上 下
54 / 73

やわらかい唇⑧

しおりを挟む
 僕がコールボーイになった頃、仕事のことを教えてくれたのがカズだった。先輩といっても彼の方が年下だし、業界に入ったのが半月ほど早いだけだ。

 僕がカズに敬語を使ったのは初日だけで、翌日にはタメ口になっていた。僕の何が気に入ったのか、カズは何かと僕に付きまとってきた。バイ・セクシャルだと知っていたので、一線を画した付き合いだったけど。

 あれから、もう3年近くになるのか。僕たちの関係がつぶれて、二人とも『キャッスル』から去って、カズがトラブルに見舞われて……、今、カズが僕の前で横たわっていた。

 冷たいむくろになって。

 僕の心は穏やかに、現実を受け止めた。カズである可能性は高いと思っていたので、ある程度、覚悟は決めていた。感情が揺さぶられることはなかった。僕は冷めた男なのかもしれない。

「コールボーイならぬコールドボーイだな」と、心の中で呟いてみる。
 我ながら、不謹慎な男である。カズなら、どんな風に返してくるだろう。

「はぁ、そんなダジャレを恥ずかしげもなく口にされたら、百年の恋も一気に冷めるっすよ」
 口角を上げて、くしゃっと笑う顔が目に浮かぶ。

「シュウくん、大丈夫かい?」
 宮下さんに声をかけられるまで、僕はずっと立ち尽くしていた。

「確かに、××です。間違いありません」僕はカズの本名を口にした。
「そうか。うん、ありがとう」

 宮下さんは僕の肩を叩くと、スタッフに命じて遺体を片付けさせた。これで、僕の用事は済んだ。帰ろうとすると、宮下さんに呼び止められた。

「もう少しだけいいかな。君の話を聞きたいんだ」

 この場にココナさんがいたら、「ほら来た。注意して。サツが仕掛けてくるよ」と言っただろうか。宮下さんは自販機のコーヒーを手に、院内の一室に案内してくれた。

 狭い部屋だった。刑事ドラマに出てくる取調室を連想したが、圧迫感を感じるほどではない。
あたたかなコーヒーを一口飲んで、とにかく気分を落ち着ける。

「シュウくん、大丈夫かい?」
「ええ、もう平気です。それで、何でしたっけ? 何をお訊きになりたいんですか?」

しおりを挟む

処理中です...