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B:アンダーグラウンド③

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「周囲の人に八つ当たりをしたり、自分を憐れんだりするのは、おやめなさい。酒におぼれたり自暴自棄になったりする暇があるのなら、次に始めるビジネスのことを考えるのよ」

 ひどく真っ当なことを言う。

「幸い、君には若さがある。身ひとつあれば可能性は無限にあるし、やろうと思えば何だってできる。すべては、君の考えひとつよ」

 ベティは童女のように、無邪気な笑みを浮かべていた。

〈クロガネ遣い〉は反射的に、破壊衝動を覚えた。この女をぶっ壊してやりたい。だが、指先で触れることさえ躊躇ってしまうような雰囲気が、彼女にはあった。そのため、〈クロガネ遣い〉の口から出たのは、別の言葉になった。

「……ぶっ壊してやりたい、すべてを奪った連中を」

 内臓から絞り出すような暗い声だった。

「あら、面白いことを考えるのね」

 ベティは眉をひそめたが、すぐ艶然と微笑んだ。これまで見せたことのない笑い方だった。
〈クロガネ遣い〉は眼を見張った。ベティの本性が少しずつ、仮面の裏から染みだしていた。

「この国のアングラマネーがいくらあるか、君に想像がつくかしら? 推定総額で、約25兆円もあるのよ。表の経済が慢性的な不景気で四苦八苦しているというのに、もうびっくりでしょ。暴力団、企業舎弟の非合法的な所得は、その十分の一程度かしらね。これを聞いて、君、どう思う?」

〈クロガネ遣い〉は肩をすくめた。

「自分のことを棚に上げて言うけど、それは不正な方法で手に入れたカネでしょう。表の世界とは切り離された、ブラックマネーだ」

「そう、それが一般的な解釈ね。でも、ブラックマネーは、ずっと金庫の中に溜めこまれているわけじゃない。表の世界にいる私たちと、決して無関係というわけじゃないのよ」

「……無関係じゃない?」

「なぜなら、そのうちのいくらかは、表の世界に回ってくるから。それこそ、堂々とした太い流れで。例えば、株式投資という形でね。その流れは最近とみに、増加傾向にあるの」

「市場が暴落して損失を出すかもしれないのに? 株式投資の難しさぐらい、素人の僕でもわかりますよ」

「もちろん、運用するのはプロフェッショナルの人間よ。企業舎弟の雇われファンドマネージャー。はっきり言って、一般投資家と同じ増やし方じゃない。君、一般常識として、仕手戦とかインサイダー取引とかいう言葉は知っているわよね」

〈クロガネ遣い〉は頷いた。

「もし損失を出して元手を減らせば、正真正銘の命取りになる。雇われファンドマネージャーはそれこそ死にものぐるいで、強引に利益を出そうとするわよ。万一バレたら、後ろに手が回りかねないやり方でね」

 ベティは楽しそうに続ける。

「私の馴染みの親分さんはね、大手都市銀行に500億円以上の預金を持っている。しかも、口座が普通預金というところがミソ。いつだって好きな時に、親分は預金を引き上げることができる。何せ、500億よ。大手都銀じゃなくても、親分の機嫌を損ねまいとするでしょうね」

 つまり、大手金融機関と裏社会の癒着、ということだ。

「これまた、馴染みの警察官僚が苦い顔でこぼしていたんだけど、もし、全国の広域暴力団を根絶してしまったら、真っ当な大手企業が軒並み大打撃を受けてしまう。その結果、ドミノ倒しが起って、日本経済が破綻しかねないんですってよ」

「……」

「だから、当局の暴力団キャンペーンは、常に寸止めなの。うっかり壊滅させてしまったら、青息吐息の日本経済に止めを刺してしまう。バカげた話だけど、こんな矛盾の上に、この国の経済は成り立っているのよ。ほんと、笑えるわよね」

 だが、〈クロガネ遣い〉は笑えない。

「ベティさん、僕がヤクザへの復讐に走ったら、ただ自滅するだけ。そう言いたいんですか?」

「誤解しないで。私はちょっと毒をまぶした一般論を述べただけ。表でも裏でも、不正な取引は堂々と行われている。経済はブラックマネーと切り離せない。そして、そのしわ寄せをくらうのは、いつも君のような一般人という図式よ。どう、腹が立つでしょ?」

「……」

「よく覚えておきなさい。経済はめぐるもの。表も裏もなく、世界を循環するものなのよ。あなたが復讐すべきなのは、そのカネの流れ。ゆるぎなく巨大な流れを牛耳ることによってしか、君の怒りと無念を晴らすことはできないのよ」

〈クロガネ遣い〉の目の前に突如、強烈な光が現れた。ベティの全身が光り始めたのだ。それはあたたかく、優しさを感じさせる光だった。

「ベティさん、あなたは一体、何者ですか?」

 にっこり微笑む彼女の周囲には、いつのまにか、光る帯がゆらゆらと宙を漂っている。まるで、天女の羽衣のように。まさか、本当に神様だとでもいうのか。

「私はね、君に、期待しているのよ」

 ベティは優雅な手つきで、〈クロガネ遣い〉の左手を指差した。

〈クロガネ遣い〉は思わず、息を飲んだ。信じられないことが起こっていた。彼の左手が「巨大な洋館の鍵」になっていたのだ。歴史を感じさせる真鍮製(しんちゅうせい)。その表面には、いくつもの宝石がちりばめられ、高貴な優れものであることが見て取れた。 ベティは太陽のように微笑んだ。

「その【弁天鍵】をうまく使えば、君は近い将来、この世界の大きな流れを支配することができるかもしれない」

 こうして、〈クロガネ遣い〉の人生は、第二ラウンドに入った。この国の陰の部分、いわゆる裏社会のカネの流れを支配する。そんな無謀とも思える戦いを開始したのである。
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