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【3秒カクテル】Ⅱ①
しおりを挟む店内の冷え切った空気を打ち破るように、ドアにとりつけたアンティーク・ベルが鳴った。お店を「貸し切り」にしていたので、予想外の来客である。
その男性はとても太っていた。年齢は30代前半だろうか。長めの頭髪はだらしなく、あちこち跳ねている。ジャケットやスラックスは皺だらけで薄汚れていた。
「あの、申し訳ありませんが」
「ああ、知ってるよ。貸し切りなんだろ」
男性はイモムシのようにコロコロした指先で、胸ポケットから名刺入れを取り出した。
「ちっ、これが最後の一枚か」
そう呟いたのに、名刺入れにはなぜか、まだ名刺がいっぱい入っている。妙なことを言う人だった。
私が両手で受け取った名刺には、「フリーライター 小笠原雄一」と記されていた。まったく覚えのない名前である。
「申し訳ありませんが、お会いする約束をしていましたか?」
小笠原さんはニヤニヤしながら、高森先生が座っていたスツールに腰を据えた。
「いいや、今日は飛び込み取材だよ」
悪びれずにそう言うと、ショルダーバッグから週刊誌を取り出した。
「進呈するよ。人妻ヌードが売りのオヤジ雑誌だがね」
カウンターの上に放り投げると、高森さんの使ったおしぼりを手にした。私が止めるのも聞かずに、小笠原さんは顔や首周りを拭いてしまう。たちまち真っ黒になった。おしぼりを使った後も、左手の指の付け根を、右手の人差し指でゴシゴシとこすっている。
お願いだから、黒檀のカウンターに垢を落とすのだけはやめてー。私は心の中で絶叫する。
桐野さんの顔をうかがうと、なぜか、小笠原さんが隣のスツールに置いたショルダーバッグを見つめている。
ショルダーバッグの口から、オレンジ色の雑誌が二つに折られた形で顔をのぞかせていた。あちらもオヤジ雑誌の類だろうか。
小笠原さんの目的は取材なのだろうが、その目つきは明らかに好意的ではない。
「あんたが桐野黎児か。噂通りのルックスだ。バーテンダーとしての腕前もピカイチなんだってな」
「おそれいります」
皮肉めいた口振りにも、桐野さんの態度は変わらない。高森先生の時とまったく同じだ。
「俺が聞きこんだ話では、あんたのカクテルをひと口飲めば、希望がわいて夢が叶うらしいな。自殺を決意した女流作家が〈最後の一杯に〉と飲んで思いとどまった、てな話もあったな。あんた、カクテルで奇跡を起こすのか?」
「まさか。僕の作るカクテルは、目の前のお客様にぜひ飲んでいただきたい、そんな一杯にすぎません。もし、奇跡があったとしたら、それはお客様自身が起こしたのでしょう」
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