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やわらかな唇⑤

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「すいません。御迷惑をかけることは決してしませんから」

 といっても、万が一、僕が逮捕されれば、ココナさんに迷惑をかけてしまうのだけど。結局、僕の我が儘を押し通す形になった。

 電話を切ってから気がついた。ココナさんに反発したことは、もしかしたら初めてかもしれない。後で振り返れば、ココナさんの悪い予感が的中していたわけだけど、この時の僕には知る由もない。

 平日の正午すぎ、僕は歩いて北千住駅に向かった。北千住駅から六本木駅までは日比谷線一本で済む。僕は自動改札口を抜けて、プラットホームで待っていた始発電車に乗り込んだ。

 六本木は僕にとって、慣れ親しんだ街だ。初めて訪れたのは真夏でとても蒸し暑かったことを覚えている。

 六本木通りを歩くと、様々な人種の外国人とすれ違い、夜更けになっても人波は途切れない。空気の悪さには閉口したものだけど、すぐに馴染んでしまった。

 慣れというものは、本当に恐ろしい。用心深さや危機感を失うという意味で。六本木ヒルズ方面の地下改札口を抜けて、1a番出口から地上に出ると、麻布警察署は目の前だ。

 受付の警察官に名前と用件を告げると、すぐにアラサーの男性がやってきた。

「わざわざ、お越しいただいて、申し訳ありません。はじめまして、宮下です」

 さわやかな笑顔のせいか、宮下さんは刑事ではなく、トップセールスマンのように見えた。僕が挨拶をしているところに、突然、山本さんが現れたので驚いた。

 本名はサキさん。以前、僕を指名してくれた交通課の警察官である。彼女は宮下さんの車のキーを渡すと、会釈をして去っていった。

「シュウくん、少し移動するけど構わないかな?」
「ええ、大丈夫です。どこに行くんですか?」
「文京区の監察医務院です。そこに安置しています」

 カズらしき遺体が、ということだろう。僕が軽く頷くと、宮下さんは駐車場から車を回してきた。車種はシルバーのスカイラインだった。

 会話をするためには、相手の顔が見える方がいい。そう思って、僕は助手席に乗り込んだ。宮下さんの出方はわからないけど、おそらく彼は僕の職業を知っている。

 山本さんの表情でピンときたのだが、彼女は僕の勤め先について、「生活安全課の先輩に調べてもらった」と言ったはずだ。おそらく、その先輩とは宮下さんなのだろう。

 風俗業は名簿を警察署に提出する決まりになっている。宮下さんが『キャッスル』時代の名簿を手にしていることは、想像に難くない。『ナイトジャック』の名簿は未提出のはずだけど、何らかのルートで入手したのだろう。

 何と言っても相手は、天下の警視庁だ。カズの件は嘘ではないだろうが、何かしらの目論見があるらしい。
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