瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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バスを降りて向かったのは、閑静な住宅街だった。
建ち並ぶ家々は立派な佇まいだ、愛が会いに来たのは、一体どんな人なのだろう。恋人がいた頃、愛の様子がおかしくなったと結子ゆいこは言っていたが、愛が会いに来たのは、その人なのだろうか。
多々羅たたらがちらりと後ろに視線を向ければ、愛は下を向いたまま、大人しく多々羅の後を着いてくる。
今更ながら、本当に自分は着いてきて良かったのだろうかと、多々羅はまた別の不安を抱いていた。恋仲だった人と話をするのに、自分なんかが着いてきて変に思われないだろうか。
多々羅は恋人と拗れて別れた事がなかった、それは円満にお別れしたから、というのではなく、大体が自然消滅だったからだ。もし、恋人と拗れて別れたとして、愛の場合、もしかしたら一般的な拗れ方とは違うのかもしれない。多々羅が思うのは、その瞳に関する事だ。

多々羅がそっと表情を伺えば、愛は不安と戦っているような顔つきをしている。多々羅は声を掛けようとしたが、何と声を掛けて良いのか分からず、結局、口を閉じてしまった。

「あ…」

そんな時、愛から小さな声が聞こえ、多々羅は振り返った。愛は足を止めて、とある家を見上げている。その家も、瀬々市ぜぜいち邸には及ばないが、白亜の豪邸と呼べる建物だった。

「…ここですか?」

多々羅が住所の書いてある紙の住所を確かめつつ尋ねると、愛は緊張した面持ちで頷いた。

その家は二階建ての戸建てで、大きな黒い門が聳え立つように見下ろしていた。表札には時野ときのとあり、家の中からは優しいピアノの音が聞こえてくる。門には、この家とはどこか不釣り合いな、木の枝を組み合わせて作られた札が下がっており、そこには“ピアノ教室”と書かれていた。色とりどりの、手作り感満載の可愛らしい札だった。

それにしても、さすが血の繋がりはないとはいえ、瀬々市の人間だ。付き合う人も立派な人なんだろうなと、多々羅はぼんやり思い、愛へと視線を向けた。
愛は、じっとその家を見上げて立ち尽くすばかりだ。そんな愛を見て、多々羅は迷いながらもインターホンを指差した。

「インターホン…押します?」
「待って!…ごめん、ちょっと待って」

愛は、インターホンを指差した多々羅の手を咄嗟に掴み、その瞳を揺らした。まだ心構えが出来ていないのか、ぎゅっと掴む手の強さに、多々羅は愛の気持ちをせめて落ち着かせないとと、口を開いた。

「愛ちゃん、」

しかし、何を言えば良いのか。躊躇いに、ふと、多々羅は自分の手を掴む愛の手に目を止めた。その手首には、結子ゆいこ達から贈られた腕時計がある。
それを見て、多々羅は自分が背中を押された気分になった。瀬々市の皆から、愛の事を任されたのだ、それが多々羅には力になる。

「大丈夫だよ。ゆっくりで良いから」

優しく多々羅は言う。焦る事も揺れる事もないその声に、愛は幾分落ち着きを取り戻したのか、ゆっくりと多々羅を見上げた。眼鏡越しで見る愛の瞳は黒に染まり、多々羅には何だか愛ではないみたいで、少し寂しかった。
その恋人との間で起きた事も、やはり愛の瞳と関係があるのだろうか。
どうして隠さないといけないのだろう、あんなに綺麗な瞳なのに。
物の前では恐れられ、人の前では気味悪がられる。この瞳の美しさが分からないなんて、勿体ない。

「…ありがとう」

表情を緩めた愛に、多々羅は緩く首を振る。
この家に誰がいて、愛にとってそれがどんな意味を持つのか多々羅には分からないが、向き合う事すら避けていた場所だ、ここまで来れたのだって十分意味があるのではないか。
無理はして欲しくなくて、多々羅は気分を変えるべく、明るく声を掛けた。

「ちょっとこの辺歩いてみませんか?近くにお店とかあるのかな」

好奇心を携え明るく振る舞う多々羅に、愛は安堵した様子でその後に続いた。




適当に歩いていると、木々で囲まれた公園が見えてきた。入り口脇にある看板を見ると、アスレチックやプール、ふれあい広場もあるようだ。高級住宅ばかり見ていたので、突然現れた、“ふれあい広場”という心和む文字に、多々羅の心は動かされた。多々羅の実家も立派なのだが、自身のコンプレックスもあるせいか、瀬々市邸は別にして、高級住宅地は場違いな気がして落ち着かないようだ。

「動物でも居るのかな、行ってみましょうよ」

なので、思いの外、浮き足立った声が出てしまった。愛はきょとんとしていたが、多々羅のどこかはしゃいでいるようにも見える姿に、やがて肩の力が抜けたように表情を緩めた。



公園の中に入ると、ふれあい広場の看板と共に、手作り感溢れる小屋が見えてきた。
小屋の外には、柵でぐるりと囲われた広場があり、子供達の元気な声が聞こえてくる。広場を覗くと、うさぎにモルモット、ヤギやアヒルがいて、まるで小さな動物園だ。その動物達に、スタッフに手解きを受けながら、子供達がご飯をあげている。親子連れが一番多いが、カップルや仲間内で遊びに来ているグループもいて、ここにも休日の賑わいが感じられた。

「多々羅君、動物好きだよな」
「だって可愛いじゃないですか」

柵越しに、目の前を横切るアヒルやヤギの気ままな姿を見ていれば、多々羅の強張っていた心もゆるりとほどけていく。ほっと安らげば、不意に懐かしい記憶が頭を過った。こんな風に柵に手を掛けて、色々な動物を前に目を輝かせた事がある、子供の頃の記憶だ。

「そういえば、よく連れて行って貰ったな動物園…」
「…親父さんに?」

ぼんやり呟いた多々羅に、愛が控え目に尋ねれば、多々羅はそっと頬を緩めて頷いた。
大きなゾウも、かっこいいライオンも、可愛いカピバラも、多々羅の瞳を輝かせる全てを、優しい笑顔で受け止めてくれる父が隣にいた。
数少ない、多々羅と家族の優しい思い出だ。

「うん。瀬々市の家と、動物園だけは楽しい思い出だよ」
「だけ?」
「だけ。俺は出来損ないですから」

多々羅は苦笑って、柵越しながら側にやって来たヤギに「餌はないぞー」と、笑って声をかけている。愛には、今の多々羅はどう映っただろうか、笑ってはいるが寂しく映ったかもしれない。

「…お前は、出来損ないじゃないよ」

ぽつりと聞こえた愛の言葉に、多々羅は、「え、」と、愛を振り返った。

「出来損ないが、俺なんかの面倒見られないだろ」

愛は、まだ目の前をうろついているヤギを見つめている。ぶっきらぼうな言葉と、どこか不機嫌そうな表情では、ヤギを睨みつけているだけに見えるが、その言葉がいい加減なものではない事は分かる。急に照れくさくなったのだろうか、それでも、その声からはちゃんと信頼が感じられて、多々羅はなんだか泣きそうになった。

「…はは、自覚あったんですか?」
「出来ない訳じゃないけどな!」
「すぐ強がる」

笑って、安心する。何よりも、愛が必要としてくれている事が、こんなにも心を強くしてくれる。
多々羅にはまだ、自分でいられる瞬間がある、多々羅として見てくれた人がいる。
それで、十分だ。




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