瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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多々羅たたらは足取り軽く、お茶の用意に向かった。たった今、頭に思い浮かべたマドンナとの再会だ、浮かれてしまうのは仕方ないだろう。
多々羅が宵の店に来てから、お客様用の飲み物の種類も増えた。今までは緑茶しか無かったが、珈琲と紅茶も取り揃えている。単純に、多々羅がたまに飲みたくなるから、というのもあるが。
麗香れいかの為に三人分の珈琲を淹れると、お茶うけにクッキーを添えて、多々羅はいそいそと階下の応接室へ向かった。



応接室のドアをノックして入ると、麗香は多々羅を見て、どこかほっとした表情を浮かべていたが、その顔は間もなく不安そうな笑みに変わった。
その様子に、多々羅も不安を覚えた。記憶の中の麗香は、頼れるかっこいい女性というイメージで、いつも背筋をしゃんと伸ばしていた。誰かを励ます姿は見たことあるが、こんな風に弱さを表情に表すことはなかった。

「久しぶりですよね、さとしさんもお元気ですか?」

麗香に何があったのだろう、探し物と何か関係があるのだろうか。
多々羅は心配しながらも、とりあえずはいつものようにを心がけ、珈琲を差し出しながら尋ねれば、麗香は言いにくそうに俯き、左手の薬指に触れた。その指には、あるはずの指輪が無かった。

「…実は私、ひと月前に事故に遭って。記憶を失くしてしまって」
「え、大丈夫なんですか!?」

まさかそんな事になっていたとは思いもよらず、多々羅が思わず身を乗り出せば、麗香は眉を下げて笑った。

「大丈夫、傷は大した事ないし、多々羅君の事もよく覚えてる、記憶がないって言っても、ほんの少しで…。その、智さんの事だけ覚えてなくて…おかしいでしょ?他の、何でもないような事は覚えてるの、事故に遭った日の朝に何食べたとか。でも、誰と食べたかは覚えてない…その人物だけ、靄がかかって何も思い出せないの。結婚した事も、大学からの付き合いって事も、親や友達から教えて貰って。それで写真を見てたら、指輪が無い事に気づいて」
「…そうだったんですか」

多々羅は思いもしない麗香の現状に、どう言葉を返して良いのか分からず、頷くだけになってしまった。
「ごめんね、こんな話」と苦笑う麗香に、多々羅は慌てて首を振った。

「すみません、そんな事になってるなんて思わなくて…あの、今、智さんとは?」
「今は、離れて暮らしてる。二人で暮らしてたマンションは智さんが住んで、私は実家に戻ったの。智さんが、今はその方が良いんじゃないかって」

麗香は笑っていたが、その表情は無理して笑っているようにしか見えなかった。そうでもしないと泣いてしまいそうな、そんな表情だった。

「…私、きっと傷つけてるよね」
「そんな、智さんは麗香さんの事考えて、そうしようって言ったんじゃないですか?麗香さんにとっては、知らない人が旦那さんって状況なんでしょ?」
「そう…そうなんだけど、なんかね、実家に居る自分も落ち着かなくて。でも、智さんと会う事の怖さもあってね。自分で自分が分からないのよね」

きっと、心は智の事を覚えていて、好きだからではないかと、多々羅は思った。心と記憶の差が、怖さに繋がっているのではないだろうかと。病気の事は分からないので、多々羅の都合の良い想像かもしれないが、そんな風に思えた。短い間でも、憧れの二人の事は良く見ていたし、麗香も智も、多々羅の事を気にかけ可愛がってくれた先輩だ。二人の穏やかでありながら深い結びつきは、側にいて見ていたから知っている。だから、二人が離れてしまう事を、多々羅はなかなか受け入れられなかった。

戸惑う多々羅を見て、愛は麗香に視線を向けた。

「探し物というのは、その結婚指輪ですか?」

愛が尋ねると、麗香は愛に向き直って頷いた。それを見て、多々羅は戸惑いのまま口を開いた。

「指輪、智さんが持っているんじゃないですか?」
「私も最初はそう思ったんだけど、智さんは知らないの一点張りで。多分、本当に知らないんじゃないかな。部屋中探しても見つからなくて…私、もう、分からなくて」

麗香は、指輪の無くなった左手を握りしめた。

「智さんが言ったんです、指輪が無くなったのは、そういう事なんじゃないかって。結婚するのは、僕じゃなかったかもしれないって、本当に相応しい相手かどうか考える、良い機会なんじゃないかって。私それを聞いて、私が智さんに別れたいって話をしたのかなとか、事故に遭う前は、智さんとどんな関係だったのか、それも分からないから、どうしていいか分からなくて」
「…麗香さん、」
「忘れちゃった私を重荷に感じたのかもしれない、優しそうな人だから、私の事、可哀想に思って別れられないのかも、」
「それはきっと違いますよ!」

顔を伏せる麗香に、多々羅は麗香の傍らにしゃがんでその顔を見上げた。泣きそうな瞳が可哀想で、多々羅の胸を苦しめていく。

「智さんは、確かに優しさの権化みたいな人ですけど、」

「…凄いな」と、珈琲をすすりながら愛がぽつりと漏らしたが、多々羅は構わず続ける。

「でも、言いたい事が言えない人じゃありませんから!俺にだって、弟の事を色々聞かれてる時に、多々羅は弟じゃないだろって、弟に会いたきゃ自分で会いに行けって、こいつに失礼だろって言ってくれて。周りは一気に白けましたけど、それでも、そういうの気にせず誰かを守ってしまう人なんです!えっと、だからって訳じゃないけど、智さんは今だって麗香さんを好きだと思いますし、多分、智さんも戸惑ってるだけです、絶対そうです!」
「…そうかな、私、捨てられた訳じゃないのかな」
「そんな訳ないじゃないですか!」

真っ直ぐと力強く否定する多々羅に、麗香は数度目を瞬くと、強ばっていた肩を落とした。

「…ありがとう、多々羅君」

泣きそうに微笑む麗香に、多々羅は笑って、珈琲をすすめたり、お菓子をすすめたり、心を和ませようと話を続けたりと忙しい。
そんな多々羅の姿を、愛は不思議な思いで眺めていた。




それから改めて話を聞き、例の紙に名前を書いて貰った。麗香からは、長年愛用している物を借りる事にした。それは、アジアンテイストの模様の入ったコンパクトミラーだった。結婚指輪は常にしていた筈だし、手近な物なら指輪の行方も知っているかもしれない。
麗香は不思議そうにしていたが、「警察犬的なあれ」という、多々羅の説明でどうにか納得して貰えたようだ。
そして念の為、明日、麗香と智が暮らしていた部屋を見せて貰う事となり、この日は麗香と別れた。


麗香が帰った後、応接室のテーブルの上を片付けながら、多々羅は思案顔を浮かべていた。愛はソファーに座り、飲みきらなかった珈琲のカップに口をつけている。

「部屋にあれば良いですけど…、家具の隙間とか、そういう所にある可能性もありますよね」
「無いとは言いきれないけど。ただ、旦那が持ってるとしたら、旦那に直接話を聞く事になるな…」
「そうですよね…でも、智さんは持ってなさそうだって言ってましたよ?」
「旦那が隠し事をしているかどうかなんて、智の記憶を失っている彼女には分からないんじゃないか?まぁ、智の持ち物に話を聞けば分かるだろ」
「…そうですね。でも、本当に智さんも持ってないとしたら、どこにあるんでしょうね…」

綾のネックレスのように移動したのだろうか、首を傾げる多々羅に、愛はふとその顔を見上げた。

「それにしても、つけこもうとしないんだな」

多々羅は驚いて愛を見下ろした。

「えぇ?しませんよ、そんな事!だって俺、今は…」

結子ゆいこの事を口にしかけて、多々羅ははっとして口を噤んだ。愛は、「今は?」と不思議そうに多々羅を見ている。多々羅は誤魔化すように、慌てて口を開いた。

「そ、そういう事、出来ないから、未だ劣等感に苛まれてるんじゃないですか!」

はは、とから笑いして言えば、愛は眉を寄せて何か思案していたようだが、最終的には「まぁ、そうだな」と納得してくれたようで、それ以上の追及が及ばない事に、多々羅はほっと息を吐いた。

「それに、あの夫婦は俺にとっては憧れの二人なので、幸せでいてほしいんです。これは本当に」
「幸せは、他人が決める事じゃないだろ。他人が見て幸せな姿が、本人にとって幸せかは分からない」
「…まぁ、そうですけど。もう、それ言ったらおしまいでしょ!とにかく力になりたいんです、俺は!二人には、救われたので」

やる気満々の多々羅に、愛は不満そうに表情を歪めた。

「今回も首を突っ込むつもりか」
「当たり前ですよ!俺の知り合いなんだから、智さんや麗香さんに連絡取るのも都合が良いだろうし、それに、今回も道案内が必要でしょ?」

にっこり微笑む多々羅に、愛は忌々しげに舌打ちをして、長い足を組み換えた。



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