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【3秒カクテル】Ⅱ⑩
しおりを挟む小笠原さんは指の腹で指輪をなでながら、独り言のように呟いた。
「俺は女房の両親から、めちゃくちゃ嫌われていてな。ライターなんざヤクザな仕事だと思われていて、結婚も猛反対だったんだ。家族サービスなんか一度もしてこなかったし、子供の教育なんかでも文句を言われてばっかりだ。へへ、あの両親とうまくやっていける自信が、これっぽちもねぇんだよ。我ながら情けない話だが、不安で不安でたまらねぇ」
小笠原さんの口調は相変わらず、ひねくれたような感じだが、刺々しさはすっかり影を潜めていた。
「だから、女房との話し合いを先伸ばしにしていた。自問自答してはグルグル同じところを回っているばかりで、踏ん切りがつかなかったんだ。けどよ、俺は必要とされる仕事があるだけ、まだ恵まれているんだよな」
小笠原さんは既に自分自身で答えを出している。桐野さんと私は黙って聞いていた。
「うじうじ悩んでいても仕方がねぇ。まずは一歩踏み出さなくては、何事も始まらんからな。おし、今、決めた。新しい生活に馴染んでみせるぜ」
小笠原さんの決意表明だった。桐野さんと私が、その証人である。
「今のそのお気持ちを素直に伝えてみたらいかがですか」桐野さんが言った。
「ええ、そうですね。きっと、奥さんは心配していますよ」私も賛成した。
「バカ野郎、からかうんじゃねぇよ」
小笠原さんは照れ笑いをしながら、スツールから飛び降りた。言葉とは反対に、アドバイスに従うつもりのようだ。窓際のボックス席に座りこむと、胸ポケットからスマホを取り出した。
「今、最後の仕事が終わった。待たせて悪かったな。俺は腹を決めたよ」
小笠原さんははっきり、そう告げた。私は桐野さんと眼を合わせ、そっと微笑みを交わした。
高森先生の件は反省点しきりだけど、小笠原さんの晴れ晴れとした顔は、【銀時計】にとって大きな自信になるはずだ。
祖父がこの世を去った時、私は中学生だった。だから、雪村隆一郎のカクテルを飲んだことはない。いくら飲みたいと思っても、もう飲むことはできないのだ。だから、桐野さんにお願いして、【新天地】を作ってもらった。
「これが祖父の【3秒カクテル】なんですね」
正直いって、今の私には、普通に美味しいカクテルにすぎない。本当の意味や味を理解するには、様々な人生経験を積み重ねる必要があるのだろう。その時が、とても楽しみだ。
でも、こうして、亡き祖父のカクテルを味わうことができるなんて。それだけで、奇跡のように思える。
ふと見ると、カウンターの上に、鳥の羽根らしきものが1枚落ちていた。風に吹かれて、外から迷い込んできたらしい。
三日月のように反り返ったそれを指先でつまみ上げる。一点の汚れもなく、真っ白な羽根だ。
そう言えば、桐野さんは言っていた。
「僕のバーテンダー人生に奇跡があるとしたら、お客様と向き合った瞬間に、素晴らしいインスピレーションが天から降ってくることですね。天啓のように閃いたレシピ。それによって作られた一杯。僕はそのカクテルを、【天上の祝杯】と呼んでいます」
この羽根はもしかすると、慌て者の天使が落としていったのかもしれない。
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