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セルフ二次創作「色移り」 リボン結びの履歴書 ※現パロ(家庭教師)
リボン結びの履歴書 7
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舐め回すような執事のような青年の視線が気になり霞のほうからも何度か彼に視線を送った。目が合うと長い睫毛が素速く瞬いてふいと気拙げに逸らされる。小皿に炒めたコンビーフと玉子を盛り付け、丁度良い頃合いでパンが焼き上がる。腹が減っているのかと何か作るよう申し出れば彼は驚いたような顔をして断った。まだ寝ていそうな珊瑚の部屋までトレーを持って朝食を運ぶ。10時から休みといわれるとこの他人の家で何をしていいのかも分からなくなる。それならば18時まで気難しい末弟に空回った授業をやっているほうがいい。説明はする、質問には答える。相手はおそらく聞いていない。聞いていたとしても喋らない。ビーズカーテンを潜る。じゃらじゃらと音がした。珊瑚はベッドに座っていた。霞を見るなり目を逸らす。
「朝ご飯です。しっかり食べてください」
1人で食わせるほうが気が楽なのだろう。霞もそのほうが気が楽だった。テーブルにトレーを置いてキッチンに戻る。
「なぁ、」
「無理に召し上がらなくても結構です。残してしまっても。珊瑚さんのペースで」
振り返らずにそう告げた。どうせ食べない。どうせ喋らない。どうせ目も合わさず、どうせ作った物も捨てることになるか、2人分腹に入れることになる。キッチンにあるテーブルで朝食を摂る。部屋の隅で置物のようにおそらく執事と思われる青年が霞を眺め、どちらが置物なのかも分からなかった。
「あの、何か…」
ちらちら、ちらちらと焦茶色の瞳が照る。次第に苛々しはじめた。次男に逐一報告する気なのだろうか。話によればどうやらこの青年はかなりの野心家らしかった。
「い、いいえ…」
彼は青白い顔をいくらか赤く染めて首を振った。コンビーフの玉子とじをトーストで挟んでものを食らい、空いた皿を水に浸す。これは家政婦がやるらしかった。まだ部屋の隅の置物は視線を寄越すが霞は気にも留めずキッチンを出て行った。
少しの間珊瑚をひとりにさせていたがそろそろ食べ終わる頃だろうとどうせ食べない朝食の皿を下げにいく。トーストだけ残され、コンビーフとともに炒めた玉子は消えていた。長男と次男には似ていない吊り目が霞を見た。
「なぁ、」
「お皿を下げますね」
この少年に口の中に出された。彼の所為ではないが、飲んだのは確かにこの者の精液だった。分かっている。この家で末男の肩身は狭い。長男が父権的で、次男には頭が上がらず、執事のような男はその次男側だ。分かっている。この少年も無理矢理、会ったばかりの女に舐められ、体液を飲まれたのだ。分かっている。しかし声も聞きたくなければ顔も見たくない。日当たりの良い廊下を歩く。10時上がりとすればもうすぐだ。家族に電話でもしようか。切るのがつらくなる。教材に目を通して、少し庭を散歩して。部屋から出ない。彼等には会わない。
キッチンにはまだ置物のように執事らしき青年が立っていた。ぼんやりとして監視するような眼差しではなく、無意識にきょろきょろと入ってきた霞を追っている。トーストをラップで包んで冷蔵庫にしまった。食器をまた水に浸す。また焦茶色と目が合う。彼はぼうっとしていたが弾かれたように我に返って腕時計を確認した。
「そろそろ、衣装合わせのお時間です」
「では、そう伝えてきます」
「はい。場所は分かりますか」
「はい」
衣装が並んでいる部屋は目にしたことがある。大きな部屋だった。一般家庭でないことはよく分かっていたがまるで絵本の中の城のようだった。また珊瑚の部屋に戻り衣装合わせの旨を伝えた。どうせ彼は喋らない。目も合わせない。顔も見たくない。少年は躊躇いながら悪趣味極まりない衣装合わせへと向かった。10時になって部屋に戻る。端末が気になった。夫と話がしたかったがどれも内容の無い話題ばかりだった。声が聞きたい。端末を握り込む。帰りたくなってしまう。耐えられるのか自信がない。ボタンを押し端末の画面が明るくなる。バッテリーが70%を切ればすぐに充電してしまう癖があった。夫は警告が来ても充電しない。叔父か弟が言ってやっと気付く。霞からは何も言わなかった。
部屋の扉がノックされ、すぐには大きく開けず隙間を作って相手を確かめた。明るい髪色と耳朶で揺れるリングピアスは長男だった。疑心を丸出しにしてしまった霞に気分を害した様子もなく、にかりと笑っている。
「霞ちゃん!ほら、準備して!」
きゃらきゃらした声質で叔父の親友は朗らかに言った。
「準備…ですか?」
「あれ?聞いてない?霞ちゃんのこと誘ったって聞いたんだけどな。じゃ、違うんだ」
「はい、おそらく。何も聞いておりません」
叔父の親友は少しばかり不思議そうな表情をしていたが、そっかそっか!と言って去っていった。部屋の前には石鹸の香りが残る。何か邸内が忙しくなるような予感がして霞は端末を握ると庭へ出てしまった。叔父の家族が来た時も家の中が騒めき、落ち着かなくなってしまう。叔父は苦笑しながら出掛けるよう勧め、霞からも弟には友人と遊ぶように言って外に出した。しかし長女ともなると叔父に恥をかかせるわけにいかなかった。時が経つにつれいくらか親戚との確執は解けていたが、それでも他人とはいえ家の中の騒動の不穏な感じからは離れたいものだった。広い庭は有料で入場できる異国の庭園という感じがあった。霞にはやはり嗜好を解せない妙な形に整えられた木々が並び、肉付きの良い女性の彫像が担いだ壺から水が流れて音を立てている。前ばかりぼんやりと見て歩いていたら落ちそうな囲いも何もない、落とし穴のような池の底にはタイルで絵が作られている。さらに奥に進むと煉瓦の敷き詰められた四辻の中心にテーマパークにありがちな花時計があったが、それよりは二回りほど小かった。その近くには敷地の奥では意味を成さない朱色の郵便受が生垣の奥にぽつりとひとつ佇んでいる。ここに迷い込んだ人、というような雰囲気さえある。蔦の絡んだアーチやラディッシュを抱えたウサギのオブジェなどで飾られ、一般家庭の暮らしとは程遠いもののように思えた。手入れされた草花を眺めながら奥に進む。詩人や絵描きでもない者が1人で来るようなところではないのかも知れない。何よりここはテーマパークではなく他人の家であった。バッタが草を揺らし、カナヘビが這っていく。蛾に分類されそうな蝶にも見える虫が羽ばたき、花に止まった。能天気な光景だった。庭園の果ては青々とした芝生で大きく開かれ、砂埃も見当たらない真っ白なガゼボが淡く陰を作っていた。意匠の凝った溝と隆起ばかりの柱や屋根、その下にある翼の生えたような腰掛も毎日磨いているのかも知れない。座れるほど頑丈な物には見えなかったが浅く座って少しの間休んだ。鳥が鳴いている。日が眩しくなる頃に霞の住んでいる地域にやってくる、弟がいうところの「喋る飛行機」という小型機の宣伝放送飛行もまるで存在しない世界だった。
暫く目を閉じて蔦や網目状になった屋根の狭間から射し込む光を浴びていた。少しずつ考え方が変わっていく。あの少年に向き合わなければ。叔父の顔を立てねば。叔父の親友は夫に雰囲気が似て、弟にもよく似ている。彼の望みを叶えたい。それで叔父も喜ぶ。頑張らなければ。挫けるな、と。夫と長話をしている場合ではない。日の光を借りた微睡みの中では何とでも決められた。
「霞様」
夫に似た声がする。息が弾んでいる。
「衣装合わせのお時間だとお伝えしたはずです」
夫とは違う静かな話し方だった。日差しに透かされた目蓋の裏の赤から緑を帯びた彩りを取り戻す。
「ですから珊瑚さんにはお伝えしました。もしかして、そちらに行きませんでしたか。部屋を出るのは確かに見たのですが」
きちんと傍に付いていなければならなかったのか。どっと疲れが押し寄せる。夜はきちんと寝たはずで、大した労働もしていないはずだ。
「衣装合わせは、霞様です。霞様のお召し物を選ぶんです!」
執事のような青年は語気を強めた。彼はジャケットを脱いでウェストコートのみの軽装で、少しずつ呼吸を整えいた。走ってきたらしい。
「この服で結構です。でなければこの前のメイド服で。大袈裟な」
次男には疎ましい弟を無理矢理女装させ妹扱いするだけでなく家庭教師にも仮装させ女性同士の関わりを観て愉しむ複雑な趣味があるらしかった。
「相応しい服装とはいえません」
執事然とした青年は跳ね除けるように言った。霞もまた弟に対して装飾過多で豪奢な人形のような服を着せ、髪も丁寧に梳かして巻いたり飾ったりしてみたいことは時折あった。弟がいる者の宿命なのかも知れない。姉や兄の趣味。妹が欲しい願望。弟の可愛いらしい姿を目に留めておきたい。口を出さないつもりでいたが微睡みの中で簡単に掌を返す。
「家庭教師にメイド服、弟に女装、そのほうが相応しい服装とは言えません。大体珊瑚さんご本人の意思はどうなんですか。彼個人の趣味ならあれこれ言いませんが、無理矢理そうさせているのなら精神的虐待、性的虐待では?」
「そうですね。ですが今は衣装合わせが先です」
話を聞いていないようだった。霞は彼から顔を背けた。
「付いてきてくださらないのなら、わたくしが運びます」
青白い顔をした中肉中背というには細さが際立つ青年が意気がっている。米俵ひとつ持ち運べるのかも分からない。青年は霞の前に立ち塞がる。失礼します、と言って彼女の身体が宙に浮く。この者に抱き上げられたばかりだったことを思い出す。しかし本当にこの細腕の青年だったのか疑わしかった。
「腕が折れますよ!」
「折れません」
テレビドラマや映画とは違う。霞は体型や体重を維持している俳優ではない。簡単に背丈はあれど華奢な男性が1人で運べる重さではないはずだ。
「重いんですよ!」
「標準か少し軽いくらいです」
膝や背に触れる体温に逃げ惑う。すると支える力が強まった。こつりこつりと靴音が小気味良く響き、女性の彫像が鳴らすせせらぎを掻き分ける。
「折れます!」
「折れません。暴れないでください。落としてしまいます!」
「いいです!落としてください!」
降りようと暴れたため青年の身体が傾く。持ち直すが彼の肩を勢いよく突っ撥ねた。
「危ないです、危な…っ」
上体が青年の身体から離れ、下肢はまだ彼に支えられていた。浮遊感と軟らかな圧迫感。水飛沫が上がる。痛みはなかったが硬さの残る肉感とぶつかった。額と額の間には拳1つ分の距離もなかった。
「…っ大丈夫ですか。お怪我は?」
シャツは肌を透かし、貼り付いている。青年の肉体に緩衝され痛みはない。
「大丈夫です」
「すみません。軽率でした。どこか痛みましたらすぐおっしゃってください」
彼は長い睫毛を伏せて謝った。水は呑気にちょぼちょぼと音を立てている。焦茶色の瞳が眼前で霞を捉え、親しい間柄よりも近い目交いで互いに固まった。
「湯を沸かします。それから衣装合わせに…」
無理矢理に話を切り出した感じがあった。蒼白な顔が赤くなり、背けられる。髪から水を垂らし、上体はずぶ濡れで、下半身は水に浸かったまま霞はその上に乗っていた。そのことに気付かなかった。
「ご、ごめんなさい」
慌てて青年の上から飛び退く。霞は両腕の袖と膝、パンプスが水に浸り、ほ水飛沫が所々濡らしていた。
「いいえ。俺が悪かったのです。行きましょう、風邪をひいてしまいます」
色がさらに濃くなったスラックスが強い波紋を描く。濡れて尚白くなった手を差し出される。罪悪感によってその霞は応えた。
「その、ごめんなさい…」
「謝らないでください。どう見ても俺の責任です」
石畳に跡がついていく。
「好きにしていいとのことでしたので、ホルターネックドレスとストールをご用意しました。クラシックコンサートですのでヒールは低いものを」
風呂から出ると着替えた執事らしき青年がひょいひょいとカバーの掛かった衣類と箱を差し出した。霞はバスタオル一枚でそれを受け取る。
「クラシックコンサート…ですか?」
「はい」
衣装合わせ、衣装合わせとうるさかったこの青年の意図を漸く理解する。
「ああ…あの」
次男から渡されたチケットは確かにクラシックコンサートのものらしかった。都合が良ければ、というようなことを言っていた。都合は良くない。余ったチケットは捌けただろう。次男に何をされたか忘れたわけではない。何より末男の面倒を看にきたのだ。
「どうしました」
「行きません。交通手段もありませんし」
「こちらで手配します」
霞は首を振った。彼は首を傾げる。
「行きません。あまり音楽のこととか、分かりませんし」
「……そうですか」
青年は衣装と靴の入った箱を引いた。邸内は静まりかえっている。
「他の方たちも10時で…?」
長い廊下の果ては照明が落とされ濃い陰に染まっている。
「皆会場へ行きました」
衣装合わせとそれに応じない女に拘って遅れたのかも知れない。不安が過ぎる。
「貴方は」
「珊瑚様のことがありますので」
「そうですか」
失礼します、と言って彼は立ち去ろうとする。青年の髪はまだ半乾きだった。
「お昼ご飯はわたしが作りましょうか…それとも作り置きがありますか」
池に巻き込んで落とした意識はある。全身が水に浸かった彼のほうが濡れていたというのにタオルで拭き取った程度で仕事に戻っている。
「いいんですか、お任せしても」
「はい。3人分ですね。他には」
「…おりません。3人分、よろしくお願いします」
恭しく頭を下げ、彼は忙しく去っていった。湯冷めしながら水没を免れた端末に連絡が入っていた。風呂に入っている間の時間でまだそう経っていない。掛け直すと、叔父の親友から誘われた演奏会に行くという話で、そこで会えるかも知れないというような内容だった。行けなくなったと答えると、叔父は普段の穏和な調子で「それが良いよ」と言った。叔父には会いたかったがこれから3人分昼飯を作ると約束したばかりだった。どうせ末男は少量しか食べない。2.5人分を作るつもりでキッチンに向かう。
「朝ご飯です。しっかり食べてください」
1人で食わせるほうが気が楽なのだろう。霞もそのほうが気が楽だった。テーブルにトレーを置いてキッチンに戻る。
「なぁ、」
「無理に召し上がらなくても結構です。残してしまっても。珊瑚さんのペースで」
振り返らずにそう告げた。どうせ食べない。どうせ喋らない。どうせ目も合わさず、どうせ作った物も捨てることになるか、2人分腹に入れることになる。キッチンにあるテーブルで朝食を摂る。部屋の隅で置物のようにおそらく執事と思われる青年が霞を眺め、どちらが置物なのかも分からなかった。
「あの、何か…」
ちらちら、ちらちらと焦茶色の瞳が照る。次第に苛々しはじめた。次男に逐一報告する気なのだろうか。話によればどうやらこの青年はかなりの野心家らしかった。
「い、いいえ…」
彼は青白い顔をいくらか赤く染めて首を振った。コンビーフの玉子とじをトーストで挟んでものを食らい、空いた皿を水に浸す。これは家政婦がやるらしかった。まだ部屋の隅の置物は視線を寄越すが霞は気にも留めずキッチンを出て行った。
少しの間珊瑚をひとりにさせていたがそろそろ食べ終わる頃だろうとどうせ食べない朝食の皿を下げにいく。トーストだけ残され、コンビーフとともに炒めた玉子は消えていた。長男と次男には似ていない吊り目が霞を見た。
「なぁ、」
「お皿を下げますね」
この少年に口の中に出された。彼の所為ではないが、飲んだのは確かにこの者の精液だった。分かっている。この家で末男の肩身は狭い。長男が父権的で、次男には頭が上がらず、執事のような男はその次男側だ。分かっている。この少年も無理矢理、会ったばかりの女に舐められ、体液を飲まれたのだ。分かっている。しかし声も聞きたくなければ顔も見たくない。日当たりの良い廊下を歩く。10時上がりとすればもうすぐだ。家族に電話でもしようか。切るのがつらくなる。教材に目を通して、少し庭を散歩して。部屋から出ない。彼等には会わない。
キッチンにはまだ置物のように執事らしき青年が立っていた。ぼんやりとして監視するような眼差しではなく、無意識にきょろきょろと入ってきた霞を追っている。トーストをラップで包んで冷蔵庫にしまった。食器をまた水に浸す。また焦茶色と目が合う。彼はぼうっとしていたが弾かれたように我に返って腕時計を確認した。
「そろそろ、衣装合わせのお時間です」
「では、そう伝えてきます」
「はい。場所は分かりますか」
「はい」
衣装が並んでいる部屋は目にしたことがある。大きな部屋だった。一般家庭でないことはよく分かっていたがまるで絵本の中の城のようだった。また珊瑚の部屋に戻り衣装合わせの旨を伝えた。どうせ彼は喋らない。目も合わせない。顔も見たくない。少年は躊躇いながら悪趣味極まりない衣装合わせへと向かった。10時になって部屋に戻る。端末が気になった。夫と話がしたかったがどれも内容の無い話題ばかりだった。声が聞きたい。端末を握り込む。帰りたくなってしまう。耐えられるのか自信がない。ボタンを押し端末の画面が明るくなる。バッテリーが70%を切ればすぐに充電してしまう癖があった。夫は警告が来ても充電しない。叔父か弟が言ってやっと気付く。霞からは何も言わなかった。
部屋の扉がノックされ、すぐには大きく開けず隙間を作って相手を確かめた。明るい髪色と耳朶で揺れるリングピアスは長男だった。疑心を丸出しにしてしまった霞に気分を害した様子もなく、にかりと笑っている。
「霞ちゃん!ほら、準備して!」
きゃらきゃらした声質で叔父の親友は朗らかに言った。
「準備…ですか?」
「あれ?聞いてない?霞ちゃんのこと誘ったって聞いたんだけどな。じゃ、違うんだ」
「はい、おそらく。何も聞いておりません」
叔父の親友は少しばかり不思議そうな表情をしていたが、そっかそっか!と言って去っていった。部屋の前には石鹸の香りが残る。何か邸内が忙しくなるような予感がして霞は端末を握ると庭へ出てしまった。叔父の家族が来た時も家の中が騒めき、落ち着かなくなってしまう。叔父は苦笑しながら出掛けるよう勧め、霞からも弟には友人と遊ぶように言って外に出した。しかし長女ともなると叔父に恥をかかせるわけにいかなかった。時が経つにつれいくらか親戚との確執は解けていたが、それでも他人とはいえ家の中の騒動の不穏な感じからは離れたいものだった。広い庭は有料で入場できる異国の庭園という感じがあった。霞にはやはり嗜好を解せない妙な形に整えられた木々が並び、肉付きの良い女性の彫像が担いだ壺から水が流れて音を立てている。前ばかりぼんやりと見て歩いていたら落ちそうな囲いも何もない、落とし穴のような池の底にはタイルで絵が作られている。さらに奥に進むと煉瓦の敷き詰められた四辻の中心にテーマパークにありがちな花時計があったが、それよりは二回りほど小かった。その近くには敷地の奥では意味を成さない朱色の郵便受が生垣の奥にぽつりとひとつ佇んでいる。ここに迷い込んだ人、というような雰囲気さえある。蔦の絡んだアーチやラディッシュを抱えたウサギのオブジェなどで飾られ、一般家庭の暮らしとは程遠いもののように思えた。手入れされた草花を眺めながら奥に進む。詩人や絵描きでもない者が1人で来るようなところではないのかも知れない。何よりここはテーマパークではなく他人の家であった。バッタが草を揺らし、カナヘビが這っていく。蛾に分類されそうな蝶にも見える虫が羽ばたき、花に止まった。能天気な光景だった。庭園の果ては青々とした芝生で大きく開かれ、砂埃も見当たらない真っ白なガゼボが淡く陰を作っていた。意匠の凝った溝と隆起ばかりの柱や屋根、その下にある翼の生えたような腰掛も毎日磨いているのかも知れない。座れるほど頑丈な物には見えなかったが浅く座って少しの間休んだ。鳥が鳴いている。日が眩しくなる頃に霞の住んでいる地域にやってくる、弟がいうところの「喋る飛行機」という小型機の宣伝放送飛行もまるで存在しない世界だった。
暫く目を閉じて蔦や網目状になった屋根の狭間から射し込む光を浴びていた。少しずつ考え方が変わっていく。あの少年に向き合わなければ。叔父の顔を立てねば。叔父の親友は夫に雰囲気が似て、弟にもよく似ている。彼の望みを叶えたい。それで叔父も喜ぶ。頑張らなければ。挫けるな、と。夫と長話をしている場合ではない。日の光を借りた微睡みの中では何とでも決められた。
「霞様」
夫に似た声がする。息が弾んでいる。
「衣装合わせのお時間だとお伝えしたはずです」
夫とは違う静かな話し方だった。日差しに透かされた目蓋の裏の赤から緑を帯びた彩りを取り戻す。
「ですから珊瑚さんにはお伝えしました。もしかして、そちらに行きませんでしたか。部屋を出るのは確かに見たのですが」
きちんと傍に付いていなければならなかったのか。どっと疲れが押し寄せる。夜はきちんと寝たはずで、大した労働もしていないはずだ。
「衣装合わせは、霞様です。霞様のお召し物を選ぶんです!」
執事のような青年は語気を強めた。彼はジャケットを脱いでウェストコートのみの軽装で、少しずつ呼吸を整えいた。走ってきたらしい。
「この服で結構です。でなければこの前のメイド服で。大袈裟な」
次男には疎ましい弟を無理矢理女装させ妹扱いするだけでなく家庭教師にも仮装させ女性同士の関わりを観て愉しむ複雑な趣味があるらしかった。
「相応しい服装とはいえません」
執事然とした青年は跳ね除けるように言った。霞もまた弟に対して装飾過多で豪奢な人形のような服を着せ、髪も丁寧に梳かして巻いたり飾ったりしてみたいことは時折あった。弟がいる者の宿命なのかも知れない。姉や兄の趣味。妹が欲しい願望。弟の可愛いらしい姿を目に留めておきたい。口を出さないつもりでいたが微睡みの中で簡単に掌を返す。
「家庭教師にメイド服、弟に女装、そのほうが相応しい服装とは言えません。大体珊瑚さんご本人の意思はどうなんですか。彼個人の趣味ならあれこれ言いませんが、無理矢理そうさせているのなら精神的虐待、性的虐待では?」
「そうですね。ですが今は衣装合わせが先です」
話を聞いていないようだった。霞は彼から顔を背けた。
「付いてきてくださらないのなら、わたくしが運びます」
青白い顔をした中肉中背というには細さが際立つ青年が意気がっている。米俵ひとつ持ち運べるのかも分からない。青年は霞の前に立ち塞がる。失礼します、と言って彼女の身体が宙に浮く。この者に抱き上げられたばかりだったことを思い出す。しかし本当にこの細腕の青年だったのか疑わしかった。
「腕が折れますよ!」
「折れません」
テレビドラマや映画とは違う。霞は体型や体重を維持している俳優ではない。簡単に背丈はあれど華奢な男性が1人で運べる重さではないはずだ。
「重いんですよ!」
「標準か少し軽いくらいです」
膝や背に触れる体温に逃げ惑う。すると支える力が強まった。こつりこつりと靴音が小気味良く響き、女性の彫像が鳴らすせせらぎを掻き分ける。
「折れます!」
「折れません。暴れないでください。落としてしまいます!」
「いいです!落としてください!」
降りようと暴れたため青年の身体が傾く。持ち直すが彼の肩を勢いよく突っ撥ねた。
「危ないです、危な…っ」
上体が青年の身体から離れ、下肢はまだ彼に支えられていた。浮遊感と軟らかな圧迫感。水飛沫が上がる。痛みはなかったが硬さの残る肉感とぶつかった。額と額の間には拳1つ分の距離もなかった。
「…っ大丈夫ですか。お怪我は?」
シャツは肌を透かし、貼り付いている。青年の肉体に緩衝され痛みはない。
「大丈夫です」
「すみません。軽率でした。どこか痛みましたらすぐおっしゃってください」
彼は長い睫毛を伏せて謝った。水は呑気にちょぼちょぼと音を立てている。焦茶色の瞳が眼前で霞を捉え、親しい間柄よりも近い目交いで互いに固まった。
「湯を沸かします。それから衣装合わせに…」
無理矢理に話を切り出した感じがあった。蒼白な顔が赤くなり、背けられる。髪から水を垂らし、上体はずぶ濡れで、下半身は水に浸かったまま霞はその上に乗っていた。そのことに気付かなかった。
「ご、ごめんなさい」
慌てて青年の上から飛び退く。霞は両腕の袖と膝、パンプスが水に浸り、ほ水飛沫が所々濡らしていた。
「いいえ。俺が悪かったのです。行きましょう、風邪をひいてしまいます」
色がさらに濃くなったスラックスが強い波紋を描く。濡れて尚白くなった手を差し出される。罪悪感によってその霞は応えた。
「その、ごめんなさい…」
「謝らないでください。どう見ても俺の責任です」
石畳に跡がついていく。
「好きにしていいとのことでしたので、ホルターネックドレスとストールをご用意しました。クラシックコンサートですのでヒールは低いものを」
風呂から出ると着替えた執事らしき青年がひょいひょいとカバーの掛かった衣類と箱を差し出した。霞はバスタオル一枚でそれを受け取る。
「クラシックコンサート…ですか?」
「はい」
衣装合わせ、衣装合わせとうるさかったこの青年の意図を漸く理解する。
「ああ…あの」
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「どうしました」
「行きません。交通手段もありませんし」
「こちらで手配します」
霞は首を振った。彼は首を傾げる。
「行きません。あまり音楽のこととか、分かりませんし」
「……そうですか」
青年は衣装と靴の入った箱を引いた。邸内は静まりかえっている。
「他の方たちも10時で…?」
長い廊下の果ては照明が落とされ濃い陰に染まっている。
「皆会場へ行きました」
衣装合わせとそれに応じない女に拘って遅れたのかも知れない。不安が過ぎる。
「貴方は」
「珊瑚様のことがありますので」
「そうですか」
失礼します、と言って彼は立ち去ろうとする。青年の髪はまだ半乾きだった。
「お昼ご飯はわたしが作りましょうか…それとも作り置きがありますか」
池に巻き込んで落とした意識はある。全身が水に浸かった彼のほうが濡れていたというのにタオルで拭き取った程度で仕事に戻っている。
「いいんですか、お任せしても」
「はい。3人分ですね。他には」
「…おりません。3人分、よろしくお願いします」
恭しく頭を下げ、彼は忙しく去っていった。湯冷めしながら水没を免れた端末に連絡が入っていた。風呂に入っている間の時間でまだそう経っていない。掛け直すと、叔父の親友から誘われた演奏会に行くという話で、そこで会えるかも知れないというような内容だった。行けなくなったと答えると、叔父は普段の穏和な調子で「それが良いよ」と言った。叔父には会いたかったがこれから3人分昼飯を作ると約束したばかりだった。どうせ末男は少量しか食べない。2.5人分を作るつもりでキッチンに向かう。
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