煙と雲

酔生虫

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 寒さと酷い匂いで目を覚ました。まだ瞼は重いし頭から眠気がこびりついてなかなか離れなかったが、それでも、ここが外だということくらいは理解できた。少しずつ冴えてくる頭で状況を確認する。たぶん、朝。昨日の店の裏、ゴミを布団代わりにして寝てたみたいだ。

「あー…バイト………」
 眠気を覚ますためにボソッと呟いてみても、あまり効果はなかった。磁石のように上瞼と下瞼がくっついて、意識と無意識の間をのたうちまわっていると、すぐ近くから、がちゃりと金属の内側の音がして、扉が開いた。
 僕は今度こそ瞼を押し上げて、上体を起こした。

「うわ!大丈夫っすか?」
「……はい」
「立てますか?てか、酔ってます?」
 持っていたゴミ袋を一旦置いて、僕の方に近づいてきた。自分が飲み込まれそうなほど大きな黒いパーカーを着た三つ編みの少女だった。編み込まれきれなかった毛束を彼女はつゆほども気にしてない様子だった。

「酔いはたぶん覚めてます。あんま覚えてないけど、たぶん何時間かここで寝ちゃってました。すんません」
 彼女は何かつっかえてたものが外れたみたいに笑った。そんなタイミングで、声がけっこう低いことに気付いた。
「全然大丈夫です、わりと頻繁にあることだし。でも、こんなに丁寧な人は初めて」
 というと、また楽しそうにころころと子供みたいに笑った。僕も釣られて頬を緩ませた。

「昨日初めてライブ来た人ですよね?」
 彼女はそのまま膝を抱えて座った。しばらく話そうよ、というのを目線で伝えてきたようだった。
「え、はい。まあ」
「どうでした?」
「……酔ってたんで記憶があやふやですけど、もっかい聴いてみたい。すごい衝撃的だった気がする」
「…じゃあっちょっと待っててください!」
 彼女はそう言った後、扉を開いてバタバタと中に戻っていった。僕はやっとゴミ袋の山から出て、アスファルトの上で痛めた腰に手を当てながら立ち上がり、素直に彼女が帰ってくるのを待った。少しすると、中からトタトタと足音が聞こえてそのまま扉が開いた。

「はいっこれ!」
「なんですか、これ」

 彼女が持っていたのはラミネートされた名刺くらいのサイズのカードだった。店の名前とSTAFFという文字が書かれている。
「今日の夜、またここでライブするんです。内輪だけでやるちっちゃいパーティーですけど、良かったら来てください。ほんとはチケットがあるんですけど、私無くしちゃったみたいで。でもそれがあればとりあえず入れるから」
「えっ、でも、これスタッフ専用ですよね。それに俺、全然内輪じゃないし。あと予定もあるので…」
「全然大丈夫です!だれオマエ?って奴もいるし、私からカード貰ったって言えば何も言われないと思います。3時くらいまでダラダラ続くと思うので、気が向いたらでいいから来て下さい」
 彼女はそのカードを僕に強引に渡してまた店の中に戻っていった。「私から貰ったって言えばいい」なんて言っておいて、自分の名前を教えずに帰った彼女を見送りながらふっと笑った。

 ショートパンクケイクス。名前だけはしっかり記憶されてる。歌は、正直あんまり覚えてない。はっきりと覚えているのはあの興奮。会場の熱気。
 とりあえず家に帰ろう。シャワー浴びてバイトだ。スマホの画面で時間を確認してみると、まだ朝の5時45分だった。バイトは9時からだから、帰って準備して、少し寝るくらいの時間もありそうだった。
 しかし、家に帰ると早起きなのか寝ていないのか、リビングに母が座っていた。そういえば、何件か着信があったことを思い出す。
「どこ行ってたの」
 無機質な声で僕に聞いた。
「ごめん。酒飲んじゃって寝てた」
「どこで?」
「渋谷」
「もう、お酒弱いんだから場所を考えて飲みなさいよ。あと外泊する時は連絡の一つくらいしなさい」
「ごめん」
 それを言いたくて待っていたのか、母は欠伸をしながら寝室へ戻っていった。寝ずに待っていたのかもしれなかった。
 僕が酒が弱いのは父の遺伝だと前に聞いたことがある。そんな父とは普段言葉を交わすことはほとんどなかった。別に仲が悪いわけでもないと思うけど、わざわざ話すようなこともこれといってなくて、父の方はもしかしたら僕がこんな風に毎日を過ごしてること、本当は情けないと思っているのかもしれない。けど、僕はそれを確かめようともしなかった。

 30分くらいソファで寝て、8時20分に家を出た。自転車で15分くらいの距離だった。事務所に着いて、ロッカーに掛けていた制服に着替えた。カッターシャツはもうずっとアイロンなんかかけてなかったけど、適当にシワを伸ばして上からベストを着れば何とか誤魔化せる。後から入ってきた同じバイトの後輩や社員の人と話をしながら9時まで時間を潰した。今日は運送が4件入っている。内3件は組み立てまでするらしい。
 「組み立てくらい、自分でしろよって感じっすよね」と、後輩の高梨はよく言っていた。僕はそれよりレジで客に愛想良く接客する方が面倒に感じた。

 配送をしながらその間に店での仕事をこなしていると、一日はあっという間だった。
 18時に仕事を終えて駅に向かった。両脇の電飾が視界に入る。クリスマス本番はカップルより家族連れが多い雰囲気だった。

 クリスマスを家族で過ごしていたのはいつまでだっただろう。たぶん小六までだったんじゃないかと思う。
 中学に上がると、皆、小学生の時とは違うことがしたくて、はやく大人になりたくて、必死だった気がする。夜に友達や先輩と遊ぶことも増えて、補導されることもあったけど、そんな時でさえ、両親は僕をひどく叱ったりはしなかった。

 ギターを触り始めたのもこの頃だった。部活の先輩が親戚に貰ったというギターを初めて見て、試しに弾かせてもらったのが最初だった。何も分からず、デタラメに音を出してただけだったけど、それが妙に楽しくて、段々思い通りに鳴らない音にムカついて本気で練習し始めた。先輩の家に入り浸っていたら、「もうやるから、来るな」とギターを渡された。それからは、どこへ行くにもギターを持っていって、少し時間があればケースから出して音を鳴らした。ロクに遊びにも行かず、部屋でギターを鳴らしてばかりいる僕を、両親はときどき心配そうにしてたけど、夜に友達と遊び回るよりはマシだと思ったのか、何も言わなかった。
 埋もれていた学生時代の記憶を掘り起こしていると、もう既に約束の時間になっていた。玲子にメールを送ると、電話で返ってきた。

「ごめん、文字打つよりこっちの方が早いと思って」
「ああ、大丈夫。今もう駅だけど、玲子いる?」
「今向かってる!ごめんね、あとちょっとで着くから」

電話口の玲子は急いでいるのか、少し息が荒かった。僕は、彼女の吐いた息が白くなって空気中に彷徨うのを想像して、彼女が着くのを待った。
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