64 / 76
63
しおりを挟むバスを降りて向かったのは、閑静な住宅街だった。
建ち並ぶ家々は立派な佇まいだ、愛が会いに来たのは、一体どんな人なのだろう。恋人がいた頃、愛の様子がおかしくなったと結子は言っていたが、愛が会いに来たのは、その人なのだろうか。
多々羅がちらりと後ろに視線を向ければ、愛は下を向いたまま、大人しく多々羅の後を着いてくる。
今更ながら、本当に自分は着いてきて良かったのだろうかと、多々羅はまた別の不安を抱いていた。恋仲だった人と話をするのに、自分なんかが着いてきて変に思われないだろうか。
多々羅は恋人と拗れて別れた事がなかった、それは円満にお別れしたから、というのではなく、大体が自然消滅だったからだ。もし、恋人と拗れて別れたとして、愛の場合、もしかしたら一般的な拗れ方とは違うのかもしれない。多々羅が思うのは、その瞳に関する事だ。
多々羅がそっと表情を伺えば、愛は不安と戦っているような顔つきをしている。多々羅は声を掛けようとしたが、何と声を掛けて良いのか分からず、結局、口を閉じてしまった。
「あ…」
そんな時、愛から小さな声が聞こえ、多々羅は振り返った。愛は足を止めて、とある家を見上げている。その家も、瀬々市邸には及ばないが、白亜の豪邸と呼べる建物だった。
「…ここですか?」
多々羅が住所の書いてある紙の住所を確かめつつ尋ねると、愛は緊張した面持ちで頷いた。
その家は二階建ての戸建てで、大きな黒い門が聳え立つように見下ろしていた。表札には時野とあり、家の中からは優しいピアノの音が聞こえてくる。門には、この家とはどこか不釣り合いな、木の枝を組み合わせて作られた札が下がっており、そこには“ピアノ教室”と書かれていた。色とりどりの、手作り感満載の可愛らしい札だった。
それにしても、さすが血の繋がりはないとはいえ、瀬々市の人間だ。付き合う人も立派な人なんだろうなと、多々羅はぼんやり思い、愛へと視線を向けた。
愛は、じっとその家を見上げて立ち尽くすばかりだ。そんな愛を見て、多々羅は迷いながらもインターホンを指差した。
「インターホン…押します?」
「待って!…ごめん、ちょっと待って」
愛は、インターホンを指差した多々羅の手を咄嗟に掴み、その瞳を揺らした。まだ心構えが出来ていないのか、ぎゅっと掴む手の強さに、多々羅は愛の気持ちをせめて落ち着かせないとと、口を開いた。
「愛ちゃん、」
しかし、何を言えば良いのか。躊躇いに、ふと、多々羅は自分の手を掴む愛の手に目を止めた。その手首には、結子達から贈られた腕時計がある。
それを見て、多々羅は自分が背中を押された気分になった。瀬々市の皆から、愛の事を任されたのだ、それが多々羅には力になる。
「大丈夫だよ。ゆっくりで良いから」
優しく多々羅は言う。焦る事も揺れる事もないその声に、愛は幾分落ち着きを取り戻したのか、ゆっくりと多々羅を見上げた。眼鏡越しで見る愛の瞳は黒に染まり、多々羅には何だか愛ではないみたいで、少し寂しかった。
その恋人との間で起きた事も、やはり愛の瞳と関係があるのだろうか。
どうして隠さないといけないのだろう、あんなに綺麗な瞳なのに。
物の前では恐れられ、人の前では気味悪がられる。この瞳の美しさが分からないなんて、勿体ない。
「…ありがとう」
表情を緩めた愛に、多々羅は緩く首を振る。
この家に誰がいて、愛にとってそれがどんな意味を持つのか多々羅には分からないが、向き合う事すら避けていた場所だ、ここまで来れたのだって十分意味があるのではないか。
無理はして欲しくなくて、多々羅は気分を変えるべく、明るく声を掛けた。
「ちょっとこの辺歩いてみませんか?近くにお店とかあるのかな」
好奇心を携え明るく振る舞う多々羅に、愛は安堵した様子でその後に続いた。
適当に歩いていると、木々で囲まれた公園が見えてきた。入り口脇にある看板を見ると、アスレチックやプール、ふれあい広場もあるようだ。高級住宅ばかり見ていたので、突然現れた、“ふれあい広場”という心和む文字に、多々羅の心は動かされた。多々羅の実家も立派なのだが、自身のコンプレックスもあるせいか、瀬々市邸は別にして、高級住宅地は場違いな気がして落ち着かないようだ。
「動物でも居るのかな、行ってみましょうよ」
なので、思いの外、浮き足立った声が出てしまった。愛はきょとんとしていたが、多々羅のどこかはしゃいでいるようにも見える姿に、やがて肩の力が抜けたように表情を緩めた。
公園の中に入ると、ふれあい広場の看板と共に、手作り感溢れる小屋が見えてきた。
小屋の外には、柵でぐるりと囲われた広場があり、子供達の元気な声が聞こえてくる。広場を覗くと、うさぎにモルモット、ヤギやアヒルがいて、まるで小さな動物園だ。その動物達に、スタッフに手解きを受けながら、子供達がご飯をあげている。親子連れが一番多いが、カップルや仲間内で遊びに来ているグループもいて、ここにも休日の賑わいが感じられた。
「多々羅君、動物好きだよな」
「だって可愛いじゃないですか」
柵越しに、目の前を横切るアヒルやヤギの気ままな姿を見ていれば、多々羅の強張っていた心もゆるりとほどけていく。ほっと安らげば、不意に懐かしい記憶が頭を過った。こんな風に柵に手を掛けて、色々な動物を前に目を輝かせた事がある、子供の頃の記憶だ。
「そういえば、よく連れて行って貰ったな動物園…」
「…親父さんに?」
ぼんやり呟いた多々羅に、愛が控え目に尋ねれば、多々羅はそっと頬を緩めて頷いた。
大きなゾウも、かっこいいライオンも、可愛いカピバラも、多々羅の瞳を輝かせる全てを、優しい笑顔で受け止めてくれる父が隣にいた。
数少ない、多々羅と家族の優しい思い出だ。
「うん。瀬々市の家と、動物園だけは楽しい思い出だよ」
「だけ?」
「だけ。俺は出来損ないですから」
多々羅は苦笑って、柵越しながら側にやって来たヤギに「餌はないぞー」と、笑って声をかけている。愛には、今の多々羅はどう映っただろうか、笑ってはいるが寂しく映ったかもしれない。
「…お前は、出来損ないじゃないよ」
ぽつりと聞こえた愛の言葉に、多々羅は、「え、」と、愛を振り返った。
「出来損ないが、俺なんかの面倒見られないだろ」
愛は、まだ目の前をうろついているヤギを見つめている。ぶっきらぼうな言葉と、どこか不機嫌そうな表情では、ヤギを睨みつけているだけに見えるが、その言葉がいい加減なものではない事は分かる。急に照れくさくなったのだろうか、それでも、その声からはちゃんと信頼が感じられて、多々羅はなんだか泣きそうになった。
「…はは、自覚あったんですか?」
「出来ない訳じゃないけどな!」
「すぐ強がる」
笑って、安心する。何よりも、愛が必要としてくれている事が、こんなにも心を強くしてくれる。
多々羅にはまだ、自分でいられる瞬間がある、多々羅として見てくれた人がいる。
それで、十分だ。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
金沢ひがし茶屋街 雨天様のお茶屋敷
河野美姫
キャラ文芸
古都・金沢、加賀百万石の城下町のお茶屋街で巡り会う、不思議なご縁。
雨の神様がもてなす甘味処。
祖母を亡くしたばかりの大学生のひかりは、ひとりで金沢にある祖母の家を訪れ、祖母と何度も足を運んだひがし茶屋街で銀髪の青年と出会う。
彼は、このひがし茶屋街に棲む神様で、自身が守る屋敷にやって来た者たちの傷ついた心を癒やしているのだと言う。
心の拠り所を失くしたばかりのひかりは、意図せずにその屋敷で過ごすことになってしまいーー?
神様と双子の狐の神使、そしてひとりの女子大生が紡ぐ、ひと夏の優しい物語。
アルファポリス 2021/12/22~2022/1/21
※こちらの作品はノベマ!様・エブリスタ様でも公開中(完結済)です。
(2019年に書いた作品をブラッシュアップしています)

百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ナイトメア
咲屋安希
キャラ文芸
「きっとその人は、お姉さんのことを大事に思ってるんだよ」
人と違う力を持つ美誠は、かなわぬ恋に悩んでいた。
そしてある時から不思議な夢を見るようになる。朱金の着物に身を包む美少女が夢に現れ、恋に悩む美誠の話を聞き、優しくなぐさめてくれるのだ。
聞かれるまま、美誠は片思いの相手、名門霊能術家の当主である輝への想いを少女に語る。生きる世界の違う、そして恋人もいる輝への恋心に苦しむ美誠を、着物の少女は優しく抱きしめなぐさめる。美誠は、少女の真剣ななぐさめに心を癒されていた。
しかしある時、ひょんなことから少女の正体を知ってしまう。少女のありえない正体に、美誠の生活は一変する。
長編「とらわれの華は恋にひらく」のスピンオフ中編です。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。

後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜
二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。
そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。
その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。
どうも美華には不思議な力があるようで…?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる