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しおりを挟む「多々羅、」
その瞬間、翼や腕に形を変えて、多々羅の背中で蠢いていた黒い影が一塊となり、多々羅の体から勢いよく飛び出ていく。それはあっという間に部屋中を囲い、再び愛と多々羅に勢いよく向かってきた。
「くそ、」
愛は咄嗟に多々羅の頭を庇い抱きしめたが、その腕は、勢いよく弾かれた。え、と顔を上げれば、多々羅が愛を押し退けて立ち上がり、黒い影の塊に向かって両手を広げている。それらは、真っ直ぐと多々羅へ飛び込んできた。
「多々羅!」
体の中へ飛び込んでくる影の塊を、多々羅がその両腕で抱き止めた。衝撃に一歩後ずさったが、多々羅はその腕から影を離しはしなかった。影が徐々に腕に収まるサイズになると、多々羅は息を切らしながら口を開いた。
「今、令和だぞ、江戸時代の主なんか、死んで遠にいないでしょ」
その声は、言葉は、ちゃんと多々羅のものだった。愛は、その事に安堵して、ほっと息を吐いた。
だが、黒い影は動きを止めた訳ではない。多々羅の腕の中で暴れ回るそれは、大きな翼をはためかせている。動くそれを押さえきれず、多々羅の腕が僅かに緩んだ隙をつき、それはその腕から抜け出てしまった。
「待て!」
黒い翼の端をかろうじて掴む。その翼の先には、少年がいた。肌も何もかもが黒く、目だけが白い。
「ただの禍つものじゃない、つくも神が禍つものになりかけてる」
黒い影は、禍つものとなった化身の証だ。だが、ただの化身が禍つものになってしまえば、化身としての姿を保てなくなる筈。今、少年のように姿を変えられるのは、ただの化身よりも力が強い、つくも神だけだ。
まずい、と愛は思った。つくも神なら、力は格段に上だ。その思いが人の体に根付けば、心を吸いとられ、更にはその力に耐えきれず、命を落とす可能性もある。
「多々羅!手を放せ!」
愛が焦ってそう叫ぶが、多々羅は手を放そうとしなかった。多々羅の眼差しは、黒いつくも神から離れる事はない。
「あなたも、分かってるんでしょ?愛ちゃんを痛めつけて何になるの。せめて、見つからない片割れを探して貰う方が、あなたの為になるんじゃないの」
「知るか!どうせお前達が、彼女の心を消し、全て忘れさせたんだろ!でなければ、会えない筈がないんだ!私はこんなにもあの人を想っているのに、こいつが、翡翠の瞳が彼女を奪ったに決まってる!」
そう叫ぶ黒い影の少年に、愛は更に焦りを覚えた。恐らく少年は、自分が誰で、何をしたいのか分からなくなっている。禍つものとなってしまう物達は、思いを拗らせ、その思いに囚われてしまうのがほとんどだ。彼は、持ち主の想いを自分の想いと混濁させているのだろう。そのせいで、二人分の想いが積み重なり、言っている事も滅茶苦茶なのだ。このままでは、影に全て呑まれてしまう。
「この人は違う!」
少年に向かおうとした愛だが、多々羅の声に足を止めた。
「この人は、どんな物にも寄り添って、尊重しようとする。人にもそう、優しいから臆病で、一人で良いなんて言いながら、本当は強がってるだけなんだ!分かるでしょ?一緒に届けられた他の物達の気持ち、辛抱強く聞いてたって、あなたの記憶の中で、俺見たよ。それで、あなたが救われたいって思った事も、」
「黙れ」
「苦しかったんでしょ」
「黙れ、だまれ…!」
少年の背中から黒い影が溢れ出し、愛が多々羅の前に出ようとするが、多々羅は愛の体を押しやった。
「ちょ、」
床に尻もちをつき、愛が顔を上げる。黒い影が、多々羅の体を再び呑み込もうとしていた。
「多々羅、駄目だ!」
二度はもたない。愛が手を伸ばした時、風が吹いた。静かな一陣の風に、まるで時を止めたような感覚にさせられる。
倒れ込む多々羅の前に、大きな背中が見える。ノカゼが鉄扇を真横に凪払えば、黒い影は真っ二つになって床に散った。
「愛!多々羅!」
「…愛、多々羅」
その向こうから、ユメとトワがこちらへ駆けてくるのが見えた。聞き慣れた愛らしい声にほっとしたのも束の間、愛は二人の姿を見て言葉を失った。ユメとトワは全身傷だらけだったからだ。
「お前達、なんでこんな…」
「話は後ね。私達の傷は直せるけど、人は弱いから」
同じく傷だらけのアイリスが歩み出て、自身の手のひらに、ふっと息を吹き掛ける。すると、手のひらには次々と花びらが現れ、それが黒い影を覆っていく。全てを覆い尽くしたかと思えば、中からは花びらを振り払うように腕が伸びて、色を持った少年がその中から飛び出してきた。少年が逃げようとするのを見て、ユメとトワは襟の金糸の模様をなぞった。すると、二人の手には金色の紐のような物が現れ、それを少年に向かって投げると、金の糸は少年の体にぐるぐると巻きつき、更にその体を花びらが包んでいく。
「愛、早くしないと、跳ね退けられそう!」
「もう!同じつくも神なのに!負けないんだから!」
「…負けない」
アイリス、ユメ、トワと続く声に愛は頷き、急いで倉庫部屋に入った。
同じつくも神のアイリス達が拘束に苦戦するというなら、少年のつくも神は、人間や、他の化身の心を奪い、力を強くしてきたのかもしれな
そうでなければ、余程強い思いを持った化身という事になる。
倉庫部屋と呼んではいるが、部屋の中は至って普通だ。棚が並び、机があり、暖色系の温もりあるライトが部屋を照らしている。家具も木製のアンティークで揃えられ、ここだけ別の店のようだ。
愛が机の上を見ると、壮夜が持って来た箱の内、一つの蓋が開いていた。まだ中を改めていない箱で、しっかり封がされていた筈だった。その中には、紐で結ってあった筈の小さな木箱があるが、その蓋も、紐が切られて開けられていた。
この紐は、化身が出てこれないようにする封じ手だが、つくも神用には出来ていない。恐らくあの少年は、自分がつくも神ではなく、ただの化身だと、零番地の者達を信じ込ませていたのだろう。
愛は、小箱の中に入ったメジロの飾りがついた簪を手に、応接室のキャビネットから鞄を取り出すと、急いで皆の元へ戻ってくる。
少年の側に簪を起き、鞄からパイプを取り出す。それに、いつもの金平糖より一回り大きな丸い飴玉のような物を仕込み、その煙を少年に吹き掛けた。すると、煙は少年の体をもくもくと包み、その煙は次第に簪へと吸い込まれていった。
あっという間の出来事に、皆はぽかんとしている。
「今のは?」
「…今の」
「鎮静剤みたいなものが入ってるんだ、これで、つくも神といえども暫くは出てこれないし、多分、少しは体から影が抜ける筈だよ」
「愛、多々羅が!」
ユメとトワに説明していると、アイリスが血相を変えて声を上げた。多々羅はぐったりと体を横たえており、愛がすぐに駆け寄って名前を呼ぶと、その目をうっすらと開けた。
「おい、しっかりしろ!多々羅!」
「愛ちゃん怪我は…?俺、首絞めたよな、愛ちゃん傷つけて、ごめん…こんな事、したくなかったのに、体が」
「分かってる、乗っ取られただけだ、お前は何も悪くない。だから、しっかりしろ」
「俺、少しは役に立った?」
「え、」
その言葉に、愛は呆然とした。
今、多々羅は、自分がどういう状況にあるのか分かっているのか、体は動かないだろうし、話すのだって辛い筈だ。それなのに、多々羅は自分の事よりも愛を心配し、心を痛めている。
その思いに、愛はくしゃっと表情を歪めた。
守らなくてはいけないのは、自分の方だったのに、こんな風に傷つけてしまったのに、罵ってくれて構わないのに、多々羅はそれをしない。
優しいその心に、涙が出そうになった。
「…バカだな、役に立つとかどうでも良いんだよ。お前がいないと、俺は、」
後は言葉にならず俯いた愛に、多々羅はそっと笑んで、愛の頭を撫でてやった。
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