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しおりを挟む夜を深めた空には、雲の隙間から月が顔を覗かせていた。
多々羅と愛は、ようやく見慣れた街に帰ってきた。駅前に連なる店には明かりが灯り、帰宅する人々の足を集めている。同じ駅前の賑わいでも、見慣れた駅の賑わいは安心感に満ちていて、この街も徐々に自分の帰る場所になってきているのだなと、多々羅はぼんやり思った。
そんな感慨を覚えたのも束の間、駅の改札口を抜け、愛は早速見当違いの方へ歩き出ので、多々羅は慌てて愛を捕まえ、愛の少し前を歩く事にした。愛の後ろを歩いていては、角を曲がる度に声を掛けないといけない。
「大会っていつなんだ?」
駅前の賑わいから少し離れ、街灯が立ち並ぶ遊歩道を歩いていると、愛がぽつりと呟いた。振り返ると、愛は足元を見ながら歩いているので、その表情は見えなかった。
「彩さんの?いつなんだろう、最終的に狙ってるのは、全日本じゃないですか?ほら、暮れにやってる。そこまで勝ち抜いていかないといけないだろうし…」
「そっか」
「後で調べてみますね。でも彩さん、なんか清々しい顔してましたね。お母さんとも上手くいくと良いな」
「人間同士は、いつどう拗れるか分かんないけどな」
せっかくいい気分でいたのに水を差され、多々羅は肩から溜め息を吐いた。
「またそういう事を…さっきのあの親子を見て、それ言いますか」
「だってそうだろ、人と物だって拗れるんだ。言葉を通わせる者同士、拗れて当たり前だろ」
「寂しい事言わないで下さいよ、それでも言葉を通わせられるから、人と人は絆を結び直せるんじゃないですか。店長だって、そうでしょ」
困ったように多々羅は笑って愛を振り返る。愛は多々羅を見上げ、笑った。ただ、笑った。その合わせるだけの笑い顔からは何の感情も伺えず、多々羅は足を止めかけた。
「今日の晩飯は何にするんだ?」
「え?あー、そうですね…、これから作るんじゃ時間かかりますし、何か出来た物買って帰りましょうか」
通りすがる愛を多々羅は慌てて追いかけた。
愛に返事をしながら、多々羅は胸の中に靄が広がるのを感じていた。
愛は、誰かと繋がる事を諦めているのだろうか。
愛の瞳の色は、眼鏡によって隠されている。やはりその色が、彼を苦しめているのだろうか。美しい瞳を、愛は自分で良くない物のように言った。それを思うと、どうしても寂しくなるし、悔しさもこみ上げてくる。
愛が自分自身を否定するのも、愛が他人との繋がりを拒否するのも、多々羅は悔しいし悲しい。小さい頃は、あんなに仲が良かったのに、今では愛が遠くに感じられて、これ以上は近寄るなと言われている気がして、それはやはり寂しいものだった。
多々羅が愛の店にやって来たのは、一週間前の事。多々羅はそれ以前、旅行代理店で働いていた。
二人は幼なじみであるが、共に過ごしたのは小学生までだ。中学に進学する頃には、愛は海外へ留学してしまい、愛が日本に帰って来た頃には、多々羅は家から離れて一人暮らしを始めていたので、近所ですれ違う事もなく、以来、二人が会う事はなかった。
二人がこうして再会出来たのは、多々羅が正一と偶然再会したからだ。
ひと月程前の事、仕事が思ったより早く終わった帰り道、多々羅はまっすぐ家に帰る気にはなれず、何となく、幼い頃過ごした町に足を伸ばしていた。実家に帰りたいとは思わないが、幼い頃の景色を見たくなった。
多々羅は、何も無い自分にコンプレックスを抱いていた。
歌舞伎の世界から逃げたのも、自分がこの世界に不必要だと思ったからだ。
多々羅が歌舞伎の家の長男でありながら、役者の道に進まなかったのは、自分には役者の素質がないと感じたから、というのもあるが、何より弟の穂守の存在が大きかった。
穂守は歌舞伎役者としての素質があった。子供の多々羅から見てもはっきりとそう感じられたのだから、大人達は、さぞその才能に喜んだ事だろう。
練習量は同じなのに、台詞の覚えから体の動かし方、声の出し方、感情の出し方伝え方、何をとっても多々羅より覚えが早かったし、上手かった。多々羅にとっては怖いだけの祖父にも、穂守はよく誉められていた。
それに比べ、多々羅は怒鳴られるばかりだ。出来ないなら、倍の努力をすれば良かったかもしれない、どうして覚えられないのか分析すれば良かったかもしれない。でも、それが出来るのは、向上心があって、きっと歌舞伎が好きな人間だ。
歌舞伎が好きでも、舞台に出られない弟子達や生徒達がいる。それに対し、多々羅は歌舞伎が好きでもないのに、歌舞伎の家の出というだけで舞台に立ち、役を貰えている。
ひたむきな彼らの中にいるのは、いたたまれなかったし、何より、穂守がいるなら自分はいらないだろうと、気づけば歌舞伎の世界から背を向けるようになっていた。
それから、歌舞伎と穂守の存在は、多々羅にとってコンプレックスでしかなかった。
学生の頃から頭角を現した穂守は、その端麗な容姿もあり、歌舞伎界のプリンスとして雑誌やテレビでも度々取り上げられていた。多々羅に近づく友人は、皆、穂守が目当てだったように思う。穂守とは一つしか年齢が離れていなかったし、そういった噂話は、多々羅の周りに常に溢れていた。
社会に出れば、誰も自分を穂守、八矢宗玉の兄だと思わないだろうと思っていたが、どこへ行こうと世の中に情報は溢れている。
歌舞伎と縁遠いと思って入った旅行代理店の会社でも、やがて多々羅が歌舞伎の家の出だと知れ渡り、今では多々羅ではなく、八矢宗玉の兄として見られている。
恋人ともその事がきっかけで関係が拗れ、仕事以外の会話はなくなり、関係はいつの間にか終わっていた。
思い返しても、いつも多々羅には家柄がついて回り、穂守の存在がついて回り、何も無い自分を自分で追い詰めていくばかりだ。笑って受け流して、繰り返して。気にしなければと思うけれど、それらを吹き飛ばせる程、強くない。堂々巡りだ。
何をやってるんだろう、そう自分に問いかけた時、ふと愛と遊び回ったあの町の景色が頭に浮かんだ。
懐かしさに導かれるように、町を歩く足は軽やかだった。
よく遊んだ公園、よく通った駄菓子屋は今ではマンションに変わっていたが、よく懐いてくれた猫のいる家や、よく吠えられた大きな犬のいる家、小学校、そして瀬々市邸は変わらない。
大人になって見ても大きなお屋敷だなと、懐かしさも含めて笑みが溢れてしまう。よくこのお屋敷に出入りして、結子や愛、凛人と遊んでいた。子供の居なくなった中庭は静かで、なんだか寂しく感じる。そんな風に、柵から見える中庭をぼんやり眺めていると、帰宅した正一に偶然出くわし、声を掛けられた。
あれから二十一年、正一は九十を越えた頃だろう。顔はさすがに皺が増えて年を重ねた印象はあるが、撫で付けた白髪も、少し垂れた瞳も、この年でもまだしゃんと背筋を伸ばし、きっちりと着物を着こなす姿は、清潔感と気品に満ちて堂々としており、とても九十を過ぎたとは思えない程だった。しかも、正一は多々羅を見つけると、その健康な足腰を活かし、結構な速さで走ってくる。これも昔と変わらないが、変わらないからこそ、多々羅は少しぎょっとした。
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