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episode 1

この世界

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たんたん、と心地よい石畳の階段を上る音が耳に届く。

時刻はまだ、午前7時をまわって間もない。朝焼けに濡れる空気の中、ゆっくりとかみしめるように、この上に立つ荘厳な神社を目指して上っている。

後ろを振り向くと眼下に広がる街並みが橙に染まり切って光を弾いていた。
てらてらと数多の建物がおひさまの優しい色に照らされて、いつも見ている光景も一枚の絵のように完成されていた。あまりに美しくて目が眩むようなこの景色を、階段の途中で眺めるのが好きだった。いつかも見た、全く同じ光景。
この景色の中に、今は私だけ、ただひとり。


高校二年の9月1日である今日は特別な思い入れのある日だった。
いつものように、神社の境内で賽銭箱には何も入れず、大きな縄を振るとカランカランと低い鈴の音がした。
二回礼をして二回手を叩き神様がいらっしゃるだろう方向に手を合わせていると、

「大きな縄、じゃなくて『鈴緒』というのよ」

ふぁあ、と欠伸混じりの声が後ろからかかった。
振り向くと、まるで平安時代の貴族のような格好をした男が古い木でできた笏(しゃく)で口元を隠しながらそんな風に言った。烏帽子は被っていないだけ、今日はカジュアルかもしれないけれど、やはりその格好は今の時代少しおかしい。
黒い髪は男の人にしては長めに伸びていて、綺麗に後ろで結い上げられている。一重まぶたのスッとした顔はどこか狐のように朝から妖艶だった。

「緋里(ひさと)さん、おはようございます」

そう言うと、彼はいつものオカマ言葉で「あんたも毎日熱心よねぇ。たまにはお賽銭くらい入れなさいよぉ」と笑った。

「ま、そっちに手を合わせたところで、神様のアタシはこっちにいるんだから意味ないけどねぇ」

「じゃあこっちにも手を合わせとこうかな」

緋里さんに手を合わせると、「崇めて崇めてぇ~」ときゃいきゃいとはしゃいだ。
相変わらずこの神社の神主の息子はバチあたりだ。いくら冗談でも自分を神様なんて言うなんて、ここの本当の神様が聞いたらきっと大激怒だ。
けれど、この人は何故だか人の心が読めるみたいで、よく考えていることを先読みされてしまう。こんなとこは確かにカミサマっぽいけれど。

「緋里さん、もうかれこれ10年くらい神様ごっこしてますけど飽きないんですか?」

「飽きる飽きないじゃないわよ。だってアタシ本当に神様だもん」

「神様って人に見えるものですか? 神社に不審者がいるって通報された神様なんて、私初めて聞きました」

「もう何年も昔のこと掘り返さないでちょうだいっ」

ぷうっと膨れたあとで、ふと、緋里さんはじっと私を見つめる。

「………あら、今日は巡りの日だわね」

「巡りの日?」

「……とぼけなくても、あんたが一番分かってるくせに。
あんた、10年も前から、今年の秋のために生きてきたでしょう」

この人は、いったいどこまで見抜いてるんだろう。そう思って、けれどそれでも全てを知っていはずはないと確信する。この大きな秘密は、私とこの神社の”本当の神様”しか知る由はない。

「巡りの日かあ……」

絞り出した声は、朝のきりりと冷えた空気に紛れて散っていく。もうこの手には掴めない彼女のあの手を、もう一度掴むために巡っている。ここにいたはずの彼の手を、このために手放した。

「私はあの日の橙を、絶対藍色まで染めてみせるって決めてるの。その機会がようやっと巡ってきたんだ」

そのために私は、すべてを捨ててここにいる。


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