千の鱗と一のおやすみ

伊藤影踏

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3.今夜から寝かせない

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なお腹の立つことに、テオドアは追ってこなかった。一日中外で視察をして回って、夕食には帰ってきたらしいがパティシスが夕食を部屋でとったので顔を合わせていない。夜も更けて、このまま寝るのも納得がいかないパティシスが長椅子に寝そべっていると、戸口にそろそろとテオドアが姿を見せた。
「……ティティさん、怒ってる……?」
「別に」
酒を舐めながらテオドアを見向きもしないパティシスに、テオドアは情けないため息をついていつもの机に向かった。しばらくかりかりとペンの音だけが響いて、その音に眠りを誘われかけるが、ふいにペンの音がぴたりと止まる。
「……最初に言えればよかったと、おれも思ってるんだけどさ、ことがことだから……」
テオドアがぐずぐずと要領を得ないことを言いはじめるので、パティシスはむくりと起き上がってサイドテーブルにタンと音高く酒のグラスを叩きつけた。
「だから、どうした! そのまま墓まで持っていくつもりか! 順序があるというなら順序立てて話すがよい。私がそれも許さぬほど狭量な女に見えるか!」
テオドアは椅子の向こうで大きな肩をきゅっと縮め、おそるおそるといったふうにパティシスを振り向いた。それからゆっくりと大きく息をつき、立ち上がってパティシスの前に椅子を引き寄せて座る。何から話そうかと思案する様子のテオドアに、パティシスは有無を言わさず酒で満たしたグラスを突きつけた。
「え、これティティさんが飲んでるやつ」
「かまうものか。少しは舌を潤してから話せ」
テオドアはそっとグラスを受け取り、ぐっと飲み干してテーブルに置く。それで少し気持ちもほぐれたようで、和らいだ表情で口を開いた。
「……おれが王位継承権を失ってここにいるのは理由がある。この国は修道会を権力の基盤とする王が原住民を改宗させ、教化して作ったずいぶん歴史の浅い国だ。歴代の王は何より宗教政策を重視して統治に当たる。開拓しようとする土地にはまず教会を作るんだ。宗教の統一性は、この国にとって最も大事なことだ」
ゆえに、王族はみな聖職者である、とテオドアは語る。もちろん王家に生まれたテオドアも敬虔な信者であり、また民衆の導き手となるはずだった。
「……でもねえ、おれにはたぶん、信仰って向いてなかったんだな。興味のあることになんでもふらふらしちゃうからさ。……それで、十五の歳のころ、悪魔崇拝の疑いを受けて一度牢獄につながれたんだよ」
パティシスは首をかしげる。故郷にも宗教のようなものはあったが、それで人を投獄するようなことはなかった。いまいちぴんときていない顔のパティシスに、テオドアは苦笑する。
「ぴんとこないよね。まあ、それがあながち根拠のない話でもなくてさ。……おれは古代の竜神信仰の研究をしてたんだ。今でもしているんだけど」
そう言って、テオドアは大事に抱えていた本を広げる。そこにはテオドアの几帳面な字のほかに、古代の壁画でも写したのだろうか、拙い絵で体の長い竜のようなものが描かれていた。その下に並んだ文字に、パティシスは小さく声をあげる。
「この文字は……見たことがある、私の故郷にも伝わる古代文字だ」
「ああ、やっぱりそうなんだ」
テオドアが顔をほころばせる。パティシスははっと顔をあげた。
「もしかして、その研究のために私を……?」
パティシスに見つめられ、テオドアはばつの悪そうな顔になった。
「……うん、まあ……ごめんな、あんまり愉快な話じゃないだろ?」
大きな体を小さくすぼめて本を閉じるテオドアに、パティシスは脱力して長椅子の背に寄りかかる。
「わけもわからぬまま放っておかれるのと、自分に利用価値を認められて迎えられたと知るのと、どっちが愉快だろうな」
皮肉のつもりもなかったのだが、テオドアはますます小さくなってしまう。
「うう……悪かったよ」
パティシスは手を伸ばしてグラスに酒を満たし、もう一度口に運ぶ。
「それで、あなたを牢獄から救ってくれたのはどこのどなたなんだ」
「えっ?」
「王位継承権を奪われたとはいえ、こうして要衝の領主として日々忙しくしている。王宮で権力争いに明け暮れるよりはよっぽどましな生活だと思うがな。一度投獄されて、再び日の目を見るには相当な力を持つ庇護者が必要だろう?」
テオドアは前髪の向こうで目をぱちくりさせ、ようやく自分の話を求められていることに気づいたようだった。
「……ああ、もう亡くなったんだけど……偉い神学者の先生で、おれのやってることを学術的に認めてくれたひとがいてね。その人のおかげで、古代信仰の痕跡がたくさん残っているこの領地を治めることが許されたんだ」
「そうか……」
パティシスは静かに目を閉じる。テオドアがその神学者に救われ、パティシスもテオドアに救われた、と思ってよいだろう。人と人とは、そうして繋がっていくものなのかもしれない。
「……いつか、その方の墓参りがしたいな。私が詣でて喜ばれるものかは知らないが」
テオドアは子供のように笑う。
「きっと喜ばれるよ。綺麗なものの好きな人だった」
しばらく思案したパティシスは、どうやら自分を綺麗だと言われているらしいことに気づいてかっと耳まで赤くなる。少し残っていた酒を飲み干して、ふらふらと寝台に向かった。
「酔いが回った。寝る!」
「えっ、ティティさん大丈夫かい? 水を持って来させるよ」
「いらん!」
寝台で毛布にくるまると、ばくばくと胸の鼓動がうるさい。美しいと愛でられることには慣れていたつもりが、たかが綺麗のひとことでこんなに動揺する理由がわからない。きっと酒のせいだと念じているうちに、いつの間にか寝入っていた。


「ようこそ、ティティさん。ここがおれの悪魔教の礼拝堂だよ」
冗談めかしてパティシスを招き入れたテオドアはどこか浮かれているように見えた。パティシスはその円形の部屋に足を踏み入れ、高々と広がる頭上の吹き抜けを見上げる。細やかな彫刻の施された窓枠が上まで伸び、天井のアーチにはタイルで夜空が描かれている。なつかしい、と反射的に思った。
「あなたが……作ったのか?」
「ううん、おれは修復しただけ。この城は意外と歴史が古くてね、もとは原住民の王が使っていたらしい」
テオドアはパティシスと並んで遠い天井を見上げる。ちりひとつなく清められた空間は静かで、窓からは夕方の暖かい光が斜めに差し込んでいる。やがて日は沈み、夕陽に代えて月光がこの祈りの場を照らすのだろう。
「ここはその中でも王の個人的な礼拝に使われていたみたいだね。異教の色が濃い建物はみんな壊されて作り変えられたんだけど、ここは偶像や壁掛けが撤去されただけで残された。いまいち狭いからほかの使い道がなかったみたいで、おれが赴任したときには物置だったんだけど」
「……ずいぶん天井の高い物置だな」
パティシスの言葉にテオドアが明るく笑うと、高い天井によく響いた。パティシスは部屋の中央に進み出て姿勢を整え、深く息を吸い込む。

──金の星燃える夕空、日を追うてゆけ、戦士の魂。
銀の星降る安らぎの闇、山に抱かれて、眠れよ眠れ。
月めぐる朝な夕なに、問わず語りの、神世の物語──

ゆったりと歌うと、テオドアは口をぽかんと開けてその残響に聴き入っていた。少し恥ずかしくなったパティシスが咳払いをすると、それでようやく我に返ったのかぱちぱちと拍手をする。
「すごいなあ……おれ、ここにティティさんを迎えられてよかった……」
早くも涙ぐんでいるので、パティシスはますます気恥ずかしくなる。テオドアはずびっと鼻をすすった。
「今のはティティさんの故郷の歌なのかい?」
「歌というか、おとぎ話のはじめの決まり文句だ。子供に語るときにはこのように節をつける」
何気なくそう答えたのだが、テオドアははっとした様子で勢い込んでパティシスに詰め寄ってきた。
「ティティさんも、そのおとぎ話を聞いて育ったのかい? どのくらい覚えている?」
「え、ああ、まあ、人並みには……」
前のめりのテオドアにたじろいで後ずさると、ますます距離を詰められる。ついにがしっと両肩をつかまれ、爛々と輝く瞳にじっと見据えられて言葉を失った。
「決めた。今夜からしばらく寝かせないよ、ティティさん」
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