瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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現れた女性は、手足がスラリと長く、背丈は愛より少し低い位で、膝下までのノースリーブのワンピースを着ていた。大きな瞳は虚ろに揺れ、髪は長く胸元まである。まるで人間の女性のようだが、彼女は肌も服も全てが硬質な印象で、クリスタルのように煌めいていた。
彼女は、ネックレスの意思、その化身だ。

「あなたは、野島彩さんの持ち物で間違いありませんか」
「…あなたが噂の新しい三番地さんね、噂と違って、思ったより綺麗な瞳ね」

彼女は口を動かしていなかったが、その声は辺りに響くように聞こえる。残念ながら、多々羅にはこの透き通るような声も聞こえていない。
愛の質問には答えず、話をはぐらかすような彼女に、愛はそれでも微笑みを絶やさず、肩を竦めるだけだった。

「俺は噂になってる?ヤバイ人間がいるって」

「え?」と反応したのは、多々羅だ。愛の声は勿論聞こえているので、多々羅は愛の言葉だけで、愛と化身の会話の内容を推測するしかない。

「ふふ、“やばい”の言葉の意味が分からないけど、皆、濁った瞳が恐ろしいものだって噂してる。こんなに美しいのに、どうしてかしらね?」
「濁っているのは真実だからですよ。悪い憑きものでもついたんじゃないでしょうか」

愛は表情一つ崩さず言った。眼鏡を掛けていないから、愛の翡翠色に煌めく瞳が見える、多々羅は思わず眉を寄せて俯いた。
愛は、この翡翠の瞳が悪い物のように言ったが、多々羅はその瞳が宝石のようだと思っている。宝石は、いつまでも眺めていられる。光の当たる角度で輝きが変わるから、その奥の奥まで美しさを探ってみたくなって、ついじっと見つめてしまうのだ。愛の瞳も、多々羅にとってはそれと同じ。小さい頃は愛の瞳に魅せられ、いつまでも見つめていた。なので、よく愛を困らせていたものだ。

「それは謙遜?良いわね、きっと心も綺麗でしょう、誰からも必要とされてる」
「それは、あなたの方ですよ。野島さん…彩さんは、あなたを必死に探してますよ」
「そんなの、今だけよ」
「どうしてそう思うんです?」
「だって、私はあの子の枷にしかならないもの」

彼女がぽつりと溢す。寂しそうな声に、愛は顔から笑みを消した。

「私がいるから跳ばなきゃって、成功させなきゃって思ってる。最初は背中を押す道具だったのに、跳べるって思う事が、跳ばなきゃって思うように変わったら、それが責任になったら、彩にとっては負担にしかならないじゃない。私が無理させたのよ、私は、もう無理するあの子を見たくないのよ」
「だから、姿を消したの?」
「良い機会だと思った。きっと気持ちが軽くなる筈よ、私が側に居たら、また考え込んでしまうから」

愛は彼女が彩の前から姿を消した理由を知り、納得した。

「あなたは確か、彩さんのお母さんの持ち物でしたね。だから、お母さんの気持ちも背負ってるのか」

彼女は戸惑い、目を伏せた。本人にも、どれが自分の気持ちか分かっていないのかもしれない。物は自分の意思を持つけれど、彼女のように、持ち主の意思と同調して混同してしまう事もある。中にはそれがきっかけで、危険な意思を持ってしまう化身もいた。
今、彼女の中にあるのは、彩に向けた思いやりだけだ。縋るでもない、ただ、彩を大切にしたい思いだけ。それなら、まだ大丈夫だと愛は心の中で頷いた。

「…私の事、あの子には見つからなかったって言って」
「彩さんがあなたを必要としてるのに?」
「ずっと傍にあったものが無くなって、不安なだけよ、物は物でしょ」

彩への思いを絶とうと、自分で自分をただの物扱いにしている。ただの物である筈がないのに。
愛は、ぎゅっと拳を握った。

「それでも、彩さんはあなたを必要としている」
「だから、」
「あなたが導いたスケート人生です。彩さんはまだスケートを諦めていませんよ。それに、負ける時も共にいて欲しいって思ってる」

その言葉に、彼女は戸惑い視線を伏せた。

「…でも、私がいたら、」
「あなたがいてくれるだけで良いんですよ」

彼女は、きゅっと両手を握りしめる。愛はそっと表情を緩め、言葉を続けた。

「そもそも八つ当たりしただけで、あなたのせいで跳べないなんて思っていません。彩さんは、ちゃんと分かってるんですよ、あなたの思いも、お母さんの思いも。だから、苦しんで投げ出した。でも、やはり捨てられなかったんです、今の彩さんを作ったのは、あなたです。悪い事ばかりじゃないでしょ?ずっと支えてくれた、傍に居てくれるだけで心強かった、あなたが居たから、彩さんは何度も立ち向かえたんです。彩さんは、最後の時まで、あなたに側にいて欲しいと思ってる。あなたがいるから、彩さんのスケートは完成するんです、それがどんな姿でも」

彼女は悩んでいるように見えた。本当は、持ち主の元へ帰りたいのではと愛は思う。乱暴に扱われて嫌気がさしたなら、そもそも彩の姿が見える場所に留まりはしない。
彼女は自分の意思で彩の元を離れ、そして、遠くから彩を見守る為、この場所にいる。
人に必要とされる事が物の幸せである筈なのに、彼女は人の為に離れたのだ。
それを決意した事も、それがどんな思いの上での事だったのかは、愛には推し量れない。

愛は、戸惑う様子の彼女を見て、気持ちを切り替えるように、パンと小気味良く手を叩いた。

「ここまでが、彩さんが向けるあなたへの気持ちです。でも私は、あなたが帰れないと言うなら、無理には連れて行きません。ここで彼女を端から見守るというなら、あなたを宵の店へ連れ帰りもしません」

その言葉に、彼女は怪訝そうに顔を上げた。


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