上 下
89 / 107
2 動乱の始まり編

089 帝国からの離反2

しおりを挟む
「その『頬に三日月形の傷を持つ男』というのは、帝国の特務機関『黒の手』の隊長ベイロンという男だ。皇帝ヴァルナードの腹心として、帝国の影の部分で暗躍している男だ。この男に睨まれた奴はまず帝国で生きていけない」

「俺はそのベイロンにスカウトされて『黒の手』へと入った。『黒の手』は表沙汰になるとマズい裏の仕事、暗殺や誘拐、偽情報の流布、とにかく色んなことをやる組織だ。だが、その存在はあんたも知らなかったくらい極一部の人間にしか知られていない。隊長のベイロンはとにかく優秀な男でな。奴は少し状況が変わっていれば、将軍としても立派にやっていけるほど、優れた判断力、統率力があり、そして一人の戦士としても一流の男さ」

 従来知らなかった帝国の裏側についてカルナスに語られると、エルンストは自分がいかに帝国の一部の面しか知らなかったかということを思い知らされた。

「それでなぜ君は『黒の手』から抜けようとしたのだ?」

「それがあんたに関係あるのか? ……まあいい。『黒の手』は帝国の重要な機関であるだけに、厳しい組織なのさ。万が一任務に失敗した時のために、自分の身元を消すことや、任務に命を差し出すことを平然と求められる。ありゃあ、騎士が国に忠誠を尽くす以上に身を捧げることが求められる所なのさ。元が盗賊の俺がそんなところでやっていけるはずが無いわな」

 カルナスは皮肉げに口元を緩めた。

「それで俺は『黒の手』から抜けだしたのさ。『黒の手』の追求は厳しい。内情を知っている俺には、いまも追手がかかっている。いずれ始末される時が来るだろうな」

 カルナスは自分の人生に諦めていた。『黒の手』の追手に対してだけでなく、身を持ち崩し、普通の人間から裏の人間へと転落したあの時から……。

「だからあんたも気をつけた方が良い。俺に会ったことは、きっと『黒の手』に嗅ぎつけられるぞ。覚悟しておくんだな」

 カルナスの言葉に、エルンストは眉一つ動かさなかったが、内心では面倒なことになったとうんざりした。彼はすでに地位や名誉などにこだわりはないが、すすんで面倒事に巻き込まれたいと思っているわけではない。

「それでどうするつもりだ? あんたの娘を殺したのは帝国特務機関の長ベイロンだ。復讐するつもりなのか?」

「さて、どうするかな……」

 エルンストは対応を決めかねていた。無論娘を殺したベイロンを憎んでいるが、経緯からすれば恐らく偶然の産物なのだ。「黒の手」は何らかの思惑があって王女を誘拐したが、たまたまその現場に娘が居合わせたということだろう。それを恨み、復讐することが正しいことなのか、エルンストには分からなかった。

 深く考え込んでいるエルンストを見て、カルナスが再び口を開いた。

「大金をもらった礼に大サービスだ。この話は更に俺を危うくするからな」

 カルナスは勿体ぶった口ぶりで溜めを作り、そして思いがけない爆弾を投げかけた。

「あんた、ベイロンを恨む筋合いじゃないと思っているんだろ? だがそれは間違いだ。あんたにはあいつを恨む十分な理由がある」

「なに? どういうことだ?」

「あんたの息子、確かエミールだったな。彼が死んだのは魔獣のせいだ、そういうことになっている。だが、それは嘘だ」

「なに!!」

 エルンストの眼が驚愕で見開かれた。そしてカルナスの話の流れから嫌な予感がしている。そしてなぜか、それは正しいという確信があった。

「そう。エミールを殺したのは、ベイロンなのさ。エミールは魔獣の討伐に成功したが、負傷し疲労していた。そこをベイロンに襲われ殺されたのだ」

「だが、なぜだ!? なぜ奴が息子を殺さねばならないんだ?」

 エルンストの体がわなわなと震えている。眼を大きく見開いて、叫んだ。カルナスは心底同情するような眼でエルンストを見た。

「あんた、自分がどれだけ貴族たちに憎まれているか知らないんだな。きっと自分で思っている以上だぞ」

 エルンストは貴族に憎まれていることを自覚していたが、これほどまでとは思っていなかった。認識がまだ甘かったということか……。

「そ、それで……ベイロンに息子を殺すように命じたのは誰なのだ!?」

 エルンストは聞くまでもなく、その人物の顔を頭に思い浮かべていた。

「ベイロンはいわば帝国の裏組織の長。そのベイロンに命じることができるのはただ一人。現皇帝ヴァルナード、その人さ」

 予想通りの名を耳にして、エルンストは怒りに震えていた。彼が身命を賭して仕えた帝国が、自分にこのような仕打ちをするとは信じたくなかった。

 エルンストは急に目の前が真っ暗になったような気がした。体が揺れ、テーブルに手をつかなければ姿勢を維持できなくなっていた。皇帝とベイロンに息子と娘を殺され、これでもまだ帝国に仕えるなら、それはもう精神的な奴隷と言えるだろう。この時、エルンストはついに帝国から離反する決意を固めたのである。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

彼はもう終わりです。

豆狸
恋愛
悪夢は、終わらせなくてはいけません。

初夜に「君を愛するつもりはない」と夫から言われた妻のその後

澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
結婚式の日の夜。夫のイアンは妻のケイトに向かって「お前を愛するつもりはない」と言い放つ。 ケイトは知っていた。イアンには他に好きな女性がいるのだ。この結婚は家のため。そうわかっていたはずなのに――。 ※短いお話です。 ※恋愛要素が薄いのでファンタジーです。おまけ程度です。

人質から始まった凡庸で優しい王子の英雄譚

咲良喜玖
ファンタジー
アーリア戦記から抜粋。 帝国歴515年。サナリア歴3年。 新国家サナリア王国は、超大国ガルナズン帝国の使者からの宣告により、国家存亡の危機に陥る。 アーリア大陸を二分している超大国との戦いは、全滅覚悟の死の戦争である。 だからこそ、サナリア王アハトは、帝国に従属することを決めるのだが。 当然それだけで交渉が終わるわけがなく、従属した証を示せとの命令が下された。 命令の中身。 それは、二人の王子の内のどちらかを選べとの事だった。 出来たばかりの国を守るために、サナリア王が判断した人物。 それが第一王子である【フュン・メイダルフィア】だった。 フュンは弟に比べて能力が低く、武芸や勉学が出来ない。 彼の良さをあげるとしたら、ただ人に優しいだけ。 そんな人物では、国を背負うことが出来ないだろうと、彼は帝国の人質となってしまったのだ。 しかし、この人質がきっかけとなり、長らく続いているアーリア大陸の戦乱の歴史が変わっていく。 西のイーナミア王国。東のガルナズン帝国。 アーリア大陸の歴史を支える二つの巨大国家を揺るがす英雄が誕生することになるのだ。 偉大なる人質。フュンの物語が今始まる。 他サイトにも書いています。 こちらでは、出来るだけシンプルにしていますので、章分けも簡易にして、解説をしているあとがきもありません。 小説だけを読める形にしています。

旅行先で目を覚ましたら森長可になっていた私。京で政変と聞き急ぎ美濃を目指す中、唯一の協力者。出浦盛清から紹介された人物が……どうも怪しい。

俣彦
ファンタジー
旅先で目を覚ましたら森長可になっていた私。場面は本能寺直後の越後。急ぎ美濃に戻ろうと試みると周りは敵だらけ。唯一協力を申し出てくれた出浦盛清に助けられ、美濃を目指す途中。出浦盛清に紹介されたのが真田昌幸。

【完結】神狐の巫女姫☆妖奇譚 ~封印された妖を逃がした陰陽の巫女姫、追いかけた隣大陸で仮面王子に恋しました~

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
 ――やだ、封印の木札が割れちゃった!?  東開大陸を支配する和国皇族の末姫アイリーンは、封印された妖(あやかし)をうっかり逃してしまう。バレないうちに捕まえようと陰陽術を使い、夜中に禍狗(まがいぬ)の妖と戦い始めた。そんな彼女が魔物を追って侵入したのは、隣の大陸フルールのビュシェルベルジェール王家直轄の墓所だった! 「早く行ってっ! あなたがいたら全力を出せないわ」 「君を置いて行けない」  狐面で忍び込む御転婆姫と、仮面で応じる英雄王子。危険な場面で助け合いながらも、獲物の取り合いが始まる。皇家や王家の思惑も入り混じる中、ドタバタする彼と彼女の恋の行方は?!  ※ハッピーエンド確定、どたばたコメディ風 【同時掲載】小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2024/08/04……完結 2024/03/04……エブリスタ、#ファンタジートレンド2位 2024/03/03……連載開始

金貨1,000万枚貯まったので勇者辞めてハーレム作ってスローライフ送ります!!

夕凪五月雨影法師
ファンタジー
AIイラストあり! 追放された世界最強の勇者が、ハーレムの女の子たちと自由気ままなスローライフを送る、ちょっとエッチでハートフルな異世界ラブコメディ!! 国内最強の勇者パーティを率いる勇者ユーリが、突然の引退を宣言した。 幼い頃に神託を受けて勇者に選ばれて以来、寝る間も惜しんで人々を助け続けてきたユーリ。 彼はもう限界だったのだ。 「これからは好きな時に寝て、好きな時に食べて、好きな時に好きな子とエッチしてやる!! ハーレム作ってやるーーーー!!」 そんな発言に愛想を尽かし、パーティメンバーは彼の元から去っていくが……。 その引退の裏には、世界をも巻き込む大規模な陰謀が隠されていた。 その陰謀によって、ユーリは勇者引退を余儀なくされ、全てを失った……。 かのように思われた。 「はい、じゃあ僕もう勇者じゃないから、こっからは好きにやらせて貰うね」 勇者としての条約や規約に縛られていた彼は、力をセーブしたまま活動を強いられていたのだ。 本来の力を取り戻した彼は、その強大な魔力と、金貨1,000万枚にものを言わせ、好き勝手に人々を救い、気ままに高難度ダンジョンを攻略し、そして自身をざまぁした巨大な陰謀に立ち向かっていく!! 基本的には、金持ちで最強の勇者が、ハーレムの女の子たちとまったりするだけのスローライフコメディです。 異世界版の光源氏のようなストーリーです! ……やっぱりちょっと違います笑 また、AIイラストは初心者ですので、あくまでも小説のおまけ程度に考えていただければ……(震え声)

聖女なので公爵子息と結婚しました。でも彼には好きな人がいるそうです。

MIRICO
恋愛
癒しの力を持つ聖女、エヴリーヌ。彼女は聖女の嫁ぎ制度により、公爵子息であるカリス・ヴォルテールに嫁ぐことになった。しかしカリスは、ブラシェーロ公爵子息に嫁ぐ聖女、アティを愛していたのだ。 カリスはエヴリーヌに二年後の離婚を願う。王の命令で結婚することになったが、愛する人がいるためエヴリーヌを幸せにできないからだ。  勝手に決められた結婚なのに、二年で離婚!?  アティを愛していても、他の公爵子息の妻となったアティと結婚するわけにもいかない。離婚した後は独身のまま、後継者も親戚の子に渡すことを辞さない。そんなカリスの切実な純情の前に、エヴリーヌは二年後の離婚を承諾した。 なんてやつ。そうは思ったけれど、カリスは心優しく、二年後の離婚が決まってもエヴリーヌを蔑ろにしない、誠実な男だった。 やめて、優しくしないで。私が好きになっちゃうから!! ブックマーク・いいね・ご感想等、ありがとうございます。誤字もお知らせくださりありがとうございます。修正します。ご感想お返事ネタバレになりそうなので控えさせていただきます。

【完結】転生したら侯爵令嬢だった~メイベル・ラッシュはかたじけない~

おてんば松尾
恋愛
侯爵令嬢のメイベル・ラッシュは、跡継ぎとして幼少期から厳しい教育を受けて育てられた。 婚約者のレイン・ウィスパーは伯爵家の次男騎士科にいる同級生だ。見目麗しく、学業の成績も良いことから、メイベルの婚約者となる。 しかし、妹のサーシャとレインは互いに愛し合っているようだった。 二人が会っているところを何度もメイベルは見かけていた。 彼は婚約者として自分を大切にしてくれているが、それ以上に妹との仲が良い。 恋人同士のように振舞う彼らとの関係にメイベルは悩まされていた。 ある日、メイベルは窓から落ちる事故に遭い、自分の中の過去の記憶がよみがえった。 それは、この世界ではない別の世界に生きていた時の記憶だった。

処理中です...