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揺蕩う夏オトズレ 6話放置/気紛れ兄+電波ワンコ弟/いとこ双子姉弟/百合要素
揺蕩う夏、オトズレ 3
しおりを挟む木漏れ日の下で軟派で軽率げに口元を綻ばせる青年に、霞澄は後ろから胸を触られていた。片腿を持ち上げられ、尻に男の腰が当たる。臍の裏が滲むような疼く。
『ここにオレの入ってるん、分かる?』
下腹部を撫で摩り、ぐいとさらに背後の男が密着する。腹の奥がきゅっと締まる。リズミカルな衝突がはじまる。
『明日も会おうね。明日も、いっぱい、遊ぼ?川で、待ってるから、』
一言ずつ区切り、その都度彼は腰で体当たりをする。脳が蕩けるような感覚だった。腹から頭へ不思議な、しかし恐ろしくはないものが駆け上がっていく。打ち上げ花火に似ていた。
『おやすみね』
静かな真っ昼間だった。身体を支える大木と、眩し過ぎて真っ白な空。揺れる葉の群集。乾いた土が一滴、二滴、濡れて色を変えている。体当たりをされるたび、どちらから漏れ出たともいえない白濁が大地に吸われていく。
「あ………ぁ」
嫌ではない悪寒が駆け巡り、身体が強張った直後に弛緩する。
繊維の擦れた音が耳元で聞こえた。クーラーが蕭々《しょう》と暗い室内を冷やしている。淫らな夢を見ていたことに気付き、霞澄は一瞬、停止してしまった。隣のベッドで眠る深青を起こさぬよう慎重に布団を出る。いとこはよく寝ているようだった。台所に降りて水場にだけ明かりを点けた。紐を引っ張ると少し遅れて明滅し、やっと安定する。水を汲む。何口かに分けて飲んだ。肉体はほぼ大人に育っているだけで、中身は幼い青少年の卑猥な夢を見たことは、不可抗力ではあったが彼女を気恥ずかしくさせた。誰にも言わなければ誰にも知られないことだというのに、誰かに見抜かれてしまいそうだった。また水を呷る。火照った身体と夢の中から尾を引かぬを妙な血の騒ぎを冷ましていく。
水場の電気を消した。台所を去ろうとした時、壁際に誰か立っていた。深青か、今日帰ってきた真青だ。判断がつかない。伯母や伯父でないことだけは分かった。
「深青ちゃん?真青くんかな」
返事はない。霞澄は両肩を掴まれ、立ち位置を入れ替えられてしまう。壁に背が当たった。布越しに質感がある。
「どうしたの?」
やはり返事はなかった。気配が眼前に迫る。唇が柔らかく包まれた。寝間着に包まれた胸を片手で触られる。真青だ。真青に違いない。ブラジャーをしていない無防備なところを指先が掠めた。
「ふ……ぅん、」
声が出た。口を開いた瞬間にクーラの外とはまた違う生温かさのものが侵入する。布の上から指が大胆に動く。もう片方の手も加わった。両胸を寝間着の上から掻かれ、硬く突起した。
「は……ぁぅ、」
舌が絡む。夢の中で味わった陶酔にふたたび落ちていきそうだった。胸の先端を摘んだり掻いたりしていた手はそのまま布を辿り、寝間着の下にまで入り込む。ショーツに滑り込み、霞澄は真青と思しき人影を突き放そうとした。しかし霞澄の奥に伸びた手のほうが速い。力の抜けてしまうところを捉えられ、彼女は身を竦めた。夢の中の延長みたいだった。木漏れ日の下で快感を孕んだ箇所に確かな輪郭がある。そこが夢同様に潤んでいたことにも気付かない。
「ぁ……っう、んんっ、!」
上から下から湿った音がする。舌を舌で薙ぎ払われ、拾われ、掻き回される。口腔は渦を巻き、氾濫を起こしていた。脚の間で激しく出入りしているものを締め付けてしまう。段々と湿った音が水気を帯び、液体の音へ変わっていく。
「だ……め、まおく…………っ」
彼女は2人分の唾液を漏らしながら彼の舌を甘く噛んで口を自由にしてもらった。しかし制止は聞き入れられず、二度目、しかしながら目覚めのときよりもはっきりとした快楽に逆上せ、絶頂する。
「あっああっ、あっ……!」
彼女は膝を震わせた。指の引き際もまた早い。霞澄は立っていられず、床に座ってしまった。真青は去っていく。
深青と朝食を摂りに1階へ降りるとリビングには真青が先にいた。深青との差は髪の長さと背丈くらいしかないほど瓜二つの中性的な美男子だ。
「おはよう、霞澄ちゃん」
真青は昨夜の出来事など無かったかのようなあっさりとした態度だった。霞澄は目を逸らしてしまう。寝呆けていたのだろう。そういうことにした。昨日は夕食も共にしたが、その時の接し方を忘れてしまった。
「お、は……よう」
深青は霞澄の肩をそっと叩いて台所に誘う。
「何食べる?ハンバーグ茹でよっか」
冷蔵庫を漁りながら深青は必要なものを出していく。保存容器に入ったサラダや昨晩の残り物が積まれていく。霞澄はリビングで食事をする真青を見つめていた。しかし彼がこちらに気付くと咄嗟に顔ごと逸らす。
「話聞いてる?」
横から肘で小突かれ、我に帰った。
「目玉焼き乗っけるなら作るけど」
「わたしは、要らない……」
「そう」
深青は味噌汁の入った鍋に火を点ける。食事を終えた真青が食器を持って霞澄の隣にやってくる。ゴム手袋を嵌めかけている。
「わたしが洗っておくから……」
「いいの?ありがとう」
「う、うん」
屈託なく向けられる深青によく似た目を一瞬たりとも見られなかった。昨日の夜、日付的には今日、やはり彼は寝呆けていたのだ。
「あのさ、お土産あるから……僕の部屋、あとで来て」
「ちょっと。いとこでも男の部屋にフツー女の子呼ぶ?」
熱したフライパンに生卵を落とす深青の口調はきつい。真青の表情が怯える。
「ご、ごめん。そうだよね。ごめんね、霞澄ちゃん。そこまで考えてなかった」
霞澄は首を振った。さすがに真青が可哀想だ。実家に帰って来たがらないという伯母のぼやきがふと甦った。
「大丈夫。行くよ、真青くんの部屋。お土産、楽しみにしてるね」
あれは寝呆けていたのだ。地元を出た先で出会った恋人と間違えたのだ。
「あんまり期待しないでね」
彼はすまなそうな貌をしてリビングを出ていった。
「マサオとなんかあった?」
水を入れた鍋が沸騰する。深青はついでに味噌汁の鍋の火も止めた。
「な、にもない!」
食い気味に答えたがいとこは訊くだけ訊いて、大した興味はないようだった。
真青との最後の思い出が苦い。互いに思春期だった。霞澄の中でも、"そういうもの"という認識が育っていなかった。最後にこの家を訪れた数年前に、霞澄は脱衣所で、自慰に耽る彼を目の当たりにしている。その目の前には、霞澄の脱いだばかりの服が積んであった。その時の表情や手の動き、息の乱れは禍々しい認識を植え付けてしまった。その頃、ある程度の学はあれど、男子は定期的にそうする必要があるという知識は得ていなかった。非常に恐ろしく、悍ましいことをしている感じが拭えない。真青に冷たくされたり怒られたりしたことはなかったけれど、その姿を見たとき、嫌われ、憎まれているのかと思い込むほどだった。その日から霞澄は仲の良かった双子のいとこの接し方に大きな偏りができた。
飯を食い片付けを終えてから真青の部屋の前で彼女はノックする指だけドアに添えていた。手首のスナップが利く様子はない。タイミングが分からない。またあの場に出会してしまいはしないかと。呼んだのは彼であるが、霞澄の胸中は複雑だ。階段を深青が上がってくる。
「何してんの?」
「ま、真青くんのお土産、受け取りに……」
「ふぅん」
彼女は自室には入らず、霞澄を退かすと乱暴にドアを叩いた。
「マサオ、霞澄来てんだけど」
『霞澄ちゃん、入ってきて』
深青は意地の悪そうに顎でしゃくった。霞澄は小さく礼を言って中に入った。扇風機が回り、窓は全開で網戸になっている。
「お土産、これ」
地域限定のプリントが入った黒いT-シャツと揃いのバンダナだ。
「ありがとう」
「ううん。道の駅で見つけて、似合うかなって思って」
朗らかに可憐ないとこが微笑する。
「大切に着るね」
霞澄も愛想笑いを滲ませた。自然な接し方を取り繕おうとすればするほど、白々しくなる。自ら後ろめたいことがあると訴えてさえいるみたいだった。
「……久々に会ったんだし、僕とも遊んでね」
彼の卑屈な色を見て、それが深青の横暴さだけが築いたものではないと霞澄はこの瞬間に分かってしまった。
「うん……」
それでも昨晩のことを含め、まだ苦手意識を、払拭することができない。
「霞澄ちゃん?」
「久々に話すから……ちょっとだけ、緊張して。真青くんも背が伸びて、大きくなって、随分時間が経ったな……って」
しかしおそらく真青のほうが少し高いくらいで深青とはそう背丈が変わらない。男性の平均身長ほどはあるのだろうが、彼の控えめな性格が滲み出ている雰囲気や痩身が小柄に見せる。そして深青も背が高い。
「昔に比べたら……ね」
彼はまた卑屈に笑った。知らない男の子のようだった。否、あの穢らしく禍々しい姿を見てから真青はもう知らない男の子だった。涼しく吹き抜ける風、白く曇る氷、空を丸く歪める風鈴、そういう清らかさ爽やかさの裏に、怪しい手付きと静かな咆哮に似た息遣いがある。
不穏な沈黙が目を合わせたまま流れていく。
「霞澄ちゃん、すごく綺麗になった」
昨晩のことがあってのこの一言は霞澄を酷く動揺させた。世辞だと思えたかも知れないたった一言の真意が分からない。
「あ……りがとう。ま、真青くんも見ない間にかっこよくなった、ね」
嘘ではないが、わざわざ口に出して本人に伝えようと思ったほど大きなインパクトを受けたわけではない。
「霞澄ちゃんにそう言ってもらえて嬉しい」
隠そうとしても、彼の前から去りたいという空気がもう霞澄も隠しきれないと分かってしまうほど現れていた。
「霞澄ちゃんがこっちにいる時間を無駄にしたくないから、訊くんだけれど…………僕、霞澄ちゃんに何か、したかな。嫌なことしてたら直すよ。霞澄ちゃんが居づらく思うようなことしない」
昨日の夕方から寝るまでは、ぎこちなさなどなかった。男の業ともいえる営みも、今となっては仕方のないことだと割り切れていた。目の前に脱いだばかりの自分の服があったことも、霞澄なりに、手近な、概念としての「異性」を見出されただけで、そこに一個人的な情念があったわけではなかったのだと決めつけた。しかし夜のあれはなんだ。
「……な、何の話?」
「霞澄ちゃん、なんか僕のこと、避けてない?深青に何か言われた……、とか?」
彼は真っ直ぐに霞澄の目を見る。その真摯な感じから視線を逸らすことはできなかった。深青との違いは髪の長さや背丈などの社会的、肉体的性差が出るところとは別に、もうひとつある。目だ。真青は聡明な輝きを持っている。
「避けて……ないつもりだけど、」
しかし見抜かれてはさらに気拙い思いをするだけだ。
「やっぱり長いこと会ってなかったから、いつの間にか真青くん、ちゃんと大人の男の人になってるし、その、頭の中の認識と現実が釣り合ってないっていうか」
彼の疑いを完全に否定もせず、半分肯定して誤魔化す。
「……そうなんだ。嫌われちゃったかと思った」
「別に、嫌ってなんか……ないよ。ごめんね。真青くんの実家なのに、気を遣わせちゃって」
またいやな沈黙だった。しかし深青が隣の部屋から霞澄を呼んだ。それが口実となって接しづらいいとこから彼女は逃げた。クーラーのよく効いた部屋が心地良い。
「もらうものもらってきたんでしょ?さっさとあーしと遊びなさいよ」
そう言いながら深青はスマートフォンを操作している。
「うん。真青くんからT-シャツもらったの」
霞澄は一度袋を開けて広げてみた。黒地に地域のマスコットキャラクターと方言がプリントされている。その贈り主の双子の片割れは侮るような目をくれる。
「ダサ」
深青は相変わらず同胞に対して辛辣だった。
「着る気?それ」
「うん」
「部屋着でしょ」
「素材柔らかいし、結構いいやつだと思うな」
入っていたとおりに畳み直して袋にしまう。真青は実家に帰って来ているというのに居候の分際で気遣わせ、しかしそれを台無しにしようとしている自分が情けなくなった。
「今日も山遊び?」
深青に言われ、特に用はないけれど、真青と顔を合わせない方法を得てしまう。彼を嫌ったわけではない。ただ上手く誤魔化す自信がないのだ。
「ちょっと太っちゃったし、いっぱいごはん、食べたいし」
霞澄は自嘲して腹を摘んだ。
「気 遣って、完食しようとしなくていいよ。うちの人、いっぱい食わせていっぱい食うのが幸せって考えの人たちだから」
「美味しいから。残せない」
深青も霞澄の腹を触った。抓られたに等しい。
「別に太ってないじゃん」
「ちょっと歩いてくるよ」
「ポシェット貸してあげる。飲み物持っていきなさいよ。遅くなるなら連絡して」
「うん。ありがとう」
同性のいとこは長いこと放置されていたらしきポシェットを差し出した。見送られ、庭にいた伯母に一言告げてから山へ入る。
線香の匂いが鼻を掠める。まだ山林に入る前の、空の開けたところからすでに漂っている。立ち止まったところで枡谷が肩にかけた手拭いで額の汗を拭き取りながら生い茂る木々の陰から下りてくるところだった。手桶をバッグ代わりに大きなサイズのペットボトルが入っている。
「こんにちは。この前は、ありがとうございました」
枡谷も霞澄に気付く。
「おう。元気そうでよかった。気ィ付けてな。この季節はタヌキさんが多いから」
ひらひらと手を振って彼とすれ違う。枡谷家の匂いがほんの少し遅れて線香の気を吹き飛ばした。同時に耳の奥でせせらぎが聞こえる。振り返る。汗ばみ色を変えるシャツがリズムよく皺を伸び縮みさせる。後姿を見られているとは知らない様子で彼はまた額を拭った。よく「粗品」として送られる白い手拭いに色は見えないがぐっしょりと濡れていそうだった。しかし霞澄はそれほど暑くない。豪放磊落な感じの日に焼けて鍛えられた強壮な男は日の下に出るだけで暑いのかも知れない。枡谷のような男にとっては、他の者と同じだけ運動した際に起こる熱量がまた尋常ではないのだろう。
枡谷は、笠子家へ通じるルートとわずかばかりずれて二又に別れ、駐車場に続くほうの道のカーブに消えていった。霞澄も山の中へ入っていく。もうすぐいくと墓地だったが、枡谷しか見なかったその場所に人が立っているのが見えた。墓跡の列を左右に分ける無骨な石畳の真ん中に立っている。前後から人が来る可能性も視野に入れていないのか、ぬぼっと立っている。枝葉に塞がれた空を仰いでいる。新品のような真っ黒なフード付きスウェットシャツに、カットオフの九分丈のライトブルーのデニムパンツ、そして生成りのシューズ。
「鈴城くん?」
呼ばれた野良猫みたいに彼は日焼けしていない生白い顔を霞澄に向けた。
「知らないふり、されるかと思った」
突き放すように彼は言った。
「しないよ」
人の多い街ならばしたかも知れない。しかし今はこの道で1対1であり、昨日顔を合わせている。
「……迎えにきた」
「迎え?」
「うん」
彼は首肯もせず口で頷いた。
「爽夏と約束したって聞いた」
「約束……」
「川で遊ぶんだろ?あんたが逃げないように、俺が迎えにきた」
前ポケットに突っ込んで腹を膨らませていた手を彼は霞澄へと差し出す。
「手、繋ぐの?」
「うん。早くして。蚊に刺される」
急かされ、霞澄は汗ひとつかいていなそうな白い手に手を乗せた。それなりに日焼け止めを塗って過ごしてきたが彼と比べると小麦色になっている。色白こそ淑やかな美しさの証とされてきた価値観は、絶対的ではないけれど、ほんのりと微かな引け目を彼女に与えた。掌が合わさった瞬間、犬の調教よろしくぐいと引っ張られる。
「爽夏はあんたのこと好きだよ」
「えっ、?」
霞澄は素っ頓狂な声を上げた。鈴城の兄は黙っている。じとりと呆れたような冷めた目を寄越され、落ち着きを取り戻す。
「ああ、お友達としてね。びっくりしちゃった。恥ずかしい勘違いだね」
空いた手で顔を扇いでみせる。田舎の閉鎖的な人間関係に飽いてしまったのだろう。夏休みくらいは新鮮な関係を築きたいのかも知れない。爽夏は人懐こかった。あまりの馴れ馴れしさに関係性を誤った夢を見てしまうほどだった。鈴城の弟のあの距離の詰め方が反映されたに違いない。
「爽夏には何でもしてやりたい。俺はこんなだから……そういう流れで、あんたも付き合って」
彼は素手で木を掴んだり、石段を押さえたりして霞澄を引き上げる。
「そういうことなら……っていうか別にわたし逃げないし、手、放して。危ないよ。転んじゃう」
鈴城の兄はぱちぱちと瞬き、澄んだ瞳で彼女を見つめる。
「……やだ」
「わたし逃げないよ。弟想いのお兄さんなんだもんね。協力する」
「………あ、そ」
握られた手が解かれる。
「迎えに行くから、毎日。いつまでいんの―いいや、言わないで」
弟は人懐こく、兄は気紛れだ。
「俺が迎えに行って、爽夏に送ってもらえばいいよ、あんたは」
「いいよ。送ってもらうのは悪いよ。わたしより年下っぽいし」
「でもあんた、女じゃん」
「そうだけど……」
元からの態度で言われては侮っているのか、ただ事実を述べているのか分からない。彼は黙ってまた先を登っていく。キャンバススニーカーで器用に登っていく。汚れひとつない。靴の裏を見なければ、返品さえできそうだった。
「早瀬」
彼は中途半端なところで木を掴んで止まった。木の根が堰き止めた地面との差で階段のようになっている。
「何?」
「俺いつも、あそこで待ってるから」
「お墓で?」
「そう」
彼はまた行ってしまった。撫でさせるかと思いきやどこかに歩いて行ってしまう野良猫みたいだ。
「何もお墓で待ち合わせしなくても」
「早瀬の家、行っていいの」
「わたしの家じゃないよ。いとこの家」
深青ならこの美しい青年に飛び付くかも知れない。しかしいとことはいえ、他人の家に友人を招待するのは憚られてしまう。深青は喜ぶだろうか。彼女のほうがこの気紛れな人物と付き合えるかも知れない。
「笠子さん宅」
「あ、知ってるの?」
「……名前だけ」
家の前に表札も出ている。
「どうしよっか」
「あそこで待つ。一番分かりやすいから」
「お墓参りの人に悪くない?」
「なんで」
彼はまた立ち止まって霞澄を振り返った。
「なんでって……」
「あんたが大声出したりしなきゃ、別に邪魔してないし、迷惑かけない」
「そっか。待ち合わせするだけ、だもんね」
「待ってるから」
彼はまた山頂の方角に向き、不適当な靴で斜面を登ろうとする。
「体調不良とか、天気悪くて、行けそうにないときは?」
「分かる」
「え?」
「なんとなく分かるし、お見舞いいくし、夢の中で迎えにいく」
彼は彼の弟と同様に不思議なことを言う。流行っているのだろうか。そう言うことで意識をし、実際夢に見させるという手法がどこかでカジュアルなものになって出回っているのかも知れない。最近人気の曲の歌詞である可能性もある。たとえば海外のアイドルであるとか。彼の今の服装はそういう影響を受けているだとか。霞澄はその分野に疎かった。
「待つなら気を付けてね、熱中症」
「うん」
「でも鈴城くんが来られない日は?」
「俺は平気。病気しないから」
鈴城の兄はもう質問は受け付けないとばかりに背を向けた。靴裏が砂利を軋り、乾いた土を踏む音が心地良い。セミが鳴いている。風が涼しく感じられた。
ちらちらと彼は振り向いた。霞澄は忙しないその仕草に苦笑した。
「早瀬」
言いたいことは分かった。この気紛れでマイペースな青年は、歩みの遅い連れを急かしているのだ。この青年なりに気を遣って歩幅や速度を調整してはいたのだろう。そこまで距離は空いていないつもりだったが、口を開いた彼の眼差しから彼女はそう決めてかかる。
「ごめんね、登るの遅くて。先行ってて大丈夫だよ。追い付くから」
鈴城の兄は先に行ったりはしなかった。立ち止まる。
「俺、まだ何も言ってない」
彼女は首を捻る。
「早瀬と行きたい」
柳眉が傷付いたように下がる。浅く伏せた睫毛の下で瞳が泳ぐ。今にも泣きそうな色を帯びている。何かが彼を酷く傷付けたらしい。霞澄はちくりと胸に木の棘が刺さったみたいだった。
「ごめん……」
己の言動を反芻する間もなく詫びが口を吐いて出た。
「俺、歩くの速い?」
それが子供じみた誇示なのか気遣いなのかが読めなかった。ただ、彼はまだ霞澄に激怒されたかのような萎縮した面構えなのである。
「ちょうどいいくらい……?」
「早瀬のこと待つから。後ろ、ついてきて」
「う、うん。頑張る」
話は突然ぷつりと終わったらしく鈴城の兄はまた登りはじめる。霞澄はなんだったのかと疑問符を浮かべたまま彼の背中を追う。
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