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【3秒カクテル】Ⅱ⑥
しおりを挟む【雪村カクテル】のレシピについては、ほとんど何もわかっていない。手がかりすら残されていない。その一つでも再現するためには、何らかの手がかりが必要である。私は祖父の周囲にいた人たちに、話を訊いて回った。
皆、祖父のことを懐かしみ、喜んで当時のエピソードを話してくれた。ただ、残念ながら、目ぼしい成果はなかった。唯一【3秒カクテル】が生まれた時のエピソードだけ、祖父の一番弟子にあたる方が覚えていた。
それは1972年5月某日、2代目【銀時計】での出来事だった。
*
雪村隆一郎先生は壮年期に達しても、とても若々しかったです。背筋はピンとのびていましたし、手や腕の動きも軽やかでしたから。
その時も、グラスをリズミカルに拭きながら、カウンター席の女性客と話していらっしゃいました。女性はパーティの帰りなのか、鮮やかな赤のドレスを着ていましたね。女性は伏し目がちに、雪村先生に御相談をされていました。
洗いものをしていた私の耳に途切れ途切れに入ってきた話の断片を繋ぎ合せると、こういうことのようでした。
その女性は高級官僚の男性との結婚を控えて、今で言うマリッジ・ブルーに襲われていたのです。一般庶民の自分が、身分違いの夫の家族とうまくやっていけるかどうか、不安でたまらなかったのですね。
雪村先生は女性に、こうおっしゃいました。
「あなたの迷いを消し去るために、3秒だけいただけますか?」
私はお二人に背中を向けていましたので、先生がカクテルを作った瞬間は見ていません。ただ、そのカクテルが一瞬で、女性の目の前にあらわれたことは確かです。
ですから、シェーカーは使っていませんし、3種類以上の材料を使わなかったことも間違いないと思います。
女性は無言のまま、グラスをジッと見つめていらっしゃいました。その横顔が笑顔になるまで、ほとんど時間はかかりませんでした。
おそらく、雪村先生の想いが女性に通じたのでしょうね。
数ヵ月後、その女性は高級官僚の男性と御結婚なさいました。その後、女性が【銀時計】に来られることはありませんでしたが、女性から先生宛に丁重な礼状が届いたように記憶しております。
*
一瞬の早技で完成した【3秒カクテル】。桐野さんが独自に解釈して開発した【新天地】。
二つは、同じものなのだろうか? その答えは、誰にもわからない。
でも、桐野さんは確信している。【3秒カクテル】の意味と正体は、こういうものであるはずだ、と。私たちには見えない【雪村カクテル】の正体が、桐野さんの眼には はっきりと見えているのだ。
それを私たちの見ている前で、まもなく再現してくれる。考えただけで、ワクワクしてしまう。
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