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雨と無知と蜜と罰と 弟双子/気紛れ弟/クール弟
雨と無知と蜜と罰と 15
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「姉さんのこと、貸して」
弘明寺愛恵はアクリル板を刳り貫いたみたいな眼鏡を外した。素顔とあまり変わらないのは、やはり度が入っていないようだ。
「最低」
加霞は呟いた。この場で自分に選択権がないことを彼女は分かっていた。だが嫌気は否定できない。いずれにしろ身を暴かれる結末が見える。足はマンションのエントランスに逃げようとした。
「姉さん」
二の腕を掴んだ手は姉を売り渡す気でいるようだ。
「最低!わたしのこと売るんだ?わたしが拒んだらあーくん?」
霙恋は姉の怒りには耳も傾けず、愛恵を睨んでいた。
「絶対に手を出すな。それだけ約束しろ。何があっても姉におかしな真似をするな―……俺は姉さんのすべてを知りたい。姉さん、雫恋でもきっと同じことをした」
「雫恋ちゃんまで持ち出してきて、自分を正当化したいんだ?」
握られている指を引き抜いた。愛想もへったくれもない霙恋が驚いた顔をした。
「いいです。わたし、あなたに売られるんじゃなくて自分で行きます。わたしの意思でいくんだから。あんたなんか知らない」
伸びてきた腕を振り払い、愛恵のほうに駆け寄った。卑しい提案をした張本人もこの展開に驚いている。
「えっ、加霞ちゃん……」
手の戦慄きは鎮まらない。
「嵐恋にだけは迷惑かけないで」
厳しい口調で彼女はぴしゃりと吐き捨てた。
「姉さん……」
弟の声を無視して愛恵の腕を引っ張る。女の力でもそう横に体格のいいわけではない男はよろめく。
「加霞ちゃん……」
「最低。本当に、最低……わたしが幸せに暮らすのがそんなに気に入らない?わたしあなたに何かした?恨まれるようなこと……」
彼女は口調こそヒステリックになりながらあてもなく彷徨い、男は従容として引き摺られることを受け入れる。
「だってわたし、あなたのことよく知らないよ?会ったことだって数えるくらいしかないんじゃない?舞夏ちゃんのお友達って認識しかなかったんだもの。なのにどうしてこんな酷いことができるの?合鍵作ったりしてさ。あーくんの場所も教えたんでしょ?もしあーくんに何かあったらどうするの。あなたの所為なんだからね。あーくんが傷付くようなことあったら、あなたの所為なんだから。どういう気持ちでわたしたちが今まで、ひっそりと暮らしてきたか、あなたに分かるだなんて思ってないし、分かって欲しいだなんて所詮他人事だからそんなこと求めようだなんて思ってないけど、それにしても酷い。あの弟たちがわたしたちを殺しに来てたらどうするつもりだったの?放っておいて欲しかった。お金に目が眩んだ?売れっ子アイドルに都会の大きなピンク街のホストだもんね。ホストって売れると1億とか儲かるんでしょ?霙恋ちゃんがどれくらい稼いでるのか知らないし興味もないけれど、やたらとよく来るし暇みたいだから、多分そこまで売れてないんでしょうけど。拝金主義の最低男。ねぇ、わたしが刺し殺されてたらどうするの?わたしがあの2人を刺し殺してたら?あの2人はあーくんを殺そうとしたんだから、わたしがあの2人を刺しちゃっても正当防衛かも知れないでしょ。あーくんの背中にある火傷ね、あの2人が熱湯かけたの、昔。それは調査済み?本人たちから聞いた?夏休みのプールとか、着替えのときとかすごく可哀想だった。みんなに訊かれるんですって。誰を恨めばいいの?先生は訊いてきた子たちを叱りつけたらしいけれど、そんな何も知らない同級生たちの無邪気な質問なんか恨めるはずないでしょ?あーくん本人だって分かってなかった。どうして自分の背中は赤茶色なのって訊いてくるの。そんなことも知らないで雫恋ちゃんはアイドルやって水着姿撮って、雑誌に載ってさ。背中の傷だけじゃない。校則違反だけどあーくんツーブロックにしてるの、やっぱり小さい頃頭踏まれて小石で切っちゃったから。毛が生えなくなっちゃったの、分かる?ハゲだって嗤うでしょ?嗤いなさいよ!小銭ハゲって嗤いなさい!学校からも注意もらったし、怖い先生に絡まれたり……自虐してさ、そういうこと、あの子にはして欲しくなかった。あの子は抱え込まなくていいものを全部あの人たちに背負わされたの!あなたってそういうヤバい人たちに一番わたしが隠しておきたかったものをぺらぺら喋ったわけ。逃げてきたの、これでも。2人でひっそり暮らせればよかった。地元を捨てさせて、実家から離れさせて、友達を振り切らせて、知らない土地に……そこまでしなきゃ、あーくんは幸せになれないと思ったから。あの人たちと引き離さなきゃいけないと思ったから。怖がらせたくなくてテレビも観せなかった。それでも売れてるアイドルなんていやでも耳に入るし、目に入る。つらかっただろうな………あなたには分からないことでしょうけどね!別に分からなくていいよ。分かってるし理解できるのにやってたってほうが、わたしは理解できないから。弱みでも握られてるの?家族を人質にとられてるとか?ねぇ、あなた、善悪の区別ってついてる?あなた、人は殺しちゃいけないし、お酒飲んだまま車を運転しちゃいけないのは知ってる?答えなさいよ。答えなさい!何を許して欲しいの?何に対して謝っているの?あの人たちを追い払ってくれないくせに!あの人たちからあーくんを守ってくれないくせに!それでどうしてわたしが許せると思ってるの?どのツラ下げて謝ってるの?反省だけなら口先でできるじゃない。許すことだって口先だけでできる。それが欲しいの?じゃあ許してあげる!本当は微塵も許せるはずないけれど、もう二度と関わらないで欲しいから。許してあげる。もう二度と関わらないで!ほら、許したって言ってあげたんだから、満足でしょ?帰りなさい、最低男」
ぶつ、と歯で噛み潰し唇が切れた。鉄錆びの風味と独特の甘さが口内に広がる。血走った目は正気の光を宿していない。過呼吸に似た息吹が自身のものだと彼女は気付かない。愛恵は加霞の手を払う。結局のところ、この男に謝意などないのだ。目的地もないがこの男と居る理由もない。居たくもない。拳が震えた。激情は行き場をなくし体内で竜巻き、汗を噴き出してやり場を探す。大きなエネルギーについていけず、彼女は空っぽになってしまった。ただ真っ直ぐ歩くのも重労働だった。膝がどうにか身体を支えている。灰になったまま佇む線香みたいだった。
「すみませんでした」
風に翻るように振り返る。愛恵は低姿勢になりアスファルトに額を擦り付けていた。
「すみませんでした」
「いいよ、もう。許したって言ったでしょ。土下座されても許せるわけないんだから……」
通行人に見られている。加霞も彼等を見回した。目を逸らされる。はたからはどう見えるのだろう。土下座をさせるまで許さない女が悪いのだろうか。犯され脅され乱暴され、人質を取られても、過ちを許さない側が悪いのか。
靴の裏がアスファルトを擦った。乾いた音がする。
「家の鍵、替えましょう。当然ですが僕が持ちます。僕が守ります。お二人を」
「信じてもらえると思ってるの」
「思っていません。思うわけがない。でも、役に立ちます。償います……」
顔を上げず喋るため愛恵の声はアスファルトで曇る。体内の器官、臓器、骨肉、津液、すべてが消えたような心地だった。怒りの湧く体力はないが哀れみはそうではない。彼女の気質は理路整然とできていなかった。哀れみと許せなさで板挟みになる。
「明日……気が変わらなかったら来て。気が変わったら、もう良いから二度と関わらないで…………」
土下座に背を向けたまま加霞は生きる屍みたいによろよろと歩いた。雑貨屋に行く気力も生鮮市場に寄る気力も損なった。ふらふらと近くの公園に入り、煤けた木のベンチに座った。数歩離れた自動販売機が遠く感じられた。端末が震え、メッセージを受け取る。宝生からだ。電話をしてもいいかという内容で、やりとりが面倒になり加霞から電話をかけた。彼は忙しい。アイドルだ。仕事の入り方は不規則だ。コールしている間に自動販売機で飲み物を買う。喋るには喉が引き攣った感じだった。身体は水分を求めていないけれども粘膜は潤いを求めている。ソーダを買った。
『もしもし、北条です。お姉ちゃんから掛けてきてくださって嬉しいです。大丈夫ですか?今』
「うん。時間は大丈夫なんだけれど、今外にいるんだ、わたし」
『ああ、ソウイウ用事で電話したかったんじゃないですよ。ちょっと時間が空いたから……お姉ちゃんの声、聞いておきたいなって思って。昨日も急に掛けて、急に切ったでしょう?だから』
彼は朗らかに笑った。目元が眩しそうに細まっていることだろう。容易に想像できた。
「そう。気にしなくていいのに。北条くんは忙しいんだから」
『お姉ちゃんも忙しいでしょう?専業主婦みたいなものじゃないですか。お勤めに出ていても、自分のこと以外にも家のことやっているんですから。お仕事休みでも家事に休みないでしょう?ボクのママも専業主婦ですからね。一人暮らししてみてから大変なんだなって気付きました。最初は栃木くんにあれこれアドバイスもらったりして』
ふふ、と彼は瑞々しく笑う。
「北条くん……」
昨晩で涸れた涙がまた溢れそうになる。労いの言葉が滲みる。惨めさに似た嬉しさが痛い。突き返そうとしてしまう。今の自分の有様、為体を知ってもそう言えるかと問い詰めそうになる。宝生はそれでも変わらない労いの言葉をかけるだろうか。後ろめたい。ただただ、すべての人間に対して、否、ろくでなしの弟2人以外の人間すべてに対して後ろめたい。末弟1人、守れないのである。
『お姉ちゃん……?』
「北条くんは、いい子だね」
『そうですか?どうたんです、急に。お姉ちゃん……何かあったんですか。相談のりますよ、ボク』
アイドルに話すことではない。彼女はやはりアイドルに隔たりを感じた。偏見もある。生々しい相談をするに相応う人ではない。彼等は悩める人々に浮き足立った世界をみせるのが仕事だ。つらく厳しい現実に生き甲斐を与えるのが存在意義のはずだ。そのために彼等は自らの自由を放り、恋愛を捨て、勉学を選べず、暴かれる日々に身を置いた。常々、宝生が話すことを総合すればそういうことになる。
「なんでもないよ。今日はあーくん、出掛けていったから何しようかなって。夕飯のこととか、考えてたところなんだ。夜には帰ってくるからご飯は作らないとなんだけど」
『そうですか。あーあ、お姉ちゃんのご飯食べたくなっちゃったじゃないですか。お好み焼きはどうですか?この前、栃木くんとチヂミ食べたので』
宝生はいつも通りだ。加霞は薄らと苦笑した。
「え、それならチヂミにしようかな。でもあれって小麦粉だよね?お米炊くしなぁ」
作ったことはなく、食べたこともないような気がするが、スーパーマーケットの棚にチヂミの素が売っていたのを見たことがある。
『お姉ちゃんはお好み焼きおかずにできないタイプですか。焼きそばとか』
「美味しいけれど、やっぱり気にしちゃうよ。あーくんも炭水化物大好きだから、炭水化物に炭水化物は何かと……ね?たまにはいいかな」
『たまにはいいですよ、たまには。ははは、晩ごはんの相談ならいつでも受け付けてますよ』
「足利くんと食べた物言う気でしょ」
あっけらかんと、しかし冗談めかして彼は肯定した。
『でも……本当に何かあったら誰かに相談してください。ボクにでも。お姉ちゃん…………ボクはアイドルで、誰かひとりの女の人を守るとかできませんし、ボクが守るとか守らないとか烏滸がましいことです。でもお姉ちゃんのことは……………ボクの輝いてるところで一番陰になるところにいてほしくないから』
「男の人が言う守るって、何なんだろうね。今は戦時中じゃないし、わたし誰にも狙われて………―ないよ。大丈夫。ありがとうね、北条くん」
ふと、愛恵の言葉が甦った。平穏な日々を害しておきながら、その口は守ると言った。
『舞夏さんと何かあったんですか?』
「何もない」
唐突に出てくる舞夏の名前にぎく、と胸は脈を飛ばす。
『お姉ちゃん……』
「何?」
『守るって言って口説く男にろくな人いませんよ。そんなような歌、歌ってて思います。傍にいるだけで守った気になれる男にろくな人、いません。守るよ傍にいるよって言って靡く状態の女の人、きっと、酷いことされます。ただ唾付けておくことが守るってことじゃないです、きっと。多分……ボク男だから分かんないですけど、ボク可愛いので、男の人、可愛い男のこともやっぱりナメてかかってくるし、あんな感じなのかなって。もっとですよね、きっと。女の人は』
宝生は自分で言っても聞いている側として恥じるところのないほど確かに可愛らしかった。中性的と断じるには一見して男性と判じられるものの、そこには嫋やかな雰囲気がある。言語化できない直感的な女性性というものを外見に於いては作為的に身に付けている。宝生に限らず、それが彼の事務所に多く所属するタレントの特色であるから雫漣もそうである。
「そっか……そうだね。でも舞夏ちゃんのことじゃないから。そこは誤解しないでね」
愛恵が言った「守る」には明確な対象がある。弟の双子の接近から守るというのだろう。
『そうですか?じゃあ、そういうことにしておきます。そういうことに……』
「本当だよ。だって北条くんが見つけたんじゃなかった?舞夏ちゃんがカノジョといるところ」
地毛を思わせる艶やかな栗色の髪。綺麗に切り揃えられた前下がりのボブヘア。内側へカールした毛先。小さな頭と長く細い首。肩、しなやかな腕、黒のロングスカート。ミラーボールみたいなピンヒールのサンダル。アイロンや洗髪、紫外線で傷んだ髪も気にせず雑に束ね、化粧も直さず、洗い晒しの草臥れた部屋着で目の前を往復する女をどういう目で見ていたのだろう。否、彼は"トモダチ"と表現したいたのだから、そこに恋人との比較はなかったのかも知れない。ひとりで自らを比較し、気儘に劣等感を抱いている。
『そうでしたね。モデルみたいな人でした。本当にモデルだったりして。舞夏さん、人当たりいいからなぁ。色々な繋がりがあったんでしょうね。とんだ面食いですよ』
「そうだね。すごく綺麗な人だったもの」
『お姉ちゃんも、綺麗ですよ。っていうかお姉ちゃんのほうが、綺麗です。舞夏さんはあの女の人のほうがよくても、ボクはお姉ちゃんが………いい』
加霞の見方からいって宝生の美的感覚はそこまで狂っているようには思えなかった。つまり彼女と感覚が近い。とするとどう贔屓目にみても舞夏の恋人と思しき女より加霞にとって自分のほうが"綺麗"とは考えづらい。これは宝生なりの気遣いだった。女同士は美を競争するものだという世間の認識を慮っているのだろう。だが舞夏の恋人と思われる女に勝ると思えるほど加霞も純心ではない。
「ありがとう、北条くん」
『本当ですよ。本当ですからね』
「うんうん。照れちゃうよ」
適当に受け取り、肯定する。そうするとこの手の話題は短く治まる。アイドルは大変だ。夢を見せなければならない。主義や思想を隠し、建前を守り、ひたすら無難なことを言い、当たり障りのないことしか発言権がない。ここを誤れば強い批判、或いは誹謗中傷が飛び交う。
「こんな話してて、時間は大丈夫なの?」
『はい。じゃあ、あと5分だけ。お姉ちゃんはどうなんです』
「わたしは大丈夫。公園で暇潰してたくらいだから」
ぽつ、と頬に水を感じた。空を見上げる。白に淡い灰色が斑ら模様になって揺蕩っている。嵐恋にタオルや傘を持たせなかったことを顧みていた。互いに数拍ほど静かになる。
『お姉ちゃん……ボクは本当に、この世で一番、お姉ちゃんがイイなって思います。綺麗とか綺麗じゃないとか、そんなのじゃなくて、お姉ちゃんがイイなって』
「どうしたの?わたし別にそこまで気にしてないし平気だよ?」
『い、いえ。深い意味はないです。そろそろ切りますね。相手をしてくださってありがとうございます』
「うん。またね」
通話はあっさりと切れた。どっちつかずな水滴が手や頬に降る。遠くで雷が鳴っている。今日は家にあるもので済ませるつもりで爪先は自宅に向く。マンションエントランスに霙恋の姿はもうなかった。しかし玄関の鍵が空いている。おそるおそるドアを引いた。雨音がする。だが外を振り返るとまだ雨は降っていない。図々しくも他人の家でシャワーを浴びているらしかった。三和土には嵐恋のでもない靴がある。おそらく霙恋のかも知れないが、だが確証がない。玄関扉を開け放したまま加霞は浴室に近付いた。躊躇いながらノックした。
「霙恋ちゃん……?」
返事はない。水の音が曇って聞こえる。霙恋でなかったら誰がいるのだ。彼等の憎しみは到底加霞の理解に及ぶものではない。見知らぬ人物に鍵を売り渡してはいないか。そういう事件が以前あったことを思い出す。女の暮らす家には価値が生まれるらしかった。
「霙恋ちゃん?」
脱衣所に繋がるドアを徐ろに開いた。流水音がいくらか鮮明になる。浴室に通じる磨りガラスが赤い。加霞は一瞬、直立不動になった。赤ワインを溢したどころでは済まない。ぶち撒けたみたいだった。誰が居るのかもう気にしている場合ではなかった。磨りガラスを引くと、バスタブに片腕を放った霙恋が真っ赤に染まって濡れている。よくある蝋燭みたいな顔色をしてぐったりしている。
「………姉さん」
だが起きた。タイルにへたり込み、母親に抱き上げてもらいたがる幼児みたいに手を伸ばした。後退り、避けてしまう。
「姉さんがいなきゃ生きていけない。姉さん………」
バスタブに溜まった湯から上がった腕は血を噴いている。今夜はすぐに風呂は使えないだろう。嵐恋には近くの公衆浴場に行ってもらうしかない。纏わりつかれた部屋着は湯に濡れ、赤く染まる。脚に顔を埋め、霙恋は姉を呼び続ける。
「救急車は自分で呼びなさい」
加霞は血塗れの濡れ鼠を躱し湯を止め、栓を抜いた。排水口が赤い水を吸い、こぉと唸る。水道代を請求したいくらいだ。何事もなかったように彼女はリビングに戻ろうとする。
「姉さん、俺を許してくれ。姉さんが居ないと生きていけない。姉さん、許してくれ。姉さん……姉さん、姉さんに捨てられたら死ぬしかない。生きていけない。姉さん……雫恋も嵐恋も殺して俺も死ぬ。姉さん、俺を捨てるな。姉さん愛して。俺を拒まないで姉さん」
彼はむくりと立ち上がった。容赦のない体重を後ろからかけられる。
「姉さん、俺が悪かった。俺が姉さんに酷いことをしたのがいけない。姉さん、嵐恋を捨てて俺と住もう?俺と俺の子供のことだけ可愛がってほしい。雫恋のことも嵐恋のことも、その他のよく分からん有象無象の連中のことも見ないでほしい」
血と水を垂らしながら霙恋は姉の背に凭れ、そして脱衣所の扉を閉めると彼女をそこに押し潰した。部屋着にべったりと血が付く。
「姉さん、してくれ。して………姉さんの中で気持ち良くなりたい」
「ちょっと!汚れる……っ」
嵐恋が鼻血を出すのとはまったく違う。相手が憎ければ血まで汚らしく感じられた。雫恋も昨晩は素手で他者の吐物に触れていた。この双子はそういう衛生観念なのである。
「触らないで……っ!」
「汚いか?俺は姉さんとしか生でしない。他の女が俺の子を孕むなんて考えられない。そんなのは俺がレイプされた気分だよ、姉さん。俺は姉さんの子供がほしい。姉さんの子供だけが…………しよう?してくれ。俺の子を産んでくれないか」
後ろから伸びた血だらけの手が加霞の腕を扉に磔にする。触れたところに赤い痕跡をつけていく。
「汚い………!やめて!こんなことしてないで、早く救急車呼びなさいよ……!」
「そんなことどうでもいい。姉さんとしたい。姉さんが俺の子産んでくれるならもう死んでもいい……」
非常に興奮した様子で霙恋は姉を嗅いだ。子猫が嵐を吹くような音をたてて姉の纏う空気を吸う。
「姉さんの中に入りたい。姉さん………」
「汚い………っ、汚い………、」
彼女は首を振った。
「血が繋がってないからか?血が繋がってないから汚いのか?昔嵐恋が頭を切ったときは姉さんも触っていただろう。それに俺は病気は持っていない。検査してある。姉さんにも、姉さんと俺の子にも感染したくないから……姉さんも、俺と雫恋としか生ではしてないだろう?雫恋にも検査させたよ。俺の姉さんにもしものことがあったら困るから。そうだろう?俺は姉さんに感染されるのなら別にいい。姉さんとしかしたくない。姉さんはどうなんだ?そこまで気にするのなら、あの入り浸っていた男に生でするのを赦したりしていないよな。ゴムが………出てこなかったと聞いているが」
ゴミ袋まで漁られていたのだ。加霞は腹を蹴られたような気持ち悪さを堪えた。
「気持ち…………悪い、」
感染症の問題だけでなく、それよりも先に彼女を襲ったのはもっと別の嫌悪感だった。
「このまま俺の血が入って、本当の姉になれば良いのにな。嵐恋が羨ましい。嵐恋は姉さんを見て欲情に苦しむことはないんだものな。姉さんに可愛がられて姉さんに一番に気にしてもらえるんだものな。嫉妬に狂いそうになることもない」
生唾を呑む音が真後ろで聞こえる。本当に血の繋がった姉弟ならば、こういう関係にはならなかっただろう。
「だがもう俺の姉さんだ。放さない」
首に歯が立つ。出血していないほうの手が加霞の服に入り込む。
弘明寺愛恵はアクリル板を刳り貫いたみたいな眼鏡を外した。素顔とあまり変わらないのは、やはり度が入っていないようだ。
「最低」
加霞は呟いた。この場で自分に選択権がないことを彼女は分かっていた。だが嫌気は否定できない。いずれにしろ身を暴かれる結末が見える。足はマンションのエントランスに逃げようとした。
「姉さん」
二の腕を掴んだ手は姉を売り渡す気でいるようだ。
「最低!わたしのこと売るんだ?わたしが拒んだらあーくん?」
霙恋は姉の怒りには耳も傾けず、愛恵を睨んでいた。
「絶対に手を出すな。それだけ約束しろ。何があっても姉におかしな真似をするな―……俺は姉さんのすべてを知りたい。姉さん、雫恋でもきっと同じことをした」
「雫恋ちゃんまで持ち出してきて、自分を正当化したいんだ?」
握られている指を引き抜いた。愛想もへったくれもない霙恋が驚いた顔をした。
「いいです。わたし、あなたに売られるんじゃなくて自分で行きます。わたしの意思でいくんだから。あんたなんか知らない」
伸びてきた腕を振り払い、愛恵のほうに駆け寄った。卑しい提案をした張本人もこの展開に驚いている。
「えっ、加霞ちゃん……」
手の戦慄きは鎮まらない。
「嵐恋にだけは迷惑かけないで」
厳しい口調で彼女はぴしゃりと吐き捨てた。
「姉さん……」
弟の声を無視して愛恵の腕を引っ張る。女の力でもそう横に体格のいいわけではない男はよろめく。
「加霞ちゃん……」
「最低。本当に、最低……わたしが幸せに暮らすのがそんなに気に入らない?わたしあなたに何かした?恨まれるようなこと……」
彼女は口調こそヒステリックになりながらあてもなく彷徨い、男は従容として引き摺られることを受け入れる。
「だってわたし、あなたのことよく知らないよ?会ったことだって数えるくらいしかないんじゃない?舞夏ちゃんのお友達って認識しかなかったんだもの。なのにどうしてこんな酷いことができるの?合鍵作ったりしてさ。あーくんの場所も教えたんでしょ?もしあーくんに何かあったらどうするの。あなたの所為なんだからね。あーくんが傷付くようなことあったら、あなたの所為なんだから。どういう気持ちでわたしたちが今まで、ひっそりと暮らしてきたか、あなたに分かるだなんて思ってないし、分かって欲しいだなんて所詮他人事だからそんなこと求めようだなんて思ってないけど、それにしても酷い。あの弟たちがわたしたちを殺しに来てたらどうするつもりだったの?放っておいて欲しかった。お金に目が眩んだ?売れっ子アイドルに都会の大きなピンク街のホストだもんね。ホストって売れると1億とか儲かるんでしょ?霙恋ちゃんがどれくらい稼いでるのか知らないし興味もないけれど、やたらとよく来るし暇みたいだから、多分そこまで売れてないんでしょうけど。拝金主義の最低男。ねぇ、わたしが刺し殺されてたらどうするの?わたしがあの2人を刺し殺してたら?あの2人はあーくんを殺そうとしたんだから、わたしがあの2人を刺しちゃっても正当防衛かも知れないでしょ。あーくんの背中にある火傷ね、あの2人が熱湯かけたの、昔。それは調査済み?本人たちから聞いた?夏休みのプールとか、着替えのときとかすごく可哀想だった。みんなに訊かれるんですって。誰を恨めばいいの?先生は訊いてきた子たちを叱りつけたらしいけれど、そんな何も知らない同級生たちの無邪気な質問なんか恨めるはずないでしょ?あーくん本人だって分かってなかった。どうして自分の背中は赤茶色なのって訊いてくるの。そんなことも知らないで雫恋ちゃんはアイドルやって水着姿撮って、雑誌に載ってさ。背中の傷だけじゃない。校則違反だけどあーくんツーブロックにしてるの、やっぱり小さい頃頭踏まれて小石で切っちゃったから。毛が生えなくなっちゃったの、分かる?ハゲだって嗤うでしょ?嗤いなさいよ!小銭ハゲって嗤いなさい!学校からも注意もらったし、怖い先生に絡まれたり……自虐してさ、そういうこと、あの子にはして欲しくなかった。あの子は抱え込まなくていいものを全部あの人たちに背負わされたの!あなたってそういうヤバい人たちに一番わたしが隠しておきたかったものをぺらぺら喋ったわけ。逃げてきたの、これでも。2人でひっそり暮らせればよかった。地元を捨てさせて、実家から離れさせて、友達を振り切らせて、知らない土地に……そこまでしなきゃ、あーくんは幸せになれないと思ったから。あの人たちと引き離さなきゃいけないと思ったから。怖がらせたくなくてテレビも観せなかった。それでも売れてるアイドルなんていやでも耳に入るし、目に入る。つらかっただろうな………あなたには分からないことでしょうけどね!別に分からなくていいよ。分かってるし理解できるのにやってたってほうが、わたしは理解できないから。弱みでも握られてるの?家族を人質にとられてるとか?ねぇ、あなた、善悪の区別ってついてる?あなた、人は殺しちゃいけないし、お酒飲んだまま車を運転しちゃいけないのは知ってる?答えなさいよ。答えなさい!何を許して欲しいの?何に対して謝っているの?あの人たちを追い払ってくれないくせに!あの人たちからあーくんを守ってくれないくせに!それでどうしてわたしが許せると思ってるの?どのツラ下げて謝ってるの?反省だけなら口先でできるじゃない。許すことだって口先だけでできる。それが欲しいの?じゃあ許してあげる!本当は微塵も許せるはずないけれど、もう二度と関わらないで欲しいから。許してあげる。もう二度と関わらないで!ほら、許したって言ってあげたんだから、満足でしょ?帰りなさい、最低男」
ぶつ、と歯で噛み潰し唇が切れた。鉄錆びの風味と独特の甘さが口内に広がる。血走った目は正気の光を宿していない。過呼吸に似た息吹が自身のものだと彼女は気付かない。愛恵は加霞の手を払う。結局のところ、この男に謝意などないのだ。目的地もないがこの男と居る理由もない。居たくもない。拳が震えた。激情は行き場をなくし体内で竜巻き、汗を噴き出してやり場を探す。大きなエネルギーについていけず、彼女は空っぽになってしまった。ただ真っ直ぐ歩くのも重労働だった。膝がどうにか身体を支えている。灰になったまま佇む線香みたいだった。
「すみませんでした」
風に翻るように振り返る。愛恵は低姿勢になりアスファルトに額を擦り付けていた。
「すみませんでした」
「いいよ、もう。許したって言ったでしょ。土下座されても許せるわけないんだから……」
通行人に見られている。加霞も彼等を見回した。目を逸らされる。はたからはどう見えるのだろう。土下座をさせるまで許さない女が悪いのだろうか。犯され脅され乱暴され、人質を取られても、過ちを許さない側が悪いのか。
靴の裏がアスファルトを擦った。乾いた音がする。
「家の鍵、替えましょう。当然ですが僕が持ちます。僕が守ります。お二人を」
「信じてもらえると思ってるの」
「思っていません。思うわけがない。でも、役に立ちます。償います……」
顔を上げず喋るため愛恵の声はアスファルトで曇る。体内の器官、臓器、骨肉、津液、すべてが消えたような心地だった。怒りの湧く体力はないが哀れみはそうではない。彼女の気質は理路整然とできていなかった。哀れみと許せなさで板挟みになる。
「明日……気が変わらなかったら来て。気が変わったら、もう良いから二度と関わらないで…………」
土下座に背を向けたまま加霞は生きる屍みたいによろよろと歩いた。雑貨屋に行く気力も生鮮市場に寄る気力も損なった。ふらふらと近くの公園に入り、煤けた木のベンチに座った。数歩離れた自動販売機が遠く感じられた。端末が震え、メッセージを受け取る。宝生からだ。電話をしてもいいかという内容で、やりとりが面倒になり加霞から電話をかけた。彼は忙しい。アイドルだ。仕事の入り方は不規則だ。コールしている間に自動販売機で飲み物を買う。喋るには喉が引き攣った感じだった。身体は水分を求めていないけれども粘膜は潤いを求めている。ソーダを買った。
『もしもし、北条です。お姉ちゃんから掛けてきてくださって嬉しいです。大丈夫ですか?今』
「うん。時間は大丈夫なんだけれど、今外にいるんだ、わたし」
『ああ、ソウイウ用事で電話したかったんじゃないですよ。ちょっと時間が空いたから……お姉ちゃんの声、聞いておきたいなって思って。昨日も急に掛けて、急に切ったでしょう?だから』
彼は朗らかに笑った。目元が眩しそうに細まっていることだろう。容易に想像できた。
「そう。気にしなくていいのに。北条くんは忙しいんだから」
『お姉ちゃんも忙しいでしょう?専業主婦みたいなものじゃないですか。お勤めに出ていても、自分のこと以外にも家のことやっているんですから。お仕事休みでも家事に休みないでしょう?ボクのママも専業主婦ですからね。一人暮らししてみてから大変なんだなって気付きました。最初は栃木くんにあれこれアドバイスもらったりして』
ふふ、と彼は瑞々しく笑う。
「北条くん……」
昨晩で涸れた涙がまた溢れそうになる。労いの言葉が滲みる。惨めさに似た嬉しさが痛い。突き返そうとしてしまう。今の自分の有様、為体を知ってもそう言えるかと問い詰めそうになる。宝生はそれでも変わらない労いの言葉をかけるだろうか。後ろめたい。ただただ、すべての人間に対して、否、ろくでなしの弟2人以外の人間すべてに対して後ろめたい。末弟1人、守れないのである。
『お姉ちゃん……?』
「北条くんは、いい子だね」
『そうですか?どうたんです、急に。お姉ちゃん……何かあったんですか。相談のりますよ、ボク』
アイドルに話すことではない。彼女はやはりアイドルに隔たりを感じた。偏見もある。生々しい相談をするに相応う人ではない。彼等は悩める人々に浮き足立った世界をみせるのが仕事だ。つらく厳しい現実に生き甲斐を与えるのが存在意義のはずだ。そのために彼等は自らの自由を放り、恋愛を捨て、勉学を選べず、暴かれる日々に身を置いた。常々、宝生が話すことを総合すればそういうことになる。
「なんでもないよ。今日はあーくん、出掛けていったから何しようかなって。夕飯のこととか、考えてたところなんだ。夜には帰ってくるからご飯は作らないとなんだけど」
『そうですか。あーあ、お姉ちゃんのご飯食べたくなっちゃったじゃないですか。お好み焼きはどうですか?この前、栃木くんとチヂミ食べたので』
宝生はいつも通りだ。加霞は薄らと苦笑した。
「え、それならチヂミにしようかな。でもあれって小麦粉だよね?お米炊くしなぁ」
作ったことはなく、食べたこともないような気がするが、スーパーマーケットの棚にチヂミの素が売っていたのを見たことがある。
『お姉ちゃんはお好み焼きおかずにできないタイプですか。焼きそばとか』
「美味しいけれど、やっぱり気にしちゃうよ。あーくんも炭水化物大好きだから、炭水化物に炭水化物は何かと……ね?たまにはいいかな」
『たまにはいいですよ、たまには。ははは、晩ごはんの相談ならいつでも受け付けてますよ』
「足利くんと食べた物言う気でしょ」
あっけらかんと、しかし冗談めかして彼は肯定した。
『でも……本当に何かあったら誰かに相談してください。ボクにでも。お姉ちゃん…………ボクはアイドルで、誰かひとりの女の人を守るとかできませんし、ボクが守るとか守らないとか烏滸がましいことです。でもお姉ちゃんのことは……………ボクの輝いてるところで一番陰になるところにいてほしくないから』
「男の人が言う守るって、何なんだろうね。今は戦時中じゃないし、わたし誰にも狙われて………―ないよ。大丈夫。ありがとうね、北条くん」
ふと、愛恵の言葉が甦った。平穏な日々を害しておきながら、その口は守ると言った。
『舞夏さんと何かあったんですか?』
「何もない」
唐突に出てくる舞夏の名前にぎく、と胸は脈を飛ばす。
『お姉ちゃん……』
「何?」
『守るって言って口説く男にろくな人いませんよ。そんなような歌、歌ってて思います。傍にいるだけで守った気になれる男にろくな人、いません。守るよ傍にいるよって言って靡く状態の女の人、きっと、酷いことされます。ただ唾付けておくことが守るってことじゃないです、きっと。多分……ボク男だから分かんないですけど、ボク可愛いので、男の人、可愛い男のこともやっぱりナメてかかってくるし、あんな感じなのかなって。もっとですよね、きっと。女の人は』
宝生は自分で言っても聞いている側として恥じるところのないほど確かに可愛らしかった。中性的と断じるには一見して男性と判じられるものの、そこには嫋やかな雰囲気がある。言語化できない直感的な女性性というものを外見に於いては作為的に身に付けている。宝生に限らず、それが彼の事務所に多く所属するタレントの特色であるから雫漣もそうである。
「そっか……そうだね。でも舞夏ちゃんのことじゃないから。そこは誤解しないでね」
愛恵が言った「守る」には明確な対象がある。弟の双子の接近から守るというのだろう。
『そうですか?じゃあ、そういうことにしておきます。そういうことに……』
「本当だよ。だって北条くんが見つけたんじゃなかった?舞夏ちゃんがカノジョといるところ」
地毛を思わせる艶やかな栗色の髪。綺麗に切り揃えられた前下がりのボブヘア。内側へカールした毛先。小さな頭と長く細い首。肩、しなやかな腕、黒のロングスカート。ミラーボールみたいなピンヒールのサンダル。アイロンや洗髪、紫外線で傷んだ髪も気にせず雑に束ね、化粧も直さず、洗い晒しの草臥れた部屋着で目の前を往復する女をどういう目で見ていたのだろう。否、彼は"トモダチ"と表現したいたのだから、そこに恋人との比較はなかったのかも知れない。ひとりで自らを比較し、気儘に劣等感を抱いている。
『そうでしたね。モデルみたいな人でした。本当にモデルだったりして。舞夏さん、人当たりいいからなぁ。色々な繋がりがあったんでしょうね。とんだ面食いですよ』
「そうだね。すごく綺麗な人だったもの」
『お姉ちゃんも、綺麗ですよ。っていうかお姉ちゃんのほうが、綺麗です。舞夏さんはあの女の人のほうがよくても、ボクはお姉ちゃんが………いい』
加霞の見方からいって宝生の美的感覚はそこまで狂っているようには思えなかった。つまり彼女と感覚が近い。とするとどう贔屓目にみても舞夏の恋人と思しき女より加霞にとって自分のほうが"綺麗"とは考えづらい。これは宝生なりの気遣いだった。女同士は美を競争するものだという世間の認識を慮っているのだろう。だが舞夏の恋人と思われる女に勝ると思えるほど加霞も純心ではない。
「ありがとう、北条くん」
『本当ですよ。本当ですからね』
「うんうん。照れちゃうよ」
適当に受け取り、肯定する。そうするとこの手の話題は短く治まる。アイドルは大変だ。夢を見せなければならない。主義や思想を隠し、建前を守り、ひたすら無難なことを言い、当たり障りのないことしか発言権がない。ここを誤れば強い批判、或いは誹謗中傷が飛び交う。
「こんな話してて、時間は大丈夫なの?」
『はい。じゃあ、あと5分だけ。お姉ちゃんはどうなんです』
「わたしは大丈夫。公園で暇潰してたくらいだから」
ぽつ、と頬に水を感じた。空を見上げる。白に淡い灰色が斑ら模様になって揺蕩っている。嵐恋にタオルや傘を持たせなかったことを顧みていた。互いに数拍ほど静かになる。
『お姉ちゃん……ボクは本当に、この世で一番、お姉ちゃんがイイなって思います。綺麗とか綺麗じゃないとか、そんなのじゃなくて、お姉ちゃんがイイなって』
「どうしたの?わたし別にそこまで気にしてないし平気だよ?」
『い、いえ。深い意味はないです。そろそろ切りますね。相手をしてくださってありがとうございます』
「うん。またね」
通話はあっさりと切れた。どっちつかずな水滴が手や頬に降る。遠くで雷が鳴っている。今日は家にあるもので済ませるつもりで爪先は自宅に向く。マンションエントランスに霙恋の姿はもうなかった。しかし玄関の鍵が空いている。おそるおそるドアを引いた。雨音がする。だが外を振り返るとまだ雨は降っていない。図々しくも他人の家でシャワーを浴びているらしかった。三和土には嵐恋のでもない靴がある。おそらく霙恋のかも知れないが、だが確証がない。玄関扉を開け放したまま加霞は浴室に近付いた。躊躇いながらノックした。
「霙恋ちゃん……?」
返事はない。水の音が曇って聞こえる。霙恋でなかったら誰がいるのだ。彼等の憎しみは到底加霞の理解に及ぶものではない。見知らぬ人物に鍵を売り渡してはいないか。そういう事件が以前あったことを思い出す。女の暮らす家には価値が生まれるらしかった。
「霙恋ちゃん?」
脱衣所に繋がるドアを徐ろに開いた。流水音がいくらか鮮明になる。浴室に通じる磨りガラスが赤い。加霞は一瞬、直立不動になった。赤ワインを溢したどころでは済まない。ぶち撒けたみたいだった。誰が居るのかもう気にしている場合ではなかった。磨りガラスを引くと、バスタブに片腕を放った霙恋が真っ赤に染まって濡れている。よくある蝋燭みたいな顔色をしてぐったりしている。
「………姉さん」
だが起きた。タイルにへたり込み、母親に抱き上げてもらいたがる幼児みたいに手を伸ばした。後退り、避けてしまう。
「姉さんがいなきゃ生きていけない。姉さん………」
バスタブに溜まった湯から上がった腕は血を噴いている。今夜はすぐに風呂は使えないだろう。嵐恋には近くの公衆浴場に行ってもらうしかない。纏わりつかれた部屋着は湯に濡れ、赤く染まる。脚に顔を埋め、霙恋は姉を呼び続ける。
「救急車は自分で呼びなさい」
加霞は血塗れの濡れ鼠を躱し湯を止め、栓を抜いた。排水口が赤い水を吸い、こぉと唸る。水道代を請求したいくらいだ。何事もなかったように彼女はリビングに戻ろうとする。
「姉さん、俺を許してくれ。姉さんが居ないと生きていけない。姉さん、許してくれ。姉さん……姉さん、姉さんに捨てられたら死ぬしかない。生きていけない。姉さん……雫恋も嵐恋も殺して俺も死ぬ。姉さん、俺を捨てるな。姉さん愛して。俺を拒まないで姉さん」
彼はむくりと立ち上がった。容赦のない体重を後ろからかけられる。
「姉さん、俺が悪かった。俺が姉さんに酷いことをしたのがいけない。姉さん、嵐恋を捨てて俺と住もう?俺と俺の子供のことだけ可愛がってほしい。雫恋のことも嵐恋のことも、その他のよく分からん有象無象の連中のことも見ないでほしい」
血と水を垂らしながら霙恋は姉の背に凭れ、そして脱衣所の扉を閉めると彼女をそこに押し潰した。部屋着にべったりと血が付く。
「姉さん、してくれ。して………姉さんの中で気持ち良くなりたい」
「ちょっと!汚れる……っ」
嵐恋が鼻血を出すのとはまったく違う。相手が憎ければ血まで汚らしく感じられた。雫恋も昨晩は素手で他者の吐物に触れていた。この双子はそういう衛生観念なのである。
「触らないで……っ!」
「汚いか?俺は姉さんとしか生でしない。他の女が俺の子を孕むなんて考えられない。そんなのは俺がレイプされた気分だよ、姉さん。俺は姉さんの子供がほしい。姉さんの子供だけが…………しよう?してくれ。俺の子を産んでくれないか」
後ろから伸びた血だらけの手が加霞の腕を扉に磔にする。触れたところに赤い痕跡をつけていく。
「汚い………!やめて!こんなことしてないで、早く救急車呼びなさいよ……!」
「そんなことどうでもいい。姉さんとしたい。姉さんが俺の子産んでくれるならもう死んでもいい……」
非常に興奮した様子で霙恋は姉を嗅いだ。子猫が嵐を吹くような音をたてて姉の纏う空気を吸う。
「姉さんの中に入りたい。姉さん………」
「汚い………っ、汚い………、」
彼女は首を振った。
「血が繋がってないからか?血が繋がってないから汚いのか?昔嵐恋が頭を切ったときは姉さんも触っていただろう。それに俺は病気は持っていない。検査してある。姉さんにも、姉さんと俺の子にも感染したくないから……姉さんも、俺と雫恋としか生ではしてないだろう?雫恋にも検査させたよ。俺の姉さんにもしものことがあったら困るから。そうだろう?俺は姉さんに感染されるのなら別にいい。姉さんとしかしたくない。姉さんはどうなんだ?そこまで気にするのなら、あの入り浸っていた男に生でするのを赦したりしていないよな。ゴムが………出てこなかったと聞いているが」
ゴミ袋まで漁られていたのだ。加霞は腹を蹴られたような気持ち悪さを堪えた。
「気持ち…………悪い、」
感染症の問題だけでなく、それよりも先に彼女を襲ったのはもっと別の嫌悪感だった。
「このまま俺の血が入って、本当の姉になれば良いのにな。嵐恋が羨ましい。嵐恋は姉さんを見て欲情に苦しむことはないんだものな。姉さんに可愛がられて姉さんに一番に気にしてもらえるんだものな。嫉妬に狂いそうになることもない」
生唾を呑む音が真後ろで聞こえる。本当に血の繋がった姉弟ならば、こういう関係にはならなかっただろう。
「だがもう俺の姉さんだ。放さない」
首に歯が立つ。出血していないほうの手が加霞の服に入り込む。
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