メゾン・ド・モナコ

茶野森かのこ

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ふ、と夏の風が心地よく頬を撫で、春風はるかぜは現在のメゾン・ド・モナコを見上げた。

笑顔の咲くメゾンドモナコ。形は違うし、君はいないけど、憩いの場を作るという君の夢を叶えられたかな。

春風の手には、なずなから受け取った手紙がある。

“春風、あなたに会えて良かった。約束を守れなくてごめんなさい、病気って嫌ね。あなたは、幸せでいるでしょうか。どうか、悲しい思いはしていませんように、苦しい思いをしていませんように。私は幸せでした、あなたと過ごした日々は宝物のようだった。
あなたとまた、あの場所でレストランを開く事は、とうとう叶わない私の夢でした。
どうか、あなたが幸せでいられる日々が送れる事を願っています。春風、あなたに一目会いたかった。”

「僕もだよ」

春風は顔を上げ、まだ泣きながら仲間に囲われているなずなを見つめた。仕事を再開させようとレストランに降りてきたは良いが、あれでは仕事にならなそうだ。
なずなの周りには、アパートの住人達と、なずなの友人達や、紫乃しのやギンジが勤める花屋の奥さんまでやって来て、お客さん達も、訳が分からないながらも微笑ましく見守ってくれている。


「まさかこのアパートでこんな光景が見れるとは、思いませんでしたよ」

不意に声をかけられ、春風が振り返ると、そこにはミオとナオの姿があった。

「気づいてた?妖達も覗きに来てたこと」

ナオのくりくりの瞳に尋ねられ、春風は肩を竦めた。

「あぁ、でも気づかない振りしといたよ。まだよその妖は、僕が怖いみたいだからね」
「そりゃ、あなたは神様ですから」

当然のように言ったミオに、春風は笑った。

「社を失った神は、もう神ではないよ。なずな君から手紙を受け取ったら、そろそろ天に還らなくちゃと思ってたんだけどね」

苦笑う春風に、ミオとナオは顔を見合せ、それから焦った様子で春風を見上げた。

「普通、神様は社を失うと、すぐに天に還る筈です。あなたは、長らくこの世に留まっていますし、」
「そうそう!神様上がりの妖っていうのも、一人くらいいてもバチは当たらないんじゃない!?」
「そうですよ、神様のルールは詳しく知りませんが、空に還ったらもう戻ってこれないでしょう?」

二人が必死に春風を引き止めようとしているのが伝わり、春風はそんな風に二人に言われるとは思いもしなかったのか、ぽかんとして、それから、はは、と笑った。

「まさか君達から引き止めて貰えるとはね」
「当たり前ですよ、あなたが居るから助かってる妖が大勢いるんですから」
「マリン達は春風さんが居るから、安心して人の世で過ごせてるんだよ?」
「それに、なずなさんも」

そのミオの言葉に、春風はもう一度、なずなへと目を向けた。

「…うん、分かってる。どうせ、僕には還る場所なんかもうないからね」

はは、と軽やかに笑って言った春風の言葉に、今度はナオとミオがきょとんとして、それから脱力して、盛大に溜め息を吐いた。

「驚かさないで下さいよ…」
「そうだよ!意地の悪い事して!」
「はは、ごめんごめん」

それから、皆に挨拶してくるという二人の背中を見送りがてら、春風は人と妖が仲良く笑う姿に目を留めて、メゾン・ド・モナコを見上げた。そして空に向かって目を閉じる。

本当は、少なからず心にあった。いつかは天に還らないといけない、でも、ヤヱと出会い、更にはヤヱとの約束を理由に、この世に留まり続けた。
きっと、天にも見放されているだろう。それでも腐っても神だ、いつかこの生涯を神として終わらせなければならない時がくる。

だけど、まだ自分を必要としてくれる妖が、人の子がいるなら。社は失ったけど、このアパートに彼女達が自分の居場所をくれるなら。

まだ、ここに居ても良いのだろうか。


「春風さん!」

なずなの呼ぶ声に目を開けると、先程までの涙はどこへやら、なずなは笑顔で春風を手招きながら、こちらへ駆けてきた。なずなの後方に目を向ければ、何やってるんだとか、さっさと手伝えとか、皆も思い思いの言葉を発している。

「何やってるんですか!まだイベントは終わってませんよ!」

そんな気合い十分の声に、春風は肩から力を抜いて笑った。

「君ねぇ、神様にまだ労働させる気?」
「そうやってまたサボる気でしょ。ほら、行きますよ!」

そう上機嫌に笑って手を引くなずなが、記憶の中のヤヱと重なって、胸がじんわりと熱を持つようだった。ふわっと桜が舞ったような気がして、春風は足を止めて桜の木を振り返ったが、そこに花が咲いている筈もない。

「…春風さん?」

そう見上げるなずなの瞳は、ヤヱではない、なずなのもので。春風はその心配そうな眼差しから顔を伏せ、帽子を被り直した。

「…やれやれ、君達は僕がいないと何にも出来ないんだから」
「はは、そうですよ。春風さんがいないと始まらないんですから」

困ったようになずなは笑い、その言葉から気持ちが伝わってくるようだと、春風は思った。
顔を上げれば、迎え入れてくれる皆の姿がある。

きっとこれが、約束を失っても、自分がこのアパートに居た意味なんだと。きっとこれが、幸せというのだと。春風は、そっと涙を呑み込んで、いつものように笑顔を浮かべた。

「はいはい、では何の仕事をしようかな」
「まずは皿洗いを手伝って下さい」
「君ねぇ…草むしりの次は皿洗いかい?」

まったく、と困り顔を装った春風の脇を、一匹の白猫が横切っていく。誰の目にも留まらず駆け抜けると、白猫の通った後には、賑やかなアパートの庭を優しい風が吹き抜けていった。


メゾン・ド ・モナコ、ここで暮らす彼らの未来を優しく導くように、その風は、爽やかな夏の空に吸い込まれていった。





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