天使と死神

茶野森かのこ

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天使と死神44

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遠ざかった悪魔の気配に、アリアは閉じかけていた瞼を起こした。
悪魔が意図した事なのかは分からないが、体を締めつける黒の動きが僅かに緩んだ。そして、数メートル先の光景に、アリアはその目を見開いた。
フウガに振りかざされるその長い指、広がる悪魔の翼、アリアの体を襲う黒の力がその背中に向かっている事を知り、アリアは突き動かされるようにその腕を突き出した。フウガを起こす為に、残っていた力はほぼ使ってしまった。悪魔が奪おうとしているのは、アリアの持つ力の核となる何かかもしれない、でも、それがこの体にあるのか、あったとしても、アリアはそれを扱えない。
アリアの感覚としては、もう力なんて残っていない。それなのに、まるで誰かに乗り移られたかのように、体が動いていた。胸の辺りの違和感が遠退く感覚、アリアはその手に空気を掴み、握り締めた。

「余所見してんなよ」

身体中、顔にまで浮き上がっていた傷跡が、一気に熱を帯びた気がした。だが、アリアはそれを、どこか他人事のように感じていた。起きているのに夢を見ているようなふわふわした感覚と、しっかりと地面を踏みしめている感覚の両方がない交ぜになっているような、妙な感覚だった。

アリアが握った拳に火花が散り、悪魔がはっとした様子で振り返る。猛スピードで迫り来る何かに悪魔は目を見開き、それが眼前でピタリと止ると、悪魔の髪が、わっと風に舞った。

「な、」

なんだ、と発せずに、悪魔は喉を震わせた。体は自由だ、それなのに、指先一つ動かす事が出来ない。瞳を大きく見開いたまま、悪魔は震える体の内側に気づいた。

「味を見たかったんだろ」

アリアの声が、いやに静かに夜に響き木霊する。空気がピンと張りつめて、瞬き一つでもしてしまえば、目の前の糸が弾け、この夜が粉々になってしまうような、そんな危うい空気が目の前に横たわっていた。天界の者達の奮闘する声も、誰かの悲鳴も、遠い世界の出来事のようで。ここ一帯だけ、別の世界のような感覚だった。

そう思わせているのが、あのアリアなのだろうのか、フウガにはそれが信じられない思いだった。

アリアの頬にまで浮かんだ火傷のような傷が、緊迫を運ぶその眼差しに反して、熱く炎を滾らせているようだった。見慣れた気だるげな瞼も、呑気に笑う表情も、今の彼からは伝わってこない。
フウガはまるで別人のようなアリアの姿に、知らず内に息を飲む。これも、アリアの与える力によるものなのだろうか、限界を越えた先に現れた力は、アリアのものなのだろうか。
もしこれがアリアの本質だとするなら、アリアは本当に、ただの天使なのだろうか。


フウガが呆然とアリアを見つめていると、悪魔の体が、がくっと沈んだ。はっとして、フウガが悪魔に目を向けると、悪魔は地面に膝をつき、目を見開きながら胸元を両手で押さえていた。大きく開けた口は浅い呼吸を繰り返し、とても苦しそうだ。悪魔の胸元に目を向けると、そこに光が満ちているのが見える。とても柔らかな光だ、それは時折、七色に輝きを放ち、ガラスに木漏れ日が当たるような、苦しみとは無縁の輝きに思えた。

アリアはどろりと肩から黒を滴らせながら、一歩、一歩と足を進める。もう悪魔の黒の縛りはないようだ。人々を襲う悪魔の手は、まだ空に蠢いている、悪魔は苦しみながらも、まだその力を緩めてはいない。

「アリア、」

フウガはアリアの名前を無意識に呟いた。悪魔の翼が大きく収縮するように羽ばたきを見せたが、アリアはそれを許さないとばかりに拳を更に強く握りしめる。悪魔の翼は震え上がるように強ばり、目の前に足を止めたアリアを、それでも勝ち気に見上げた。

「天使ごときが、ボクを消せると思うの?この程度じゃ、ボクの力はすぐに回復するよ。こんな縛りでは、ボクの足止めにもならない」

苦しい表情を浮かべながら、それでも強気の姿勢を崩さない悪魔に、アリアは一度空を見た後、口角を上げた。それにより、アリアの空気が和らぐのを感じて、フウガは戸惑いに目を瞬いた。

「それで良いんだよ、悪魔をどうこうするのは神様の仕事だ」

アリアの雰囲気が和らいだからか、悪魔は苦しみを抱えながらも、アリアの言葉を鼻で笑って見せた。

「そんな呑気にしてて大丈夫なわけ?あの腰抜けが戻ってくると思う?人間は今にも死にそうな顔をしてるってのに、あいつは逃げ出したんだよ?」

アリアの隙を突こうとしているのか、それでもアリアは悪魔の挑発に乗りはしない。緩んだ空気は、いつもアリアが纏っているもので、その顔も、どこか安堵しているのを感じる。その様子に、フウガは困惑の表情を浮かべていたが、それに気づいてか、アリアはフウガと目を合わせ、空を指差した。

「良いんだよ。それでも、神様はこの町に居てくれる」

アリアに促されるように空を見上げたフウガは、その意味に気づいて、再びアリアと視線を合わせた。
アリアは、眉を下げて頬を緩めた。

「見捨てるわけないさ」

直後、雲の隙間から木漏れ日が差すように、空を黒で覆う悪魔の手、その向こうから、光が降り注いだ。
その柔らかな光は、アリアとフウガも優しく照らす。照らされた側から、アリアとフウガに纏わりついていた黒が、キラキラと空へ消えていった。

「これは…」

間違いなく、神様の力だ。
フウガは身軽となった自身の体をまじまじと見つめていたが、その視界に踞ったままの悪魔を映すと、慌てた様子でアリアに駆け寄ろうとした。だが、まだ体が不安定なのか、フウガは足を縺れさせて転んでしまった。

「あ!」

と、間の抜けた声が至近距離で聞こえ、「え」と顔を起こせば、同じように転んでいるアリアがいた。

「あ、はは…お前みたいに、格好つかねえや」

いつもフウガに助けて貰うように、アリアもスマートに手を差し延べようと思ったのだろうか。しかし、その前にアリアもすっ転び、今は呑気に眉を下げて笑っている。アリアの足が覚束無くても仕方ない、アリアは元からフウガより負担を負っていた。それなのに、先ほどは息を吹き返したように悪魔を圧倒していた。
あの力は、一体どこから沸き出てきたのか、アリアはその力を抑えて、今までコントロールしていたのだろうか。
考えを巡らせていれば、先程の見知らぬアリアの顔が脳裏に過り、フウガは体に緊張が走るのを感じた。その緊張のまま、フウガは思わずアリアを確かめるように目を向けたが、地面に腹這いになったアリアは、気が抜けたようにだらりと四肢を投げ出して、いつものように力ない瞳をのんびりと瞬いている。
先程の緊迫した人物と同じとはどうしても思えないアリアの姿に、フウガはほっと肩から力を抜いた。

今、目の前にいるアリアは、間違いなくフウガの知るアリアだ。

「…立てますか?」

まさか、だらけたアリアの姿を見て、安心する日が来ようとは。
フウガは、二週間前の自分が聞いたら驚くだろうなと苦笑を浮かべつつ、先に体を起こしてアリアに手を差し出せば、アリアは「無理かもなあ」と、疲れたように笑ってフウガの手を取った。
その手を見て気づく、翼はぼろぼろのままだが、アリアの体や顔にまで広がっていた火傷のような傷跡が綺麗に消えていた。神様の光を浴びた影響なのだろうか。

「…さっきまでは頼もしかったんですが」
「良かったな。レアだぞ、ありゃ」
「自分で言わないで下さいよ。でも助かりました…まさか、あんな力が残っているとは思いませんでしたが」
「それは、俺もびっくりだった。なんか…自分じゃないみたいっていうか」
「どう言うことですか?」
「分かんない、喋ってるのも俺なんだけど、なんか、ふわふわしてて」

要領を得ないのは、本人も分からないからなのだろう。アリアはそもそも記憶が不安定だ、与える力を持っていた事すら知らなかったのだから。

「ま、でも俺も助かったよ」
「何がです?私はどちらかと言えば、足を引っ張った方でしょう。私を助けなければ、あなたはもっと簡単に逃げられたのですから」

情けなさと申し訳なさに、自然と顔が下向けば、コツ、と、頭を軽く叩かれた。

「そんなこと言うなよ。俺一人じゃ何も出来ないから。空もまだ飛べそうにないし、お前は俺のお世話係だろ?寂しいこと言うなよ」
「…はぁ、」
「なんだよ!その気のない返事は!」
「…私は、あなたの事が本当に分からないと思いまして」
「…俺、そんな変なこと言ってる?」
「いえ、そうではないのですが」

ただ、胸の奥がじんわりと温かさを覚えて。暗い夜に感じた光に、また触れたような気がして。
わざわざ戦力にならない自分を助けることを優先した、誰かを思い、共にあろうとする気持ちが自分には欠けているようだと、フウガは改めて思い、それがこんなに心を温めるのかと、少し擽ったい思いだった。



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