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楚々としてまほろば 4話放置/文学青年/不思議男子/俺様
楚々としてまほろば 1 複合住宅の管理人兼大家代理のアルバイトをしたら住人たちに迫られる話
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とある大学から徒歩15分、少し寂れた商店街からひとつ住宅地のほうへ裏道に入ると、百目鬼荘という複合住宅があった。字面からするとどこかおどろおどろしく古びて不穏な感じがするが、長い歴史を経て廃墟然としていた木造アパートを改築し、崩れた外構も整備した。建物名で威圧しないよう、花が植えられ見栄えがよくなっている。ただ木板に達筆で書かれ煤けた表札は昔のものをそのまま用いているため、塀の真新しさにそぐわず字面の厳しさを助長した。そこの運営を手伝っているのが鹿霞だった。大学在学中ではあるが、修得単位に余裕ができたことあり、アルバイトも兼ねそこに住み込みはじめた。卒業後もここを家にする寸法だ。土地の所有者で彼女の近い親戚も承知している。
彼女の移り住んだ大部屋を除いて6つある部屋はすでに3つが埋まっていた。管理人の変更かつオーナー代理に対して律儀に挨拶に来たのは201号室の住人のみで他の2人は同い年の男性であることしか鹿霞は知らされていない。また相手側としても自分と同年代の女が新たに管理人兼オーナー代理に据わったことは知らないだろう。
エントランスを入ってすぐの管理人室で、彼女は煎餅を齧りながら時間を潰していた。仕事内容は特にないが、こうしているだけで日給が発生する。それは法律に則った正式なものではない。あくまで身内の贔屓によるものだ。彼女に外で、夜までアルバイトをさせたくないという思惑が透けていて、鹿霞もそれを承知していた。煎餅を齧り、エントランスの出入りを見つめているだけの作業でも、彼女なりに仕事を放棄しているわけではなかった。世間でいう法律で定義されたアルバイトもせず、小遣いをもらっているそれなりの申し訳なさ、後ろめたさがある。早く大学の講義を終えた日は草むしりに勤しむこともあった。201号室の住人には夕食が余れば渡す約束も交わしていた。彼の名は吹雪桜楽といったはずだ。飾りなのか本当に視力が低いのか定かでない、妙に顔と一体化せず浮いた感じのする眼鏡を掛けたひょろりとした青年でここから歩いて30分かかる隣の地区の有名大学に通っている。偏差値の高さでも特に知名度が高い。その彼が今帰ってきた。管理人室の小窓を叩く。それは住人の義務ではない。ただ彼が気を回してそうしたのだ。緩くパーマのかかった黒髪が今風で、白いシャツがよく似合っている。大きな腕時計が彼の腕を細く、しかし逞しく見せた。透明感のあるこの青年は内気そうで案外、人懐こい。そう積極的ではない鹿霞もこの者とは打ち解けて話せた。
「ただいま帰りました、霧雨さん」
鹿霞は住人の帰宅に小窓を開く。16時までの仕事で、すでに15時50分であるからこれで上がりだろう。この生活にタイムカードや労働基準法というものはないけれど。ただ彼女の生真面目さが問われるのみで、彼女としても親戚の―叔父を裏切りたくないのである。
「おかえりなさい。ロールキャベツを作るんですけれど、召し上がりますか。少し余りそうですから」
桜楽は穏やかな笑みを浮かべる。
「是非お願いします。嬉しいな。いつもすみません」
「いいえ。この前もゴミ捨て、手伝ってもらいましたから。温めてから持っていきますね。何時頃だと都合がいいですか」
この品の良い男は鹿霞に協力的で、特に力仕事などの時は自ら声を掛けることがあった。数日前も、同じ方向だからとゴミ袋を敷地前のボックスまで持っていってもらったのだ。
「ははは、ついででしたし、気にしなくていいのに。おれが取りにきます。7時頃はどうですか」
「お礼、させてください。取りに来てくださるんですか?7時ならちょうどわたしもごはんを食べる頃ですから、いい感じに温まっていると思います」
「お礼にしては、霧雨さんのお料理は美味しすぎます」
桜楽は小さく頭を下げて管理人室の前を通過していく。鹿霞も窓口を消灯した。管理人室を片付け、すぐ横の自室に戻る。ファミリー向けの規模の間取りでキッチンスペースは広い。すでに置かれているキッチンテーブルセットが一人暮らしには広過ぎてしまった。世間の時期とは外れているが、家を出て新しい暮らしがはじまるのを機に、彼女は料理の勉強をはじめた。レシピ本がただ明かりを照り返すテーブルの余白に積んである。
挽肉をキャベツに巻いていく。トマトソースで煮るかコンソメスープで煮るか迷っていたが桜楽にも渡すなら無難なコンソメスープがいいかも知れない―などと考えているときに窓口に置いたブザーが鳴った。消灯した管理人室を通り窓口を開ける。若い男が立っていた。明るい髪色で、金髪といえないまでも亜麻色で、頭頂部は黒髪が覗く。ブザーを鳴らしておきながら彼自身、何が起こっているのか分からなそうな顔をしている。嫋やかな雰囲気だが背丈はある。ぽかんとして鹿霞を見ていた。
「……あれ?」
人の目を見つめながら彼は首を傾げた。高校生が迷い込んだものと思い鹿霞も呆気にとられた。
「どういったご用でしょうか?」
「あっ、そだ。おで鍵落としちゃったんだ」
高校生みたいなのはぽむと手を打つ。
「ここの住民の方ですか?」
このアパートに高校生は住んでいない。鹿霞は名簿を調べた。201号室の吹雪桜楽は顔も名前も知っている。他の2人のどちらかである。とすると103号室の藤堂雅火か、203号室の弦木右琴である。
「お部屋の番号はいくつですか」
「………103」
鹿霞は管理会社に電話をする。こういう時の対処を訊ねる。提携している鍵会社がこの後やって来るらしい。マスターキーはあるが、鍵穴を替えることになるだろう。
「5時半に来るらしいので、中に入って待っていてください」
電話を切って改めてこの建物の住人に向き直る。彼は口を半開きにして鹿霞を見ている。指を差されている。だがすぐに自分でもう片方の手を下ろさせた。
「あっ、えっ?やっぱ、鹿霞ちゃん?」
彼はまたポメラニアンみたいな顔をし首を傾げた。
「え?」
「お、おでのこと覚えてない?」
新手の詐欺か胡散臭い勧誘に似ている。彼女は気持ち半歩退いてしまった。その反応に繁華街によく居そうな垢抜けた身形の、しかしぬぼっとした可憐さのある若い男は察したらしかった。
「覚えてない?中学のときの……」
鹿霞は「あっ」と声を上げた。確かに中学時代にいた。バレーボール部の男子マネージャーだったような気がする。男子バレーボール部が部員不足によって廃され、その際に転部を希望しなかったため次の年度まで女子バレーボール部のマネージャーになったという経緯があったように思う。ほんの短い期間だ。
「マネージャーさん?」
当時の彼は鹿霞よりも目線が低く、中性的でハムスターみたいな子だった。今では嫋やかな雰囲気はあれど、目線が高くなり、肩が張って喉には隆起が浮沈がある。
「そう!奇遇だね!ここで何してんの?」
彼はきゃらきゃらと笑った。今度は鹿霞がぽかんとした。何とも言えない空気感が流れたが、この懐かしい顔はきょとんとしている。
「……ここの、管理人のバイト……………?」
彼女自身、訳が分からなくなっていた。今、この中学時代、そこそこ顔を突き合わせていた人物の部屋について案内したということは、彼はこの百目鬼荘の住人である。名前を見てもまるで気付かなかった。
「えっえっ、鹿霞ちゃんってここに住んでるってこと?」
「そう。そこの部屋。大家さんみたいな感じですから、何かあったら言ってくださいね」
鹿霞は管理人室の奥の部屋を指した。
「鹿霞ちゃんがここに暮らしたなんて初めて知った。え、え、今何してんの?」
雅火とかいった中学時代に多少関わりのあった青年はずいと窓口に首を伸ばす。
「大学生」
「え、おでも」
同じ大学である。しかしこの雅火というのの所属している学科はキャンパス替えがあったため、互いに大学構内で見た覚えがなく、何より鹿霞のほうは彼の顔を言われなければ思い出せなかった。少女然としていて汗臭さやぬらぬらとした思春期のいやらしさ、虚栄心を拗らせて意気がる感じがなく、女子からはよく可愛がられていたのが確かにいたのは覚えている。しかし鹿霞の方では大して関わりがなかった。
「鍵屋さん来るまで待ってていいの?」
「はい」
管理人室に自宅へ帰れない中学時代の知人を迎え入れ、鹿霞はロールキャベツを作っていった。隣の部屋で寛ぐ雅火は当時の部員の中学卒業後の進路や現状などを語っている。鹿霞はほとんど縁が切れていたが、彼はそうでもないらしい。
予定の17時半に鍵屋がやってきた。鍵穴が付け替えられ、鹿霞が管理するほうの鍵も替えられた。業者が買えるとそこで解散かと思われたが、雅火は相変わらずぬぼっと突っ立っている。
「鹿霞ちゃん、おでン宅寄ってかないの」
不思議そうな顔で見つめられ、まるでそれが当然と言わんばかりである。
「お夕飯、作らないとだから。また今度」
自分だけの飯ではなく今日は桜楽との約束がある。雅火は聞いているのかいないのか、まだぼけっと立っていた。
「マネージャーさん?」
「雅火だよ」
「雅火くん」
確かに中学時代の肩書を今でも呼び続けるのはややこしい。鹿霞は素直に従った。
「家族と一緒に住んでる?」
「一人暮らしだよ」
「自炊してるんだ」
「うん。また何かあったら気軽に相談してね」
彼のほうでも特に用はないらしいく、鹿霞は話を打ち切った。キッチンに戻り、一度止めた火を点ける。透けたコンソメスープにロールキャベツが沈んでいる。ニンジンとジャガイモも浮かぶ。19時に桜楽がやってきた。約束のものを3つ入れたタッパーを渡す。
「美味しくいただきますね」
「お口に合うといいんですけれど。タッパーはそのまま返してくれたらいいので」
それでは、と短く切り上げたところで、相手の雰囲気が畏まったものに変わる。
「あの、霧雨さん」
「はい?」
一瞬だけ彼の目が泳いだ。タッパーを受け取った両手が震え、中のスープが漣を作る。
「今度2人で、どこか出掛けませんか。お食事でも……」
「あ……ごめんなさい。ここを空けるわけにはいかないので。けれど誘ってくださって嬉しいです」
鹿霞も桜楽から目を逸らした。大家の代理として休みを取ってここを空けられないのは概ね事実ではあるが、礼に礼をされてはきりがない。何よりこれは自炊のついでに分けたもので鹿霞にとって大した負担はなかった。心苦しさを抑え、丁寧な断りの言葉を選ぶ。
「そうですか。そうですよね。気が回らず申し訳ない」
乾いた愛想笑いが痛々しく響いた。
「いいえ。ここは空けられませんけれど、もしわたしの手作りでよかったら……いつかごはん食べに来てください。カノジョさんとかいたら、全然断ってくださいね」
彼女のこの最後に付け加えた気遣いに他意はなかった。ただ桜楽という人物は見目も良ければ性格も穏やかで、品が良い。雰囲気や接し方からしても恋人がいそうなところを感じていた。
「カノジョはいませんから、是非、お邪魔させてください」
相手の目に輝きが戻る。
「まだ料理の練習中なので、期待せずに待っていてください」
これは社交辞令であった。断ったのが申し訳なく自ら提案をしただけのことであり、やはり知らない女の作った飯よりもコンビニエンスストアの弁当やスーパーマーケットの惣菜のほうが美味しいのだろう。鹿霞にとって、これは社交辞令の応酬でしかなかった。中身は無いが人間関係には影響する。
桜楽はまだ何か話したそうであったが結局彼は何も言わずに改めて礼を言って帰っていった。
◇
タッパーは洗って返されていた。鹿霞の住む部屋の玄関扉の把手に小さなビニール袋に入れて掛けてあった。手紙も入っていた。綺麗な字で美味かったことと礼と昨晩の社交辞令に念を押す言葉が書かれている。それを回収して彼女は大学に向かった。
門前でぞろぞろと人集りが流れていく。そのほとんどが女子大生である。鹿霞はその先頭を歩く人物を遠目から見つめていた。背の高い男が歩いている。気怠るげに担いでいる鞄は有名なハイブランドを象徴する柄にロゴのエンブレムがゴールドに照っている。長い脚が颯爽と交互に入れ替わり、後ろに続く集団を顧みることもない。この大学に於いても世間的にも有名なファッションモデルである。鹿霞もその端麗な容姿に惹かれているひとりである。しかし目が合ったこともなければ、話したこともない。そもそも接点がなかった。離れたところで彼の姿が消えていくまで佇んでいた。声を掛けようと思ったことは一度もない。そういう距離までまず近付けなかった。ファンというほどではなく、恋心というほどしっかりしたものでもなかったが、どこか大学に行く精神的な意義にはなっていた。美しい現役ファッションモデルを追う人集りまで彼女は見ていた。
鹿霞にとって大学生活は決してつまらなくはなく、面白いことは多かったが地味なものだった。憧れのキャンパスライフなどというキャッチコピーのついたパンフレットのようにはならない。友人もいるけれど、そう多くはなかった。そしてあまり講義が被らなかった。この時期になると、周りの大学生たちの卒業単位の習得も落ち着いてきて、週の半数大学に行かない者もいるのだろう。必修単位の講義に合わせればそれも可能である。それでいて鹿霞は毎日大学に来ていた。早い時間に来て早い時間に終わることが多い。週に何回かはこうしてあの現役ファッションモデルとその人集りを目にした。これを見てから講義室に移動する。あの現役ファッションモデルのいない日は閑散としている時間帯だ。静かな構内を練り歩くのが好きだったが、彼のいるときは黄色い声が響き渡り朝の散歩などといってはいられなかった。
踵を返す。目の前に頭頂部だけ黒い亜麻色の髪の青年がぬぼっと立っている。ハーフアップにしているため可憐な顔立ちと相俟って背の高く肩の張った女性と紛うが、喉に影が落ちている。雅火である。
「こんばんにちは、鹿霞ちゃん」
「おはよう」
ぼうっとした顔がはっとする。
「おはよう!」
一瞬で笑顔が咲き誇る。鹿霞は愛想笑いを浮かべて彼の横を通り抜け、講義室に向かおうとした。
「鹿霞ちゃんもこの時間から?」
彼はよちよちと鹿霞を追い、無遠慮に腕を引く。突然懐き始める迷子みたいだった。
「そうだよ。マネ……藤堂くんも?」
「うん。遅刻しまくってるから単位取れるか分かんないケド!」
「バイトか何かしているの?」
夜遅くまでアルバイトをしていたり、早朝にシフトが入っている知り合いを幾人か知っている。タマネギの皮みたいな色の髪が左右に揺れる。
「フツーに寝坊」
「朝弱いんだ」
彼はかりかりと髪を掻いた。唸っているのか頷いているのか分からない声を出す。
「起こしにきてよ、鹿霞ちゃん」
「そういうサービスはやってないかな」
「起こしに来てよ~。ピンポンしてくれるだけでいいから~。卓球じゃないよ」
彼女はそれを冗談と受け取って軽く流した。雅火は講義室にまでついてくる。彼のぼけっとした顔を見る。彼も意味ありげに鹿霞を見つめた。無言のまま、互いに睛眸を一直線にした。
「同じの受けてたの?」
鹿霞から口を開いた。雅火は口を半開きにして彼女を見ている。話しかけられていることも分かっていないようだった。
「ほへ」
「自分の授業行かなくていいの?」
「ここだよ」
やはり同じ講義を受けている。鹿霞は中間の席をとっていたが、遅刻をしがちという彼はおそらく後ろの席におさまっていたのだろう。だから会わなかったのだ。会っていたとしても鹿霞からは雅火が同じ中学であったことは分からなかった。
「じゃあ同じの受けてたんだ」
「一緒だね!やっぱ鹿霞ちゃん、おでのコト起こさなきゃダメだよ。そしたらおで、鹿霞ちゃんが大学行くとき守ったげる!」
雅火は鹿霞の腕にしがみついた。中学時代もこうだったのだろうか。背が低く、声が高く、中学生女子に混ざっても浮いてしまうほど女児という感じで、控えめで物怖じした雰囲気があったのは漠然と覚えている。
鹿霞はやたらと馴れ馴れしい雅火から腕を引いた。
「藤堂くん、人懐こいな」
「そなコトないよ」
抜き取られていく彼女の腕を彼は放さなかった。
「普通は男の子と女の子でこういうことしないもの」
「じゃあフツーじゃないんだ。みんなフツーじゃないから、だいじょぶ!」
彼は鹿霞より低い姿勢をとって彼女を見上げた。目が大きい。
「勘違いされちゃうよ」
「いいよ。おで、鹿霞ちゃんのコト好きだもん」
「ありがとう」
「鹿霞ちゃんは?」
彼は目を離さずこてんと首を倒す。中学時代を思い出すきっかけになる人物ではある。好きというほど踏み入れた相手ではなく嫌いというにも要素が足りない。好きとも嫌いとも断じられる相手ではない。しかし好きと言えば角は立たず、嘘でも嫌いと言う必要はまずない。
「うちの建物の住人だし、好きだよ」
「じゃあ両想いだっ!両想いっ!両想い!」
雅火は鹿霞の腕だけでなく身体ごと抱き付いて、ぶちゅりとキスをした。男の唇によく知る色味のリップカラーが付いている。
「藤堂くん……っ!」
「おで、中学生のときね、鹿霞ちゃんのコト好きだったんだ」
頭は真っ白になったまま、耳は情報を得るものだから混乱した。
「………え?」
「中学生のとき、鹿霞ちゃんのコト好きだったんだ」
雅火は素直に繰り返した。鹿霞が知りたいのはそこではなかった。詳細である。彼女としては藤堂雅火という人物にほぼ思い出がない。女子バレーボール部が廃部になった男子バレーボール部をマネージャーとして引き取った程度の認識しかなかった。
「わたし知らない、それ」
「言ってないもん。変な空気になるじゃん、部活」
「確かに」
「女の子ってすぐ言いふらすし」
鹿霞も自らの体験から同意を示した。何人に告白をされた、誰から告白を受けたと鹿霞もよく聞かされた。悩み相談じみたものもあれば虚栄心によるものも含まれていた。嫌悪感を抱いている異性から恋愛感情を寄せられていることはひとりで抱え込めないつらさがある。好意を伝えることを良しとする歌はあくまで幻想であり、実際はその通りではない。欲の前に晒されていたことを知れば、恐怖し、不安になり、気拙い思いをし、自己嫌悪するものである。
「うん、言いふらしただろうね。わたしも」
「じゃ、これも言いふらして。おでたち、付き合いますって」
「うん?」
不思議な言い分についていけていない。
「だって両想いじゃん」
「付き合うって?付き合わないよ。ああ、お友達としてってこと?」
「好きって言った」
「言ったけれど……」
ずいと顔を近付けられ、鹿霞はたじろいだ。変わらず雅火は彼女の目を見澄ましている。その顔は麗かだが、無邪気なほどの瞳に一点凝視されるとある種の恐怖を煽られる。
「じゃあ両想いだから付き合ってる」
「友達として……だよね?びっくりしちゃった」
好意を持たれていたのは中学時代の話のようだ。鹿霞はわずかばかり本気にしたことを恥じた。すでに勢い任せのキスは彼女の中で無かったことになっている。犬猫の挨拶と同等だった。
「ちょっとずつ」
「え?」
「ちょっとずつ、カレカノになろう」
また訳の分からないことを言い出す相手に返す言葉が見つからない。呆れている半分、戸惑ってしまう。
「へへへ。鹿霞ちゃん。お部屋にも、遊びに行くね」
鹿霞にとっては縁遠く感じられたが、大学生ならば異性との距離感もそういうものなのかも知れない。多感な中学時代を経て、甘酸っぱい高校時代を経て、開放的な価値観の大学生に辿り着くのだろう。雅火の冗談を流し、まだ清掃員のいる人の少ない講義室に入っていく。片腕には人1人分がしがみついたまま離れなかった。やがて彼の友人たちがぞろぞろとやって来て鹿霞の隣から剥がされていった。派手な面子で、鹿霞とは正反対の大学生活をしているらしいのが一目で分かった。その中には現役ファッションモデルを追っかけていた顔もある。男女問わず、雅火はその間の抜けた空気感を可愛がられているらしい。鹿霞はさっと目を離した。
いつもと変わらない日を過ごし、自宅に帰る。管理人室の窓口のカーテンを開け、不在を告げる札を裏返す。ちょうどそのタイミングで桜楽も帰ってきた。少し雑談を交わして別れる。
彼女の移り住んだ大部屋を除いて6つある部屋はすでに3つが埋まっていた。管理人の変更かつオーナー代理に対して律儀に挨拶に来たのは201号室の住人のみで他の2人は同い年の男性であることしか鹿霞は知らされていない。また相手側としても自分と同年代の女が新たに管理人兼オーナー代理に据わったことは知らないだろう。
エントランスを入ってすぐの管理人室で、彼女は煎餅を齧りながら時間を潰していた。仕事内容は特にないが、こうしているだけで日給が発生する。それは法律に則った正式なものではない。あくまで身内の贔屓によるものだ。彼女に外で、夜までアルバイトをさせたくないという思惑が透けていて、鹿霞もそれを承知していた。煎餅を齧り、エントランスの出入りを見つめているだけの作業でも、彼女なりに仕事を放棄しているわけではなかった。世間でいう法律で定義されたアルバイトもせず、小遣いをもらっているそれなりの申し訳なさ、後ろめたさがある。早く大学の講義を終えた日は草むしりに勤しむこともあった。201号室の住人には夕食が余れば渡す約束も交わしていた。彼の名は吹雪桜楽といったはずだ。飾りなのか本当に視力が低いのか定かでない、妙に顔と一体化せず浮いた感じのする眼鏡を掛けたひょろりとした青年でここから歩いて30分かかる隣の地区の有名大学に通っている。偏差値の高さでも特に知名度が高い。その彼が今帰ってきた。管理人室の小窓を叩く。それは住人の義務ではない。ただ彼が気を回してそうしたのだ。緩くパーマのかかった黒髪が今風で、白いシャツがよく似合っている。大きな腕時計が彼の腕を細く、しかし逞しく見せた。透明感のあるこの青年は内気そうで案外、人懐こい。そう積極的ではない鹿霞もこの者とは打ち解けて話せた。
「ただいま帰りました、霧雨さん」
鹿霞は住人の帰宅に小窓を開く。16時までの仕事で、すでに15時50分であるからこれで上がりだろう。この生活にタイムカードや労働基準法というものはないけれど。ただ彼女の生真面目さが問われるのみで、彼女としても親戚の―叔父を裏切りたくないのである。
「おかえりなさい。ロールキャベツを作るんですけれど、召し上がりますか。少し余りそうですから」
桜楽は穏やかな笑みを浮かべる。
「是非お願いします。嬉しいな。いつもすみません」
「いいえ。この前もゴミ捨て、手伝ってもらいましたから。温めてから持っていきますね。何時頃だと都合がいいですか」
この品の良い男は鹿霞に協力的で、特に力仕事などの時は自ら声を掛けることがあった。数日前も、同じ方向だからとゴミ袋を敷地前のボックスまで持っていってもらったのだ。
「ははは、ついででしたし、気にしなくていいのに。おれが取りにきます。7時頃はどうですか」
「お礼、させてください。取りに来てくださるんですか?7時ならちょうどわたしもごはんを食べる頃ですから、いい感じに温まっていると思います」
「お礼にしては、霧雨さんのお料理は美味しすぎます」
桜楽は小さく頭を下げて管理人室の前を通過していく。鹿霞も窓口を消灯した。管理人室を片付け、すぐ横の自室に戻る。ファミリー向けの規模の間取りでキッチンスペースは広い。すでに置かれているキッチンテーブルセットが一人暮らしには広過ぎてしまった。世間の時期とは外れているが、家を出て新しい暮らしがはじまるのを機に、彼女は料理の勉強をはじめた。レシピ本がただ明かりを照り返すテーブルの余白に積んである。
挽肉をキャベツに巻いていく。トマトソースで煮るかコンソメスープで煮るか迷っていたが桜楽にも渡すなら無難なコンソメスープがいいかも知れない―などと考えているときに窓口に置いたブザーが鳴った。消灯した管理人室を通り窓口を開ける。若い男が立っていた。明るい髪色で、金髪といえないまでも亜麻色で、頭頂部は黒髪が覗く。ブザーを鳴らしておきながら彼自身、何が起こっているのか分からなそうな顔をしている。嫋やかな雰囲気だが背丈はある。ぽかんとして鹿霞を見ていた。
「……あれ?」
人の目を見つめながら彼は首を傾げた。高校生が迷い込んだものと思い鹿霞も呆気にとられた。
「どういったご用でしょうか?」
「あっ、そだ。おで鍵落としちゃったんだ」
高校生みたいなのはぽむと手を打つ。
「ここの住民の方ですか?」
このアパートに高校生は住んでいない。鹿霞は名簿を調べた。201号室の吹雪桜楽は顔も名前も知っている。他の2人のどちらかである。とすると103号室の藤堂雅火か、203号室の弦木右琴である。
「お部屋の番号はいくつですか」
「………103」
鹿霞は管理会社に電話をする。こういう時の対処を訊ねる。提携している鍵会社がこの後やって来るらしい。マスターキーはあるが、鍵穴を替えることになるだろう。
「5時半に来るらしいので、中に入って待っていてください」
電話を切って改めてこの建物の住人に向き直る。彼は口を半開きにして鹿霞を見ている。指を差されている。だがすぐに自分でもう片方の手を下ろさせた。
「あっ、えっ?やっぱ、鹿霞ちゃん?」
彼はまたポメラニアンみたいな顔をし首を傾げた。
「え?」
「お、おでのこと覚えてない?」
新手の詐欺か胡散臭い勧誘に似ている。彼女は気持ち半歩退いてしまった。その反応に繁華街によく居そうな垢抜けた身形の、しかしぬぼっとした可憐さのある若い男は察したらしかった。
「覚えてない?中学のときの……」
鹿霞は「あっ」と声を上げた。確かに中学時代にいた。バレーボール部の男子マネージャーだったような気がする。男子バレーボール部が部員不足によって廃され、その際に転部を希望しなかったため次の年度まで女子バレーボール部のマネージャーになったという経緯があったように思う。ほんの短い期間だ。
「マネージャーさん?」
当時の彼は鹿霞よりも目線が低く、中性的でハムスターみたいな子だった。今では嫋やかな雰囲気はあれど、目線が高くなり、肩が張って喉には隆起が浮沈がある。
「そう!奇遇だね!ここで何してんの?」
彼はきゃらきゃらと笑った。今度は鹿霞がぽかんとした。何とも言えない空気感が流れたが、この懐かしい顔はきょとんとしている。
「……ここの、管理人のバイト……………?」
彼女自身、訳が分からなくなっていた。今、この中学時代、そこそこ顔を突き合わせていた人物の部屋について案内したということは、彼はこの百目鬼荘の住人である。名前を見てもまるで気付かなかった。
「えっえっ、鹿霞ちゃんってここに住んでるってこと?」
「そう。そこの部屋。大家さんみたいな感じですから、何かあったら言ってくださいね」
鹿霞は管理人室の奥の部屋を指した。
「鹿霞ちゃんがここに暮らしたなんて初めて知った。え、え、今何してんの?」
雅火とかいった中学時代に多少関わりのあった青年はずいと窓口に首を伸ばす。
「大学生」
「え、おでも」
同じ大学である。しかしこの雅火というのの所属している学科はキャンパス替えがあったため、互いに大学構内で見た覚えがなく、何より鹿霞のほうは彼の顔を言われなければ思い出せなかった。少女然としていて汗臭さやぬらぬらとした思春期のいやらしさ、虚栄心を拗らせて意気がる感じがなく、女子からはよく可愛がられていたのが確かにいたのは覚えている。しかし鹿霞の方では大して関わりがなかった。
「鍵屋さん来るまで待ってていいの?」
「はい」
管理人室に自宅へ帰れない中学時代の知人を迎え入れ、鹿霞はロールキャベツを作っていった。隣の部屋で寛ぐ雅火は当時の部員の中学卒業後の進路や現状などを語っている。鹿霞はほとんど縁が切れていたが、彼はそうでもないらしい。
予定の17時半に鍵屋がやってきた。鍵穴が付け替えられ、鹿霞が管理するほうの鍵も替えられた。業者が買えるとそこで解散かと思われたが、雅火は相変わらずぬぼっと突っ立っている。
「鹿霞ちゃん、おでン宅寄ってかないの」
不思議そうな顔で見つめられ、まるでそれが当然と言わんばかりである。
「お夕飯、作らないとだから。また今度」
自分だけの飯ではなく今日は桜楽との約束がある。雅火は聞いているのかいないのか、まだぼけっと立っていた。
「マネージャーさん?」
「雅火だよ」
「雅火くん」
確かに中学時代の肩書を今でも呼び続けるのはややこしい。鹿霞は素直に従った。
「家族と一緒に住んでる?」
「一人暮らしだよ」
「自炊してるんだ」
「うん。また何かあったら気軽に相談してね」
彼のほうでも特に用はないらしいく、鹿霞は話を打ち切った。キッチンに戻り、一度止めた火を点ける。透けたコンソメスープにロールキャベツが沈んでいる。ニンジンとジャガイモも浮かぶ。19時に桜楽がやってきた。約束のものを3つ入れたタッパーを渡す。
「美味しくいただきますね」
「お口に合うといいんですけれど。タッパーはそのまま返してくれたらいいので」
それでは、と短く切り上げたところで、相手の雰囲気が畏まったものに変わる。
「あの、霧雨さん」
「はい?」
一瞬だけ彼の目が泳いだ。タッパーを受け取った両手が震え、中のスープが漣を作る。
「今度2人で、どこか出掛けませんか。お食事でも……」
「あ……ごめんなさい。ここを空けるわけにはいかないので。けれど誘ってくださって嬉しいです」
鹿霞も桜楽から目を逸らした。大家の代理として休みを取ってここを空けられないのは概ね事実ではあるが、礼に礼をされてはきりがない。何よりこれは自炊のついでに分けたもので鹿霞にとって大した負担はなかった。心苦しさを抑え、丁寧な断りの言葉を選ぶ。
「そうですか。そうですよね。気が回らず申し訳ない」
乾いた愛想笑いが痛々しく響いた。
「いいえ。ここは空けられませんけれど、もしわたしの手作りでよかったら……いつかごはん食べに来てください。カノジョさんとかいたら、全然断ってくださいね」
彼女のこの最後に付け加えた気遣いに他意はなかった。ただ桜楽という人物は見目も良ければ性格も穏やかで、品が良い。雰囲気や接し方からしても恋人がいそうなところを感じていた。
「カノジョはいませんから、是非、お邪魔させてください」
相手の目に輝きが戻る。
「まだ料理の練習中なので、期待せずに待っていてください」
これは社交辞令であった。断ったのが申し訳なく自ら提案をしただけのことであり、やはり知らない女の作った飯よりもコンビニエンスストアの弁当やスーパーマーケットの惣菜のほうが美味しいのだろう。鹿霞にとって、これは社交辞令の応酬でしかなかった。中身は無いが人間関係には影響する。
桜楽はまだ何か話したそうであったが結局彼は何も言わずに改めて礼を言って帰っていった。
◇
タッパーは洗って返されていた。鹿霞の住む部屋の玄関扉の把手に小さなビニール袋に入れて掛けてあった。手紙も入っていた。綺麗な字で美味かったことと礼と昨晩の社交辞令に念を押す言葉が書かれている。それを回収して彼女は大学に向かった。
門前でぞろぞろと人集りが流れていく。そのほとんどが女子大生である。鹿霞はその先頭を歩く人物を遠目から見つめていた。背の高い男が歩いている。気怠るげに担いでいる鞄は有名なハイブランドを象徴する柄にロゴのエンブレムがゴールドに照っている。長い脚が颯爽と交互に入れ替わり、後ろに続く集団を顧みることもない。この大学に於いても世間的にも有名なファッションモデルである。鹿霞もその端麗な容姿に惹かれているひとりである。しかし目が合ったこともなければ、話したこともない。そもそも接点がなかった。離れたところで彼の姿が消えていくまで佇んでいた。声を掛けようと思ったことは一度もない。そういう距離までまず近付けなかった。ファンというほどではなく、恋心というほどしっかりしたものでもなかったが、どこか大学に行く精神的な意義にはなっていた。美しい現役ファッションモデルを追う人集りまで彼女は見ていた。
鹿霞にとって大学生活は決してつまらなくはなく、面白いことは多かったが地味なものだった。憧れのキャンパスライフなどというキャッチコピーのついたパンフレットのようにはならない。友人もいるけれど、そう多くはなかった。そしてあまり講義が被らなかった。この時期になると、周りの大学生たちの卒業単位の習得も落ち着いてきて、週の半数大学に行かない者もいるのだろう。必修単位の講義に合わせればそれも可能である。それでいて鹿霞は毎日大学に来ていた。早い時間に来て早い時間に終わることが多い。週に何回かはこうしてあの現役ファッションモデルとその人集りを目にした。これを見てから講義室に移動する。あの現役ファッションモデルのいない日は閑散としている時間帯だ。静かな構内を練り歩くのが好きだったが、彼のいるときは黄色い声が響き渡り朝の散歩などといってはいられなかった。
踵を返す。目の前に頭頂部だけ黒い亜麻色の髪の青年がぬぼっと立っている。ハーフアップにしているため可憐な顔立ちと相俟って背の高く肩の張った女性と紛うが、喉に影が落ちている。雅火である。
「こんばんにちは、鹿霞ちゃん」
「おはよう」
ぼうっとした顔がはっとする。
「おはよう!」
一瞬で笑顔が咲き誇る。鹿霞は愛想笑いを浮かべて彼の横を通り抜け、講義室に向かおうとした。
「鹿霞ちゃんもこの時間から?」
彼はよちよちと鹿霞を追い、無遠慮に腕を引く。突然懐き始める迷子みたいだった。
「そうだよ。マネ……藤堂くんも?」
「うん。遅刻しまくってるから単位取れるか分かんないケド!」
「バイトか何かしているの?」
夜遅くまでアルバイトをしていたり、早朝にシフトが入っている知り合いを幾人か知っている。タマネギの皮みたいな色の髪が左右に揺れる。
「フツーに寝坊」
「朝弱いんだ」
彼はかりかりと髪を掻いた。唸っているのか頷いているのか分からない声を出す。
「起こしにきてよ、鹿霞ちゃん」
「そういうサービスはやってないかな」
「起こしに来てよ~。ピンポンしてくれるだけでいいから~。卓球じゃないよ」
彼女はそれを冗談と受け取って軽く流した。雅火は講義室にまでついてくる。彼のぼけっとした顔を見る。彼も意味ありげに鹿霞を見つめた。無言のまま、互いに睛眸を一直線にした。
「同じの受けてたの?」
鹿霞から口を開いた。雅火は口を半開きにして彼女を見ている。話しかけられていることも分かっていないようだった。
「ほへ」
「自分の授業行かなくていいの?」
「ここだよ」
やはり同じ講義を受けている。鹿霞は中間の席をとっていたが、遅刻をしがちという彼はおそらく後ろの席におさまっていたのだろう。だから会わなかったのだ。会っていたとしても鹿霞からは雅火が同じ中学であったことは分からなかった。
「じゃあ同じの受けてたんだ」
「一緒だね!やっぱ鹿霞ちゃん、おでのコト起こさなきゃダメだよ。そしたらおで、鹿霞ちゃんが大学行くとき守ったげる!」
雅火は鹿霞の腕にしがみついた。中学時代もこうだったのだろうか。背が低く、声が高く、中学生女子に混ざっても浮いてしまうほど女児という感じで、控えめで物怖じした雰囲気があったのは漠然と覚えている。
鹿霞はやたらと馴れ馴れしい雅火から腕を引いた。
「藤堂くん、人懐こいな」
「そなコトないよ」
抜き取られていく彼女の腕を彼は放さなかった。
「普通は男の子と女の子でこういうことしないもの」
「じゃあフツーじゃないんだ。みんなフツーじゃないから、だいじょぶ!」
彼は鹿霞より低い姿勢をとって彼女を見上げた。目が大きい。
「勘違いされちゃうよ」
「いいよ。おで、鹿霞ちゃんのコト好きだもん」
「ありがとう」
「鹿霞ちゃんは?」
彼は目を離さずこてんと首を倒す。中学時代を思い出すきっかけになる人物ではある。好きというほど踏み入れた相手ではなく嫌いというにも要素が足りない。好きとも嫌いとも断じられる相手ではない。しかし好きと言えば角は立たず、嘘でも嫌いと言う必要はまずない。
「うちの建物の住人だし、好きだよ」
「じゃあ両想いだっ!両想いっ!両想い!」
雅火は鹿霞の腕だけでなく身体ごと抱き付いて、ぶちゅりとキスをした。男の唇によく知る色味のリップカラーが付いている。
「藤堂くん……っ!」
「おで、中学生のときね、鹿霞ちゃんのコト好きだったんだ」
頭は真っ白になったまま、耳は情報を得るものだから混乱した。
「………え?」
「中学生のとき、鹿霞ちゃんのコト好きだったんだ」
雅火は素直に繰り返した。鹿霞が知りたいのはそこではなかった。詳細である。彼女としては藤堂雅火という人物にほぼ思い出がない。女子バレーボール部が廃部になった男子バレーボール部をマネージャーとして引き取った程度の認識しかなかった。
「わたし知らない、それ」
「言ってないもん。変な空気になるじゃん、部活」
「確かに」
「女の子ってすぐ言いふらすし」
鹿霞も自らの体験から同意を示した。何人に告白をされた、誰から告白を受けたと鹿霞もよく聞かされた。悩み相談じみたものもあれば虚栄心によるものも含まれていた。嫌悪感を抱いている異性から恋愛感情を寄せられていることはひとりで抱え込めないつらさがある。好意を伝えることを良しとする歌はあくまで幻想であり、実際はその通りではない。欲の前に晒されていたことを知れば、恐怖し、不安になり、気拙い思いをし、自己嫌悪するものである。
「うん、言いふらしただろうね。わたしも」
「じゃ、これも言いふらして。おでたち、付き合いますって」
「うん?」
不思議な言い分についていけていない。
「だって両想いじゃん」
「付き合うって?付き合わないよ。ああ、お友達としてってこと?」
「好きって言った」
「言ったけれど……」
ずいと顔を近付けられ、鹿霞はたじろいだ。変わらず雅火は彼女の目を見澄ましている。その顔は麗かだが、無邪気なほどの瞳に一点凝視されるとある種の恐怖を煽られる。
「じゃあ両想いだから付き合ってる」
「友達として……だよね?びっくりしちゃった」
好意を持たれていたのは中学時代の話のようだ。鹿霞はわずかばかり本気にしたことを恥じた。すでに勢い任せのキスは彼女の中で無かったことになっている。犬猫の挨拶と同等だった。
「ちょっとずつ」
「え?」
「ちょっとずつ、カレカノになろう」
また訳の分からないことを言い出す相手に返す言葉が見つからない。呆れている半分、戸惑ってしまう。
「へへへ。鹿霞ちゃん。お部屋にも、遊びに行くね」
鹿霞にとっては縁遠く感じられたが、大学生ならば異性との距離感もそういうものなのかも知れない。多感な中学時代を経て、甘酸っぱい高校時代を経て、開放的な価値観の大学生に辿り着くのだろう。雅火の冗談を流し、まだ清掃員のいる人の少ない講義室に入っていく。片腕には人1人分がしがみついたまま離れなかった。やがて彼の友人たちがぞろぞろとやって来て鹿霞の隣から剥がされていった。派手な面子で、鹿霞とは正反対の大学生活をしているらしいのが一目で分かった。その中には現役ファッションモデルを追っかけていた顔もある。男女問わず、雅火はその間の抜けた空気感を可愛がられているらしい。鹿霞はさっと目を離した。
いつもと変わらない日を過ごし、自宅に帰る。管理人室の窓口のカーテンを開け、不在を告げる札を裏返す。ちょうどそのタイミングで桜楽も帰ってきた。少し雑談を交わして別れる。
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