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雨と無知と蜜と罰と 弟双子/気紛れ弟/クール弟
雨と無知と蜜と罰と 43 【完】
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◇
荷物はほとんどない。ほとんどが舞夏の買い与えたものだった。彼から持ち帰るように言われ貰ったものをまとめたが大した量にはならなかった。今日の昼には出て行くことになっている。ベランダがなくサンルームがあったり、開け放しのブラインドだったり、スペースばかり駄々広い使用された形跡のあまりなかったシステムキッチンだったり、超長編小説1冊分ほどの分厚さしかないベッドだったり、他にもまったく使用感のない寝室の物置きみたいなラウンジだったり、とにかくこの地上から離れた豪勢な一室とは今日であかの他人である。
「加霞さん」
朝飯を食わせていていた家主が寝室にやって来る。
「舞夏ちゃん。作り置きはテキトーに食べてね。3日分くらいはあると思うから。電子レンジでチンして」
舞夏の態度はどこかぎこちない。
「ああ、うん……あのさ、生天目先生から手紙来てんだ」
彼女は彼の口から飛び出してきた名前に脈を飛ばす。
「い、いつ……?いつ来てたの?」
「昨日の朝。勝手に中見ることしたくなかったし……でも内容知らない以上、また加霞さんが不安定にならないか怖くて……渡せなかった。本当に、ごめん」
手渡された真っ白な封筒にはただ「久城さんへ」と記されて住所は一切書かれていなかった。裏面にも差出人の名はない。妙な重みがあり、覚えのある銀の鍵が透けて見える。
「……怒った………?」
「わたしが心配かけたのがいけないんだもの。舞夏ちゃんはそんなことする人じゃないって知ってるし、責められないよ」
それでも彼はまだ狼狽していた。加霞は神経質げな手書きの字を何度も眺める。青白く細い指がボールペンを握り、一字一字几帳面に書いたのだろう。舞夏がいなければ頬擦りをして抱き締めてしまいそうな感慨を覚える。
「これは、ポストにあったの?」
「グミ経由。今ハサミ持ってくるよ」
封筒の口は糊で綺麗で閉じられていた。触った感じでいうとよくあるサイズのコピー用紙大のが三つ折りで1枚といったところだろう。加霞は急くでもなく紙の感触や封の厚みを確かめていた。内容が気にならないではなかった。こうして手紙を送ってきたことに嬉しさはある。その一方で怖くもあった。生天目の性格上、悪辣な表現や罵詈雑言が並べてあるとは考えにくいけれども、しかし無い話ではない。勢いと風向きによって共に海の底に沈むはずが急に目が覚めて、自分を唆した酷い女だと気付いてしまったのではあるまいか。
舞夏が工作用のハサミを持って戻ってきた。彼の表情は今日の天気に反して曇っている。弟と実の兄弟だとよく間違われるのは、風貌や雰囲気だけでなく悟られやすい素直さも起因している。
「加霞さん……」
「本当に怒ってないよ」
「そうじゃなくて。それも……あるけど、さ…………加霞さんが、また変になっちゃいそうで、渡さなきゃって思ってたのに、渡しちゃダメだとも、思って……………でもまた変になったら支える、から………オレ」
加霞は顔を伏せ気味にしている舞夏を見つめた。
「うん。ありがとう。でも平気」
封筒に刃を入れる。中にはやはり三つ折りの紙が1枚控え、合鍵が沈んでいた。便箋はレースのような意匠で、淡いパープルの花の模様が四隅に散らされている。コピー用紙よりは少しサイズは小さかった。1行目の「久城さんへ」というほんの5文字に心臓がぎゅっと握られた心地になる。
▽
久城さんへ
いかがお過ごしでしょうか。蜂須賀さんのご自宅にいると弘明寺さんから聞いております。元気でいらっしゃればいいのですが。
時候の挨拶をしてもなんだか形式張って、やはり本心らしくないので省略いたしますが、私は今、日の光のよく入る窓辺でこの手紙を書いています。
私がこのような手紙を送っては、蜂須賀さんは気を揉むでしょうから、久城さんさえよければ、この手紙を見せても私は一向に構いません。蜂須賀さんを大きく不安にさせるつもりはないのです。
私は久城さんに対して大きな裏切りをしました。私は久城さんにすべてを捧げるつもりで、また久城さんのすべてをいただくつもりでおりました。ですが私はあの日、久城さんとお別れをした日のことですが、私はあの計画中、三度恐怖したら、久城さんが怒っても泣いても中断しようと内心で決めていました。そうして結局、私は二度恐怖した。一度目は、オレンジ色の花を買ったときです。卒業式の話をしたのを覚えているでしょうか。私はあのとき、自分の受け持つ生徒たちのことが頭を掠めてしまいました。二度目は朝ごはんのときでした。久城さんのおにぎりを食べる姿に私は久城を見たのです。ここまできたので、三度目を探したんですが、これが見つからない。
久城さんに対して私は不誠実なことに迷いがあったのです。この世に対する未練を自覚してしまい、同時に久城さんとならどうなろうと構わないという無責任な丸投げを遂行しようとしていたのです。
蜂須賀さんはあの時に、久城さんの中の久城の話をしました。会えば会うだけ、その人の中に鏡を作ってしまう。久城さんのなかの私を、どうかあなたは自分の都合の良いようにとらえてください。ですからただ、幸せになってください。これだけを基軸に、どうか久城さんのなかの私という人間は、あなたの都合の良いように扱ってください。
これは聖人君子になりたくて言っているのではありません。私は久城さんにとって害悪となることを分かっていながら、それでも傍で支えると誓うことに耐えられる人間ではないのです。相手の幸せを願うことこそが深い気遣いという、そういう大仰な話ではないのです。
自分の不甲斐なさを知りながら、人をひとり、あるいはふたり、幸せにしたいと思ってしまった。その責任が重いのです。久城さんから与えられる安らぎが、自分の不甲斐なさを埋めていくようで、同時に自分が何の見返りもなく与えられていていいキャパシティを越えてしまったのです。
共にあそこまでした人間です。忘れろと言って簡単に忘れられるような久城さんではないでしょう。ですから私との思い出にひとつ背負っていただけるのなら、幸せになってください。たとえ遠回りでも幸せになる道を諦めないでください。そうして、老いて病床に臥したとき、たまにそんな教師と一幕やらかしたことがあったと思い出してください。私のことなどは記憶の彼方に埋もれさせてしまう、そういう人生を送るのも素敵です。思い出の優しさに惑わされるのはたまにでいいのです。具体例を挙げるなら仕合わせの絶頂期とかにどうでしょうか。
久城さん。それではさようなら。出会えたことに感謝しています。綺麗な月でなくてもいいと言われた時に、私も肩の荷が下りました。こう言った以上は、生きてみようと思います。
蜂須賀さんにどうぞよろしく。
―生天目より
△
加霞は手紙を読み終えると舞夏にそれを押し付けるようにして部屋を飛び出した。
「加霞さん!」
舞夏の声も聞かず、彼女はサンルームに飛び込んで蹲る。遅れて背後に気配がやってくる。
「別に、気が変になったわけじゃないよ」
「うん」
投げやりな感じのある返事だった。
「でも、ひとりにしたくなかった」
「フられた、んだね、多分。要するに……」
加霞は抱いた膝頭から口元を浮かせ、唐突に言った。口にしてみて「"フられ"る」のとは異質な感じがした。あの人物とのやり取りは恋や恋慕とはどこか違う感じがあった。
後ろに立つこの豪勢な部屋どころか建物そのものの持主が紙を読んでいる。
「生天目先生は……加霞さんと、よく似てんのかもな。なんだか、よく似合ってた。出会い方が出会い方なら、羨ましいのに応援したくなるくらい……」
手紙は畳まれ、白い封筒にしまわれていく。
「それ、舞夏ちゃんが持ってて。またあの人に縋りつきそうだから。別れの手紙なのに……」
「いいのか、オレが持ってて」
膝頭に埋まった彼女の頭が浅く縦に振られる。
「不思議な人だったな」
「…………オレじゃ、ダメ?どうしても、タイプじゃない?オレのこと、男としては、見られない?子供っぽい?」
「え……」
振り返ることもなく彼女は目を見開いた。日の良く当たる爪先を凝らす。
「お別れの手紙来たばっかの加霞さんに言うの、卑怯なの分かってるけど、諦めきれない。ちゃんと、フって欲しい。アリか、ナシか。10年後、またコクりにくる。自分、磨いて」
「10年後ってわたし34とか35だよ。もうその頃なら舞夏ちゃん、結婚してるんじゃない?」
「オールオアナッシングって決めてんだ。加霞さんのこと諦めないか、一生独身でいるか。加霞さんが誰かと付き合ってるとか結婚するなら、ちゃんと諦める。応援する……邪魔しないし、もう近付かない」
「重いなぁ。別に結婚がすべてとは言わないけれど、一生独身でいさせちゃうかも知れないなんて……」
彼女は苦笑して繕った。
「ンだって好きなんだもん。現実は結婚ケッコン言われるかも知れなくて、結婚に恋愛は要らないのかも知れないけど、オレ、結構ロマンチストだし……」
その声音はいくらか拗ねているようだった。
「舞夏ちゃん」
舞夏を見もせずに呼ぶ。
「なに」
「わたし舞夏ちゃんにたくさんヒドいことも言ったの、忘れちゃダメだよ」
「忘れてない。でもあれは、加霞さんの束の間のシアワセにオレが水差したから。それくらいの自覚はある」
彼はふん、と鼻を鳴らした。
「わたし、舞夏ちゃんのこと都合良く利用してたって話は?腹立たしくないの?」
「利用されたと思ってないんだから、何の話?ってなるよな。オレも嵐恋くんと遊びたかったし、すごく楽しかった。嵐恋くんが楽しそうなの、オレも幸せだったんだ。それだけじゃなくて加霞さんの顔も見られて役に立てる。あれを利用だって言うのなら、オレのほうが利があるくらいだったんだけど、どうする?オレ、あんなデカ過ぎる利子返せないよ」
「舞夏ちゃんにこういう話するの、ちょっと憚られるけど、わたしたくさん、あの人と、自分の意思で、寝たの」
「そりゃ、そうなるだろうな、あの調子だったら。子供じゃないんだし、驚きはないけど、なんで?」
ここまでの自己開示に意外性や驚きを示されないのは却って加霞のほうが余計なことを喋っている分気恥ずかしい。
「あのさぁ……」
呆れた声を出されてしまう。この情けない問いかけは幻滅に一役買ったことだろう。
「正直に言ってくれ。逆恨みとかしないから。ほんとに。潔く引き下がる。オレが悪いんだから。でも、ちゃんと引き下がれるようにはっきり言って欲しい。加霞さん、オレに好かれるの、実は迷惑なのか?」
「迷惑とか、迷惑じゃないって話じゃなくて……きっとわたしの問題で……………あの人とあんなことして、すごく幸せで癒されたのは本当。それでお別れの手紙来て、あれだけヒドいことしたのに舞夏ちゃんが好きだよって言ってくれたら舞夏ちゃんのほうにいっちゃおうかなってなるの、なんだか、怖い。あの人に対する気持ちと、舞夏ちゃん対する気持ち、ちょっと違うけど大体同じ。寂しいときに一緒にいてくれた人なら誰でもいいのかもって、自分でも分からないの」
この場に於いて舞夏の素行や努力の問題ではないことを本人に打ち明けても仕方がない。しかし加霞は、昔から舞夏に惹かれていた節があったこと以外は包み隠さず打ち明けた。
「自分でも窮屈なくらい真面目すぎて誠実なんだな。そういうところ、好きになっちゃうんだけどさ。誇り高いんだよな。威張り腐ってるとかじゃなくて」
「そうかな。別に窮屈じゃ、ないよ。あの人に対する気持ちと舞夏ちゃんに対する気持ちの違いがね、怖い」
「ンでもさ、10人好きになったら10人分とは言わないけど、3種類くらいの好きになり方ってのがあるんじゃないか。だってオレと生天目先生のタイプが随分違うだろ。加霞さんとの会い方も違うし、関わり方も。そうすれば、そうなるんじゃないかな?」
舞夏は膝を抱いて座る加霞の隣に屈み込む。そして顔を上げ、首を曲げた彼女の顔を覗き込む。
「そうなの?」
「いや、オレ、加霞さんしか好きになったことないから分からんけど。そうじゃないかなって。友達たちは、またカノジョ変わったんだなってこと結構あって、なんか接し方も違うから、そういうもんなのかなって。加霞さん1人ずっと好きでも、やっぱり歳重ねるごとに、好きな感じ違うわ」
彼はくしゃりと笑った。加霞は反射的に顔を逸らす。
「恥ずかしい」
「ごめん」
「舞夏ちゃんの思うわたしじゃないかも知れないの。それが怖い。あーくんのことで繋がってたのに、もうあの子は居ないし……」
遠い眼差しをして窓の外の眩しさに彼女は目を眇める。
「嵐恋くんのことだけで繋がってたって思ってるのは加霞さんだけ……それにオレだって、怖い。生天目先生と、比べられてるんだろうな………とか。男としても、人としても……あの人、大人っぽかったけど同い年なんだろ?」
加霞からの返事はない。舞夏はしゅんとしてしまった。
「舞夏ちゃんとわたし、多分合わないよ」
「オレはそうは思ってない」
加霞はまだ爪先を所在なく見つめる。
「そう思ってたら、言ってないし」
舞夏の視線を浴びる。加霞は軽々と腰を上げた。
「……付き合えない。ごめんなさい。そろそろ帰ります」
「送っていくよ。タクシー代、ばかにならないだろ。オレがここに連れて来たんだし、送るくらいやらせて」
この点について加霞は彼の切り替えぶりを信用していた。しかしやはり、彼の恋愛感情を利用しているような気がする。
「大丈夫よ」
舞夏と目が合う。彼は特に気拙い感じは出さなかったが、どこか反省したように悄然として目蓋を伏せ、瞳を泳がせる。
「じゃあ、タクシー代出すから待って」
「いいよ、さすがに悪いから。ここで生活費出してもらっていたんだし……」
「だからそれはオレが勝手に連れてきて、しかも加霞さん、めちゃくちゃ働いてくれてたじゃん。そのお礼」
加霞は首を振る。荷物が多いわけではない。
「電車で帰るから平気。ありがとう、気を遣ってくれて」
「……うん。エントランスまででいいから、見送らせてほしい」
「分かった。お願い」
デパートの紙袋に荷物を入れた。舞夏が引っ手繰るようにそれを持って、玄関ホールで加霞を待つ。カーペット敷きとダウンライトの廊下を抜け、エレベーターに乗り込む。液晶に表示された階数がカウントダウンされていく。慣れない浮遊感に後ろへ立ち眩んだ。
「だいじょぶ?」
「うん、ごめん。ふらってしちゃって」
「そっか。長いもんな。ごめんな、不便で」
果たしてこれを自慢と取ればいいのか謙遜ととればいいのか分からない。しかし自慢とするには加霞にとってあまりにも不便で、自慢として成立していない。おそらく後者なのだろう。少しコンビニエンスストアに顔を出すだけでも大変だ。彼女は舞夏がこのような豪邸に住んでいるとはまったく知らなかった。彼が富裕層に類しているとは。服装も食の好みも庶民的で、そういう素振りはまるでなかった。大きな隔たりを感じる。彼の自宅の寝室にすべてが収まるような間取りの中流家庭の生活は、彼にどう見えただろう。
エレベーターを降りた後もすぐに平衡感覚が整わなかった。浮遊感をすぐに忘れない足元が縺れ、隣を歩く舞夏にぶつかる。受け止められるも彼の匂いが醸し出された。
「だいじょぶ?やっぱ本調子じゃない?」
「高いところから来たから、ふらふらしちゃって……」
加霞は櫛を通しただけの前髪のかかる額に掌を当てる。肩を抱き寄せられ、却って彼女はぎこちなく舞夏から距離を空けてしまう。
「ごめん。でも、やっぱ送ってく。一歩も外出さなかったろ。貧血起こすかも知れないじゃん」
白と色濃いインディゴのコントラストが強いデニムのパンツから彼は革製のキーケースを出した。左右から折り畳む痩身の黒いケースにはエナメルのような質感に皮革製品なりの傷が照っていた。
「ちょっと長いエレベーター、慣れなかっただけ」
「送り狼、しないよ。送らせて」
舞夏を疑ってはいない。
「じゃあお願い。遠くない?」
「遠くないよ。それにほぼ毎日、通ってたんだし」
駐車場に案内され、舞夏の車に乗り込む。加霞は車にはそう詳しくはないが、舞夏の車を高級車だと思ったことは今までに一度もなかった。というよりは考えたこともない。しかし改めて目にする彼の車は金持ちが乗ることで有名な車種そのままの型でもない。実際のところの値段も知らないが、自宅を知ると車までも高額に思えてならなかった。やはりここでも隔たりを感じた。悪意なく無邪気に、中流家庭の生活を興味本位で覗かれていたような。かといって彼の立場で、自宅はタワーマンション高層階などと言えるはずもなく、また言う必要もなければ、性格上わざわざ言わないだろう。実際暮らしてみると加霞にとっては不便だったが、そのタワーマンション高層階住まいといのは威力がある。舞夏に対して壁を感じた。
押し黙っているうちに車が出る。弟は知っていたのだろうか。年長の友人は大富豪だったと。
「また遊びに行くから」
「うん」
困るなぁ、と彼女は内心思った。富豪の舌は肥えているという偏見が拭えない。そういう美食家に家庭の味丸出しの飯を今まで食わせていた。安い食材で作った庶民の食い物を、このタワーマンション上層階住まいイコール大金持ちつまりグルメ人に恥もせず出していた。自ら食べて行けと言ったこともある。運転手に遠慮せず溜息を吐きたくなってしまう。
「何日か放置させちゃってたし、掃除しなきゃとかだったら手伝うよ」
「うん……」
空返事だった。孤独感がある。弟は死に、寄り添ってくれていた者とは別れ、そうして弟の長い友人は蓋を開けると地上から切り離されたところで暮らしていた。これから加霞の知らない生活に戻るのだ。大学時代の一人暮らしにはなかった寂寞を抱いて。
自宅マンションに着く。門前の道で降りた。彼は中までついてきたかった様子だが、加霞は気付かないふりをしてひとりエントランスに入っていく。ポストには茶封筒の山が入っていた、怪文書はまだ止んでいないのである。それから広告と請求書などだ。中身を回収し階段を登る。自宅の玄関扉に鍵を挿したまではいいが、把手を捻るのにはまだ躊躇いがあった。今度こそ、何もない。誰も待ってはいない。誰を待つこともない。そういう生活が扉の奥にある。一人暮らし用のアパートに引っ越すのがよい。しかし弟の思い出の深いこの場を明け渡すこともできない。
把手を捻った。玄関ドアを開ける。鼻に馴染み、嗅覚から消えていたけれど、自宅の匂いだと分かるそれが粘膜を通り抜けていく。加霞は三和土に荷物を放って屈み込んだ。しかし顔面をくしゃ、と一度歪めただけで、また立ち上がる。
「ただいま」
返事はない。散々ベッドやソファーまで待てずに野獣みたいに交わった玄関ホールが今は掌を返したように冷たい。
リビングに入るとまず弟に挨拶をしようとした。その瞬間に彼女は目を見開いた。プラスチックの折り畳み式の簡易テーブルに花が一輪寝そべっていた。少し茎の端が萎びている。メッシュ素材のセロファンを撒かれ、さながらエリザベスカラーを装着した猫みたいだった。ぼやけたオレンジ色が加霞の胸を打つ。弟が笑っている。彼に何か言ってやらねばならないと思い、口を開いた途端、玄関ドアがノックされる。
『加霞さん!忘れ物!』
舞夏だった。
『加霞さん、合鍵、オレ預かったまんまだった!』
銀の鍵が入った封筒を確かに預けたままだった。
マンションの2階の一室から2人の男女が現れた。女のほうはいくらか肩を落としていたが、男のほうは彼女を抱き寄せ宥めているような仕草である。
2日前、彼女が今肩を抱いている男と共に彼女の地元に帰っている間、この敷地内で焼身自殺未遂があったのだから、その住人である彼女等が戦々恐々とするのも無理はない。しかもその自殺未遂者というのが彼女の義弟にあたるのだから尚のことだった。ブロック塀と垣根の近くでガソリンをかぶり己に火を点けた彼女の義理の弟は、姉を燻り出さんとばかりに黒煙を上げ、目的の人物不在の部屋に向かって姉を呼んでいたというから、幸いにも延焼や他の負傷者を出しはしなかったけれども近隣住民には恐怖を与え、そしてこの異常者に狙われた女には同情の眼差しが向けられたことだろう。自らの意思で不可逆的な大傷を負い、意識不明に陥ったこのテロリストがもう一度姉の前に姿を現すことはおそらくない。そして姉のほうから姿を見せることもない。
それから少ししてこのマンションに引っ越し業者が入った。エントランスにあるポスト群のひとつにテープが貼られ郵便受けが塞がれた。今日までの入居者の名札が外される。そのカードを名残り惜しげに摘む片方の手には銀輪が嵌っている。婚約中か既婚者なのかも知れない。
「まだここにいる?」
「ううん、もう行こう。お世話になったなって、思って」
2人の男女は手を繋いでエントランスから出て行った。天気が良い。光の中に彼女たちの後姿が薄らいでいく。
―雫漣……
世間がこの飛ぶ鳥を落とす勢いだったアイドルを思い出したのは、この引っ越し業者が入った1週間後だった。彼は長期療養のため事務所を退所した後も彼に献身的に尽くした女性マネージャーのストーカーから彼女を庇い、刺し殺されたという噂が広がった。そこに付け加えられた尾鰭背鰭、腹鰭胸鰭では、幼児退行の末にとうとう彼はこの美人元マネージャーを姉だと思い込んでいたという。もちろん表に出回った話ではなく、彼のこの訃報も浮上して間を置かず沈静した。
荷物はほとんどない。ほとんどが舞夏の買い与えたものだった。彼から持ち帰るように言われ貰ったものをまとめたが大した量にはならなかった。今日の昼には出て行くことになっている。ベランダがなくサンルームがあったり、開け放しのブラインドだったり、スペースばかり駄々広い使用された形跡のあまりなかったシステムキッチンだったり、超長編小説1冊分ほどの分厚さしかないベッドだったり、他にもまったく使用感のない寝室の物置きみたいなラウンジだったり、とにかくこの地上から離れた豪勢な一室とは今日であかの他人である。
「加霞さん」
朝飯を食わせていていた家主が寝室にやって来る。
「舞夏ちゃん。作り置きはテキトーに食べてね。3日分くらいはあると思うから。電子レンジでチンして」
舞夏の態度はどこかぎこちない。
「ああ、うん……あのさ、生天目先生から手紙来てんだ」
彼女は彼の口から飛び出してきた名前に脈を飛ばす。
「い、いつ……?いつ来てたの?」
「昨日の朝。勝手に中見ることしたくなかったし……でも内容知らない以上、また加霞さんが不安定にならないか怖くて……渡せなかった。本当に、ごめん」
手渡された真っ白な封筒にはただ「久城さんへ」と記されて住所は一切書かれていなかった。裏面にも差出人の名はない。妙な重みがあり、覚えのある銀の鍵が透けて見える。
「……怒った………?」
「わたしが心配かけたのがいけないんだもの。舞夏ちゃんはそんなことする人じゃないって知ってるし、責められないよ」
それでも彼はまだ狼狽していた。加霞は神経質げな手書きの字を何度も眺める。青白く細い指がボールペンを握り、一字一字几帳面に書いたのだろう。舞夏がいなければ頬擦りをして抱き締めてしまいそうな感慨を覚える。
「これは、ポストにあったの?」
「グミ経由。今ハサミ持ってくるよ」
封筒の口は糊で綺麗で閉じられていた。触った感じでいうとよくあるサイズのコピー用紙大のが三つ折りで1枚といったところだろう。加霞は急くでもなく紙の感触や封の厚みを確かめていた。内容が気にならないではなかった。こうして手紙を送ってきたことに嬉しさはある。その一方で怖くもあった。生天目の性格上、悪辣な表現や罵詈雑言が並べてあるとは考えにくいけれども、しかし無い話ではない。勢いと風向きによって共に海の底に沈むはずが急に目が覚めて、自分を唆した酷い女だと気付いてしまったのではあるまいか。
舞夏が工作用のハサミを持って戻ってきた。彼の表情は今日の天気に反して曇っている。弟と実の兄弟だとよく間違われるのは、風貌や雰囲気だけでなく悟られやすい素直さも起因している。
「加霞さん……」
「本当に怒ってないよ」
「そうじゃなくて。それも……あるけど、さ…………加霞さんが、また変になっちゃいそうで、渡さなきゃって思ってたのに、渡しちゃダメだとも、思って……………でもまた変になったら支える、から………オレ」
加霞は顔を伏せ気味にしている舞夏を見つめた。
「うん。ありがとう。でも平気」
封筒に刃を入れる。中にはやはり三つ折りの紙が1枚控え、合鍵が沈んでいた。便箋はレースのような意匠で、淡いパープルの花の模様が四隅に散らされている。コピー用紙よりは少しサイズは小さかった。1行目の「久城さんへ」というほんの5文字に心臓がぎゅっと握られた心地になる。
▽
久城さんへ
いかがお過ごしでしょうか。蜂須賀さんのご自宅にいると弘明寺さんから聞いております。元気でいらっしゃればいいのですが。
時候の挨拶をしてもなんだか形式張って、やはり本心らしくないので省略いたしますが、私は今、日の光のよく入る窓辺でこの手紙を書いています。
私がこのような手紙を送っては、蜂須賀さんは気を揉むでしょうから、久城さんさえよければ、この手紙を見せても私は一向に構いません。蜂須賀さんを大きく不安にさせるつもりはないのです。
私は久城さんに対して大きな裏切りをしました。私は久城さんにすべてを捧げるつもりで、また久城さんのすべてをいただくつもりでおりました。ですが私はあの日、久城さんとお別れをした日のことですが、私はあの計画中、三度恐怖したら、久城さんが怒っても泣いても中断しようと内心で決めていました。そうして結局、私は二度恐怖した。一度目は、オレンジ色の花を買ったときです。卒業式の話をしたのを覚えているでしょうか。私はあのとき、自分の受け持つ生徒たちのことが頭を掠めてしまいました。二度目は朝ごはんのときでした。久城さんのおにぎりを食べる姿に私は久城を見たのです。ここまできたので、三度目を探したんですが、これが見つからない。
久城さんに対して私は不誠実なことに迷いがあったのです。この世に対する未練を自覚してしまい、同時に久城さんとならどうなろうと構わないという無責任な丸投げを遂行しようとしていたのです。
蜂須賀さんはあの時に、久城さんの中の久城の話をしました。会えば会うだけ、その人の中に鏡を作ってしまう。久城さんのなかの私を、どうかあなたは自分の都合の良いようにとらえてください。ですからただ、幸せになってください。これだけを基軸に、どうか久城さんのなかの私という人間は、あなたの都合の良いように扱ってください。
これは聖人君子になりたくて言っているのではありません。私は久城さんにとって害悪となることを分かっていながら、それでも傍で支えると誓うことに耐えられる人間ではないのです。相手の幸せを願うことこそが深い気遣いという、そういう大仰な話ではないのです。
自分の不甲斐なさを知りながら、人をひとり、あるいはふたり、幸せにしたいと思ってしまった。その責任が重いのです。久城さんから与えられる安らぎが、自分の不甲斐なさを埋めていくようで、同時に自分が何の見返りもなく与えられていていいキャパシティを越えてしまったのです。
共にあそこまでした人間です。忘れろと言って簡単に忘れられるような久城さんではないでしょう。ですから私との思い出にひとつ背負っていただけるのなら、幸せになってください。たとえ遠回りでも幸せになる道を諦めないでください。そうして、老いて病床に臥したとき、たまにそんな教師と一幕やらかしたことがあったと思い出してください。私のことなどは記憶の彼方に埋もれさせてしまう、そういう人生を送るのも素敵です。思い出の優しさに惑わされるのはたまにでいいのです。具体例を挙げるなら仕合わせの絶頂期とかにどうでしょうか。
久城さん。それではさようなら。出会えたことに感謝しています。綺麗な月でなくてもいいと言われた時に、私も肩の荷が下りました。こう言った以上は、生きてみようと思います。
蜂須賀さんにどうぞよろしく。
―生天目より
△
加霞は手紙を読み終えると舞夏にそれを押し付けるようにして部屋を飛び出した。
「加霞さん!」
舞夏の声も聞かず、彼女はサンルームに飛び込んで蹲る。遅れて背後に気配がやってくる。
「別に、気が変になったわけじゃないよ」
「うん」
投げやりな感じのある返事だった。
「でも、ひとりにしたくなかった」
「フられた、んだね、多分。要するに……」
加霞は抱いた膝頭から口元を浮かせ、唐突に言った。口にしてみて「"フられ"る」のとは異質な感じがした。あの人物とのやり取りは恋や恋慕とはどこか違う感じがあった。
後ろに立つこの豪勢な部屋どころか建物そのものの持主が紙を読んでいる。
「生天目先生は……加霞さんと、よく似てんのかもな。なんだか、よく似合ってた。出会い方が出会い方なら、羨ましいのに応援したくなるくらい……」
手紙は畳まれ、白い封筒にしまわれていく。
「それ、舞夏ちゃんが持ってて。またあの人に縋りつきそうだから。別れの手紙なのに……」
「いいのか、オレが持ってて」
膝頭に埋まった彼女の頭が浅く縦に振られる。
「不思議な人だったな」
「…………オレじゃ、ダメ?どうしても、タイプじゃない?オレのこと、男としては、見られない?子供っぽい?」
「え……」
振り返ることもなく彼女は目を見開いた。日の良く当たる爪先を凝らす。
「お別れの手紙来たばっかの加霞さんに言うの、卑怯なの分かってるけど、諦めきれない。ちゃんと、フって欲しい。アリか、ナシか。10年後、またコクりにくる。自分、磨いて」
「10年後ってわたし34とか35だよ。もうその頃なら舞夏ちゃん、結婚してるんじゃない?」
「オールオアナッシングって決めてんだ。加霞さんのこと諦めないか、一生独身でいるか。加霞さんが誰かと付き合ってるとか結婚するなら、ちゃんと諦める。応援する……邪魔しないし、もう近付かない」
「重いなぁ。別に結婚がすべてとは言わないけれど、一生独身でいさせちゃうかも知れないなんて……」
彼女は苦笑して繕った。
「ンだって好きなんだもん。現実は結婚ケッコン言われるかも知れなくて、結婚に恋愛は要らないのかも知れないけど、オレ、結構ロマンチストだし……」
その声音はいくらか拗ねているようだった。
「舞夏ちゃん」
舞夏を見もせずに呼ぶ。
「なに」
「わたし舞夏ちゃんにたくさんヒドいことも言ったの、忘れちゃダメだよ」
「忘れてない。でもあれは、加霞さんの束の間のシアワセにオレが水差したから。それくらいの自覚はある」
彼はふん、と鼻を鳴らした。
「わたし、舞夏ちゃんのこと都合良く利用してたって話は?腹立たしくないの?」
「利用されたと思ってないんだから、何の話?ってなるよな。オレも嵐恋くんと遊びたかったし、すごく楽しかった。嵐恋くんが楽しそうなの、オレも幸せだったんだ。それだけじゃなくて加霞さんの顔も見られて役に立てる。あれを利用だって言うのなら、オレのほうが利があるくらいだったんだけど、どうする?オレ、あんなデカ過ぎる利子返せないよ」
「舞夏ちゃんにこういう話するの、ちょっと憚られるけど、わたしたくさん、あの人と、自分の意思で、寝たの」
「そりゃ、そうなるだろうな、あの調子だったら。子供じゃないんだし、驚きはないけど、なんで?」
ここまでの自己開示に意外性や驚きを示されないのは却って加霞のほうが余計なことを喋っている分気恥ずかしい。
「あのさぁ……」
呆れた声を出されてしまう。この情けない問いかけは幻滅に一役買ったことだろう。
「正直に言ってくれ。逆恨みとかしないから。ほんとに。潔く引き下がる。オレが悪いんだから。でも、ちゃんと引き下がれるようにはっきり言って欲しい。加霞さん、オレに好かれるの、実は迷惑なのか?」
「迷惑とか、迷惑じゃないって話じゃなくて……きっとわたしの問題で……………あの人とあんなことして、すごく幸せで癒されたのは本当。それでお別れの手紙来て、あれだけヒドいことしたのに舞夏ちゃんが好きだよって言ってくれたら舞夏ちゃんのほうにいっちゃおうかなってなるの、なんだか、怖い。あの人に対する気持ちと、舞夏ちゃん対する気持ち、ちょっと違うけど大体同じ。寂しいときに一緒にいてくれた人なら誰でもいいのかもって、自分でも分からないの」
この場に於いて舞夏の素行や努力の問題ではないことを本人に打ち明けても仕方がない。しかし加霞は、昔から舞夏に惹かれていた節があったこと以外は包み隠さず打ち明けた。
「自分でも窮屈なくらい真面目すぎて誠実なんだな。そういうところ、好きになっちゃうんだけどさ。誇り高いんだよな。威張り腐ってるとかじゃなくて」
「そうかな。別に窮屈じゃ、ないよ。あの人に対する気持ちと舞夏ちゃんに対する気持ちの違いがね、怖い」
「ンでもさ、10人好きになったら10人分とは言わないけど、3種類くらいの好きになり方ってのがあるんじゃないか。だってオレと生天目先生のタイプが随分違うだろ。加霞さんとの会い方も違うし、関わり方も。そうすれば、そうなるんじゃないかな?」
舞夏は膝を抱いて座る加霞の隣に屈み込む。そして顔を上げ、首を曲げた彼女の顔を覗き込む。
「そうなの?」
「いや、オレ、加霞さんしか好きになったことないから分からんけど。そうじゃないかなって。友達たちは、またカノジョ変わったんだなってこと結構あって、なんか接し方も違うから、そういうもんなのかなって。加霞さん1人ずっと好きでも、やっぱり歳重ねるごとに、好きな感じ違うわ」
彼はくしゃりと笑った。加霞は反射的に顔を逸らす。
「恥ずかしい」
「ごめん」
「舞夏ちゃんの思うわたしじゃないかも知れないの。それが怖い。あーくんのことで繋がってたのに、もうあの子は居ないし……」
遠い眼差しをして窓の外の眩しさに彼女は目を眇める。
「嵐恋くんのことだけで繋がってたって思ってるのは加霞さんだけ……それにオレだって、怖い。生天目先生と、比べられてるんだろうな………とか。男としても、人としても……あの人、大人っぽかったけど同い年なんだろ?」
加霞からの返事はない。舞夏はしゅんとしてしまった。
「舞夏ちゃんとわたし、多分合わないよ」
「オレはそうは思ってない」
加霞はまだ爪先を所在なく見つめる。
「そう思ってたら、言ってないし」
舞夏の視線を浴びる。加霞は軽々と腰を上げた。
「……付き合えない。ごめんなさい。そろそろ帰ります」
「送っていくよ。タクシー代、ばかにならないだろ。オレがここに連れて来たんだし、送るくらいやらせて」
この点について加霞は彼の切り替えぶりを信用していた。しかしやはり、彼の恋愛感情を利用しているような気がする。
「大丈夫よ」
舞夏と目が合う。彼は特に気拙い感じは出さなかったが、どこか反省したように悄然として目蓋を伏せ、瞳を泳がせる。
「じゃあ、タクシー代出すから待って」
「いいよ、さすがに悪いから。ここで生活費出してもらっていたんだし……」
「だからそれはオレが勝手に連れてきて、しかも加霞さん、めちゃくちゃ働いてくれてたじゃん。そのお礼」
加霞は首を振る。荷物が多いわけではない。
「電車で帰るから平気。ありがとう、気を遣ってくれて」
「……うん。エントランスまででいいから、見送らせてほしい」
「分かった。お願い」
デパートの紙袋に荷物を入れた。舞夏が引っ手繰るようにそれを持って、玄関ホールで加霞を待つ。カーペット敷きとダウンライトの廊下を抜け、エレベーターに乗り込む。液晶に表示された階数がカウントダウンされていく。慣れない浮遊感に後ろへ立ち眩んだ。
「だいじょぶ?」
「うん、ごめん。ふらってしちゃって」
「そっか。長いもんな。ごめんな、不便で」
果たしてこれを自慢と取ればいいのか謙遜ととればいいのか分からない。しかし自慢とするには加霞にとってあまりにも不便で、自慢として成立していない。おそらく後者なのだろう。少しコンビニエンスストアに顔を出すだけでも大変だ。彼女は舞夏がこのような豪邸に住んでいるとはまったく知らなかった。彼が富裕層に類しているとは。服装も食の好みも庶民的で、そういう素振りはまるでなかった。大きな隔たりを感じる。彼の自宅の寝室にすべてが収まるような間取りの中流家庭の生活は、彼にどう見えただろう。
エレベーターを降りた後もすぐに平衡感覚が整わなかった。浮遊感をすぐに忘れない足元が縺れ、隣を歩く舞夏にぶつかる。受け止められるも彼の匂いが醸し出された。
「だいじょぶ?やっぱ本調子じゃない?」
「高いところから来たから、ふらふらしちゃって……」
加霞は櫛を通しただけの前髪のかかる額に掌を当てる。肩を抱き寄せられ、却って彼女はぎこちなく舞夏から距離を空けてしまう。
「ごめん。でも、やっぱ送ってく。一歩も外出さなかったろ。貧血起こすかも知れないじゃん」
白と色濃いインディゴのコントラストが強いデニムのパンツから彼は革製のキーケースを出した。左右から折り畳む痩身の黒いケースにはエナメルのような質感に皮革製品なりの傷が照っていた。
「ちょっと長いエレベーター、慣れなかっただけ」
「送り狼、しないよ。送らせて」
舞夏を疑ってはいない。
「じゃあお願い。遠くない?」
「遠くないよ。それにほぼ毎日、通ってたんだし」
駐車場に案内され、舞夏の車に乗り込む。加霞は車にはそう詳しくはないが、舞夏の車を高級車だと思ったことは今までに一度もなかった。というよりは考えたこともない。しかし改めて目にする彼の車は金持ちが乗ることで有名な車種そのままの型でもない。実際のところの値段も知らないが、自宅を知ると車までも高額に思えてならなかった。やはりここでも隔たりを感じた。悪意なく無邪気に、中流家庭の生活を興味本位で覗かれていたような。かといって彼の立場で、自宅はタワーマンション高層階などと言えるはずもなく、また言う必要もなければ、性格上わざわざ言わないだろう。実際暮らしてみると加霞にとっては不便だったが、そのタワーマンション高層階住まいといのは威力がある。舞夏に対して壁を感じた。
押し黙っているうちに車が出る。弟は知っていたのだろうか。年長の友人は大富豪だったと。
「また遊びに行くから」
「うん」
困るなぁ、と彼女は内心思った。富豪の舌は肥えているという偏見が拭えない。そういう美食家に家庭の味丸出しの飯を今まで食わせていた。安い食材で作った庶民の食い物を、このタワーマンション上層階住まいイコール大金持ちつまりグルメ人に恥もせず出していた。自ら食べて行けと言ったこともある。運転手に遠慮せず溜息を吐きたくなってしまう。
「何日か放置させちゃってたし、掃除しなきゃとかだったら手伝うよ」
「うん……」
空返事だった。孤独感がある。弟は死に、寄り添ってくれていた者とは別れ、そうして弟の長い友人は蓋を開けると地上から切り離されたところで暮らしていた。これから加霞の知らない生活に戻るのだ。大学時代の一人暮らしにはなかった寂寞を抱いて。
自宅マンションに着く。門前の道で降りた。彼は中までついてきたかった様子だが、加霞は気付かないふりをしてひとりエントランスに入っていく。ポストには茶封筒の山が入っていた、怪文書はまだ止んでいないのである。それから広告と請求書などだ。中身を回収し階段を登る。自宅の玄関扉に鍵を挿したまではいいが、把手を捻るのにはまだ躊躇いがあった。今度こそ、何もない。誰も待ってはいない。誰を待つこともない。そういう生活が扉の奥にある。一人暮らし用のアパートに引っ越すのがよい。しかし弟の思い出の深いこの場を明け渡すこともできない。
把手を捻った。玄関ドアを開ける。鼻に馴染み、嗅覚から消えていたけれど、自宅の匂いだと分かるそれが粘膜を通り抜けていく。加霞は三和土に荷物を放って屈み込んだ。しかし顔面をくしゃ、と一度歪めただけで、また立ち上がる。
「ただいま」
返事はない。散々ベッドやソファーまで待てずに野獣みたいに交わった玄関ホールが今は掌を返したように冷たい。
リビングに入るとまず弟に挨拶をしようとした。その瞬間に彼女は目を見開いた。プラスチックの折り畳み式の簡易テーブルに花が一輪寝そべっていた。少し茎の端が萎びている。メッシュ素材のセロファンを撒かれ、さながらエリザベスカラーを装着した猫みたいだった。ぼやけたオレンジ色が加霞の胸を打つ。弟が笑っている。彼に何か言ってやらねばならないと思い、口を開いた途端、玄関ドアがノックされる。
『加霞さん!忘れ物!』
舞夏だった。
『加霞さん、合鍵、オレ預かったまんまだった!』
銀の鍵が入った封筒を確かに預けたままだった。
マンションの2階の一室から2人の男女が現れた。女のほうはいくらか肩を落としていたが、男のほうは彼女を抱き寄せ宥めているような仕草である。
2日前、彼女が今肩を抱いている男と共に彼女の地元に帰っている間、この敷地内で焼身自殺未遂があったのだから、その住人である彼女等が戦々恐々とするのも無理はない。しかもその自殺未遂者というのが彼女の義弟にあたるのだから尚のことだった。ブロック塀と垣根の近くでガソリンをかぶり己に火を点けた彼女の義理の弟は、姉を燻り出さんとばかりに黒煙を上げ、目的の人物不在の部屋に向かって姉を呼んでいたというから、幸いにも延焼や他の負傷者を出しはしなかったけれども近隣住民には恐怖を与え、そしてこの異常者に狙われた女には同情の眼差しが向けられたことだろう。自らの意思で不可逆的な大傷を負い、意識不明に陥ったこのテロリストがもう一度姉の前に姿を現すことはおそらくない。そして姉のほうから姿を見せることもない。
それから少ししてこのマンションに引っ越し業者が入った。エントランスにあるポスト群のひとつにテープが貼られ郵便受けが塞がれた。今日までの入居者の名札が外される。そのカードを名残り惜しげに摘む片方の手には銀輪が嵌っている。婚約中か既婚者なのかも知れない。
「まだここにいる?」
「ううん、もう行こう。お世話になったなって、思って」
2人の男女は手を繋いでエントランスから出て行った。天気が良い。光の中に彼女たちの後姿が薄らいでいく。
―雫漣……
世間がこの飛ぶ鳥を落とす勢いだったアイドルを思い出したのは、この引っ越し業者が入った1週間後だった。彼は長期療養のため事務所を退所した後も彼に献身的に尽くした女性マネージャーのストーカーから彼女を庇い、刺し殺されたという噂が広がった。そこに付け加えられた尾鰭背鰭、腹鰭胸鰭では、幼児退行の末にとうとう彼はこの美人元マネージャーを姉だと思い込んでいたという。もちろん表に出回った話ではなく、彼のこの訃報も浮上して間を置かず沈静した。
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