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しおりを挟む「は、っ……ァ!」
狂ったように跳ねる鼓動、息苦しさを感じて少女は目を覚ました。
全身水を被ったような冷や汗が、ネグリジェや長い髪を濡らして体にまとわりついている。
その感触が絡み付くような男の勘違いした慰撫にそっくりで、鳥肌を立てて戦慄いた。
身を守るように二の腕を掴み、体を丸める。
窓からは微かな月明かりさえも見えない。
室内には重苦しい漆黒がうずくまっているようだ。
何故、あんな夢を?
少女は一向になくなる気配のない恐怖に、涙さえ浮かべていた。
「お母様…」
否応なくガタガタ震える体をシーツにもぐらせると、少女は指を組み、目を強く閉じて祈った。
あれはまだ少女の母親が生きていた頃の話だ。
エニブエマ王国、王都のはるか西側に位置したところに、レーゼン伯爵家の治める領地がある。
鈴なりの赤い果実とそれを使った果実酒が特産品で、辺りには険しい小山のような岩礁地帯があり、内陸部では果実栽培と小麦畑が五分の割合で広がっている。
岩礁地帯にほとんどを守られる形となっているこのクズマは割合に平和な領地だ。
陸路で繋がる国においても、エニブエマより小さいものの豊かな風土の穏和な国だ。
対面する領主同士も仲が良く、永く友誼を結ぶ友好国でもある。
しかし、今は王国を守るように縦長に伸びたその領地の国境に、他国とわかつ形の長大な森が横たわっている。
煤と灰の葉を持つ毒の宿る木と植物に、足元には鋭く這い回るイバラが幾重にも重なった悪名高き森。
とても強い力をもった古代の魔法使いが遺した遺物の一つであるとされ、生物は絶えて居らず、ただ人の侵入を強烈に拒む死の森だとされる。
この国のみならず、森に近い国すべてから当然のごとく恐れられていた。
近付くものは重い怪我を負うか死ぬかの二つしかないのに、この森は毎日のように自分で動き回る。
木の根を使い、イバラを這わせ、大地を掘り返す蛇のようにのたうち回りながら移動する。
どこの国もみな自分の国へ来てくれるなと願うばかりの森だ。
その森の様子がおかしくなったのは、森が這い回ってクズマへ来てからだった。
一日が経ち、半月が経ち、一月経とうとも、森はピクリとも動かなくなった。
領主である伯爵の苦悩は重く、森の滞在が一月を越えた辺りでストレスから吐血。
娘のフォワレは泣きわめき、夫人が必死に台頭することにより、なんとかクズマの平穏は保たれた。
フォワレは今日も庭師のコーセルのあとをてくてくと着いていく。長年勤めてくれている庭師のゴーゼフは腰をやられたらしく、今は孫であるコーセルが代わりにやって来ている。
領主の館は田舎造りで広く、庭も大きい。
若い庭師のコーセルは幼いフォワレにとって兄のような存在で、母が領主業に専念しだしてからは、触発されたように彼の仕事をフォワレなりに手伝っていた。
領地全体がそうであるように、おおらかなこの屋敷にフォワレを止めるものはいない。
「お嬢様、ご覧下さい」
柔和な笑みを浮かべたコーセルは、大きな裁ち鋏を操る手を止めて、近くの低木に生った赤い実を指差した。
パチパチと切られる枝や葉っぱを拾い集めて満足げだったフォワレも、仰がれた先を見て目をきらめかせる。
赤くつやつやとした楕円の実は10歳になったばかりのフォワレにとって宝石よりも価値のあるものだ。
コーセルとの秘密の楽しみの一つ。
それは、フォワレの好物のグミの実だった。
「わー!食べていいっ?」
「ふふふ…お嬢様、食べるのはお手を洗われてからですよ」
「う、うー…」
自分の汚れている手とグミを交互に見つめて悔しそうに唸る。
汚い手で採っちゃいけないし、と困って泣き出しそうになるフォワレを見かねて、コーセルが手袋を外して一つもいでくれた。
「内緒ですからね」
緑の茎を指でつまんで差し出してくれたので、フォワレは感謝をのべてからパクリと食べた。
甘くておいしい木の実は、味わう間もなく食べ終えてしまう。
あんまりおいしいものだから、沢山連なるグミたちをかごやなんかに入れて持ち帰りたくなった。
「お嬢様、種を」
当然のように差し出した手のひらにハンカチを広げて待つと、フォワレはぺっと種を落とす。恒例のことなので、フォワレにはなんの違和感もない。
食用の木の実が多く植えられているこの庭で二人で秘密裏に行う"味見"だが、おかしなところに種を落としてしまってはいけないから、とコーセルに教え込まれていたのだ。
彼はそれをハンカチごとポケットにしまった。
「ねぇ、コーセル。私、手を洗ってかごを持ってくるわね」
「えっそんな…お嬢様の手を煩わせるわけに参りません。お待ちくださるのなら私が取って参りましょう」
慌てた様子のコーセルが、裁ち鋏を肩にかけて走っていった。
置いてきぼりになってしまったフォワレは、ひとまず帰りを待つことにして、近くの生け垣の花を眺める。
ふと、生け垣と生け垣の隙間に空間があることに気が付いた。
おかしなことに、生け垣を出て直ぐにぽっかりと空いた空間ができていて、みたこともない木がその隙間の奥にちょこんと植わっている。
三本ほど伸びた枝に、いくつもの赤い実が生っている。
丸い寄生虫がいくつも枝に取りついて、血を吸っているのを想像させるような見た目だ。
しかしそんなおそろしげな見た目ではあるものの、フォワレには美味しそうに見えてたまらなかった。
今食べたグミより何まわりも大きく、きっとフォワレの拳ほどもある丸みのある張りのある赤い実は、とても魅力的だ。
そっと手を差しのべて、自分の手が汚れていることに気付いた。
食べてはいけない、食べてはいけない、コーセルの言葉は呪文のようにフォワレの脳内を駆け巡る。
コーセルの帰りを待とう。もしかしたらまたさっきみたいに食べさせてくれるかもしれないし…手を引っ込めて体を生け垣の中に戻す。
すぐに様相がおかしいことを悟る。
「……あれ?」
首をかしげるフォワレは、ここが自分の庭でないことにすぐに理解する。
頭上にはやわらかな日に照らされた新緑が、うっすらした影を落としている。
横を見てもどこを見ても、そんな木々に囲まれていて、まぎれもなくそれは森と形容できた。
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