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【3秒カクテル】Ⅱ⑤

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 小笠原さんは桐野さんを見上げた。
「なぁ、あんたなら、どう思うよ」

「そうですね。自分を必要としてくれる人がいる。それは、無条件に幸福なことだと思います。御家族の助けとなるというなら、尚更でしょう」

 正論だと思うけれど、さらにこう付け加えた。
「もう一つ言えることは、小笠原様のかかえておられる悩みについてです。実は、今のあなたに味わっていただきたい一杯を、僕は知っています」

 桐野さんは私を見て、こう言った。
「ミノリさん、それは言いかえれば、【3秒カクテル】を味わえる条件でもあります」
「どういう意味ですか?」

「僕の考えたレシピはおそらく、雪村隆一郎さんの【3秒カクテル】と同じものだと思います。もっとも、別の名前がふさわしいかもしれません。例えば、【新天地】というような」

 小笠原さんは敏感に反応した。
「うん、【新天地】か。いいな、そいつをぜひ飲ませてくれ」
「承知しました。小笠原様の再出発にふさわしい一杯をお作りしましょう」

 桐野さんの眼は小笠原さんの持ち物や細かな仕草をとらえ、彼の抱えている問題を洞察していた。その上で、桐野さんは判断したのだ。今の小笠原さんにふさわしい一杯が、【3秒カクテル】だと。

 なるほど、【3秒カクテル】を味わえる条件というものが、小娘の頭にもわかってきた。

「桐野さん、小笠原さんと高森先生の違いをキーワードにすると、〈新天地〉もしくは〈再出発〉ということですね。だから、高森先生には作らなかったけれど、小笠原さんのオーダーには応える。どうですか。この考えは当たっていますか?」

 桐野さんは無言で、口元に笑みを浮かべた。
 そうか、もしかすると、これが〈お客様第一主義〉なのかもしれない。

「お作りする前に、小笠原様のお好きな定番カクテルを挙げてもらえますか?」
「そうだな、よく頼むのは、ブラッディ・メアリーに、パラライカ、それにソルティー・ドッグかな」
「なるほど」

 桐野さんは眼を閉じて、両腕を少しだけ身体から離した。深呼吸のような仕草だ。

 幻想的なイメージが、私をとらえた。

 雲の切れ間から射した一筋の光が、スポットライトのように、桐野さんの全身を包み込む。神々しく美しい立ち姿。その口元に、穏やかな笑みを浮かんだ。

 桐野さんは眼を開けて、ポツリと呟いた。
「降ってきました」

 インスピレーションを得たという意味だろう。
「見えました。小笠原様の未来を開く一杯が」

 私の脳裏に、祖父,雪村隆一郎の言葉がよみがえる。
『ミノリ、創作カクテルとは、客人と向き合った瞬間に閃くものだよ』

 私の眼には、長身のバーテンダーの立ち姿に、祖父の幻影が重なって見えた。

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