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24そわそわする日

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 ベッドから起き、俺がまずしたのは手袋をすることだった。
 しないと気持ちが落ち着かず不安に駆られてしまうため、脱衣所に置きっぱなしになっていた手袋を真っ先に取りに行く。
 手袋をはめ、自分の手を見つめる。
 素手で人に触れたのは何年振りだろうか。
 もうそんなの遠い過去だ。
 
「緋彩」
 
 背後から名前を呼ばれたかと思うと、頭を抱かれ、こめかみに口づけられる。
 
「奏さん……」
 
「あぁ、手袋してたの」
 
「し、してないと不安だから」

 手袋をはめるだけで気持ちは静まり、安心して物を触れる。
 奏さんは俺を後ろから抱きしめたまま俺の右手を手に取り、手袋の上から手の甲に口づけた。

「か、奏さん……」

 手袋の上からなのに素手にキスされたようでドキドキしてしまう。
 奏さんは俺の右手を握ったまま、

「この部屋の中だけでも、これをしなくていられるようになったらいいな」

 と言った。
 俺も、そうなりたいと思う。
 家の中ではなんとか外して過ごせた。
 少しずつ少しずつ、手袋なしで過ごせる時間を増やしていきたい。でもそれにはもう少し時間がかかりそうだ。



 奏さんが用意してくれた朝食を食べたあと、いったん家によって今日の講義の準備をしてから奏さんと共に大学へと向かった。
 
「ありがとう、ございます」

 大学に着き、車を降りて頭を下げて礼を言うと、奏さんは俺の隣にきて耳元で囁く。

「恋人なんだから、当たり前でしょ」

 甘く響く声で言われて、顔中が真っ赤になるのを感じた。

「か、奏さ……」

「ねえ、今日はバイトだっけ」

「あ、はい」

 俺は、月曜日と水曜日と、土日のどちらかは必ずバイトが入る。
 もうすぐあるゴールデンウィークはそのパターンから外れるけれど。

「バイト先まで距離あるよね。送っていけたらいいんだけど今日は五限まであって」

 奏さんが残念そうに言った。
 それを聞き、俺は激しく首を横に振る。

「だ、大丈夫です。バス、使うんで」

 自転車が使えないときはいつもバスだ。
 この町は公共の交通機関が発達していて、バスの他巡回タクシーもある為、足に困ることはそうそうなかった。

「でも」

 奏さんは不服そうな顔をして俺を見る。

「だ、だって、講義あるんだし」

「駅前の家電量販店だっけ。じゃあうちから近いし、迎えに行くよ」

 そうだ、夕食を食べようって言われたっけ。
 でも俺、バイトの後夕食ってなると夜の十時近くになってしまう。
 困惑していると、奏さんは俺の手をそっと握り、

「約束だよ」

 と言い微笑んだ。


 その日一日、俺は妙な気分だった。
 昨日の出来事はまるで夢のようで、現実味を感じない。
 講義を受けながら、俺は首に触れる。
 そこに確かにある、噛み痕。
 たぶん、身体にはたくさんの痕跡があるだろう。
 奏さんがつけた、昨夜の痕が。
 本当に俺、奏さんと寝たんだ。
 思い出すと恥ずかしさに顔が真っ赤になっていく。
 一限目の講義のあと、隣に座っていた水瀬が遠慮がちに聞いてきた。

「お前、大丈夫? なんかすっげーそわそわしてない?」

「え? そわそわなんて、してないって」

 俺は首を横に振り、バッグに荷物を詰めて立ち上がり、それを背負う。

「なんか、今日、いつもと雰囲気違う気するんだけど、気のせい?」

 何なんだ、こいつ。
 妙に察しがいいな。
 俺は緊張して首を振り、

「そんなことないってば」

 とだけ答え、その場を後にした。
 今日の俺は、水瀬の言う通り変だろう。
 それはそうだ、昨日奏さんと……だめだ、考えると顔が熱くなってくる。
 俺は足早にその場を離れて、次の講義が行われる教室へと向かった。

 何をしていても俺の心はここにないような感じだった。
 昨日のことがどうしても頭をよぎってしまう。
 セックスなんて何度も何度もしてきたのに。
 奏さんとのセックスは全然違って……心の中から気持ちいいと初めて思えた。
 蒼也と比べちゃいけないんだろうけれど、その落差に驚いてしまう。
 似ているのは執着心の強さだろうか。
 ふわふわした気持ちで講義をうけ、昼休みがやってくる。
 俺は足早に医学部棟へと向かう。
 蒼也と、会わないように。
 早く、奏さんに会いたくて。



 カフェテラスについた時、俺は息を切らせていた。
 俺がいる芸術学部から医学部は大した距離じゃないのに、自然と肩で息をしてしまう。
 学生たちのざわめきの中に、彼を見つける。
 ちょっと癖のある明るい茶髪。彼は俺に気が付くと、ニコっと笑い、手を振った。
 俺はぎこちなく笑い、奏さんが座るテーブルに近づいた。
 
「お待たせ、しました」

「そんなに待ってないけど……どうしたの、そんなに息を切らせて」

 俺は苦笑して、何でもないです、と答える。
 背負うリュックを下ろしながら俺は、今日、お昼がないことに気が付いた。
 いつも、前の日にスーパーで半額のパンとか、大学に来る前にコンビニでおにぎりなどを買うけれど、今日は奏さんと来たため、どこにも寄ってない。
 頭の中で所持金を確認し、俺はカウンターの方に目を向けた。
 ここのカフェテラスは、パンなどの軽食を中心に販売をしている。

「俺、お昼買ってきます」

 そう、奏さんに声をかけて俺はカウンターへと足を向けた。
 ミックスサンドとお茶のペットボトルを購入し戻ると、奏さんは頬杖をついて何か考え事をしているようだった。
 怖い顔をして、テーブルを見つめている。
 でも俺に気が付くとすぐにいつもの優しい顔になり、

「あぁ、お帰り」

 と言った。
 俺は椅子に腰かけ、いただきます、と言い、サンドウィッチのフィルムを外す。

「今朝は割と食べてたけど、お昼、少ないよね」

「そ、そんなに食欲なくて」

 というか、朝、食べ過ぎた。
 今日の朝食は、トーストに目玉焼き、ウィンナー、サラダ。それにカップスープ。
 普段パン一個食べるだけの俺には量が多かった。
 だから正直そんなに腹が減ってない。

「どんな食生活、送ってるの」

 言いながら、奏さんは売店で買ったと思われる弁当を開ける。
 それはからあげ弁当だった。見ているだけでお腹いっぱいになりそうになる。
 俺はツナサンドを手にして、一口噛んでから答えた。

「それは……蒼也がいつ来るのかって思うと胃が……」

 蒼也の行為は、俺にとって多大なストレスだった。
 そう言えば、あまりにも食が細いからお手伝いさんや父に心配されたことがあったっけ。
 父親とは一時期不仲だったけど、距離を置いたせいか今はわりと普通に話せるようになった。
 父さんは、俺と蒼也の事、知ってんのかな?
 怖くて聞いたことがない。
 ……言えるわけねえや。
 弟とセックスしてるなんて。
 だから俺は、自分で何とかしないとなんだよな、蒼也とのこと。

「それってストレスとしか思えないけど。ねえ、緋彩、ゴールデンウィークの間だけでもうちに来たら」

「え、で、でも……」

 さすがにそれは戸惑う。
 明後日……四月二十九日金曜日から、世の中ゴールデンウィークだ。
 ってことは、毎日俺、蒼也の陰に怯えながら家で過ごすのか。
 やばい、考えるだけで胃が痛む。
 去年、蒼也はゴールデンウィークに毎日やってきて、俺を抱いた。
 思い出してしまい、俺は食べかけのサンドウィッチを置いて口を押えた。
 気持ち悪い。
 蒼也は俺の心の自由を奪い、身体の自由も奪って俺を抱いてきた。その度に俺は心を病み、食べる量も減っていった。
 今年は……そんな風になりたくない。
 
「緋彩?」

 奏さんの心配そうな声に俺の意識は戻される。
 俺は首を横に振り、なんとか笑顔を作って、

「大丈夫です」

 と答えた。
 でもそんなので誤魔化せるわけもなく。 
 奏さんは俺の頭に触れ、

「車があるし、とりあえず必要なものは運び出せるから」

 と優しい声で言った。

「あ……」

 奏さんに触れられると、力が抜けていく。
 俺にとって、それはとても心地いいものだった。
 このままずっと触れていてくれたらいいのに。
 そうしたら俺は……ただの人でいられるのに。
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