
『大岡さん、やったよオレ!』
人気者だった。太陽のような男だった。犬のようにも思えた。だが求愛とは違う。誰にでも擦り寄り、誰にでも懐く犬。だが求愛と同じように大岡には群を抜いて懐く。
『北条くん、よくやりましたね』
越前はただデスクに向かう。やったな、やったね、同僚たちの声がする。和気藹々とした雰囲気は新入社員が多いせいか、それともここを治める者の性分ゆえか。
異動の際も今生の別れだと勘違いしているのではないかというほどあの太陽のような男は泣いていた。北条享保という男。
『越後さん、オレ…っ、絶対越後さんのこと忘れません…ッ、!』
目を腫らして北条はそう言っていた。一線引いていた越前に気さくに話しかけてきた同期もこの北条だった。誰とでも仲良くなれる人間だった。いずれは血筋でどうにかなる越前とは違い、人柄を含めた実力で上を獲るのかも知れないと思っていた。
『大岡さんのことが好きです』
聞くつもりのなかったこと聞いた。異動が決まったと告げられて帰ってきた直後だった。いつもよりも遅い時間帯に休憩に入ったらしかった。自動販売機が置かれ、少し行けば喫煙スペースもあるコモンスペースと呼ばれる、小規模だが寛げる場所。越前は身を隠してしまった。
『君の気持ちは嬉しいのですが…その気持ちには応えられそうにありません』
いつもの声だった。いつもの、目下にも丁寧で敬語を崩さない大岡の柔らかい声。妻も子もいないと聞いている。人の生き方だ。大岡の世代なら口煩くは言われるかも知れないが取り巻く時代は未婚に寛容に…むしろ諦念さえ抱いているように越前は思う。配偶者や子持ちが社会的信頼の指針であるならあまりにも便りのない指針だ。妻子持ちの他の上司より大岡のほうが幾分人格が出来上がって見える。それが家庭を持たない余裕なのだろうか。
大岡を意識したのはあれが始まりだったのかも知れない。北条は異性に人気だった。明るい人柄と表裏のない態度は同性からも人気だったが、何よりルックスが甘かった。大きな目は大きく光りを反射させ、ウイスキーに近い色をした瞳が透けて見えた。だから女子社員からも引く手数多の北条が大岡に慕情を抱いているとは越前は全く想像をつかなかった。男を好きな男とは、小太りで妙な箇所に髭を剃り残して髪は短く刈ってある者ではないのか。越前の中で固まっていた像が崩れ去る。あれが人として好きであるとか、上司として好きであるという意味には聞こえなかった。緊迫した雰囲気と北条のいつもよりわずかに低く、そして畏まった態度が何よりその印象を強くさせる。
『大岡課長って私のこと、苦手ですよね』
ただ気付いてしまったのはそのことだった。北条の告白を断った時よりも越前に対する日常的で事務的な会話の緊迫感に気付いてしまった。異動の前日の最後の挨拶だった。公私混同したことを初めて言った気がする。大岡は困った顔をして笑った。上手く躱したつもりらしかった。それが無性に腹立たしかった。愛想笑いで繕って否定しろと思った。同時に肯定も期待していた。だがどちらとも受け取れ、どちらとも違う曖昧な笑みで誤魔化された。変なことを訊いてしまったと越前は後悔した。大岡が誰を苦手としていようが仕事上の付き合いに関係はない。大岡は職務に滞りができるほどあからさまに態度に出しているわけではない。ほんの些細な違いだ。些細すぎて、おそらく誰も気付かないほど。だが越前は気付いてしまった。
『妙なことをお訊きしました。忘れてください。短すぎるほどの間でしたがお世話になりました』
花束や紙袋を抱えて越前はぶっきらぼうに大岡に頭を下げて背を向けた。
大岡の姿を社内で見るようになった。今まで全く目にしなくなっていたが。越前のなかで大岡という概念が消え失せていたのかも知れない。だがまた意識の中に浮上して、姿を認識しはじめたのか。気の弱そうな笑みを浮かべて部長たちの後ろを歩いている。資料室に入っていった。施錠の音がする。大岡の残像を見つめてでもいるのか越前は立ち止まって扉を見ていた。
越前の初めて入った課の者たちもすでに別の課へ異動になったり退社していたり出産や育児などの休暇に入ったりなどばらばらになっている。まだ2年ほどしか経っていないが遠い昔のことのように思えた。
越前のいる課とは近くはないが遠くもない休憩スペースが越前は好きだった。大窓が取り付けられ、日光がよく当たる。喫煙スペースが近いせいか非喫煙者は寄らない分、人が少ない。越前は煙草は吸わないが嫌煙家というほどでもなかった。このスペースにある自動販売機で桃の缶飲料を飲むのが好きだった。ここからは資料室がよく見える。派手な茶髪の青年がうろうろしているのも見えた。越前の自宅でもよく見る光景だ。季良里が風呂に入っていると求愛が浴室の前をぐるぐる回り、うろうろと歩き、越前を見ると牙を剥く。多恋は扉をカリカリ引っ掻いて越前を見ると逃げてしまう。求愛は唐揚げのような焦げたキツネ色のミニチュアダックスフントだが、今資料室の前にいるのは柴犬によく似ている。越前は犬や猫に嫌われやすいというわけではない。野良猫や散歩中の犬には懐かれる。おそらく求愛や多恋が個体差として越前を嫌っているようだった。資料室の前の柴犬も越前と目が合っても牙を剥くことはない。
「越後さん、お久しぶりでっす!」
北条は人懐こい笑みを浮かべている。ただギクリと肩を跳ねさせたことを越前は見逃さなかった。廊下というのに大きな声で北条は越前が座るソファへとやってくる。壁に減り込んだ造りのソファは背凭れが押し返すような形をしている。
「久しぶり」
北条は相手の機嫌や愛想の有無に関係なく常に明るい。そして単純なのか感情が表に出やすい。挨拶をされ挨拶を返す。話すことは何もない。同期入社の元同僚で現在は直々ではないとはいえ越前は上司。一族であるがゆえの異例のスピード出世をこの素直な青年はどう思っているのだろう。
「越後さん、今から休憩ですか?」
「はい。北条くんは誰か探している?」
北条はぎょっとした。
「いや…そういうわけでは…」
北条はもともと落ち着きのないタイプだ。注意力散漫で多動なところがある。そういったところもまた女性社員から人気があった。現代の文化や文明、科学に染まりきっている感覚をあるが、"ワイルド"な雰囲気と愛らしいキャラクターとのギャップなのだそうだ。越前は分からん、と思いながら聞いていた。思えば入社当時はよく課の同期たちと社内食堂で昼食を摂ったものだ。今では年齢層が高く、立場上の遠慮が億劫で社内食堂には近付いていない。大岡が皆が同時に作業が終えられるよう計らったり、割り振ったり、切り上げていたように思う。大岡のような男と結婚出来たら幸せだろうと語る同期の女性社員の話とそれを茶化す同期の男性社員の中で話に参加しなくても楽しい日々だったように今では思い起こされた。だが季良里には合わなかったらしい。年齢が離れているからか。季良里は色黒で隆々とした筋肉を誇り、堀の深い顔立ちで毛深そうな豪胆さがメーターを振り切ったような男がタイプだった。大岡や越前、今目の前にいる北条とは真逆の像。探せばいるのだろうが風土や遺伝も考慮すると身近には季良里が選ぶほどは該当者はいない。
「課長を探しているのでは?」
越前はさきほど資料室に入っていった大岡を思い出す。北条は落ち着きのない大きな目を止めて、じっと越前の足元を見つめている。
「いや、あの、それは…そうなんですけど…」
「急ぎの報告ではない?」
「え、えぇ…まぁ…」
歯切れの悪い受け答え。北条は気分に左右されやすい傾向が特に強い。課のムードメーカーで士気を上げるのは得意だが同時に著しく1人落ち込むことも多い。周りに励ます仕事仲間がいるから大した支障が出ていない。だが今は目の前に越前しかいない。北条が大岡に失恋していたのはもう随分と前の話でその後どうなったかは知らないが、異動前日の大袈裟な送別会ではぎくしゃくしている様子は感じられなかった。それにあれから大分経っている。
「課長がどうかしたのか」
様子のおかしい北条に焦れ、単刀直入に訪ねる。
「…越後さんにはあまり関係のないことです」
顔色を窺っているのかちらちらと越前と目が合っては放されながら北条は言う。怖いなら最初から言うなと思いながら、なら仕事に戻ったらどうだと押す。北条はどう思うだろう、実力ではなく血筋で上司よりさらに上司になった同期を。だが望まない責任も負わされてしまった。社歴に見合わない上司としての。
「大岡課長なら部長たちと資料室だ。用があるなら行けばいい」
越前は不審な北条に語気を荒げる。
「言われなくても!そう、します…」
だが北条は踵を返して資料室には寄り付かずそのまま元来た廊下を辿っていった。
のろのろと桃の缶飲料を飲みながら休憩時間を過ごしていた。資料室の鍵が外される音がした。見慣れた部長たちがぞろぞろと出てきた。だが大岡の姿がない。飲み屋から出てきた中年といった光景だ。部長たちは越前に気付くことなく去っていく。大岡だけ資料が見つからないのだろうか。会いたくはない。だが無性に北条に苛立った。
『大岡さんのことが好きです』
『大岡課長って私のこと、苦手ですよね』
『越後さんにはあまり関係のないことです』
北条の告白が、過去の自身の妙な問いかけが、北条の微かに敵意を孕んだ声がぐるぐる頭の中を駆け回る。
「失礼します」
資料室に入ったことはない。陰湿な印象のある、劣化を防ぐために窓に暗幕がかけられ照明の範囲も限られている暗い部屋らしく、以前先輩が幽霊が出るの出ないのと話していた。扉を開くと苦味のある草の香りがした。畳の枯れた香りとは違う、瑞々しいが青く苦味の中に潮を感じる匂い。この匂いを男ならきっと嗅いだことがある。変わった紙を使っているのだな、と思った。さらに壁や棚の隅、窓の桟、資料そのものに巣食う様々な種類のカビや埃がそういったものの原因なのだと。
かたり…
人間の生理的な匂いに近い空気が籠っている。物音が微かにした。入室者がいれば、大岡なら何か言うはずだ。こんにちは。どうなさいました。その他。大岡は気が回る男であるから。それとも大岡はあの部長たちに紛れて出ていったのかも知れない。ラックや棚で迷路のようになった資料室を半ば好奇心で進む。周りを見渡す。きちんと地震対策がされていないのは問題だ。
「もう、無理です…!」
あと1列ほどで壁、というところで大岡の声がした。部屋の3隅にデスクとデスクライトがあるらしい。あともう1隅が見えるというところで越前は足を止めた。お
「大岡課長?」
誰かと話している様子はない。気配がなかった。大岡の気配もなかったが、声が聞こえて存在を確認できた。それとももう1人いるのだろうか。物音が激しくなる。大岡の姿があった。薄暗い空間で怯えた双眸だけが何となく越前は分かった。
「な、んで…どうして…」
動揺が声音から伝わった。肩で息をして、隅にあるデスクと対になった椅子に腰掛けず、床に座り込んだ大岡が目を見開いて越前を見上げている。
「課長…?北条が探していましたが」
大岡が越前から身を引く。衣擦れの音がした。
「…越前くん…、」
「資料、見つからないなら手伝いますよ」
腰を痛めているのか立ち上がろうとしない大岡に越前はそう声をかけて大岡の近くのラックと向かい合う。大岡は無言だ。
「何をお探しで?顧客リストですか?それとも…」
「北条くんは何か言っていましたか」
吐息の音が大きく聞こえた。掠れた声に目眩がする。数日前に越前宅に来ていた時と随分様子が違って見える。
「課長、風邪ですか?体調悪そうです」
越前の問いは問いで返され、大岡の問いも問いで返された。
「少し、身体を冷やしたかも知れません…」
大岡は静かにそう答えた。
「あまり無理をなさらず。一度こじらせると大変ですからね。北条くんも心配しますよ」
「そ、うですね…北条くんが…」
大岡の安堵した様子が気に入らなかった。大岡は怠そうに腰を上げる。越前が一度屈んで肩を貸そうとしたが、困った笑みを浮かべられてしまった。越前は今、大岡の上司なのだ。
「越前くんを使いっ走りのように扱ってしまって申し訳ありません。すぐに北条くんの元に向かいます」
大岡にそのつもりはないのだろう。だが突き放されたような感覚がある。儚い笑みが何故だか痛々しい。
「課長」
咄嗟に呼び止めてしまった。自身の声でそれに気付く。調子が狂う。自宅でこの男を見てから。呼んだのは越前だが、大岡と見つめ合ってしまい、顔を瞬時に逸らしてしまった。その無礼を責めるでもなく大岡は越前の腕を掴む。
「越前くん」
「は、い…」
大岡に触れられる腕が熱い。ジャケットとシャツを隔てているにも関わらず。魚になった気分だった。人の手に触れられ、鱗が爛れていきそうだ。
「越前くんには…その、嫌われていると思っていたから、よかった…」
「なッ、え…」
大岡の微笑む姿に頭が真っ白になった。
『大岡さんのことが好きです』
『大岡課長って私のこと、苦手ですよね』
『越後さんにはあまり関係のないことです』
甘酸っぱい告白、浅はかな問い、あしらわれた好奇心。
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