劇場の紫陽花

茶野森かのこ

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「…意味が分からないんだけど」
「これは死活問題なんだ」

そう真面目な顔で訴えるミカには申し訳ないが、それが本当に死活問題と呼ぶ程の事なのか、佳世かよには理解出来ないでいた。そもそも本気で言っているのか、もしかしたら、からかわれているだけなのではないか。それなら、本気で向き合うなんて馬鹿げている。
佳世は大きく溜め息を吐いた。

「子守唄が必要なら他所をあたってちょうだい、子猫ちゃん」
「この顔を見て、子猫というのか」
「それ他人の顔でしょ、妖怪だか何だか知らないけど、結局はただの猫じゃない」
「ただの猫ではない、僕は特別な猫だ。その証しに立派な名前だってある。僕の名前は、ミケランシュバ」
「名前はいい!わかった、あなたの気持ちは受け入れる。また楽しく歌えばそれで良い?」
「ダメだ、君は勘違いしている。今の君に歌って貰ったって、僕はきっと悪夢にうなされるだけだ」
「その言い種…」
「あの頃の君が良い、まだ夢を目指していた頃の」
「そう言われても、なんで猫に私の人生左右されなきゃ、」

言いかけて、ふと思い至る。劇団員の時から佳世はこのアパートに居たが、猫がやって来るようになったのは、最近ではなかったか。最近は、その歌さえ忘れていたのだ、ミカが聞ける筈もない。
それとも、自分が気づかないだけで、ミカは昔からベランダに来ていたのだろうか、だとしたら、どうして今頃文句を言いに来たのだろう。やはりそれが気にかかる。

「君が、今を受け入れていないからだよ」

ミカの言葉に、違和感を追い始めた思考が止まる。佳世は「え、」と、顔を上げた。

「あの時、配役オーディションで君は才能がないと諦めた」

劇団に居た頃の話だ。だが、何故それをミカが知っているのか、嘆いている姿を、ベランダから見ていたのだろうか。

「でも、本心では割りきれていなかったんじゃないか?自分が納得出来ないまま辞めたから、今そんな顔をしているんだ」

何故知っているのか、問いただそうとした言葉が、ミカの言葉によって喉に引っ掛かる。佳世は視線を彷徨わせた。

「…だってそんなの、」
「言われて当然だ、それが君の実力だったんだから」
「は?」
「けど、諦める必要なんてなかったんだ。辞めないで望み続けていれば、何年かかろうが道は開けたかもしれない。もし諦めるにしても、納得したかしないかじゃ、その先は全く変わってくる。君はいつだって中途半端だ、夢見る覚悟も諦める覚悟すらない」

佳世はぎゅっと手を握った。そんな事、自分が一番良く分かっている、それを何故、こんな正体のつかめないミカに言われないといけないのか。そう思ったら、腹が立ってきた。

「…何なの、じゃあ、あのまま惨めな思いしてろって?笑われろっていうの?」
「笑われるほど、本気でやってきたの?」
「…やってきたよ、」
「そう、でも今の君の方がよっぽど惨めだ、昔の君が悲しむよ」
「あなたに何が分かるの!」

さすがにカチンときて、佳世はミカに詰め寄った。もうたつみの顔だろうがどうでもいい、ここに居るのは失礼な化け猫のミカだ。
座っているミカの肩を掴み、そのシャツを握りしめる。怒り任せの行動だったが、ミカは平然としている。真っ直ぐに佳世を見上げる瞳は揺らぐ事はなく、一辺の曇りもないその力強い眼差しは、海のように深く計り知れない。その思いの深さに、佳世の方が狼狽えてしまった。
ミカはそんな佳世の揺らぎを見たのだろうか、佳世の片手に手を添えると、ゆっくりと肩からその手を引き剥がした。その瞳が優しく緩められ、まるで巽のような表情に、佳世は僅かに胸を跳ねさせ、視線を俯けた。

「恥をかかない人間なんていない。傷つかない人間なんていない。本当にやる気があるなら、恥じだなんだと安いプライドは捨てて、とことん突っ走ってみたら良いんだ。昔の君には出来なかった事が、今の君には出来るじゃないか」
「…何?」
「開き直り」

そう言うと、ミカはテーブルの上に置いてあった、オーディションのチラシを佳世に突きつけた。

「オーディションを受けるんだ」
「え?」

そのチラシの中、ミカが指差したのは、下部に小さく書かれた入団オーディションではなく、大きく宣伝された、次回作のヒロイン役のオーディションだった。

「は?これ受けろって?」
「どのみち入団オーディションには変わりないだろ?受かれば一足飛びで君はヒロインだ」
「ムリムリ!劇団に居た時だってヒロインなんかなれた事ないのに!」
「やってみないと分からないだろ?外部から募集するって事は、劇団の中に新しい風を吹かそうとしてるんだ。誰にでもチャンスは平等にある、何事も経験だよ」
「…いや、でも、」
「恥かいて綺麗さっぱり、そのしみったれた顔を洗い流してくればいい。稽古は僕がつけるから」
「…は?」
「君に拒否権はないよ、僕はここに居ると決めた。優しい君は、か弱い“子猫ちゃん”を表に放り出すなんて出来ないだろうしね」

したり顔で言われ、佳世は頬をひきつらせた。どうやら、先程の“子猫ちゃん”発言を、ミカは根に持っているようだ。

佳世は迷うように、オーディションのチラシに視線を落とした。同時に、昼間に会った巽の言葉が思い浮かび、佳世はそのままミカに視線を向ける。

確かに、このままミカを放り出す事は出来ないし。

そう胸の内で自分に言い訳をして、納得させて、佳世はきゅっと唇を結ぶと、思いきりよく顔を上げた。心がまた迷う前に、一歩を踏み出す為に。

「…分かった、やってみる」
「そうこなくちゃ!」

ミカは嬉しそうに頬を緩めると、佳世に手を差し出した。

「これからよろしくね、佳世」


何故、自分の名前を知っているのかと疑問が浮かんだが、ミカの謎は、今に始まった事ではない。
佳世は気持ちを決めて、その手を握った。

「…よろしく」


かくして、謎の猫による、まさかの演技特訓が幕を開けるのだった。



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