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しおりを挟むドアから顔を覗かせた愛は、なんだか叱られた子供のような表情を浮かべていて、多々羅は思いがけないその様子に、思わず表情を緩めていた。まるで、子供の頃の愛に再会したような気持ちになったような、多々羅の知る愛がそこにいる気がした。
「…多々羅君、大丈夫なの?」
恐る恐るといった具合に尋ねる姿は、見知らぬ人と対面した猫のようで、信之は笑って愛を手招きした。
「問題ないよ。多々羅君の体に化身の影は一切見えないし、倒れたのは、ゴーグルを付けた時間が長かったせいだろうね」
そう愛を安心させるように言うと、信之は立ち上がり、多々羅に向き直った。
「今日の所は、ゆっくり休んで。明日も体調が優れないようなら連絡ちょうだい。僕の病院ね、今は後輩がやってるんだけど、物の化身にもちゃんと理解のある子だから、もしもの時はそっちで治療も出来るからさ」
「はい、ありがとうございます、先生」
「今はただの喫茶店のマスターだよ。じゃあ、またね」
信之は部屋を出て行きがてら、愛の肩を優しく叩いて行く。労うような、励ますような手の温もりに、愛は小さく頭を下げた。そうして二人きりになると、愛は多々羅が言葉を発する前に勢いよく頭を下げた。
「ごめん!俺のせいだ、ちゃんと気遣えなかったから」
愛の言葉に、多々羅はきょとんとした。多々羅は今、愛への発言に反省したばかりだ、愛に謝って貰う資格なんて無いと思っている。
「やめて下さいよ!俺だって倒れるまで自分の体調の変化に気づかなかったし、それに、愛ちゃんの事だって、分かった気になって酷い事を言いました」
「ごめんなさい」と頭を下げ、多々羅は「でも」と、顔を上げた。
「俺、辞めませんからね!」
「え?」
「ほら、愛ちゃん家の事は出来ないし、俺が居なくなったら、家事をする人探すのも大変でしょ?道にだって迷うし、お客さんのフォローだって必要だし。それに、またゴーグルとイヤホン貸して欲しいです」
「は?」
「無理に使いません!毎日、ちょっとずつ慣らしていきます!そうしたら、俺にも出来る事がもっと見つかるかもしれないし、その可能性はゼロじゃないでしょ?」
お願いします、と頭を下げる多々羅に、愛は戸惑いを見せた。「でも」と、否定の声が聞こえると、多々羅は顔を上げて愛の手を掴んだ。愛は驚いて顔を上げ、多々羅と目が合えば、翡翠の瞳を困惑に揺らした。濁った翡翠の色は、濁った分、色に深味が増しているように多々羅は思う。この瞳に何が取り憑いたのか、それが何を意味するのか、考えてもやはり多々羅の胸に浮かぶ言葉は、綺麗の一言、それだけだった。
「愛ちゃんの瞳は、綺麗だよ」
多々羅の一言に、愛は目を瞪った。昔、瀬々市邸のシロツメクサの原っぱに寝転んで、まっさらな翡翠の瞳に太陽の光が当たり、本当にそれが宝石のように輝いて見えたので、愛が困り果てているのにも構わず見つめていた事があった。
愛は困って、きっと、どうして良いか分からなくて、だから目も逸らせないのだろうと多々羅は思う。まるで、昔の愛を見ているようだった。
愛の手を引けるのは、自分だ。見当違いの道へ行こうというなら、しっかりその手を引いて、明るい日差しの元へ連れて行く。
多々羅はそう決心して、愛の手をそっと握った。
「俺が、愛ちゃんの目になるし、耳になるよ。だから、俺が怪我したら助けてよ」
あの頃だってきっと、愛が男の子だと分かっていても、今と同じ事を言ったと思う。恋とか関係なくても、ただ愛と仲良くなりたかった。
今も同じだ、愛とはもっと色んな話をしたい。
そんな多々羅の気持ちが伝わったのか、愛はようやくの思いで視線を下ろし、それから、掴まれた手に視線を向けると、反対の手でぎゅっと拳を握った。
愛の中に、壁がある。他者を必要以上に踏み込ませない為の、分厚く高い壁だ。それは、自分の為でもあり、他者の為に愛が立てたもの。
そんな分厚い壁を通り抜けて、多々羅はいつも軽々と愛の手を掴んでしまう。
不意に思い出す。小さな手が懸命にその手を掴み、優しい声が、以前、似たような事を言っていた事を。
ぎゅっと握った拳が拠り所を探している。
胸の奥が知らず内に熱くて、愛は誤魔化すように口を開いた。
「…怪我したら、駄目だろ」
「助け合うのが友達じゃないですか。俺は、あなたの助手ですしね」
多々羅が笑えば、愛はきょとんとして顔を上げて、それから、力が抜けた様に笑った。
懐かしい小さな手が、今、愛を掴むこの手と重なる。
いつもこの手が、閉じこもった世界から連れ出してくれた。
楽しい事も、怖い事も、嬉しい事も、辛い事も、自分が普通だと思わせてくれる。恐怖に捕らわれるなと、勇気をくれる。
何も変わらないんだな、この手は。
そんな事、本人には言えないから、愛はなるたけ毅然を装い、不安を呑み込んだ。
「…分かった。ただ、今日みたいに倒れるような事があったら、もう」
「分かりました。これ以上負担にはなりませんから!」
多々羅は、笑顔で頷いた。
危ない仕事かもしれない事も、愛の気持ちも、愛の瞳の事も、多々羅にはまだ分からない事だらけだ。けど、だからと言って、愛を一人にする理由にはならない。
愛の過去に何があったか分からないが、多々羅がそれで態度を変える必要はない。多々羅から見れば、傷跡のような瞳でも綺麗だと思える。愛が恐ろしい存在だというなら、愛は怖くないという事を、多々羅は伝えられる筈だ。分かってもらえるまで、何度だって。
多々羅は、今の愛が誇れる物を持っている事を知っている。
多々羅は気合いを入れ直し、愛の手を引いた。
「じゃあ、早速ノカゼさん達に挨拶しにいかないと!」
「え?」
「倒れたから、心配してるかもしれないし」
「なら、俺から伝えとくから、お前は寝てろ」
「もう平気ですから、早く早く!」
多々羅がぐいぐいと手を引くので、愛はされるがままだ。焦りながらも多々羅の背中を見上げれば、ふと、いつかの坂道が過った。坂道を駆け下りる小さな背中、振り返って、躊躇う愛の手を掴むと、多々羅はいつだって、軽々と愛の作った壁を飛び越え、新しい世界へ連れて行ってしまう。
今も、そうなのだろうか。
過去と揺らがず重なる手に、愛は少しだけ鼻の奥が痛んで、胸の奥が温かくて。唇を噛みしめて、多々羅の後を追いかけた。
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