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【3秒カクテル】Ⅱ⑨

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「僕の持論なのですが、オレンジジュースにウオッカを注いでも、ただ酔うだけのカクテルにしかなりません。しかし、ウオッカにオレンジジュースを注げば」桐野さんは口元に笑みを浮かべた。「希望に満ちて、未来が開けます」

 未来が開けるカクテル。もし、それが真実なら、文句なく【雪村カクテル】に匹敵する。

 小笠原さんは黙って、目の前のタンブラーを見つめていた。
「これが、【雪村カクテル】なのか?」

 桐野さんはカクテルの色合いを見て言った。
「お待たせいたしました、小笠原様。どうぞ、召し上がり下さい。これが【3秒カクテル】、別名【新天地】です」

 ウオッカとオレンジジュースはすっかり馴染んでいる。小笠原さんはタンブラーに手を添えた。まるで大事な宝物のように、オレンジ色のカクテルを扱っている。一口飲んだ時の表情は、興奮を隠しようがなかった。

「荒っぽい作り方なのに、この上品な口当たりはどうだ。フレッシュで豊かな味わい。こんな力強く深みのあるカクテルは初めてだ」

「小笠原様、このカクテルの作り方と、新しい環境に飛び込むこととは全く同じだと思います。透明なウオッカと黄色いジュース、まったく異質な二つの材料ですが、何も特別なことをしなくても、やがて自然に馴染んでいくのです」

 小笠原さんは神妙な顔で、耳を傾けていた。

「不安はあると思いますが、ここは勇気を出して、新しい環境に飛び込んでいけばいいのではないでしょうか」

 私はこの時、言葉が心を貫く瞬間を初めて見た。
 カクテル。それは、美しい色をもち、芳香を放ち、夢心地を味あわせるもの。ただし、それだけにはとどまらない。

 バーテンダー。それは、カクテルを介して、客人と真摯しんしに向き合い、ハートとハートで対話する職業。しかし、それだけでは言い尽くせない。

 勇気を出して新しい環境に飛び込むこと。それは、桐野さんから小笠原さんへの言葉であると同時に、雪村隆一郎から女性客へのメッセージでもあった。

 祖父が即興で作った【3秒カクテル】は、マリッジ・ブルーの女性をどれだけ力づけたことだろう。私は想像しただけで、胸が熱くなる。

 かっこよすぎるよ、お祖父ちゃん。

 小笠原さんはじっくり味わうように【新天地】を飲みほした。

「染みたよ。心に染みた」

 照れ笑いをしながら、小銭入れから取り出した指輪を左手薬指にはめ直した。

「俺はさっき、ライター稼業をやめて、女房の実家の焼肉屋を手伝うと言ったろ。慣れない仕事をすること以上に、厄介な問題があるんだ」

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