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しおりを挟む「少し休めば、すぐに良くなる。よくある事なんだ、だから、多々羅君は何も悪くないからな」
「…はい」
正一に促され多々羅が通されたのは、愛の部屋だった。愛の部屋は、二階の端の角にある。階段を挟んで左手側にはずらりと部屋が並んでいるが、右手側には、愛の部屋が一部屋あるだけだ。角部屋なのでバルコニーもあり、客室としても使用されていたので、多々羅もその部屋の存在は知っていたが、瀬々市の家に愛という少女がいた事、ここが愛の部屋だというのは、この日、初めて知った。
部屋を入る前に廊下を振り返ると、遠くから賑わう声が聞こえてくる。多々羅にとっては一大ピンチの状況を、皆は知らないで楽しい時間を過ごしている。そんな風に考えていたからか、愛の部屋は、まるで人々の目から逃れるように存在しているようで、それが多々羅の不安を更に煽っていた。
「さぁ、部屋に着いたぞ」
正一が愛に声を掛けるのを聞いて、多々羅は慌てて部屋に飛び込んだ。
愛の部屋は、多々羅の六畳の子供部屋が幾つ入るだろうと思えるくらい、とても広い部屋だった。結子達の部屋にも入った事があるが、二人の子供部屋よりも広く感じる。
部屋には天外付きの大きなベッドがあり、正一はそこに愛の体を横たえた。その姿は、まるでどこかのお姫様のようで、多々羅の胸は自然と、ドキドキと音を立てた。だが、ベッドが大きすぎるのか、愛がまだ子供だからか、彼女を挟んで大人が二人は眠れそうなそのベッドで眠る愛の姿は、多々羅にはとても寂しく思えた。
そうでなくても、子供の一人部屋にしてはこの部屋は広すぎる。
本が開かれて幾つも置かれた勉強机、難しそうな本が詰め込まれた本棚、洋服ダンス。家具はそれくらいで、子供部屋とは思えない、何とも殺風景な部屋だった。多々羅には、まだ愛がどういう人間かも分からないのに、それがまるで愛の孤独を示しているかのように感じられて、多々羅は少し怖くなる。正一は大丈夫だと言うが、このまま愛は目を覚まさないのではないか、こんな寂しい部屋で、寂しいまま消えてしまうのではないか、そう思ったら怖くて堪らず、かといってその手に触れる事もいけない気がして、多々羅は自分のシャツの胸元をぎゅっと掴み、弱気に騒ぎ出す心を必死におさえていた。
またもや多々羅にとっては長い時間が流れていたが、実際は、五分もしない内に愛の主治医が飛んで来た。恐らく、彼もパーティーに招待されていたのだろう。
ジャケットを片手に、慌てた様子でやって来た彼は、梁瀬信之、この時の年齢は五十代半ば辺りだろうか。顎髭を生やし、髪を後ろに結った、どこか洒落た佇まいの男性だ。彼と一緒に、先程の使用人、春子もやって来ていて、多々羅は彼女に促され、一度部屋の外に出る事になった。
「多々羅さんは、何も心配いりませんからね」
そう春子は気遣って声を掛けてくれていたが、多々羅には、春子の声がどこか遠くから聞こえてくるようだった。
その後、多々羅は春子と共にやって来た結子も交え、ただ祈るように部屋の前で待つばかりだった。
春子には、他の部屋で待とうと言われたが、多々羅はどうしてもこの部屋の前から動くことが出来ず、そんな多々羅の気持ちを思い、春子と結子は多々羅を置いていくことも無理に連れて行くこともしないで、側に寄り添ってくれていた。
時折、正一が慌ただしく部屋の出入りを繰り返していたが、信之の診察と治療は無事に終わり、多々羅が部屋に通される頃には、愛も落ち着きを取り戻した様子で、あの広いベッドで安らかな寝息を立てていた。
結子と共にベッド脇で愛の様子を見つめながら、多々羅は部屋の外に出た正一と信之を目で追った。
「…愛ちゃんね、うちに来て二週間になるんだ。それでね、今度、正式に私達の家族になるんだよ」
結子の言葉に、多々羅は驚いて結子を見上げた。
結子は七歳にして、美少女だ。肩までの黒髪と、今日は水色のドレスを着ている。大きな瞳を細め、優しく愛を見つめている姿からは、愛が大好きだという事が伝わってくる。お気に入りのドレスを着せる程、結子にとって愛は既に可愛い妹なのだと、多々羅は思っていた。
だが、その優しい瞳が悲しく揺れ、多々羅は不思議そうに結子を見つめた。
「でもね、体があまり強くないんだって。こうして倒れちゃう事、今日が初めてじゃないの。愛ちゃんの瞳ね、とっても綺麗なの!なのに、それが原因かもしれないんだって。お医者さんも、良く分からないんだって」
瞳と聞いて、多々羅は愛が片目を押さえていた事を思い出す。あの時は遠目でよく見えなかったが、多々羅は、愛の瞳はどんな瞳なのだろうと想像する。キラキラしていて、きっと宝石のように綺麗なのだろう、だって愛はとてもキラキラして輝いていた。こちらをふり返った時の愛の姿を思い出し、多々羅は途端に頬が熱くなったが、すぐに頭を振ってその思いを振り払う。
今は、ドキドキしている場合じゃない、愛が大変なんだからと、愛の寝顔を見つめれば、高鳴る胸は次第に痛んでいった。
綺麗な瞳は、どうして愛に悪さをするのだろう。多々羅には、綺麗なものと悪事を働く様が結びつかず、困惑するばかりだった。
「…愛ちゃんの病気、治らないの?」
医者にもはっきりとした原因が分からない病気、愛はこんな風に苦しんで倒れる日々を、これからも送るのだろうか。それを思ったら、可哀想で、悲しくて、多々羅は泣きそうになりながら結子に尋ねた。結子は多々羅の問いかけに、くしゃっと表情を歪めたが、すぐに目元をごしごしと袖で拭って、泣きそうな声を我慢して、再び多々羅に向き直った。
「大丈夫!愛ちゃんの事は、私が守ってあげるんだから!楽しい事してると嫌な事も忘れちゃうでしょ?目を覚ましたら、愛ちゃんといっぱい楽しい事して遊ぶの!そうしたら、病気の事だって忘れちゃうでしょ?」
「だから、私が愛ちゃんを病気から守るの!」そう胸を張る結子に、多々羅は目を瞬いた。
医者でも分からない病気、治らないかもしれない病気、それでも、結子は愛の病気に対して諦めたりせず、自分なりに向き合っている。
根拠も何もないけど、子供ながらに必死に考え抜いたのだろう、キリッと多々羅を見据える結子の瞳は決意の輝きに満ち、多々羅は胸を熱くさせた。
シロツメクサの原っぱで振り返った愛の姿が甦る、正一に、愛の友達になってあげてと言われた言葉が多々羅の背中を押す。多々羅はぎゅっと拳を握ると、椅子から立ち上がり、結子を見上げた。
「僕も愛ちゃんの事、守るよ!僕、その…友達になりたいんだ。僕がいたら、また倒れちゃうかもしれないけど…」
それでも、愛の為に何か力になりたかった。愛が怖い思いをしているなら、自分はその盾になるんだと、その気持ちは本物だった。
それでも不安が過るのは、自分を見て怯えた愛の姿だ。自分のせいで倒れた訳じゃないと聞かされても、愛から何も聞けないこの状況では、愛の本心は分からず、多々羅は不安でならなかった。
だが、言葉尻を萎ませた多々羅に、結子はパッと表情を明るくさせて、多々羅の手を握った。
「そんな事ない!私も、たーちゃんが愛ちゃんの友達になってくれたら嬉しいなって思ってたの!」
結子にそう言われて、多々羅はほっとした。結子の嘘のない笑顔に、自分が愛の側に居ても良いんだと思えたからだ。
それから、眠る愛の傍らで、“愛ちゃんの病気をやっつける作戦”の相談を始めた多々羅と結子を、正一と信之も部屋の外から、そっと表情を緩め見守っていた。
それから数日、愛は眠り続けた。多々羅は正一の許可を得ているので、毎日のように瀬々市邸へ通い、眠る愛の隣で色々な話をした。
寝ていては何も聞こえないだろうけど、せめて楽しい夢を見てほしくて、幼稚園の事や、習い事での話、来る途中に見つけた面白い雲の形や、お気に入りの絵本を読んで聞かせた。歌舞伎の稽古を忘れ、多々羅にとってもこの時間は、ほっと出来る時間だった。
愛ちゃんが起きてたら、もっと楽しいのに。
そう思ったら、眠り続ける愛の姿を見るのが寂しくて、多々羅はそんな気持ちを振り払うように、目を覚ましたらどこへ行こう、どんな遊びをしようかと、愛に話しかけた。シロツメクサの原っぱで、愛と一緒に遊べる事を想像すれば、少しだけ寂しさが消えるような気がする。だから、楽しい未来の話を沢山した。
「愛ちゃん、起きてくれるよね…?」
そんな中、愛の様子を見に来た正一に、多々羅は恐る恐る尋ねた。正一は、普段から着物を着ている事が多い。多々羅は家柄もあり、着物は見る事も着る事も日常の中にあるが、だからか、正一の着物姿は、なんだか他の誰とも違う気がして、それが多々羅には正一がヒーローの証を持っているからなのではと思え、密かに憧れていた。
自分を軽々と担いで走り出した正一の印象が、自分を助けに来てくれたヒーローのように思えたからだろうが、多々羅は正一にはキラキラして眩しい存在だった。
正一は多々羅の隣りに座ると、小さなその肩を宥めるように擦った。
「大丈夫、目を覚ますよ。ただ…、もしかしたら普通に暮らしていく事は難しいかもしれない。だから、もし多々羅君が大きくなって、まだこの子と仲良くしてくれてたら、この子を支えてやってくれるかい?」
「勿論だよ!」
多々羅は絵本をベッドの端に置くと、布団から出ていた愛の手を取った。ピクリと愛の小さな手が反応したが、多々羅は気づかずにその手を両手でぎゅっと握った。
「もし、目が見えなくなっても、このまま眠ってたとしても、僕が愛ちゃんの目になるし、耳にだってなるよ!ずっと一緒にいる!だから大丈夫だよ!」
ぎゅっと握った手が微かに握り返され、あ、と多々羅が驚いていると、ゆっくりと愛の目が開かれていった。
「あ…」
虚ろに開いた大きな瞳、左目が黒で、右目が翡翠色のオッドアイ。見つめ合って数秒、ふわっと微笑むその愛らしさに、多々羅は心臓が止まったかと思った。
御木立多々羅、五歳。初恋が実ったと感じた瞬間だった。
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