18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」

結局は俗物( ◠‿◠ )

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雨と無知と蜜と罰と 弟双子/気紛れ弟/クール弟

雨と無知と蜜と罰と 24

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 事の経緯は、家の前まで来ていた弘明寺ぐみょうじ愛恵めぐみから聞いた。彼は訪問の合図として決めていたノックを何度か繰り返していたようだが、加霞かすみは気付かなかった。嵐恋あれんが彼を虐待していた長兄の家にいると聞いた時、インターホンが鳴って彼女は玄関を飛び出し、愛恵と鉢合わせたのだった。事情を話さなくても彼はすでに事態を承知していた。
 愛恵の車に乗り込み、霙恋えれんの自宅アパートに赴く。
「嵐恋くんを送り届けた後に、また彼がマンションから出てくるのを見て尾けたんです」
 車を少し走らせてから彼は口を開いた。
「高校に戻ろうとしたんだと思います。途中に公園があるでしょう?最近できた……あそこに入っていきました。そうしたら霙恋さんがいました。女性といました。若い女性です。ホストクラブの客というよりは雰囲気には大学のほうのお付き合いだと思います。そこで、嵐恋くんを見つけたんです。―加霞ちゃん」
 話がぶった切られたかと思うと声音がわずかに変わった。
「何?」
「霙恋さんが嵐恋くんに近付いて、家に誘うようなことを言ったので、僕は間に入りました。そして姉の恋人だということを言いました」
「……そう。それで……」
「ですが嵐恋くんは霙恋さんと行くと言って……戻ってきたところです」
 加霞は少しの間黙っていた。
「ありがとう。そこまでしてくれて」
「いいえ。もっと早くに出て、引き留めるべきでした」
 車内は沈黙に包まれる。加霞は学校のことを彼に話してしまおうか迷っていた。しかし嵐恋の学業や素行については愛恵には関係のないことである。
 気付くと車内にはラジオが流れていた。忌々しい声が聞こえて、その前後を掻き集めるとやはりラジオだった。Love la Dollの莫迦げな曲が流れる。歌っている者がすべてマイナス点にしてしまう。作曲者や作詞家、プロモーターなどの仕事までをすべて黒く塗り潰す鬼畜の歌声だ。あと2人メンバーがいたはずだが耳に入らなかった。
「すみません」
 愛恵の手によって曲は途中で切られる。車内はふたたび静寂に包まれる。弟を虐待し、自分を強姦した者から加霞は本屋にしろ店内にしろ逃げられない。雑誌やポスターやラジオ、テレビで目にするのだ。一瞬身体が熱くなりかけた。逃げ場がどこにもない。声を聞くのも姿を見るのも名を目にするのも怒りや悲しみと向き合わされる。虐待や強姦に限らず、往々にして人の生涯とはそういうものなのかと些か引いて見てみる。解決は何もしない。怒りの鎮静作用もない。他者に馳せている余裕などなかった。
 霙恋の自宅アパートに着く。コンクリート打ちの建物に、雨の日や怪我人は登れなそうな意地の悪いスケルトン階段がある。手摺は手摺りにしては背の高いところにただアルミ製の枠があるだけで、機能していないように思える。その下を滑り落ちたら階段下だけ砂利が敷かれ、落下地点はアスファルトだ。部屋を出たらすぐ唐突に階段が始まる。物を立て掛けておくこともできないのである。
「足元、気を付けてください」
 人殺し階段としか言いようのないシースルー階段を上がる。鉄製の平たい段差は非常に滑りやすい。設計者は住民を怪我させたいのかと思うほどの造りだった。愛恵がインターホンを押す。加霞は階段を上り切らずに壁際に避けていた。
 何の確認も無しにいきなり玄関ドアが開く。金髪が、ぬっと首を伸ばしてまず愛恵を見てから加霞のほうを向いた。
「上がれ。姉さんも上がってくれ」
 まるで何かの機械が切り替わったように一瞬で声音が変わった。2人は霙恋の自宅に上がる。嵐恋はアンティーク気取りの気障きざな革張りのソファーに座っていた。堅く肩を怒らせて両膝を閉じ、その上に手を置いている。3つ、4つ、それか5つほどしか変わらない兄の家であるはずだが寛いだ様子はない。彼は姉がやって来たのを目にした途端、狼狽した。
「あーくん」
 弟は目を合わせようとしなかった。俯いている。
「帰ろう?」
「今日は俺の家に泊まるんだろう?そういう話だったな」
 霙恋が横から口を挟むと嵐恋は頷く。
「帰ろう?だってあーくんと霙恋ちゃんじゃ、生活リズムが違うでしょう?」
 嵐恋は帰る気配を見せなかった。下ばかり向いている。
「明日と明後日は休みだから、俺のことは心配しなくていい」
 大人3人は立ったままでソファーを見下ろしているものだから、それは詰問の場のようにも思えた。
「でも、あーくん……」
「多感な時期に過干渉なのはよせよ、姉さん。日頃から口煩いんじゃないか?だから嵐恋も、実の姉に意見ひとつ言えない。家族相手に自己主張もできなくなった」
 加霞はこのとき、時代劇などでみる侍や武将が袈裟斬りに遭ったときのような衝撃を受けた。内容も然ることながら、口にした人物にも唖然としてしまう。嵐恋に反抗のすべを奪うほど暴力を振るったのは一体誰だとこの男は言うのか。まるですべてを忘れたと言わんばかりの口振りに加霞は怒りによって頭が真っ白くなった。
「姉さんは姉だ。そのラインを踏み越えてないか?過保護なんだ。姉は母親にはなれない。義務も責任もない、いつでも降りられる。宙ぶらりんだ。姉さんがそう思ってなくても嵐恋はどうだ?不安にもなる。姉さんだってカレシがデキればいずれ結婚するつもりなんだろう?その時に嵐恋がどういう肩身の狭い思いをするのか考えてやったのか。自宅に他人が住み着いて、家にも安らぎがない。哀れだよ。グレたくもなる」
 嵐恋はやっと顔を上げたが、加霞のほうは見なかった。霙恋を不思議そうに向いている。
「あーくん……そうなの?」
 末弟は答えない。
「帰るたびに違う男がいる。嵐恋みたいな子が気を遣わないとでも?」
 霙恋は嘲笑うように愛恵にも目をやった。
「驚きだな。入り浸っている男は何だったんだろうな。浮気性な女が保護者だと苦労する。俺は一度でも嵐恋は二度目だものな。同情するよ」
 膝の上の嵐恋の拳は戦慄いている。
「だが許してやってくれ。あの年頃の女は交際だの結婚だの出産だのに急く。今更言うまでもないが、姉さんも女で、嵐恋にとっては母親ではなくただの姉だ。姉さんは姉さんの人生がある。親が放った同胞きょうだいの世話のために色々と犠牲にした。誰も悪くない。強いて言うのならろくに世話もせず産むだけ産んで金しか出す気のない親が悪い。嵐恋、姉さんを恨んではいけない。姉さんのカレシのことも……」
「うん……別に恨んでないよ。全然、恨んでなんかない」
 震えた声に霙恋の仏頂面が微かに動じた。加霞も即座にそれに気付く。
「生まれてこなきゃよかったんだなって思ってさ。おで、邪魔じゃん。いつも……」
「どうして!邪魔だなんて思ったことないよ!」
 加霞はソファーに座る嵐恋にしがみついてしまった。脚を小賢しい鉄とガラスのローテーブルに強打するけれど、構っていられない。
「姉ちゃんにはすごく良くしてもらったケド、姉ちゃんだって自分の時間とか欲しいじゃん。どこに行ってもおでがいる」
「いいよ、そんなの全然気にしたこともなかった。わたし自分の時間ちゃんとあるよ。どこにいてもあーくんが居ればいいじゃない、家族なんだから。大きくなるまで、わたしはちゃんと一緒にいるつもりだよ。でも、あーくんがもう嫌ならわたし、ちゃんと考えるから……」
 霙恋が口を挟む。
「そういうのが重いんだろう?嵐恋。だから何も言えなくなって出て来た。姉さんは独善的だ。姉にもならず母親にもなれない毒親と同じだ。依存するな。嵐恋は理解のあるカレシでも自分を愛してくれる息子でも、居場所になってくれる夫でもない。分かるよな」
 加霞は縋り付いた手を放しかける。ざふざふと胸の辺りをアイスピックで滅多刺しにされているみたいだ。重く粘こい沈黙が四肢に纏わりつくようだ。
「言うほど依存していますか?」
 愛恵が口を開いた。
「彼女の境遇から見れば、幼くして親代わりになるしかなかったのでしょう。それできちんと、親の務めを代わりに全うしていると思いますが。遅い時間に友人の家に行けば連絡も入れます。どこにも行くなと縛りつけたわけでもない。食事の用意もするし、学校行事に顔も出して、着る物に困らせはしないし、掃除もして住める環境は整えていました。別に家に引き留めて学業をやらせないなんてこともなければ、どこの大学に入れると虐待じみた教育を施したわけでもない。彼女は姉の立場でありながら、立派に親の務めを果たしていると思いますがね。これを依存というのなら、あなたの親に対する見方を改めたほうがいいのでは」
 霙恋の眉間に深々と皺が寄る。
「姉ちゃんは何も悪くないんだ。姉ちゃんはすごく良くしてくれた。なのにおで、姉ちゃんの幸せ、きっとダメにしちゃうから。姉ちゃんは姉ちゃんの人生あるの、分かってる。なのにそこにおでが割り込んでる……」
「割り込んでないよ。最初からお姉ちゃんの人生にはあーくんがちゃんと入ってるよ。あーくんがいてダメになる幸せなんか要らない。あーくんは、わたしが与えてばっかりだって本気で思ってる?」
 加霞は弟の顔を覗き込んだ。彼は目元を乱暴に拭う。
「どうしてもって言うなら、無理強いしないよ。連れて帰らない。少し考えたいって言うなら……わたしいつでも待ってるし、あなたの家でもあるんだから。家族だけれど、結局は一個人だから、分かり合えないかも知れない。家を出たい、1人で暮らしたいっていうなら考えるよ。わたしもアパートに引っ越すから、あーくんの物件も考えよう?」
 そういう選択を取れる程度には、親としてのケアは希薄だったけれど、経済力だけはあるはずだ。
「おで……」
「すぐに決めなくていいよ」
 迷いを見出すと、加霞は弟の両手に触れた。
「今日はお兄ちゃんのおうち、泊まろうか」
 彼女は霙恋を振り返った。
「いい?あーくんのこと、お願いしても」
 そこには駆け引きがあった。霙恋が何の企みもなしに嵐恋を家に置いておくはずがない。先に動いたのはやはり霙恋だった。
「姉さん、明日の夜、空けておいて。カノジョのウェディングドレスを選びに行きたい。紹介ついでに第三者目線の意見が欲しい」
 果たして本当に霙恋はホストクラブで働き大学に通っているうちから挙式するのだろうか。とうとう姉の肉体を諦め、他者に恋愛感情を持つことができたのか。疑問は残るが関係ない。
 嵐恋がきょとんと兄を見上げた。その兄もそれに気付くといやに愛想の良い顔をした。そうすると金髪の雫恋といえなくもなかった。
「嵐恋にはまだ言ってなかったな。そういうことだから明日の夜は俺はいないが好きにしていていい。で、姉さんの予定はどうなんだ?」
 加霞が答える前に愛恵が一歩踏み出ようとする。
「分かった。空いてる」
 断れば嵐恋がどのような扱いを受けるか分からない。
「加霞ちゃん」
「うん……平気。予定は空いてるから」
 加霞は去り際に霙恋へ金を渡そうとした。
「嵐恋は俺の弟でもあるんだからな、姉さん。金には困ってないんだ。カラダで払ってもらう」
カラダには困っているの?」
 鼻で嗤われる。
「姉さんは本当に可愛いな。明日、楽しみにしているから。迎えに行く」
 玄関を出てすぐ、加霞は階段に座り込んだ。愛恵はすでに下に降りている。彼女を見上げ、何も言わずに長いこと待っていた。
「ごめんなさい。待たせちゃって」
「いいえ。僕のことはいいんです。それより……」
「あーくんがあんな思いしてるなんて知らなかった」
 愛恵の車に乗り込んで、加霞は助手席のシートベルトを引いた。
「明日の夜は、本当に……?」
「うん。何されるか分からないし、あーくんが無事ならそれでいいよ」
 彼女は学校であったこと、担任の教師と話したことを打ち明ける。
「あーくんのことは裏切ることになるけれど、もうそれ以上に裏切る相手とかいないから。別に、いいや………」
 彼女はへらへらと白々しく笑った。嵐恋の胸中を知ったことと、明日の夜の約束は大打撃を与えていた。笑みというのは比較的表現するのが簡単である。頬の筋肉さえ無事ならば口の端を吊り上げるだけでよい。中身が伴わなくともそれなりに繕える。
「こういうところが、ダメなのかもね。学校の先生も、困ってた。出しゃばりな姉だと思っただろうな。どう思われたって構わないし、実際、きっと、本当にそうだから……」
 相槌も返事もなかった。それが心地良い。どういう意見が返ってこようとも、今は素直に受け取れはしなさそうだ。



 インターホンが鳴った。昨夜はよく眠れず、飯も喉を通らなかった。料理を作る意義もない。受話器を取ることもなく玄関を開ける。確認をする必要もない。誰が来たのか知っている。
「姉さん」
 梳かしただけの髪を、彼女は一房撫でた。
「スタイリングもさせてくれるのか」
 出て早々に霙恋は姉の髪を撫でた。ケアしても素人では傷んでしまう毛先まで指が入って少し絡んだ。
「あーくんは元気なの?」
「昨晩はピザを食べさせたよ。朝はカレーだ。昼は天丼。夜はお好み焼き。満足か?」
「ちょっとカロリーが高いんじゃない?」
「大切な人質だ。手作りだから安心してくれ。明日から気を付ける」
 人質。加霞は髪を触り耳を撫で、頬をなぞる霙恋の手を払った。
「あーくんに酷いことしないで」
「姉さん次第だ。姉さん次第で嵐恋が熱湯をかぶるのは回避できるかも知れない。あの階段から転落するのも、あるいは……」
「やめて!分かったから……好きにするといいよ。あーくんが無事なら、それで」
 霙恋の胸元を叩く。この男とその長弟は脅迫が趣味なのだ。
「急に潔いな。どういう心境の変化なんだ、姉さん」
「潔い?人質取っておいてよくもそんなことが言えた」
「怒りっぽいところも素敵だ、姉さん」
 額にキスをして彼は姉の手を繋がせた。
「手は繋がなくても……」
「繋ぎたい。好きな女と手を繋いで歩いてみたかった」
「他人の手汗って嫌い……熱いし」
 加霞は手を離そうと腕を引いた。
「好きな子と手、繋いで歩いてたんじゃないの。公園で……」
「誰から聞いた?弘明寺か。好きなのは姉さんだけだ。妬いているのか。やめてくれ」
「その子にも同じこと言ってるんでしょ」
 乾いた嗤いが込み上げる。投げやりな態度はせめてもの抵抗である。
「彼女はホストクラブの客じゃない。大学の同期だ。一緒にレポートをやっていただけだよ、姉さん」
 霙恋の話は非常にどうでもいい。一緒にいたのがホストクラブの客であろうと、大学の友人であろうと、たまたまそこで出会でくわした初対面の人物であろうと。
「嫉妬してるのか?本当だ、姉さん。信じてくれ。浮気じゃない。姉さんだけだ。信じて、姉さん!どうしたら信じてくれる?」
「知らない」
 無愛想で寡黙な長弟の様子は一変した。
「許してくれ、姉さん。もう嘘は吐かないから。全部本当のことを話す!俺が好きなのは姉さんだけだ。姉さん……だから、」
「許す?許すって何?本当って?嘘吐いたんだ?」
 適当に相手を責められそうな単語を拾った。
「許してくれ、姉さん。俺は嘘を吐いた!その女と寝た!姉さんのことを考えながらしたんだ。姉さんとしかしたくなかった!」
 加霞は黙っていた。よくもぬけぬけと言えたものだ。女が男に犯されるのと違い、男は身体の反応がなければ女を犯せないはずだ。それが加霞なりの男の生理への理解だ。
「姉さん……避妊はした…………浮気のつもりはなかったんだ。姉さんのことしか好きじゃない…………」
 やはり彼女は何も答えなかった。真横で、「ひっ」と発作のような息が漏れた。
「死んで詫びるから許して姉さん……姉さんのことしか好きじゃない!信じて…………!信じろ!」
 豹変した弟に両の二の腕を[D:25445](も)ぎ取るように掴まれ、乱暴に揺さぶられた。彼は噛み付かんばかりに前のめりになって怒鳴りつけた。加霞は泰然として弟の見ていた。
 彼は突然マンションの階段を駆け上った。―そして2階から始まり3階分ほど上がったところで、霙恋は助走を付けたまま難無く手摺を飛び越えた。ぼふん、という音が1秒か2秒後に聞こえた―
 加霞は2階のその場で人影が落ちてきたのを目にし、数秒立ち尽くす。やがて手摺から首を伸ばして下を覗く。先程まで元気に怒鳴っていたのが地面に叩き付けられ四肢を投げ出しているのを認めると、ゆったりした所作で救急車を呼んだ。



 嵐恋はすぐに加霞の住むマンションへ戻された。父親は海外出張で母親も連日公演の舞台劇がある。雫恋もまた遠方でドラマの撮影があるらしい。嵐恋は見舞いに行きたがった。そうするとこの姉は弱い。兄に対する純粋な心配もあったかも知れないが、この家に閉塞感もあったのかも知れない。それが分からないわけではなかった。嵐恋を玄関で見送って家事に取り掛かる。2階通路の天井つまり3階通路床裏から手摺りの狭間を落ちていった白い塊が何度か脳裏を甦る。耳の奥が痒くなるような落下音も鮮明なままだった。夢をみたその延長で起きている心地だ。洗濯物を仕分けている手が止まる。聴覚を通さず、幻聴とも違う、勝手に作り出した誰のものでもない、どちらかというと己に似た声が聞こえる。誰の責任かを問い詰めている。誰が悪いのか探そうとしている。そこに弁護をしよう、正当化をしようというこれまた自身の声が割って入った。
 テーブルに置いた端末が震える。テキストメッセージだ。宝生ほうしょうからである。家に来たいという旨がある。彼には久城家の問題を告げていない。雫恋が教えたとも思えない。宝生は芸歴の長い年下の雫恋を敬っているが、雫恋のほうでは宝生は眼中にないのがはたから見ていてよく分かる。
 気紛れに宝生を家に呼ぶ気になった。一人でいたら頭がおかしくなりそうだ。家事も手につかない。しかし出掛けるのも躊躇われた。一応弟が、自殺未遂で入院しているのだ。何かが後ろめたい。承知する文言を打ち込み送信ボタンを押す直前で留まる。
―帰るたびに違う男がいる。嵐恋みたいな子が気を遣わないとでも?
 打った短文を全て消す。断りの返信をして彼女は虚空に身を浸し硬直していた。誤解されても仕方がない。否、誤解ではないのかも知れない。宝生とも清廉潔白かと問われたなら怪しい関係に思う。それを霙恋や嵐恋が知っているはずはないが、加霞自身上手く誤魔化せているかは分からず、もはや彼女が問うている人物は他者ではなく自分だった。
 重過ぎる尻尾が生えたように気怠い身体をソファーまだ引き摺った。横になる。目蓋の裏には金髪を散らし、人形みたいに倒れている白い服がいつでも張り付いている。ふと閃いたように起き上がり、嵐恋のことをまだ学校に、生天目なばために報告していないことを思い出した。芋づる式に、嵐恋の帰宅の一報も忘れていたことも思い出した。
 壁に掛かった時計を見る。話す旨があることだけ伝えれば良い。鉛でも括り付けたみたいな指で土屋東高校の電話番号を探す。通話ボタンを押そうとして重苦しい気分になった。話せない気がした。口で説明できないような気がする。認められない。嵐恋の窮屈な生活をもう一度眼前にありありと表すことができない。
 水を飲み一呼吸入れる。そうするまでも重労働だった。躊躇したボタンを押す。コールが聞こえる。通話が始まり、教頭が出る。生天目に代わり、加霞は言葉に詰まった。
「あ、あの…………お世話になって……おります」
『お世話になっております』
「あの…………嵐恋のことで」
『はあ、久城の』
 紙を引っ張るような音が聞こえた。
「すみません。この前は、何の連絡も差し上げずに」
『ご無事ならそれで』
「はい。兄の家に行っていたようで」
 生天目のテンポが遅れる。
『兄というと……』
 さすがに担任の教師といえど家族構成まで把握はしていないだろう。
「わたしのすぐ下の弟で、嵐恋の兄の兄です」
『なるほど……兄がいらしたんですね。申し訳ありません。きちんと確認しませんで』
「ああ……いいえ。無理もないと思います。色々事情があって、兄2人のことは書いていませんから」
 また生天目の返事のテンポが乱れた。妙な間に怯える。
「それで、今日連絡しましたのは、嵐恋と少し話をしまして……」
 あれで嵐恋と話をしたと言えるだろうか。霙恋が代弁したのを聞いただけではなかったか。
『そうですか。それで、久城はどのように?』
 胃の辺りが凝り固まったような感じがする。噛んでいた唇を開いた。今度は加霞がリズムを崩す番だった。
『……久城さん?』
「ああ、すみません」
『ゆっくりでいいですよ。……まだ気持ちの整理がつかないのなら、後日でも』
 生天目もある程度どのような類いのものか見当がついているらしかった。
「いいえ。話します。すみません」
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